三月初旬にこの短編集をめくり始めてから、一ヶ月以上経って最後のページにたどり着いた。
毎日手に取ったわけではない。
なぜなら、そこに淡々と連なる言葉が、晩秋の雨のように寂しく体の芯まで凍えさせるからだ。
思い直して読み始め、数ページも進まないうちに本を閉じる。
それでも、確実に、心にどろりと冷たいスライム状のものが、沈殿するのだ。
カポーティは、孤独が癒しがたく、特に人の群れ集う都会において、ついには人を飲み込んでしまう危険なものと描き出す。
孤独に囚われないように必死で抵抗、なお絡め摂られてしまう人の姿は、果てしなく続く悪夢のように絶望的だ。
人にとって、認知できる許容量は、個人差はあっても限りがあるだろう。
大都会の、異常に人の密度の高いところでは、電車で隣あう人、歩道を通行する人たち、全てを思いやることはできない。
かえって、全てを気にしていてはオーバーヒートしてしまうから、ただのモノとして処理し、自分の均衡を保つ自己防衛作用が働く。
なにかの折に、ふと自分が小さく、社会において存在を忘れられているのではと、疑念を抱く。
そこから、絶対孤独の蟻地獄に嵌ってしまい、自己崩壊へいく危険が、誰にもあるのだ。
都会ではない、田舎もカポーティの大事な舞台になっている。
都会物よりは、幾分暖かみのある雰囲気を持っているが、人の身勝手さ愚かさ不可解さを描き、やはり晴れ晴れとした気持ちにはなれない。
カポーティは、とことん人間不信なのだろうと、思わずにはいられない。
希望のかけらも、持っていなかったに違いないと、断言したくなる。
自分さえも、嫌い信じているようには見えないから。
人間なんて、ろくなもんじゃねぇ・・・とばかりに。
あいたたたた、どうやらカポーティの”夜の樹”で炙り出された、自分の本性が痛かったのか。
このムンクの絵は、カポーティの世界を視覚化していると思うのだ。
冷たく暗い森に、二人抱き合い歩み寄るが、実は一人なのかもしれない。
慄きが、沈んだ空気を振るわせる。
森のほうへ Ⅱ