歴史の足跡

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歴史は語る⑫女帝斉明の重祚

2014-09-05 05:15:54 | 例会・催事のお知らせ
十二、女帝斉明の重祚
大化の改新後、難波宮の見切りをつけ皇族の主だった者、官人までも飛鳥に引き上げ、孝徳天皇は病死後に、飛鳥に戻った皇極や中大兄は飛鳥板(あすかいた)蓋宮(ぶきのみや)に戻り、そこで再び重祚(ちょうそ)(二度即位する)し即位をした。
名を斉明と替え斉明天皇とした。前回の皇極天皇の時と違って、蘇我の抑圧も気を使うこともない。その後、後世にもその足跡に見るような祭事付きや「石と水の都」と言われる都作りに精力を尽くしたようで、まず後飛鳥岡本宮を造営した。飛鳥は「石と水の都」と言われる様に今も造営物が残されている。
飛鳥に戻って最初の板(いた)蓋宮(ふたみや)が焼失し、岡本宮に宮地を定めたが、その後田身嶺(多武(とうの)峰(みね))の両槻宮、吉野宮の両宮の造営を行った。「興事(きょうじ)」好きは『書紀』にも記されていて、香山(香久山)と石上山の間に渠(運河)を掘り、直線距離20キロはあり、舟200隻で石上から石を運んで宮の山に積んで行った。この運河を「狂心の渠」(たぶれこころ)と呼び石の山丘を作っても作る先から崩れ、有馬皇子が赤兄の口車に乗せられた謀反の話の時に同じことが語られ、そこから見ても狂気じみているように思える興事好きであることを窺い知れる。
この石の丘を造るのに延べ7万人もの人が従事したと言われている。飛鳥寺の北西から石神(いしかみ)遺跡(いせき)から石人像や須弥山石(仏教の世界)が、亀石(かめいし)、酒(さか)船(ふな)石(いし)遺跡(いせき)は謎の石造物・酒船石がある丘陵は『日本書紀』にある両槻宮ではないかと思われている。
亀型、弥勒石など飛鳥に点在し何のために造られたかはいまだに解明されていない。その中に祭事用に、儀式用に作られたと考えられるものも多く、斉明帝は国内外から都に上がってくる使者に謁見をしたであろう。祈祷師(きとうし)や雨乞いの儀式や禊を執り行い、祈願の聖域をかもし出した場所などあらゆる国家祭事が考えられる。
筆者も車で、サイクル自転車の貸し出しを受けて息を切らして廻ったものである。
◆石神遺跡*七世紀から八世紀前半にかけて宮室関連遺跡。奈良県高市郡明日香村飛鳥石神にあって、明治時代に掘り出され、昭和初期の発掘調査で石組溝や石敷きが発見された。
近年調査の結果建造物や塀や石組池、石組溝、石敷き等多数の検出し、斉明朝から天武朝まで五期に渡って作られたことを確認された。
◆両槻宮*斉明天皇が田身嶺に築いた離宮「二月宮」とも記す。調査で酒船石に据わる丘の標高130メートの石垣を廻る、その西正面の四段の石段は天武帝時代に崩落した。

※こう言った飛鳥時代で重祚をした女帝斉明は乙巳の変から大化の改新、難波遷都と時代の変化で、その存在に発言はなく、飛鳥に戻って以後、石の都作りに、その後に展開する蝦夷征伐、新羅への遠征と活発な生き方をしていく斉明女帝は飛鳥時代に時事辺々を積極的に生きた天皇と言えよう。
こう言った斉明天皇の石と水の都の造営の影響は何処から受けたのか、百済・新羅との往来は頻繁に行われ。唐の国の情報も伝わっていたのではと思われる。
運河を張り廻らす中国にも無い分けでもないので、その刺激もあったのかも知れない。また中大兄が初めての漏刻が石神遺跡の近くから発見され、「水落遺跡」である。時計と時間が使われることに大きな進化と進歩であると思われる。
また王権の権威を表すための儀式が須弥山の下に行われた形跡があって、”化外の民“蝦夷や隼人などの服属の儀礼などが有ったのではないかと推測される。







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