長野市南部、松代町・・・
「六文銭」の真田10万石の城下町として知られます。
(海津城)
この地下に、おどろくものが!
なんと総延長10数㎞にも及ぶ、巨大な地下壕があるのです。
これも太平洋戦争の戦争遺跡の一つ。
この「松代大本営」を、9月の初めに見学してきました。
本ブログは、その備忘録を兼ねてのアップです。
急に計画した、信越(長野市・上越市)の旅、
絶対に外せなかったのが、松代大本営地下壕です。
何年も前からの念願でした。
壕についての情報が少ないので、まず、長野市に問い合わせました。
すると、ガイドスタッフは常駐しておらず、
長野市のHPにあるパンフ頼みで見学するしかないよう・・・
「それじゃ、何が何だかわからないまま、出てくるだけだじゃん」
と、ガイドさんをお願いしました。
「松代大本営平和記念館」のKさん。
急なお願いにもかかわらず、電話を受けてくださった、
ご自身が案内して下さいました。
なお、この会は、前記事「失われゆく戦争遺跡」で
「読売新聞」の解説内に登場する、
「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の事務局も担っておいでです。
(恵明寺の近くに象山地下壕の受付がある)
前置きが長くなりました。
まずは、見学記に入る前に、
「大本営地下壕」の簡単な解説と前後の流れを、まとめておきます。
「大本営発表」、戦争特集の番組で必ず聞くけれど・・・
そもそも、「大本営」って何なの?
というところから、私自身も確認しました。
「大本営」とは、
日清・日露戦争中をみると、戦時下に置かれる、臨時的な機関。
大元帥である天皇のもと、陸海軍の最高幹部が
天皇を補佐し、戦争の計画をたて、作戦の指揮・命令を行い、
戦争指導をする、最高機関でした。
アジア太平洋戦争では、日中戦争が始まった昭和12(1937)年に置かれ
昭和16(1941)年12月、アメリカとの太平洋戦争開戦を経て
終戦までの8年にわたり、存続しました。
さて、敗色が濃厚になってくると、
この大本営を移転させようという提案がなされます。
開戦当初こそ、戦局は日本優位だったものの・・・
昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦で、
アメリカに敗北以後、日本軍は守勢に転じていました。
同年9月、大本営は「絶対国防圏」のラインを設定。
これを破られたら敗北必須というラインです。
ところが、アメリカの攻勢は、ますます強まり、
昭和19(1944)年2月以降は、「絶対国防圏」の死守どころか、
本土への空襲も逃れられない状況へと追い込まれていきます・・・
この状況でも、戦争指導者には、
戦争を終わらせるにあたり、譲れない条件がありました。
それが「国体護持」、天皇制の存続でした。
「国体護持」のためにも、
いずれ行われる、和平交渉までに、戦局を優位にしたいと、
本土決戦の準備を始めたのです。
当時、本土への空襲は、もはや避けられず、
天皇はじめ大本営は、早急に安全な土地で指揮をとる必要がありました。
さらに、「国体護持」のために
天皇制のシンボルである「三種の神器」の保管場所を確保することも
計画されていきます。
こうして選ばれたのが松代でした。
Kさんによると、最初は八王子あたりを移転先として考えていたものの、
あまりに東京と近いと言うことで、却下されたそうです。
では、なぜ、松代への移転だったのか?
関係者の証言を合わせると、理由は、以下の5つにまとめられます。
(5つの理由は『フィールドワーク松代大本営』20頁より引用)
1.戦略的に東京から離れていて本州のもっとも幅の広い地帯、信州にあり
大本営の地下施設の近くに飛行場がある。
2.地質的に固い岩盤で抗弾力に富み、地下壕に適する。
3.山に囲まれた盆地にあり、工事に都合の良い広さの平地があり、
また地下施設を建設するだけの面積が確保できる。
4.施工面からみると、長野県はまだ比較的労働力が潤沢である。
5.信州は人情が純朴で、天皇を移動させるにふさわしい風格、品格があり、
「信州」は「神州」に通じる。防諜面からも適している。
との理由でした。
(入り口からすぐのスロープ)
・・・これ、どうなんでしょう?
5番目なんて、防諜面はさておき、
科学的な根拠とは、とても思えませんが・・・
これで通ってしまうような人たちに、
あの戦争が指導されていたなんて、そりゃ負けるだろうと、
妙に納得してしまいます。
また、「比較的豊富」だったはずの長野県内の「労働力」も、
戦争や「満州」への開拓団や青年義勇軍として駆り出されており、
既に、不足していたのが実情でした。
(NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレットより)
ともかく動き出した、松代大本営計画。
範囲は、善光寺平一帯、約20キロ四方に及んでいました。
中心は、松代周辺のイ地区(象山ゾウザン)、ロ地区(舞鶴山)、ハ地区(皆神山)の3地区。
極秘事項ですから、イロハ・・・の暗号を使っています。
計画では、大本営のほか、天皇、政府関係関連施設、
あるいは日本放送協会(NHK)、中央電話局なども移転する予定でした。
用地買収などの建設準備は、
昭和19(1944)年秋から始められました。
工事は、陸軍省を中心に、西松組、鹿島組などが請け負って、施工。
この年の11月に最初の発破(ダイナマイト)工事が行われます。
ただし、大本営のための工事であることは秘密にされ、
「松代倉庫工事」として進められ、
終戦の昭和20(1945)年8月まで続けられていました。
総工費は、当時の金額で概算1億円。
現在の金額で言うと、CPI(消費者物価指数)からいうと、
「CPI:1944年(S19)の100,000,000円は、2019年(R1)の51,302,984,947円(513倍)」。
(「日本円貨幣価値計算機で計算)
働いていたのは、どんな人たちだったのか・・・
「松代大本営平和記念館」のパンフにある、
「地下壕工事に携わった人々」によると・・・
「労働力の主体は朝鮮人労働者でした。
多いときは朝鮮半島からの強制労働者を含む6500人ほどが
劣悪な環境で危険な作業に従事していました。」
(このあたりは難しい問題に関わるので、
「松代大本営」パンフをそのまま引用しています。)
もちろん、日本人も働いていました。
東部軍その他の将兵、勤労報国隊、労務報恩会、学生、生徒、児童まで。
昼夜を問わず、突貫工事が続けられ、
最盛期の昭和20(1945)年4月頃は、日本人・朝鮮人総勢で
およそ1万人が働いていたといわれています。
また、強制的な立ち退き命令で、住民も引越しをさせられいました。
早い場合は、わずか2週間、それ以外でも1ヶ月ほどで、
家財をまとめ、家を空けねばなりませんでした。
(NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレットより)
工事開始から年が明けた昭和20(1945)年
3月に東京大空襲、名古屋、大阪など全国の都市が空襲に見舞われ、
6月には沖縄戦が終結、8月の広島、長崎への原爆投下、ソ連軍の侵攻・・・
8月15日、終戦の日を迎えます。
この時点で、三つの山に縦横に掘削された地下壕は、総延長約10キロ、
計画の約70%以上(平均)が完成していました。
敗戦から一年後、
舞鶴山地下壕の一部は(↑↓)中央気象台(当時)の施設として利用されます。
しかし、それ以外の残った施設は、廃墟と化しただけでした。
莫大な総工費と、過酷で危険な労働を強いながら、
結果として、この大本営地下壕は、使われることはありませんでした。
「幻の大本営」と言われる所以です。
以後、40年間にわたり、「松代大本営」は忘れられていました。
1985年以降、再び、光が当たったのは、高校生の力によるものでした。
私立篠ノ井旭(シノノイアサヒ)高校は、修学旅行で沖縄のガマ壕に入ったことから
地元、「松代大本営」地下壕の調査を始めたのです。
私達の案内をしてくださったKさんによると、
高校生を前に、元・朝鮮人労働者だった人が重い口を開いてくれたそうです。
「大人相手には、話したくないことでも、
若い人前にすると話しやすいのかもしれませんね」とのことでした。
高校生の力はすごい!
旧登戸研究所(明治大キャンパス内)も、東京の浅川地下壕など
高校生が関わった戦争遺跡は、たくさん耳にしています。
若い人が、まっすぐに戦争遺跡を見つめる姿は、頼もしいです。
次の記事で、実際に、象山地下壕を歩い記録をまとめたいと思っています。
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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本ブログは、Kさんのご案内と、以下の資料を参考にまとめました。
素人の備忘録ゆえ、間違いもあるかもしれませんが、
どうぞ、ご容赦下さいませ。
◆参考
●松代大本営の保存をすすめる会編『フィールドワーク松代大本営ー学び・調べ・考えよう』平和文化
●NPO法人松代大本営平和記念館「松代大本営」パンフレット
●長野市観光振興課「第二次世界大戦の遺跡 松代象山地下壕」パンフレット