rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

J.S.バッハのリュートのための組曲

2010-12-22 12:24:56 | 音楽たちークラシック
好きなクラシック音楽は、単一楽器による演奏のもがいい。
室内楽くらいの編成がめいいっぱいといったところ。
かといって、まったくオペラや交響曲を聴かないわけでもない。

現在頻繁に聞いているのは、ギター曲。
ドメニコ・スカルラッティは、以前ここに書いた。
今回は、バッハのリュートのための組曲をギター演奏したもの。
    フーガ ト短調 <BWV1000>
    組曲  ホ短調 <BWV996>
    組曲  ハ短調 <BWV997>
温かみのある音色が、窓を通して室内を満たすような慈愛の感じられる音楽だ。
慈愛といっても、ただ甘いという種類のものではない。
存在するものを、柔らかくはあるがくっきりと照らし出す、凛とした慈愛だ。

バッハのイメージを視覚化しているのが、フェルメールの絵だと思う。
いや、それでは時代が逆行してしまう、バッハが音楽に変換したことになる。

フェルメールの絵に、リュートやギターが描かれている。
裕福な子女は音楽を嗜んでいた光景だ。
それが、社会の風潮だったのだろう。
しかし、それらが描きこまれた絵よりも、「レースを編む女」にこそ、バッハの音楽が似合うと思うのだ。

フェルメールの絵と、バッハのリュートのための組曲を同時に鑑賞すると、相乗的に、存在を肯定する慈愛を感じることができよう。

音楽は、時空間芸術だ。
音たちが醸し出す空間は、音がある間人を包み込み、音楽の持つ力で至福の時へ誘ってくれる。
教会で奏でられる神への捧げものは、地より立ち昇り全ての善も悪も巻き込んで上へ上へと上がっていく。
日常の室内で奏でられるギターの音は、慎ましやかな人の生活を優しく包み込んでくれる。
音楽が、私たちに与えてくれるものは、なんて豊かなのか!!

バッハの音楽は、生きることを真正面から肯定する、大きな優しい翼のような音楽だ。
心が疲れたなら、バッハも音楽に守ってもらうと、きっと安らぎを得られるだろう。




ドビッシーの「月の光」と皆既月食

2010-12-21 23:47:37 | 空・雲・星・太陽たち
今日の皆既月食は、天候に恵まれず、自分の目で見ることは叶わなかった。
来年の12月10日に期待しよう。

「月の光」といえば、ドビッシーの曲がある。
先ほどの、ニュースステーションで皆既月食を取り上げている時、BGMに流れていた。
ピアノの奏でる音と音の間に、静かな光を放ちながら、月がゆっくりと昇る風情が、絵画的に表現されている。
絵画の印象派と同時代で、音楽にもその時代の持つ空気が伝わっているようだ。

芸術が、神のものから貴族のもの、そして市井の人(ブルジョワだが)のものへと変わった頃。
ロマン派、印象派が時代を代弁した。

今の世にどのようなムーブメントが起こっているのか?起こりうるのか?
流れの真っ只中にいると、その流れの向かう先が見えないのと同じに、認識できないだけなのか?
それとも、言い知れぬ不安と虚無感に絡めとられて、立ち向かう力が湧いてこないのか?

芸術はなくとも生きていける。
でも、色とりどりの花があるように、命に花を添えたら、よりいっそう人生が豊かになる。
芸術が、誰にでも簡単に手に入れられる時代(複製)になったのだから、その幸せを受け取ってみよう。

表現を志すものたちよ、へこたれるな!
あらゆるものを表現の原動力として、弛まず歩き続けて欲しい。

黄昏色が、白く空けるような月を染める

2010-12-20 23:02:31 | 空・雲・星・太陽たち


今日の月は、白く輝く。
真上に懸かる月から、さらさらと清んだ光が降り注ぐ。
明日の皆既月食と、対を成そうとするように。

でも、生憎と天気が芳しくなくて、その対比を観賞できないようだ。

ここからは見えずとも、どこかで月を見上げる人が必ずいるだろう。
どうか、私の分まで月の美しさを褒め称えていただきたい。



可憐な小花のアリッサム

2010-12-20 13:36:14 | 植物たち


これで何回目だろう、種がこぼれて育った、アリッサム。
寒さに耐えながら、一生懸命に咲いている。
花の少ない季節に、ありがたい存在。

ノースポールや、ビオラの紫系も、こぼれ落ちた種で発芽し開花まで至る強い植物。
でも、何年もそれを繰り返すと、近親交配で弱くなり、いつの間にか消えてしまう。

もうそろそろ、新しい仲間を連れてこよう。
白もいいな。
ベージュ系も好きだが、これは次になかなか現れてくれない、ちょっと考えよう。

今日は、暖かないい陽気。
アリッサムやビオラたちが、お日様を浴びてニコニコ微笑んでいた。
そして、生き物みんなが、喜んでいた。





北アフリカ、チュニジア・スース

2010-12-18 22:57:11 | 街たち
お馴染みの「世界ふれあい街歩き」、今回はチュニジアのスース。
城壁に囲まれた旧市街は、白い壁に青の扉と窓が美しい。
細い路地が、縫うように街の中を走っている。

商店は、所狭しと軒を連ねて、アラブの生活を垣間見せてくれる。
そこには、食肉文化を象徴するように、牛の頭がぶら下がり、香辛料店には、ありとあらゆるスパイスや穀物類を袋に入れて売っている。

街で出会う人たちのなかに、羊を連れ歩く子供たちの姿があった。
自宅で飼っているという。
イスラムの祭り「犠牲祭」で、この羊を生贄にし、自分たちで屠る。
もちろん、大切に育てた羊が殺されるのを、子供たちが悲しまないはずはない。
しかし、生あるものは、他の命をいただき自らの命を生きながらえなくてはならない。
このことを学ぶ機会として、目の前で大切な羊が殺されることを目の当たりにするのは、野蛮でも残酷なことでもないはずだ。
きっと、子供たちは、食べ物に感謝し、大切に食べるようになるだろう。

北アフリカの強い日差しは、生を鮮やかに照らし出している。
死の影を際立たせて。