ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

(25)クラッシュ人気の実情

2009年08月12日 11時20分09秒 | ROSSY's HISTORY
  クラッシュ・ギャルズの人気は、ビューティ・ペアの時とよく似ていた。女学生がファン層のほとんどを占めていたり、芸能活動とリンクしたり。ファンクラブの会員だけでも1万人はゆうに越えていた。何しろ、パソコンなど無い時代だからイレクトメールや会報を送るのに宛名も手書き。実に3人がかりで対応していた。そこで働いていた東珠代(チャーリー東)川崎(乱馬翔)はその後、レフェリーとしてデビューしているのだ。ファンクラブ会員が1万人もいれば、後楽園ホールなどはたった1日の電話予約で完売したし、3日間計6回のコンサートも2日もあれば、チケットは売りさばけた。電話予約の日などは、電話局に依頼して、回線を増設してもらったほどで、我々もスタッフ全員で電話の対応をしたのだ。これは。まさにクラッシュ・バブルだった。
  その時代は地方の売り興行も多かったが、首都圏のビッグマッチは少なかった。もっぱら、大田区体育館、川崎市体育館、横浜文化体育館、大宮スケートセンターといった中規模会場を満員にさせていた。団体対抗戦時代のようにバンバン、ビッグマッチを乱発することもなく、クラッシュ時代の5年間の間、日本武道館を1回、両国国技館を1回、横浜アリーナを1回づつ開催したのみ。これは今思えば、安全パイの興行ばかりだったと思う。松永イズムの無茶苦茶なビッグマッチの登用は、当時は感じられなかった。
  マッチメークは主に松永国松さん(故人)が行っており、そうそう変わったカードはなかった。なぜなら、長く1団体時代が続き選手のメンバーは固定していたから、奇をてらったカードはありえない。いつも同じようなカードで、試合を構築していくしかなかったのだ。マッチメークの力というより、クラッシュ人気に支えられていたから、彼女たちの魅力が全てだったのだ。まだ30歳に達していなかった私は、徐々にマッチメークにも口を挟むことになった。まずは、リーグ戦などの対戦カードの日程を調節したりした。徐々に盛り上がり、最終でクライマックスを迎える手法をここで学んだ。と言っても、誰かに教えてもらった訳ではない。自分の感性こそが、プロレスを創る側の材料なのだ。

▲プロレス写真記者クラブの表彰。長州、天龍らとカメラに収まった。

最新の画像もっと見る