歴史の足跡

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歴史は語る⑥蘇我一族の盛衰

2014-08-27 15:54:47 | 例会・催事のお知らせ

六、蘇(そ)我(が)一族(いちぞく)の盛衰(せいすい)

欽明天皇の時代から台頭してきたのが蘇我一族である。蘇(そ)我(が)伊奈(いな)米(め)・伊那米とも記す。高麗の子、『紀氏家牒』馬背の子とある。
宣化・欽明朝の大臣となって娘の堅塩媛(かたしおひめ)、小姉君の二女を欽明妃として送り込み、用明・崇峻・推古の外祖父となって、蘇我氏繁栄の基礎を作った。
王権の政策に参画、筑紫・吉備・備前・大和国の高市・紀伊国海部などの屯倉(みやけ)の設置に関わり、屯倉経営に手腕を発揮したと言われ、仏教の受け入れに深い理解を示したという。
蘇我氏の起源としては在地の勢力が成長した説、本拠については①大和国曾我②大和国の葛城南部、③河内国石川に分れる。①が有力で五世紀に渡来人した百済高官の木氏一族が大和国曾我に定着した説である。
系図にも武内宿祢と蘇我石河宿祢を始祖とするものである。雄略朝に朝廷の三蔵(倉庫の総称)役を蘇我満智が検校したと言う。
継体朝から進出の機会を掴み、その際渡来系の東漢(やまとあやし)氏(し)の諸氏の支持を得たらしい。先に滅んだ葛城氏の領有していた、葛城漢人らを集団支配に取り込んでいった。
その後久米氏・桜井氏ら南大和の諸氏を抑え込んでいった。六世紀半ばには蘇我稲目が宣化天皇擁立をもってその地位を築いた。
その後蘇我馬子が引き継ぎ、敏達朝には大臣に就き権勢を振るった。
★蘇我馬子(そがうまこ)(?~626)は稲目の子、六世紀から七世紀前半に執政官として活躍、572年に(敏達元年9に大臣に就任し、推古朝に没するまでその地位にいた。敏達朝には吉備に派遣、稲目同様屯倉に力を注いだ。その間に物部守屋大連とは対立を深めて行った。
敏達の死後、蘇我系の用明天皇の擁立に多くの群臣の支持を取り付け、物部守屋を圧倒していった。用明天皇が崩御するや物部の穴穂御子を擁立するのに対して、蘇我系の崇峻天皇の擁立を計った。その内崇峻天皇と対立、馬子は東漢直駒の命令し暗殺させ、推古を天皇として擁立をした。
推古朝を厩(うまや)戸(ど)皇子(みこ)(聖徳太子)と共同で国政に当り、内政・外交と聖徳太子の補佐役として参画した。厩戸皇子の死後は傲慢な強硬策に転じている。
★蘇我蝦夷(そがえみし)(?~645)は馬子の子、馬子の没後に大臣に就任した。自宅に群臣を招き、天皇家と同じような儀式を執り行い、独断専行は目立ち、群臣との意見の食い違いと、蘇我家内にも対立を生み聖徳太子の御子の山背王を指す叔父と対立したが、摩理勢を滅ぼし、田村の即位を強行した。皇極天皇の即位後は入鹿に後を譲った。
★蘇我入鹿(そがいるか)(?645)蝦夷の子、皇極天皇の頃から国政に参画、皇位を古人大兄に図り、その障害に成る山背大兄王を斑鳩宮に攻め滅ぼして、権力を掌握した。
急速な権力志向に群臣からも反発を受けたが、大化元年(645)の「乙巳の変」で中大兄の皇子と鎌足、従兄の蘇我石川麻呂らの立てた乙巳の変で暗殺された。

★物部氏*古代豪族・大伴氏と共に大連の職を占めた。天武帝時代に朝臣の姓を賜る。大連の職を歴任をした物部氏は軍事・警察の任務に起用され活躍をした。継体朝には筑紫の磐井の乱の征伐に活躍は有名、このほか伊勢の朝日郎(あさけのいらっこ)の征伐、その後多くの事件やその処分に関わった。
大和朝廷の領域・境界線の拡張に関係した諸集団の指導者とも考えられている。軍事豪族として大伴氏と共に警備・軍事を受け持った。その後崇仏派の蘇我氏と対立し、物部氏は廃仏で敗退していった。

※稲目より栄華栄誉を築き、蘇我一門の血脈を皇権に注ぎ込み、外祖父として朝廷を思いのままに蹂躙した蘇我本家は馬子の崇峻天皇の暗殺、入鹿の山背大兄王の暗殺と暴挙によって崩れ去った。だがその後の蘇我傍流は影響を残し続けるが、政変に粛清されて衰退していった。何時の時代にも氏族や政権の執権は、時代の趨勢に盛衰を重ねるのである。


歴史は語る⑤継体新王朝の波瀾

2014-08-27 05:34:34 | 例会・催事のお知らせ

五、“継体(けいたい)新王朝(しんおうちょう)の波瀾(はらん)”

歴代天皇で特異な形での即位が継体天皇である。武烈(ぶれつ)天皇(てんのう)に継嗣がいなかった。そこで突如登場した次期天皇候補に上がったのが、近江の国の生まれ幼少期には越前で行って育ったとされる応神天皇の五世の孫「袁本杼命・男大迹・別名彦太」の継体であった。
『日本書紀』には重臣の推挙で近江の国の応神天皇の血筋と言う大義名分、継承の正統性を持っての即位である。誰が見ても不自然で無理があるが、男大迹王は性格が良く、親孝行で皇位継承者として相応しい方であると評価され選ばれた。
『日本書紀』によれば武烈天皇の後継者が無く、大連・大伴金村、物部麁(ものべあら)鹿(か)火(ひ)、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国に居た仲哀天皇の五世の孫の倭彦王を抜擢し迎えの兵士を見て恐れをなして山中に隠れ行方不明に、次に越前に居た応神天皇の五世孫の男大迹を兵士をだし迎えに出した。
そこで重臣は近江に迎えの兵士を送られたが、兵士を見て恐れをなして、山中に身を隠し行方不明になったと記されている。
翌年には臣・連たちが、君命を受けた印に旗と神輿(みこし)を備え、三国に迎えに行き、兵士が容儀いかめしく到着すると、天子の風格が出来ていたが、尚且つ疑いを持って居られたので、三日三晩、本意を伝えた。ようやく承知され三国を発たれた。
ほどなく河内の国の交野郡(かたのぐん)葛(くず)葉(は)(樟(くず)葉(は))に宮に着かれた。その後、仁賢天皇の手白香皇女を皇后とし尾張の草香の娘や近江の息長真手の娘などを妃にされた。
天皇としての擁立に宮を山城の筒城、弟国と移し大和周辺を転々と宮を替え、磐余(いわれ)玉穂宮(たまほみや)に移ったのは二十年も経てからである。
継体天皇の時代の対外的な問題は、任那(みまな)四県(よんけん)の割譲と己汶・帯沙を廻る争いであった。国内的には九州は磐井の反乱が起きた。折に近江の毛野臣が六万の兵を率いて任那に行き新羅に破られた失地を回復し任那に合わせようとした。
これを知った筑紫の国の国磐井が反乱を計画、密かに新羅と連携、磐井は九州各地を押さえ、海路を遮断したので、応援の大伴・物部・許勢(こぜ)の軍勢を差し向けている最中、継体の突然の崩御、死去原因は「辛亥の変」その後の皇位を継いだ欽明天皇によって磐井の乱は平定された。
反乱と朝鮮半島の内紛が継体天皇の政治基盤を不安定にし、国内的にも「辛亥(しんがい)の変(へん)」が起きたと思われる。

★継体(けいたい)天皇(てんのう)(450~531)男大迹(おおど)・平富等・袁本杼。応神天皇の五世の孫と伝える。皇后は仁賢天皇の皇女の手白髪皇女で欽(きん)明天皇(めいてんのう)を生んだ。
即位前から妃であった尾張連氏目子媛は、安閑天皇・宣化天皇を生んだ。
父の彦主人王は近江国高島郡三尾の別業に、垂仁天皇七世の孫、振媛を迎え妃とした。
継体の父が幼少の頃に死亡したので、振媛は郷里の越前で彼を養育した。武烈天皇が死去したことで皇統が絶えるため、大伴金村らにより迎えられた。
最初河内は樟葉宮で即位し、山背・弟国宮など経て、大和国の磐余(いわれの)玉穂(たまほ)宮に入ったのは即位して二十年後のことであった。
◆王朝交代説*日本史の中で度々論議の課題に載っている。戦前では万世一系を否定するものとして、公然と語ることが憚れた時代もあったが、誰が見ても継体天皇の継承は不自然な面は否めない。
継体天皇は全く血統の異なる異質の民族の征服による王権交代なのか、戦前の学者の津田左右吉氏の九州の国家の王の仁徳の系譜が畿内の王朝を征服して成立する大和朝廷の祖になった。当然それは邪馬台国九州説に発展させるものだった。
また戦後の水野氏の三王朝交代説は崇神天皇・仁徳天皇・継体天皇の三王朝は実在し、継体天皇は現天皇の末裔とする理論である。少なくともヤマトに君臨をした王朝は三王朝で血脈関係はあるかについては疑問視されている。
それぞれ王朝交代となれば大動乱、大事変となるので、もしそう言った事変があれば、もっと大きな記述が残されていても良いはず、『記紀』はこの大動乱をどう穏便に記述に留めるかについては、『記紀』編纂に苦慮したのではないか、また強烈な事変や動乱を机上の上だけに書き留めることが出来ものではない点も疑問が感じるものである。

※こう言った畿内以外からの天皇擁立と言った、特異な皇位を継承には大きな不安要素があった。皇位継承の正統性に20年も掛かり、王権移譲に力による移行が推測され、大和朝廷の根強い抵抗があったと思われる。
継体天皇の皇位継承にも波瀾が生じた。継体天皇は国内の反乱に、乗じて朝鮮半島の三国間の紛争に巻き込まれ、次期天皇の宣化・欽明朝の内紛にも翻弄されたようで、まだその詳細は解明されていない。