ウルグアイ大統領タバレ バスケス氏が、財界 企業の代表を引き連れ11月3日から6日の予定で日本を訪問する。
モンテヴィデオからパリへ向かうエアーフランス機内で、ナッツアレルギーによる窒息状態の重篤患者の命を救った大統領、昨年結婚50周年を祝った家族思いで、釣りが好きな医者でもある。景気の良さに甘んじて行き過ぎた投資の数々、政治手腕でないところで有名になった前大統領の大きな穴とツケの修正の為にメスを入れ始め、非常に重要なミッションを追っての2期目となる。
そのタバレ バスケス大統領の日本の宿泊予定先は、帝国ホテル 東京。
今から108年前の1907年にウルグアイ人夫婦が同ホテルに滞在していたことを知る人は皆無かもしれない。
その宿泊客のウルグアイ人も、一人の人生を大きく変えた。
そのウルグアイ人宿泊客、アレハンドロ ウニエ氏と妻。ウニエ氏が書き残した世界一周新婚旅行日誌に、当時宿泊した部屋のバルコニーから見た伊藤博文と推測される要人を出迎えるホテルの玄関先の様子を1907年8月19日のページに書き残している。
ウルグアイの地方県でで牧場経営するウニエ家の長男アレハンドラ氏、結婚式の翌日1907年2月20日世界一周の新婚旅行に出発。メルセデスからブエノスアイレスへ船、チリまで車と列車を乗り継ぎ太平洋に出てからは客船で北米などに立ち寄り横浜に上陸。事細かにそれぞれの寄港地での様子が日記に書き込まれている。もちろん日本国内においても、横浜、日光、東京、名古屋を見聞し、日本人少年と運命の出会いをしたのは、古都 京都だった。
京都の宿泊先ホテルである日、レセプションから部屋を移動するように懇願される。理由は、夜中に拳銃を所持した泥棒が進入する情報があるという。実際、翌日に、隣室で待機していた警察に泥棒は逮捕されるという顛末。ウニエ氏はホテルのスタッフに「どうして泥棒が入ることがわかったのか?」と。それは、ホテル玄関先で靴磨きをしている少年が、泥棒たちの会話を聞きレセプションに届け出たとのこと。感動したウニエ氏は直接彼に会って御礼を述べたいと通訳と共に、その少年の自宅、京都駅からほど近い枳殻邸前の河原町へ赴く。
手狭な長屋にたくさんの子供が住む様子を見たウニエ氏。話しの展開は、生存するウニエ氏の孫や親族の証言によるが、日本人少年 テルオ君は、ウニエ氏の祖国ウルグアイへ移り住む、移住することを自ら決意したという。雨が降りそうな曇りの1907年8月28日、日本旅券を発給したとウニエ氏が日誌につずっている。テルオ君の年齢に関しては旅券には11歳と表記されているが、ウルグアイ到着後、当地では8歳と伝聞されている。
その後新婚旅行は続くが、イタリアにて新妻が病に倒れ他界。ウニエ氏とテルオ少年2人となり、家族同然になった2人は生涯、ウルグアイで過ごすことになる。決して使用人ではなく子供の一人のように育てられ、牧場経営に従事し、親族にウニエ氏は「彼は命の恩人なんだ」と、幾度となく語ったという。
日本人テルオ少年は、ガウチョ ハポネス、日本人ガウチョと呼ばれ現地の人々に知られるようになり、地元紙の社交覧にも度々掲載され、多くの子孫を残した。そして二度と京都に戻ることなく当地ウルグアイで他界。ウニエ家はかつてのテルオ少年のための墓を用意し手厚く葬った。
日本から自らの意思を持ってウルグアイへ渡った最初の日本人。
ウルグアイと日本の真実の友好の話
かつてウルグアイの大地のことを牛の海と言われた時代に生きた、ウニエ氏とテルオ少年、
その自然豊かな大地で育った赤身牛肉、日本で食す価値はあるかも。
更にご興味のある方メールにて。
写真 国立国会図書館蔵