rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

「育てなおし」の重要性 その1

2020-11-14 21:47:30 | 随想たち
「生きづらさ」を抱えた子供たちが増えているようだ。
自分ではどうしようにも出来ない守られるべき存在であるはずの子供たちが、社会の歪をまともに受けてしまっている。
昨今認知度が高まった発達障害も、愛情を持って丁寧に育てられたならば、小学生を終えるころにはおおむね困り感を持たないほどに、過ごせるようになりそうだ。
家庭にもいろいろな事情があり、誰しもが余裕を持って育児を出来るわけではない。
経済、時間、知識、育児に携われる家族の人数と状態、様々な要因が絡み合って、生育環境は作られる。
本来ならば、これは大人、子供の親が整えなくてはならないのだが、一概に責任をすべて負わせることも難しい。
そこで、公共の力を持って、子供の成育を助けるのだ。
国とは、人がなくては成り立たない。
人が安全に人間らしく生きるために集合して協力し合い、互いを守りあい認め合う枠組みとして、国が存在するのではないだろうか。
国にとって、また個人にとって、他人は資源とも言える。
その資源は、勝手に生まれて育つわけではないし、ただの資源でもない。
手間隙をかけて人を育て、人は各々に付与された特質と役割を持ち、個人から全体へと働きかけをしながら、よく生きていくべきものなのだ。
かつても、子供は社会の財産で、共同体で育てるということをしていた。
もちろん、人が行うことだから言わずもがなではある。
「育てなおし」の助けが必要な子供たちが、かなりいると日々実感している。
第二の育児的要素をたぶんに含んでいるので、清潔で安全かつ落ち着いた環境とゆとりある支援者の確保が必要だ。

突然の中断、今回はここまで。



瑞々しい色彩、踊る線 カンディンスキー

2020-11-13 23:29:15 | アート

即興 渓谷 1914

近頃、深刻な問題に気がついた。
人物が描かれている絵を、観たくないという現象だ。
原因は分かっている、人間と密接に関わりを持っているからだ。
人間を造形の対象としてすら捉えることに飽き飽きとしてしまっていることに、自分でも愕然としてしまった。
だから、色彩や線を純粋に楽しめる抽象画や、人物の描かれていない風景画などに心が惹かれる。
どうだろう、このカンディンスキーの絵は、鎮静効果のある寒色の青と、補色である輝かしい暖色の黄色、それらをつなぎ合わせる明度の低い黒や赤が組み込まれ、全体に動きと流れをもたらす生き生きとした線が巡らされている。
観ていると心が開放され、たとえばバッハのコンチェルトの調べに乗って舞い踊る感じになる。
そのためか、来年のカレンダーは、カンディンスキーに決めたのだった。
安直でも、毎日目にするところに美しいものがあるということは、ふっと我を振り返るにはいいアイテムなのだ。

Violin Concerto in D Minor, BWV 1052: Allegro


Bach - Harpsichord concerto in A major BWV 1055 - Corti | Netherlands Bach Society






木々の織り成す錦

2020-11-08 22:58:58 | 日記






茨城県立歴史館の紅葉は、例年通り美しい。
手入れの行き届いた庭を楽しむ来訪者たちが多く、賑わう光景もまたいい。
この人によって飼いならされた自然というものも、ぼんやりと物思いに耽るにはとても具合のいいものだ。
文化の高さというものの、ひとつの指標となる施設の一つではなかろうか。
建物だけではなく、人々が気軽に憩える庭園、公園が、もっとあって欲しいと、ここにくるたび思うのである。


ショートトリップ 石船神社

2020-11-01 00:11:41 | 旅先から










このところ、素晴らしい天気に恵まれている。
空は高く澄み渡り、風もほぼなく穏やかで、理想的な日といえよう。
山に登るほどの時間的余裕がなかったから、家人と秋を感じにドライブに出かけた。
人生の節目を感じるのだろう、最近の家人は若いときに縁のあった場所を訪ね歩くのが今の関心事。
そこで今回は、学生のとき何度か招かれた恩師が住んでいた所を訪ねた。
その恩師は、当の昔におそらく故国にお帰りになっているはずなのだが、思い出をなぞってみたいだけなのだろう。
当時より相当時間が経っているので、道も目印の建物も変わっていて、なかなか辿り着けない。
あちこち捜し歩いていると、たまたま石船神社の脇を通りかかり、気になって寄ることにした。
人の手は入っているけれど、あまり来訪者がいない感じが、鳥居より先の苔むした踏み石に現れている。
鬱蒼としているが、澄んだ気が満ちた参道を進むと、右側から水のせせらぐ音がする。
橋を渡り、開け放たれた本殿の扉の奥には大きな鏡の御神体が祭られていた。
よく見れば、参拝場所の脇に、この神社の案内が記された紙がおいてある。
どうやら貞観元年859年以前からこの地に奉られているとのこと。
奥の宮あたりには、檜とそれに添うように藤の巨木が立っている。
たいがい藤はそれが巻きつく木を枯らしてしまったりするのだが、ここではそうではない。
奥の宮より少し離れたところにも、似たような杉と藤の組み合わせがあった。
ここの地力が高い証明をしているかのようだ。
とはいえ、神社の名が示す通り、このあたりは大きな石、岩盤で出来たような土地なのだが。
ふらっと招き入れられたような感じではあるが、とても体が浄化されたような感覚を持った。
その後、家人の目的の場所にすんなりと行けた。
そこの前には小川というより水路があって、どうやら石船神社のほうに流れて行っているらしい。
水の流れが結ぶ縁、そのようなことを感慨深く思う美しいショートトリップであった。