歴史の足跡

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歴史は語る・37・入唐八家らの求法の旅

2014-11-10 05:15:47 | 例会・催事のお知らせ

三十六、入唐八家らの求法の旅

最澄・空海より更に深める、求法の道。円仁と円珍の入唐の旅は大陸文化、宗教の探究に有った。
円仁は延暦十二年(793)下野国生まれ、比叡山に登り最澄に師事した天台僧で日本初めての大師諡号を受けた僧である。
円仁が延暦寺に弟子入りした時には最澄は桓武天皇の庇護を失い、空海から密教経典を借りて写し低迷の頃、最澄の後をついで天台教学を深めるべく志を立てていた頃、承和元年(834)実に三十年ぶりに遣唐使が派遣されることになった。
大使藤原常嗣、副大使小野篂と言う陣容、発表された。
遣唐使として難波を出帆、しかしこの年、翌年と逆風で失敗、三度目で渡海で成功した。
円仁から遅れる事十九年、円珍四十三歳、入唐は請益僧と言う資格である。唐への入国はまず国情を経てからで大宰府に来る唐人から情報を得ていた。
承和の遣唐使も延暦の遣唐使も長安を目指し、朝賀に参列している。入唐に関してそう簡単には果たせないが仏教界だけは例外で入唐八家と言われ最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡はそれぞれ貴重な経典などを持ち帰り、朝廷にその目録を提出している。
承和の遣唐使には真言請益僧の円行、三輪留学僧常晩の空海の弟子、円仁、天台留学僧の円載ともに最澄の弟子、そして法相請益僧の戒明らと従僧である。
まだまだ入唐に志した僧は真言僧の真然や真済などが居たが唐に着かず対馬などに漂着をした。
最澄、空海らの船団も四船の内二船は海の藻屑と消えていて、如何に大陸に渡ることは至難の業と窺い知れる。
承和の遣唐使の場合、第三船に乗船した船頭以下140人余りは、舵は折れ、人溺れ、波に漂い、生き残った者は疲労困憊、口もきけず惨憺たる有様で、真然と真済位なものであったと言う。
この記録を見ても如何に渡航は危険が伴うかを窺い知れ、真言僧二人の乗った渡航は縁起が悪く「真言僧の絶対に乗せてはならない」と言う命令を下し真言教団は取り消すように懇願をしたと言う。こうして真言、天台僧は求法の道を先争って旅立っていった。
求法の唐での記録をきめ細やかに当時の様子を記述が円仁の「入唐求法巡礼記」が良く伝えていて紀行の貴重な記録である。実はこの巡礼記日本より海外での方が理解されていると言う。
またこの『入唐求法巡礼記』は複雑な行程と当時の政治理由で前に進めなかった円仁の忍耐強い意志を持って帰国した物語である。かいつまんで述べると円仁は請益僧だから遣唐使と共に帰国をしなければならない条件付き渡航であった。
また渡航には三回目で成功した。また入唐しても許可が出ない限る身動きが取れない。危険を冒して渡航しても入唐後、唐王朝が許可をしないので、機会を待って足止め喰う。
揚州府に到着をすると天台僧の憧れの聖地天台山を目指したが、時の揚州監督の李徳裕は管轄外なので勅許が下るまで不可能との返事、長安との文書のやり取りに日数がかかるので気が気でなかった。
中国の国民性か役所気質で円仁の出した許可もなかなか進まず、目的の天台山には登れず、他の一行真言僧の円行の長安入京は許された。
天台山巡礼への夢を絶たれた円仁の真骨頂で、一旦間を置き新羅人に身を置いたが見破られ遣唐使船に乗せられたが逆風に遮られ、出航に失敗、文登県清寧郷赤山村で滞在をした。
滞在の中ひたすら機会を待ち、幾度も巡礼許可願いを出しても下りず、通行願しか出してくれなかったが、即位した天子武宗から巡礼許可が出たが、この許可を出した武宗こそ、その五年後の仏教弾圧を加え行く先々で円仁は阻まれるのである。
円仁は目的の天台山より五台山に行く教示を得て五台山から、長安に入れて感動の一瞬であった。長安では金剛界、胎蔵界、蘇悉地の三大法を各寺院を転居しながら会得し、中国の著名な僧やインド僧まで知り合うことが出来た。
円仁は一定の成果を得て帰国を決意したが時期が悪かった。武宗の仏教への締め付けが厳しくなって、行動は制限され還俗をさせられた。その内直ちに出国命令が出され、赤山まで戻って帰国の機会を待って十年ぶりに帰国が出来たのである。
この円仁の後に続くものに円珍がいる、円珍は最澄の直弟子ではなく二代座主義真の弟子で、入唐を志し文徳天皇の勅許を得て、円珍は円仁より遅れる事十九年、円仁が帰国する前年の仁寿三年(853)に新羅の交易船に便乗し出航し、唐の福州に着いた。
その後、開元寺へ赴き天台山に上がった。さらに天台山に、そこから越州は開元寺に戻り、長安の青龍寺に、そこで法全に受法し書写、多くの経典を持ち帰り天安二年に(858)帰国をした。帰国後は清和天皇に御覧に供した。
その後円珍は天台座主として二十年余り勤めて多くの門弟を育て、円仁派、円珍派の対立を生む人脈が生じた。

★円仁(794~864)天台僧、下野国都賀郡(つがぐん)生まれ、父は都賀郡の三(み)鴨(かも)駅長首(えきちょうおび)麻呂(まろ)・地元の大慈寺の広智に師事し、天台宗に触れる。広智に伴われ比叡山に上がり、以後最澄のもとに修行する。最澄の東国巡(とうごくじゅん)錫(しゃく)の同行、上野国で最澄に伝法灌頂を受け、故郷の下野国の大慈寺で円頓菩薩戒を授けられた。
その後延暦寺で菩薩大戒を受け教授師となった後に天台宗の布教に尽力した。承和二年(835)請(しょう)益(えき)僧(そう)として渡航する。後世に貴重な記録『入唐求法巡礼行記』が残されている。
★円珍(814~891)天台僧、讃岐国那珂郡(なかぐん)、父は宅也、母は空海の姪にあたる佐伯氏、叔父の仁徳に従って延暦寺に上がり、義(ぎ)真(しん)に師事し、得度し籠山12年間、若くして真言学頭になる。
853年に新羅商人の帰国船に便乗し出帆し福州に到着したのち、開眼寺から台(たい)洲(しゅう)の天台山に行き更に長安の青龍寺では、法全より受法し、多くの経典などを書写し、帰国後右大臣に召されて謁見し清和天皇に御覧に供した。その後園城寺の別当になり、天台座主になった。

※求法入唐の僧の往来は平安末期から鎌倉に掛け続出し、禅宗の栄西や東大寺再建の重源などの高僧が入唐し、又逆に中国からの渡来僧も頻繁に来朝するようになった。
それに伴って芸術・美術などの工芸技術から中国の多彩な文化ももたらしたことは確かである。こう言った文化交流は仏教に通じる交流から
端を発した。その意味で日本仏教のさらなる発展に寄与した功績は大きい。