
長く続いたこのシリーズも一旦完結ですが、浅草寺は奥が深い!
見出し画像は、影向堂(ようごうどう)。平成6年(紀元2654仏暦2538キリスト暦1994)(※歴年表示の考え方)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立されたとのこと。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れることで、浅草寺では、観世音菩薩のお説法やご活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆」と呼び、影向堂に生れ年(干支)ごとの守り本尊八体(影向衆)を祀っているとの由。堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来を祀っている。如来である大日如来を影向衆としているのが面白いですね。
外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っているとのことですが、残念ながら拝観時間を過ぎているようで、お参りはできませんでした。
冒頭画像は、九頭竜権現。なんでも戸隠山の地主神を勧請したものとのこと。九頭竜の話は、各地にあるようですけど。
上の写真が、薬師堂。慶安2年(紀元2309仏暦2193キリスト暦1649)、三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。これが現在の建物で、浅草寺に残る江戸時代以前の建築では六角堂、二天門とともに古いものですが、平成6年(紀元2654仏暦2538キリスト暦1994)に現在地に移されたとの由。
左の画像は、金龍権現。寺の縁起における金龍の話は、前回、掲載したとおり。
長久2年(紀元1701仏暦1585キリスト暦1041)12月22日に起こった大地震により、浅草寺の堂舎はあらかた倒壊し、境内が荒れ果ててしまいます。寂円上人という修行僧が、この惨状を見て再建の志を起こす。隣境の山中で材木を伐採し、野で葺萱を集めてまわった寂円上人は、永承6年(紀元1711仏暦1595キリスト暦1051)ついに宿願を果たして本堂を落慶します。しかしこの本堂も、わずか28年後の承暦3年(紀元1739仏暦1623キリスト暦1079)12月4日、原因不明の火災によって炎上してしまいます。この折、ご本尊が本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難されたとの故事が伝わっているとのこと。その後、仁安4年(紀元1829仏暦1713キリスト暦1169)、学頭(寺の学問を統轄する者)であった用舜上人が中心となり、浅草寺再建に尽力したこと。
その後は、諸将に庇護された浅草寺。発展していきますが、江戸期からは不思議と火災にあいにくかったとのこと。もっとも、火災に備えて、本尊を避難させるなど、対策はしていたとのことだそうですけれども。
最後に、北側の暫像。「劇聖」と賞賛された明治時代の歌舞伎役者、九代目市川団十郎(紀元2498~2563キリスト暦1838~1903)の十八番「暫(しばらく)」の銅像。主人公である鎌倉権五郎の力強さにあやかり、毎年4月、この像の前で威勢良く赤ちゃんの泣き声を競う「泣き相撲」が奉納されるとの由。現在の像は、十二代目市川団十郎(紀元2606~2673キリスト暦1946~2013)襲名を機に復元されたものだとのことです。
このシリーズはこれで完結ですが、浅草寺は、まだまだ色々な事跡がありますね。奥が深い!
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