goo blog サービス終了のお知らせ 

れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
☆は山川出版「詳細日本史研究」に対応しています。

平安中期 14章-3 「初期の平氏と源氏」★

2014-02-03 | 平安時代
(1)源氏の進出のながれ
①900~1000年頃、地方で武士がおこり、武士団を形成していく。
②10世紀、東日本では、桓武天皇系の平氏、清和天皇系の源氏が武士の棟梁として活躍する。
③1028年、平忠常の乱
④1051~1062年、前九年の乱
⑤1068~1087年、後三年の乱

(2)10世紀、地方の平氏と、中央の源氏
【東国の平氏】
930年頃、関東平野で、桓武天皇の血をひく平氏一族が武士団を形成し、
940年には、朝廷に反乱した「平将門」が討伐された。
平将門討伐後も、関東では、平氏一族が権力を維持していた。

桓武天皇----------------桓武平氏のゆえん
 ↓↓
高望王------------------平氏の祖、東国支配
 ↓
平国香 ・平良将 ・平良文
 ↓      ↓     ↓
平貞盛  平将門× 平忠常×
 ↓      
(平清盛へ)   

【都の源氏】
同時期、清和天皇の子、貞親親王の子が「源経基つねもと」 として降席臣下し、
源氏の武士団を形成していく。

平家が東国を拠点としたのに対し、源氏は中央で藤原摂関家に取り入って、
都の武士として、摂関家の保護の下で繁栄していった。

清和天皇---------------清和源氏のゆえん
  ↓↓ ↓
源経基(つねもと)-------939年[承平・天慶の乱]で密告で出世
  ↓
源満仲(みつなか)-------969年[安和の変]で密告して出世/摂津の多田を本拠地とする「多田源氏」の祖
  ↓
源頼信(よりのぶ)-----1028年~[平忠常の乱]を追討して出世/大阪河内を本拠地とする[河内源氏」の祖
  ↓
源頼義(よりよし)-----1051年~[前九年合戦]で出世
  ↓
源義家(よしいえ)-----1051[前九年合戦]を父の下で、1083年[後三年合戦]で出世
  ↓
源義親(よしちか)-----九州、中国で乱をおこし、平氏に追捕された

(拡大)



平安中期 14章-2 「平将門の乱と、藤原純友の乱」★

2014-02-02 | 平安時代
(1)承平、天慶の乱
940年ごろの、平将門の乱と、藤原純友の乱をまとめて[承平・天慶の乱]と言う。

中央で藤原摂関家の権力が強まり、荘園拡大の果てに地方政治は乱れ、
公地公民が崩壊していった。
乱れた地方では、地方豪族が「武士化」していく。
940年、武士化し力を巨大化させた地方豪族が、同時に二つの乱を起こした。

関東では、平将門の乱、瀬戸内では、藤原純友の乱
2つあわせて、承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱


(2)乱の時代背景
第60代「醍醐天皇」と摂関家は「藤原忠平」の頃、中央では「源平藤橘(げんぺいとうきつ) 」と呼ばれる
家の者しか出世できなくなり、それ以外の貴族達は朝廷での職に魅力を失っていった。

中央で権力争いをしている頃、朝廷は地方自治を各地の国司・受領に託した為、
国司は私利私欲に走り、豪族は巨大な荘園を拡大し、地方政治は乱れていく。
中央に戻らず地方に留まって、富を蓄えて地方豪族となる者が増え続けていった。


農民の多く荘園内に住み、自分の土地は自分で守る自衛の考えが普及していく。
第61代朱雀天皇の時代は、「公地公民」が音をたてて崩壊していった時代であった。

地方では、次第に争いごとが多くなっていく。
戦う農民 VS 盗賊化する農民
荘園主  VS 国司
武士団  VS 押領使・追捕使

そんな時代背景の中、元国司が武士団を力でまとめあげ、朝廷に従わない者が現れ出す。
関東平野では、桓武天皇の子孫の平将門。
瀬戸内では、元伊予国司の藤原純友である。

(2)平将門の乱
桓武天皇の血をひく祖父「高望王」が、関東の国司から、地元定着する。
935年、土地争いから、平将門は、叔父平国香、源護らと戦う
936年、源護の告訴によって、朝廷によばれる
937年、朱雀天皇即位による大赦で、関東に戻る / 富士山噴火
938年、承平から、天慶に元号が変更
   「興世王」と「藤原玄明」を国司からかくまい、国司と対立する
939年、関東各地の国府を襲撃し、国府印を奪う
940年、新皇を名乗り、朝廷軍に討伐される

【平将門の血統】
桓武天皇系の血をひく「高望王(たかもちおう)」は、平の姓を賜って臣下降籍し、
国司となった上総(千葉県)に任期後も住み着き、原野開墾し、富と武力を増しつつ、
子世代の時には、上総・常陸・下総・相模へと勢力拡大を続けていた。

(拡大)

孫の「平将門」は、少年時代(15才頃)は京に出て、当時の権力者「藤原忠平」に使えていたが、
滝口の武士でしかなく、しがない宮使えに見切りをつけて、
父「平良将」の跡を継いで、茨城県の本拠地「石井の館」に戻り、「伴類(ばんるい)」と
呼ばれる周辺の有力者や農民を支配しつつ、原野の開墾などで領地を広げていった。




【叔父との戦い】
935年、勢力拡大を続ける将門に対して、「平国香と源護(みなもとのまもる)」が
攻め入ったが、平将門が勝利する。
この後、叔父「平良正」とも戦い、勝利する。
(国香との戦いは、土地の奪い合い、将門の妻が良兼の娘である為などの理由が考察されている)


936年、叔父「平良正」「平良兼」と平国香の子「平貞盛」が結託して将門に戦いを挑むも
将門優位であった。


同年、「源護」が朝廷に出した告訴状により、将門は朝廷に召還され、検非違使庁で尋問を
うけるも、ちょうど937年の朱雀天皇即位の大赦にあたり、免罪されて関東に戻ってくる。
その後も、平良兼と将門は度々戦うも、将門有利な状態であった。

937年、富士山噴火
938年、京都に大地震など、天災や地方の乱が多く、それらを鎮めるために
元号を「天慶(てんぎょう)」と改めている。



【国司との戦い】
身内との戦いで勝利を収めた将門は、坂東(関東地方)ではすっかり名を轟かせた存在であった。
そんな時、武蔵国の郡司「武芝」が、国府の役人「興世王(おきよおう)」と「源経基」と
戦っていると聞き、仲裁を買って出た。
これを縁として、後に新国府とうまくいかなくなった「興世王」をかくまい、仲間にする。

同じ頃、常陸の国の「藤原玄明(はるあき)」が、国府から追われているのを、かくまう。
こうして、国府から追われる者2名をかくまった将門は、国府(朝廷)を敵に回すようになり、
939年、常陸国府と直接対決し、国司の館を焼き払ったうえ、国司の印を奪い、
つづいて下野国府、上野国府を攻めて、それぞれの国府印を奪う。


【新皇を名乗る将門】
この頃、八幡大菩薩を名乗る巫女が、平将門の前に現れ、将門に帝位を授けると神託を告げた。

これを[昌伎神託(かむなぎしんたく)」と言う。

将門は、自分を新しい天皇「新皇(しんのう)」と呼ぶようになり、坂東(関東のこと)を
朝廷より独立して支配しようとした。


将門は「除目」を行い、石井を本城として国司や大臣の任命を行い、
坂東8カ国の統治を目指す。最盛期には8千人といわれた平将門軍は「兵(つわもの)」
で構成されていた。
「兵つわもの」とは、かつて蝦夷討伐に派遣された軍事貴族の末裔であったと言われる。

【朝廷の反撃】
朱雀天皇の世になってから、東では平将門の乱、西では藤原純友の乱、噴火に大地震、天変地異
と世の乱れにとまどいつつも、摂政「藤原忠平」は討伐の兵を挙げた。


940年、修理大譜夫という職の、前年ようやく参議になった68歳の「藤原忠文」を征東大将軍に任命して、
関東に派遣するも、間に合わなかった。


【最後の戦い】
平将門最後の戦いは、朝廷軍が到着する前に動いた、
従兄弟で宿敵の「平貞盛」と押領使「藤原秀郷」の連合軍とであった。
初めは将門側が風上となり、矢が相手側によく飛んで有利な戦いであったが、
突然風向きがかわり、矢が将門の眉間に突き刺さったのが、最後であった。

将門が国府を焼き払ってから2ヶ月後、新皇を名乗って1ヶ月後の幕切れであった。

「源経基」は、「武芝」の段階で、平将門の乱を予言していたとして、昇進している。

さらし首にされた将門は、『将門純友東西軍記』によれば、首のない胴体が首を探し、
体のない首が体を捜して、夜な夜なさまよい歩き、地元の人々を悩ませた。とある。
しかし、怨霊の篭った将門の首もついには力尽きて地上に落ちた、という。
東京都千代田区大手町の「将門塚」は、将門の骸が眠るといわれている。


point
939年、「高望王」の子孫の、平将門の乱がおきる。
初めは平氏同士の領土争いから、国司と戦うようになり、
自分を新皇とよび、上総の猿島を中心に支配するが、
940年、「平貞盛」と「藤原秀郷」に討たれる。
『将門記(しょうもんき) 』に記載。

例題:坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、選べ。
『将門記』、『純友追討記』、『陸奥話記』、『保元物語』


(3)藤原純友の乱
藤原純友は、藤原冬嗣からの藤原北家の傍系の子孫であり、本人は伊予国(愛媛県)の
国司(じょう・三番位)であったが、任期満了後も伊予に留まり、瀬戸内海の海賊達を束ね、
「日振島」を拠点として、海賊の頭領として、西国から朝廷へ向かう税をのせた船を襲う
などして、急速に力を増していった。


935年、紀貫之が土佐国司から都へ戻り、『土佐日記』を書く
936年、朱雀天皇の摂政「藤原忠平」が「紀淑人(きのよしと)」を派遣して、
    取引をもちかけるも、純友はのらなかった。
940年、平将門が討伐された頃、純友は瀬戸内各地の国府を襲撃していた。
941年、「小野好古(おののよしふる)」と「源経基」を追捕使として派遣するが、
    純友は、朝廷の西の拠点である九州大宰府の宝物庫を襲撃し、焼き払っている。


【純友の最期】平将門の乱では、征東大将軍として派遣された「藤原忠文」は、戦いに間に合わなかったが、
藤原純友の乱で、再度「征西大将軍」として九州に派遣されている。
今度は、純友配下最大勢力の「藤原恒利(つねとし)」が、朝廷側に寝返っていた為、
博多湾の戦いでは、朝廷軍の圧倒的優位で、純友を討伐した。


山川出版 詳細日本史 P72
山川   詳細日本史図録P80
山川   詳細日本史研究P115

平安中期 14章-1 「地方の反乱と武士のおこり」★

2014-02-01 | 平安時代
10世紀の政治の変質の中で、地方と中央で、2つの武士勢力が生まれる。

(1)地方武士の成長
地方各地で成長した豪族や、任期を終えて地方に住み着いた国司の子孫、有力農民などが、
勢力拡大や国司に対向する為に武装し、弓を持ち、馬に乗って戦いを繰り返した。


国侍(くにざむらい)---------地方武士のこと。
              地方では、地方武士が国司に登録されて、
              国司の館の警護や、国司の命令で合戦に参加したり、
              国司が主催する狩りや、国司が祭る神社の神事である相撲に参加
              するなど、武士が国司に奉仕して雇用される形式が出来ていく。

②館侍(たちざむらい)---------受領の家子(同族)・郎党からなる、受領に雇用された受領直属の武士

兵(つわもの) -------------武装した地方豪族や、有力農民の総称

④追捕使・押領使-------------地方の反乱鎮圧や治安維持に、地方武士が任命された。


『今昔物語集』には、国司が「館の者ども、国の兵ども」を率いて戦った話が記載されている。


(2)朝廷と武士
中央(機内)の豪族が、朝廷の武官となり、貴族に軍事力として仕えるようになった。

朝廷は、まず機内の武装豪族を武官とし、兵(つわもの)や武士と呼んで、
朝廷や貴族の警護や武力として活用するようになる。

・宮廷警備、貴族の身辺警備、都や国の治安維持や警備の仕事をするもの、などがある。

滝口の武士----------宮廷の天皇警護
           9世紀末の宇多天皇の時に、朝廷の警備担当「蔵人所」の下部組織として、
           清涼殿(天皇)の内裏の警護にあたった下流武士。
           詰め所の近くに、滝があったので、滝口の武士とよばれた。
           「平将門」も滝口の武士であった。

北面の武士---------白河法皇が作った、院警護の武士。
           院の住む殿の北側に詰めていたので、北側の武士と呼ばれる。
           平氏がここに属する。

押領使(おうりょうし)----国内の治安維持部隊、警察的役割
                          内乱の際に、兵士を統率する。

追捕使(ついぶし)--------海賊、山賊、盗賊などの追捕、地方反乱の鎮圧

※覚え方
「たきにうたれて きたかしら」
 滝  宇多    北 白河

→滝口の武士は宇多天皇護衛、北面の武士は白河法皇護衛


1200年の西面の武士込みバージョン
「たきにうたれて きたかしら 負けてはことば にしにくいわ」
                後鳥羽 西 

→1200年頃、後鳥羽天皇が鎌倉幕府に対向して、西面の武士を結成するが、承久の乱で敗北する。



(3)成長する武士団

武士は、一族の結びつきを基とした武士の連合体である「武士団」を形成していく。
主人------中央貴族の血をひく者、総領や棟梁(とうりょう)と呼ばれる。
  ↓
家子(いえのこ)---------主人の同族の者
  ↓
郎党(ろうとう)---------家人(けにん)とも言う、血縁関係のない家来
  ↓
下人・所従-------------血縁関係のない、下っ端




・特に関東では、良馬を産したことから、武士団の成長が著しかった。
中でも早くに武士団を形成したのが、桓武天皇の子孫「桓武平氏」だった。
のちの939年に、[平将門の乱]がおきる。

・西日本では、元伊予国司の藤原純友が、瀬戸内海の海賊達をまとめて
[藤原純友の乱]を起こす。

これらの地方武士の反乱により、朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知った
朝廷や貴族は、武士を積極的に「侍」として雇用した。

そうして、地方武士、中央武士ともに巨大な力として成長していくこととなる。

山川出版 「詳細日本史研究」第3章P114~116
山川    詳日   第3章P72~74
山川    詳日図録 P80

平安中期 13章-7 「空也と源信」

2014-01-07 | 平安時代
(1)空也
醍醐天皇時代から続く、天変地異や、平将門の乱などが続く物騒な世の中で、
「空也」は奈良時代の行基のように、各地を歩き、庶民に仏法を説き、
感慨施設などの土木工事を手伝い、人々の信仰を集めていった。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、というわかりやすい仏法は、
庶民達に受け入れられ、常に市に立った空也を「市聖(いちのひじり)」と呼んだ。


比叡山延暦寺で戒を受け、963年に加茂川の川原で大般若経を供養し、万燈会を催した。
961年ごろ、京都に「西光寺(さいこうじ)」を建てて住み、ここで一生を終えている。

西光寺は、後に「六波羅密寺(ろくはらみつじ)」と呼ばれ、京都の東山のふもとにある。
この寺には、鎌倉時代に彫刻家「運慶」の弟子「康勝(こうしょう)」という人が、
『空也上人像』を作っている。
これは、空也の口から南無阿弥陀仏の5文字が小さな阿弥陀仏となって出ている姿である。



(2)源信
空也に続いて現れたのは、「源信げんしん」であった。
源信は「恵心僧都えしんそうず」とも呼ばれた、奈良県出身の人である。
比叡山で天台宗を勉強し、『往生要集おうじょうようしゅう』という書物を書いた。
この本は、この世で良い行いをした人が、極楽へ行けるという浄土教の教えを理論的に
まとめ、またなぜ南無阿弥陀仏を唱えるのか、なども書かれてあり、
後の仏教に大きな影響を与えた。
中国に送られて、中国でも愛読されたという。

混沌とした「末法」の世で、救いの道しるべとして、受け入れられていく。
藤原氏の鳳凰堂の極楽浄土信仰は、空也や源信がひろめた「浄土教」の影響を受けている。



(3)末法思想
末法思想とは、平安頃に流行った思想で、仏教の一つの考え方から出た予言的なものである。
この世は、ある時期から世が乱れ、救いのない悪国の時代が始まる、というものである。

釈迦が死んでから1000年間は正法として人々は幸福の時代、
次の1000年間は像法といい、まだ釈迦の力が残っていて、
この2000年が過ぎると、1万年は末法という、仏の救いのない時代になる思想。

実際、末法突入といわれた1052年頃から、地震噴火、天変地異、飢饉が起こり、
いよいよ現実のことと、信じられるようになり、人々は死後の極楽に思いを馳せる
ようになっていく。
文化、芸術面でも、来迎図など極楽浄土信仰の思想が見える。



平安中期 13章-6 「摂関時代終盤 69代後朱雀、70代後冷泉天皇」

2014-01-06 | 平安時代
(1)第69代 後朱雀天皇
藤原摂関家の外戚の縁を切った天皇

先帝で兄の「後一条天皇」と同じ、一条天皇と、藤原道長の娘「彰子」の第3皇子。

当初、「後一条天皇」の東宮は、三条天皇の子「敦明親王」であったが辞退、
道長によって、後一条の弟の「敦良親(のちの後朱雀天皇)」が立太子された。

子に恵まれなかった先帝「後一条天皇」と違って、後朱雀天皇は東宮時代から
子をもうけており、道長の6女「嬉子」との間に、のちの「後冷泉天皇」を、
三条天皇の娘「ネ貞子内親王」との間に、のちの「後三条天皇」をもうけていた。

しかし、藤原家の娘「嬉子」は、産後2日で死亡しており、
中宮の座についたのは、藤原家の娘でない「ネ貞子内親王」であった。
(ネ貞子内親王は、道長の孫に当たるが、これでは藤原家が外戚にはならない)


【藤原頼通の画策】
そこで、道長から関白職を受け継いでいた、長男「藤原頼通」や弟「藤原頼宗」が
娘や養女を、後朱雀天皇に入台させるも、ついに皇子は誕生することはなかった。
この、娘が皇子を生まない、ということが、藤原摂関家の崩壊を決定づけることとなる。


後朱雀天皇自身は、藤原摂関家の傀儡天皇であった。

(拡大)


(2)第70代 後冷泉天皇
藤原摂関家最後の天皇

先帝「後朱雀天皇」と、藤原道長の娘「嬉子」の子で、道長の外孫にあたる。
1045年に即位。

後冷泉天皇は、宮中で蹴鞠や歌合せなどの遊興の日々を送り、政治を執ることはなかった。
当時政治の実権を握っていたのは、道長の息子達で、
長男「藤原頼通」が関白・左大臣、
次男「藤原教通」が右大臣、
異母兄弟の「藤原頼宗」が補佐に当たっていた。

在位中、陸奥国で「前九年の役」が起こっている。

次に譲位した異母弟の「後三条天皇」が、藤原摂関家の権力を失墜させるため、
170年近く続いた藤原摂関時代、最後の天皇となった。





平安中期 13章-5 「道長時代の天皇達、67代三条・68代後一条天皇」

2014-01-05 | 平安時代
(1)第67代 三条天皇
【道長の圧力に屈した失明の天皇】

冷泉天皇と、藤原兼家の長女:超子の子で、冷泉天皇の第2皇子。
父は精神病、母は7歳で亡くなり、後ろ盾は薄弱であったが、外祖父:藤原兼家に容姿がそっくり
であったため、兼家の寵愛を受けて育った。

一条天皇は兼家の孫、であり、もう一人の孫である「居貞おきさだ親王=三条天皇」も東宮にしたい
兼家の後押しで、11歳で立太子する。
一条天皇より4歳年上であった為「さかさの儲けの君」と呼ばれていた。

1011年、一条天皇の崩御を受けて、36歳で即位。
すでに中宮も多くの皇子もいたが、道長は次女:妍子(けんし)を中宮にたてて、再度1帝2后とした。
しかし、妍子(けんし)が女児「禎子内親王」しか生まなかったこと、三条天皇が先の后を優遇したこと、
天皇親権を望んだことなどから、道長と対立した。

三条天皇が、仙丹(不老長寿の薬といわれるが、水銀などが入り人体に有毒といわれる)を飲んだ直後
に失明し、道長は、眼病を理由に、再三譲位を迫り、圧力に屈する形で譲位する。

三条天皇は、譲位の条件に息子の「敦明親王」を東宮にするよう約束したが、
道長に嫌がらせと圧力に屈して、東宮辞退した。


(2)第68代 後一条天皇
【藤原道長の絶頂期の天皇】

藤原兼家の絶頂期を支えた一条天皇と、道長の娘彰子の子で、道長の孫にあたる。

道長にとって、初の天皇外戚をもたらす男子の誕生に、狂喜乱舞したという。
その後一条天皇(敦成親王)を即位させるため、道長は三条天皇を天皇からひきずりおろした。

9歳で即位した後一条天皇は、摂政で祖父である道長に従うだけの、覇気のない傀儡であった。

道長の娘で、自身の叔母にあたる「威子」を中宮としたが、皇子をもらけないまま29才で病死した。



平安中期 13章-4 「摂関時代の天皇達、64代円融・65代花山・66代一条」

2014-01-04 | 平安時代
(1)第64代 円融天皇

【藤原摂関家に翻弄された天皇】
円融天皇は、第62代村上天皇の第5皇子で、第63代冷泉天皇と同じ母をもつ弟。
母は、藤原師輔の娘「安子」。

同母兄の「為平親王」が、源高明の縁者であることから、藤原摂関家は為平親王を遠ざけ、
円融が皇太子となった。その後[安和の変]で、源高明は失脚させられる。

冷泉天皇の寄行による退位で11歳で即位し、大叔父「藤原実頼」が摂政となる。
実頼亡き後、藤原師輔の長男「藤原伊尹」が摂関の跡を継いだ。
伊尹亡き後は、その弟の「兼通」その死後は弟の「兼家」が引き継いだ。

兼家とは折り合いが悪かったが、兼家の娘「詮子」との間にのみ皇子「懐仁親王=
のちの一条天皇」が生まれていた為、次第に権力は兼家に傾いていく。

円融時代は、徹底して藤原氏の摂関地位争いが続き、その争いに巻き込まれた形で、
花山天皇に譲位する。

(2)第65代 花山天皇

【藤原摂関家の策略で出家させられた天皇】
冷泉天皇と、藤原伊尹の娘の子で、外祖父藤原伊尹の力によって、生後10ヶ月で立太子、
17歳で即位し、19歳で退位している。

父、冷泉天皇の血のゆえか、花山天皇も乱心の振る舞いがあったと言われ、
その一方、優れた芸術の才能があったとも伝えられる。
後ろ立ての伊尹は、摂政1年で死亡している。

退位は、寵愛していた女御が懐妊中に亡くなり、失意に沈んでいる時に、
藤原兼家の次男:藤原道兼が、花山を騙して出家させ、兼家の孫である
「懐仁親王=のちの一条天皇」に強制譲位させた。
花山がこの策略に気付いた時は、あとの祭りであった。


(3)第66代 一条天皇

【藤原兼家の栄華と、平安宮廷文化を開花させた天皇】
64代円融天皇と藤原兼家の娘「詮子」の子で、円融天皇唯一の皇子である。

兼家が、外戚となる手がかりになる孫であり、兼家-兼道親子による花山天皇出家の策略で、
7歳で即位する。摂政は、当然外祖父の「藤原兼家」。

一条天皇の身辺は、栄華の絶頂を極めんとする藤原北家(兼家一族)で固められ、
父兼家の死後は、長男:道隆、次男:道兼、三男:道長が内覧の地位を継いでいる。

一条天皇には、はじめ藤原道隆の娘「定子」が中宮としていたが、
藤原兼家の娘「彰子」を後から中宮として入内させた。

定子には「清少納言」がつき、『枕草紙』を、
彰子には「紫式部」がつき、『源氏物語』を書き上げ、宮廷女流文化が花開いた。


















平安中期 13章-3 「藤原道長の栄華」☆

2014-01-03 | 平安時代
(1)藤原道長の家系

藤原摂関家の「藤原兼家」には、3人の息子と、2人の娘がいて、その末っ子が
道長であった。

(拡大)

(2)道長の子供達
967年、道長は、当時の左大臣「源雅信」の娘「倫子」と結婚する。
当時、まだ若く、身分が低かった道長との結婚を、源雅信は反対だった。
左大臣の娘といえば、天皇の女御にもなれる立場であったからだ。

道長と倫子は、4人の女子、2人の男子をもうける。

(拡大)

(3)道長の氏の長者への道

【氏の長者とは】
氏の長者とは、名門の家のトップで、官職、氏として所有する荘園、邸宅、
氏神(春日大社)、氏寺(興福寺)などを伝領、管理する権力を持つ。

【父の影響、スピード出世】
968年、道長が権中納言へスピード出世した。
これは、摂政である父「兼家」が息子達の身分を、露骨にひきあげたからで、
摂関家の子のスピード出世は、この頃から激化する。

【長男道隆の時代】
990年、父「兼家」没。
長男「道隆みちたか」が摂政を継ぎ、道隆は娘「定子」を一条天皇の中宮とし、
息子「伊周これちか」を20歳の若さで権大納言として、
弟「道長」より出世させて、長男道隆の一族で朝廷を固めようとした。

【次男道兼の7日関白】
995年、疫病(はしか)が空前の勢いで蔓延する中、長男「道隆」が糖尿病で死亡。
道隆の息子「伊周」が摂政を継ぐ気でいたが、国母である「東三条院詮子」が、
一条天皇に直談判し、兄弟で順に摂関職を継ぐよう交渉した結果、
次男「道兼」が摂政となった。

しかし、その次男「道兼」は、関白就任時には、すでに疫病感染しており、
関白就任後7日目に死んでしまった為、「7日関白」と揶揄された。


【三男道長の時代到来】
道兼の次の関白を、「伊周」は一条天皇の妻の兄という立場から狙っていたが、
ここでも、一条天皇の母、道長の姉である「詮子」の発言力で、
道長が次の関白の座を射止めた。
兄2人が病死したことで、三男だった道長に、摂関の地位が回ってきた。


(3)道長の栄華

【道長、内覧に就任】
995年、道長に『内覧』の宣旨がくだされた。
地位は摂関と同格であるが、政治的立場として、外戚になるまでは
内覧の方が都合がよかったものと考えられる。

【ラッキーな長徳の変】
その後、ライバルだった甥の「伊周」と「隆家」は女性関係で、
花山天皇に矢を射ったとして失脚し[長徳の変]、
道長の邪魔をする物は朝廷内に存在しない、唯一無二の権力者となる。

(4)長女彰子と一条天皇
999年、道長の長女「彰子」が一条天皇に入内することとなった。
一条天皇には、すでに兄「道隆」の娘「定子」を中宮として第一皇子もいたが、
道長は、「彰子」も中宮とし、一人の天皇に二人の中宮という異例の事態を作りだした。


その頃、定子は父を亡くし、兄は失脚し、後ろ盾がおらず弱い立場であった。
その定子を支えたのが、『枕草紙』で有名な清少納言であった。
だが、翌1000年、定子は僅か25歳で息をひきとり、彰子が実質的な中宮であった。


1005年、中宮「彰子」に紫式部が付き、『源氏物語』を著す。
また『紫式部日記』には、「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」と
書かれてある。光源氏のモデルは、道長であるという噂もある。

その後彰子は、二人の男子、敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)
を産んだ。道長は、孫皇子が生まれた時は狂喜乱舞であったという。
次期天皇の外戚として確固たる地位を固めていった。

彰子は、亡くなった定子の子「敦康親王」を我が子同然に育て、
立太子は我が子より先に第一皇子である敦康親王であることを願ったが、
父道長は、それを許さなかった。

(5)次女妍子と三条天皇
道長は、長女彰子のおかげで地位はあったが、これまで結びつきの薄かった、
当時の東宮(皇太子)「居貞親王=のちの三条天皇」との縁戚を持つため、
次女:妍子を嫁がせている。


三条天皇は、道長の姉「超子」の子であるので、甥である。
妍子は、道長の3人姉妹の中でも特に美人で、派手好きな女性だったと言われる。

だが、三条天皇にはすでに中宮と4人の息子もおり、
妍子も中宮とする1帝2后とたが、妍子が娘「禎子内親王」しか生まなかったので、
この縁戚は成功したといえない。
(この禎子内親王が、のちの院制を築く後三条天皇への続く)

1011年、一条天皇没、三条天皇即位。道長は内覧の立場を継続。

内覧であった道長は、天皇親政を希望する三条天皇と、深刻な対立が生じていった。
だが、宮廷内外のほとんどの者は、天皇よりも道長に従い、三条天皇は分が悪く、
しかも眼病を患ったことを理由に、幾度も道長に退位を迫られている。
追い打ちをかけるように、2度の内裏の火災が起こる。

1016年、三条天皇は苦渋の中で、譲位する。
道長は、ただちに孫で9歳の「後一条天皇」を即位させている。

(6)道長、摂政へ
1016年、道長は、三条天皇に強引に譲位させ、彰子の子で
まだ9歳の敦成親王を、「後一条天皇」として即位させ、ついに摂政になる。

だが翌年には摂政の地位を息子の「頼道」に譲り、自身は太政大臣として、
後一条天皇の弟の「敦良親王=のちの後朱雀天皇」を皇太子とした。

この年、道長が義父より譲り受けた屋敷、「土御門殿」が京都市内の大火により
焼失しているが、2年後には、以前にも勝る豪邸を築いている。
それには、頂点を極めた摂関家に取り入っておこうとする、国司や受領、
官僚達が、我先にと、国政や納税を怠ってでも、道長へ貢物や労力を贈った。
道長への貢物を積んだ牛車や人の列が、通りを埋め尽くしたとも言われている。


(7)三女、威子
道長は、太政大臣も2カ月で辞め、前太政大臣という自由な身分で、
1018年、長女彰子の子で、孫である「後一条天皇」に、三女威子を入内させた。
孫と娘の結婚である。

(拡大)

(8)この世をば 我がよと
1018年の威子入内の宴席で、道長は
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。

意味:この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 
満月のように 何も足りないものはない。

道長に唯一反抗できる立場にあった、小野宮実資は返歌を断り、その場にいた
皆で道長の歌を何度も複唱したが、実資はあまりの傲慢さに呆れかえっていた。

小野宮実資の『小右記』には、「一家に三后を立つ、未曽有なり」と記されている。

(10)道長の晩年
しかし、晩年の道長は、病に冒され、道長は末法思想と相まって、
阿弥陀信仰(浄土信仰)への傾向していく。

【金銅藤原道長経筒】
1007年に道長が奈良県吉野の金峯神社詣の際に、地中に埋めた、
厚手で大ぶりな円筒形経筒である。
経塚とは、この世に弥勒仏が出現するとされる遠い未来まで、
経典を保存するために経箱や経筒を埋めたもの。

【道長の出家】
1019年、道長は東大寺で出家し、阿弥陀堂(無量寿院、のちに法成寺と呼ぶ)を建立。
ここでも、国司や官僚達が、道長の為に力を惜しまずに働いた。

1022年、法成寺完成。後一条天皇、三后、東宮揃っての豪勢な会であった。

【道長没】
1027年、阿弥陀堂の中に屏風を張り巡らせ、その中に横たわり、
9体の仏の手から伸びた蓮の糸を握り、仏に見守られながら浄土に旅立つ形を
とった最期であった。62歳没。

(11)日記

御堂関白記-------998~1021年、道長の日記

②小右記(しょうゆうき)
978年~1032年の道長の時世を、冷静な目で書き残していたのは、
「藤原(小野宮)実資(さねすけ)」である。
実資は、藤原実頼という藤原北家直系として、傍系である師輔系の
道長の権力に屈することなく、筋を通した生き方をした人であった。

③権記(ごんき)-------藤原行成が972~1027年の日記

④西宮記(さいきゅうき)-------源高明

⑤北山抄(ほくざんしょう)-----藤原公任











































平安中期 13章-2 「藤原兼家の辛抱」

2014-01-02 | 平安時代
(1)藤原師輔の子供達

「藤原忠平」の死後、子の「藤原実頼」から、弟の「藤原師輔」へ
摂関家は移っていった。
師輔が実権を握ったのは、娘の入内、そして皇子の出産による
「外戚」の立場を得た事による。

(拡大)

藤原師輔には、1人の娘と、3人の息子がいた。
長男:伊○(これただ)
次男:兼通(かねみち)
三男:兼家(かねいえ)
長女:安子(村上天皇の皇后、冷泉帝、円融帝の母)


【長男:これただ】
父「藤原師輔」の死後、長男「藤原これただ」が摂政を継いだが、
972年にこれただ死亡し、次男:兼通と、三男:兼家で跡継ぎ争いとなった。

【次男:兼通】
次男:兼通より、三男:兼家の方が位が高く、兼家が有力視されていたが、
兼通は、姉で皇太后である「安子」より「年の順に摂関職に就くように」と
いう言葉を引きだしていた為、これを楯として、次男「兼通」が円融天皇の
摂政に就いた。


5年後、次男:兼通が病死し、いよいよ三男:兼家の番かと思った矢先、
死ぬ前に兼家が、従兄弟の「藤原頼忠」に摂関職を譲る宣言をしていた。
おまけに、兼通により、兼家は右大臣から治部卿へ大幅に官位を落とされ、
子供達の官職も剥奪された。
これより、10年、藤原兼家の辛抱の時代が続く。

【三男:兼家】
花山天皇の皇太子に、兼家の娘詮子が、円融天皇との間に産んだ
「懐仁親王」がたてられたところから、兼家の運が急上昇する。


(2)花山天皇の出家
藤原兼家一家による、花山天皇追い出しの策略

花山天皇が、寵愛していた女御の死に落胆していた時、兼家の次男「道兼」が
花山天皇をそそのかして、山科の元慶寺(花山寺)でこっそりと出家させた。



こうして、なかば強制的に花山天皇に譲位させ、
兼家の孫である「懐仁親王」が「一条天皇」として即位し、
藤原兼家は、10年の辛抱の末に、やっと摂政の地位を手にした。

これが、その後栄華を極める「藤原道長」の父である。




平安中期 13章-1 「63代冷泉天皇と、安和の変」

2014-01-01 | 平安時代
(1)第63代 冷泉天皇

62代村上天皇と、藤原師輔の娘「安子」の子。
村上天皇の第一皇子には、藤原菅根の孫「広平親王」がいたにも関わらず、
第二皇子の冷泉天皇が、生後2ヶ月で立太子されている。
また、数々の奇行から、即位に反対する者もいたが、押し切って即位した。
これは、当時の藤原一族の中でも、「藤原忠平一族」が際立って権力が強かったことを
示していると、考えられる。

【冷泉天皇の奇行】
皇太子時代より、精神に問題があるといわれていた。
・足が傷つくこともかまわず、一日中鞠を蹴っていた。
・父帝村上天皇の手紙に対して、男根の図を描いて送った。
・番小屋の屋根の上に、座り込んでいた。
・場をわきまえず、大声で歌う。

【摂政】
冷泉天皇自身が政治を執ることが出来ず、病気として、藤原忠平の子「藤原実頼」が
摂政として、政治の実権を握る。

関白・左大臣:藤原実頼
   右大臣:源高明

(2)安和の変
[安和の変]は、969年に起きた藤原氏による「源高明」をターゲットとする他氏排斥事件。

冷泉天皇の次期皇太子の候補は、冷泉天皇の弟である「為平親王」と
その下の弟「安平親王」の2人が候補にあった。

だが、年長者であり、次期皇太子の有力候補であった「為平親王」は、
その妻の父が右大臣「源高明」であり、為平親王が天皇になれば、
源高平が外戚となるため、藤原氏としては、源高平を失脚させる必要があった。

969年、源高明が冷泉天皇の謀反を計画している密告があり、源高明は流刑となった。
この事が、藤原北家の摂関常置のきっかけ、
藤原家による、国政の完全支配体制の完成であった。




「藤原実頼」と「藤原伊尹(ふじわらのこれただ)」がたくらんだ説が有力。