rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

レディオヘッド、軽い絶望と虚無感のなかに

2012-05-23 22:54:33 | 音楽たちーいろいろ

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アルバム パブロ・ハニーPablo Honey(1993年)より

レディオヘッドを聴いている。
ほとんどが、暗く重い曲調。
でも、暗闇の中に何処までも深く限りないほどの透明度を持つ冷たい地底湖のように美しく、聴く者を彼らの世界へと誘う。
そして、ジェームズ・グレアム・バラードの作品「結晶世界」を思い浮かべる。
美しいものもそうでないものも、全てのものが結晶化しありのままに永遠に閉じ込められてしまう世界。
軽い絶望となす術もない虚無感が、結晶という純粋にして無慈悲に美しいものへと変貌する世界に、抗うことを放棄させる。
なぜか、今この世界に広がっている雰囲気そのままのような感じだ。
しかし、待てよ、結晶のように美しく、全てのものを純化させる効果ないし幻想を持たせてくれるのなら、その流れに身を任せてもと思う気はあるが、ただ腐り行くならばごめん蒙りたい。
レディオヘッドの音楽は、結晶化への薬のようなものだ。
清濁善悪をすべてそのままに、結晶化させて昇華する薬といえるだろう。

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アルバム OKコンピューターOK Computer(1997年)より


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金環日蝕 2012年5月21日

2012-05-22 11:58:23 | 空・雲・星・太陽たち

金環日蝕7時10分 21/5/2012



曇り空が懸念されていた金環日蝕当日、程よい薄曇で観察に支障があるよりも、むしろ目に優しい具合だった。
子供たちは、日蝕観察優先となって、9時登校。
6時半に中くらいの人が、「日蝕が始まり進んでいるよ!」との声で、家族みんなで庭へ出て空を仰ぎ見る。
右上あたりの太陽が、欠けてきていた。
太陽と月の前を、雲が勢いよく流れていく。
日蝕が進むごとに、太陽の光は減り、北風が冷たさと勢いを増す。
7時35分頃か、美しい金の輪が出現。
奇妙な薄暗さが、地上を覆う。
ねこは、ずっと足元に寄り添っている。
どうやら、通常とは違う様子に困惑しているのだろう。
それで、家族が揃って日蝕を見入っているそばに、やってきだのだ。
束の間の金の輪が消え、太陽はその姿を取り戻す頃になると、世紀の瞬間を体験した家族は、それぞれ自分の時間へと帰っていった。

さて、今回の金環日蝕を見るために、近くのスーパーで日蝕グラスを2つ買った。
同じメーカーで、プラスチック製とガラス製のもの。
買ってしばらくしてから、ツイッターで日蝕グラスの不良品が出回っていることを知った。
よもやと2種類の日蝕グラスを手に取り、蛍光灯の光を見てみると、ガラス製のものは蛍光灯の形が見える不良品であった。
残念がっていても始まらない。
後日、試しに夕陽をのぞいてみたら、弱い光のためにプラスチック製ではまったく見えないものの、ガラス製では眩しくなく夕陽が見られた。
薄曇ならば、かえってガラス製のほうが眩しくなく日蝕観察できるであろうと淡い期待を持つ。
まさしく、その通り、薄日のときは最適だった。
雲が切れて強い光では、プラスチック製を使い、その使い分けで結果良好。
家族使いまわしで、長時間ずっと観続けることがないのも、さらによかったのだと思う。

ともあれ、金環日蝕を十分に堪能できた。
皆さんは、どうでしかたか?


日蝕の日のねこ

尾形光琳、意匠の巨匠

2012-05-19 23:33:09 | アート

松島図屏風


紅白梅図(右隻)


紅白梅図(左隻)

今日の”美の巨人たち”、尾形光琳の”松島図屏風”。
国宝級なのに、アメリカのボストン美術館に所蔵されている。
それは、フェノロサがアメリカに持ち帰ったから。
フェノロサは、岡倉天心とともに東京美術学校設立と、また、日本美術の再評価と国際的評価の向上にも力を尽くした。

俵屋宗達を起源とする琳派の始祖である尾形光琳は、非常にデザイン性に富んだ画風を開花させた。
その思い切りのよい画面構成は、ドイツ圏のユーゲント・シュティール、イギリスのアーツ・アンド・クラフツなど西欧絵画に強い影響を与えた。

実に、斬新奇抜なその意匠、圧倒的存在感は、観る者に強い感銘を与える。
”松島図屏風”の文様のように誇張され繰り返される曲線で描く波と平行と俯瞰二つの視点から描いた波、
ありえない形でせり立つ岩島は、写実で表現しきれない凝縮し普遍化した風景がある。
宗達とは違う個性。
しかし、宗達無くしては生まれなかったかもしてない個性。
琳派とは、モチーフを共有し、伝承される画風なのだといっていたが、まさにその通りなのかもしれない。
光琳の継承者、酒井抱一にも時を越えて琳派イズムが受け継がれた。
継承しなおかつアレンジを施す精神も、琳派イズムなのだ。
いや、その精神そのものが、純日本的伝統なのかもしれないと、思いあたることがたくさんある。
ただの、目先の利益優先型のコピーではなく、自分好みにアレンジすることが日本流。

光琳は、まさに日本なのかもしれないと思う、今日の一枚であった。

ミツバチは何処へ

2012-05-18 23:17:02 | 生き物たち
今年は、ブルーベリーにイチゴ、ラズベリーの花がたくさん咲いた。
なのに、お尻の大きなクマバチがブーンと大きな羽音を立てて蜜を吸い、しばらくしてからは子供クマバチも混じってやってくるくらい。
クマバチは、単独生活のハチ、しかも花の根元にあけた穴から密だけを摂るので花粉を媒介しないという。
いくら多くクマバチが来たとしても、結実の効果は望めなさそうだ。
庭にいるとき、ハチの飛来を注意しているけれど、ミツバチの姿はあまり見かけない。
むしろ、昨年より減っている気がする。
数年前は、セイヨウミツバチより多いくらいのニホンミツバチも数多飛んで来ては、庭に咲く花々の蜜を吸っていたのに。
ミツバチの、丸く小ぶりなその姿は可愛らしく、花の蜜を吸うところは微笑ましい。
また、好い実りをもたらしてくれるだろうと、収穫に期待を寄せるのだ。
いったい、ミツバチは何処へ行ってしまったのか。
養蜂のセイヨウミツバチではなく、自生しているニホンミツバチよ。
だから、花は咲けども実は生らず・・・になりかねないこの状況を、大変憂いているのである。


もったいなくて

2012-05-16 23:11:24 | つぶやき&ぼやき
もったいなくて、子供が成長して着られなくなった服を後生大事にとってある。
乳児期から7歳くらいまでのものは、親類知人に譲ったものの、それ以後は、子供の意志も入ってくるので譲りづらく衣装ケースにねかしたままだ。
年々たまるばかりの子供服に、頭を悩ませていた。
そのような折に、母からの誘いで、近々フリーマーケットに出してみようと、今日は押入れから引っ張り出した。
性別、サイズ、用途などに細かく分け、値段も決めた。
一枚一枚チェックするうちに、その服を着た当時の子供を思い出し、よくここまで無事に成長したものだと感慨に浸る。
しかし、数年前の品々、作りはそこそこよくできているけれど、今風ではない。
もっとも、子供はあっという間に大きくなり、着替えが多少なりとも多いほうがよいので、この服たちもまだ出番があるかもしれない。

物を捨てるのは、簡単だ。
この十数年、デフレで、物の値段が下がり、また、ファストファッションの台頭で流行に乗った商品を安く手に入れられる。
でも、簡単に消費ばかりしていていいものだろうか?
文明文化が、ある一定のレベルに到達した現在、過剰消費から脱却する地点にきていると思わないか?
地上に増えすぎた人類の生存活動は、地球環境を圧迫している。
人は労働資源で財産だから、国力を維持または増強したいがために、まだ増え続けるならば、生物界の逆ピラミッド化が著しく、地球は疲弊する。
意図的に人口調整を行う、もしくは、天変地異などで地球環境が変わり、生態系のシャッフルがなされた場合を除けば、このままの状態が肥大化するはず。
だから、特に先進諸国において、消費一辺倒の経済システムを変えなければならない。
生産と消費のバランスに目を配り、経済に組み込みにくい地球環境回復に力を割り振るようにする。
まずは、”もったいない”から。
修繕して使い続ける、修繕することが経済活動の一員として市民権を得る社会へ。

いやはや、”もったいない”を実践するのはたいへんだ。