六、蘇(そ)我(が)一族(いちぞく)の盛衰(せいすい)
欽明天皇の時代から台頭してきたのが蘇我一族である。蘇(そ)我(が)伊奈(いな)米(め)・伊那米とも記す。高麗の子、『紀氏家牒』馬背の子とある。
宣化・欽明朝の大臣となって娘の堅塩媛(かたしおひめ)、小姉君の二女を欽明妃として送り込み、用明・崇峻・推古の外祖父となって、蘇我氏繁栄の基礎を作った。
王権の政策に参画、筑紫・吉備・備前・大和国の高市・紀伊国海部などの屯倉(みやけ)の設置に関わり、屯倉経営に手腕を発揮したと言われ、仏教の受け入れに深い理解を示したという。
蘇我氏の起源としては在地の勢力が成長した説、本拠については①大和国曾我②大和国の葛城南部、③河内国石川に分れる。①が有力で五世紀に渡来人した百済高官の木氏一族が大和国曾我に定着した説である。
系図にも武内宿祢と蘇我石河宿祢を始祖とするものである。雄略朝に朝廷の三蔵(倉庫の総称)役を蘇我満智が検校したと言う。
継体朝から進出の機会を掴み、その際渡来系の東漢(やまとあやし)氏(し)の諸氏の支持を得たらしい。先に滅んだ葛城氏の領有していた、葛城漢人らを集団支配に取り込んでいった。
その後久米氏・桜井氏ら南大和の諸氏を抑え込んでいった。六世紀半ばには蘇我稲目が宣化天皇擁立をもってその地位を築いた。
その後蘇我馬子が引き継ぎ、敏達朝には大臣に就き権勢を振るった。
★蘇我馬子(そがうまこ)(?~626)は稲目の子、六世紀から七世紀前半に執政官として活躍、572年に(敏達元年9に大臣に就任し、推古朝に没するまでその地位にいた。敏達朝には吉備に派遣、稲目同様屯倉に力を注いだ。その間に物部守屋大連とは対立を深めて行った。
敏達の死後、蘇我系の用明天皇の擁立に多くの群臣の支持を取り付け、物部守屋を圧倒していった。用明天皇が崩御するや物部の穴穂御子を擁立するのに対して、蘇我系の崇峻天皇の擁立を計った。その内崇峻天皇と対立、馬子は東漢直駒の命令し暗殺させ、推古を天皇として擁立をした。
推古朝を厩(うまや)戸(ど)皇子(みこ)(聖徳太子)と共同で国政に当り、内政・外交と聖徳太子の補佐役として参画した。厩戸皇子の死後は傲慢な強硬策に転じている。
★蘇我蝦夷(そがえみし)(?~645)は馬子の子、馬子の没後に大臣に就任した。自宅に群臣を招き、天皇家と同じような儀式を執り行い、独断専行は目立ち、群臣との意見の食い違いと、蘇我家内にも対立を生み聖徳太子の御子の山背王を指す叔父と対立したが、摩理勢を滅ぼし、田村の即位を強行した。皇極天皇の即位後は入鹿に後を譲った。
★蘇我入鹿(そがいるか)(?645)蝦夷の子、皇極天皇の頃から国政に参画、皇位を古人大兄に図り、その障害に成る山背大兄王を斑鳩宮に攻め滅ぼして、権力を掌握した。
急速な権力志向に群臣からも反発を受けたが、大化元年(645)の「乙巳の変」で中大兄の皇子と鎌足、従兄の蘇我石川麻呂らの立てた乙巳の変で暗殺された。
★物部氏*古代豪族・大伴氏と共に大連の職を占めた。天武帝時代に朝臣の姓を賜る。大連の職を歴任をした物部氏は軍事・警察の任務に起用され活躍をした。継体朝には筑紫の磐井の乱の征伐に活躍は有名、このほか伊勢の朝日郎(あさけのいらっこ)の征伐、その後多くの事件やその処分に関わった。
大和朝廷の領域・境界線の拡張に関係した諸集団の指導者とも考えられている。軍事豪族として大伴氏と共に警備・軍事を受け持った。その後崇仏派の蘇我氏と対立し、物部氏は廃仏で敗退していった。
※稲目より栄華栄誉を築き、蘇我一門の血脈を皇権に注ぎ込み、外祖父として朝廷を思いのままに蹂躙した蘇我本家は馬子の崇峻天皇の暗殺、入鹿の山背大兄王の暗殺と暴挙によって崩れ去った。だがその後の蘇我傍流は影響を残し続けるが、政変に粛清されて衰退していった。何時の時代にも氏族や政権の執権は、時代の趨勢に盛衰を重ねるのである。