(1)承平、天慶の乱
940年ごろの、平将門の乱と、藤原純友の乱をまとめて[承平・天慶の乱]と言う。
中央で藤原摂関家の権力が強まり、荘園拡大の果てに地方政治は乱れ、
公地公民が崩壊していった。
乱れた地方では、地方豪族が「武士化」していく。
940年、武士化し力を巨大化させた地方豪族が、同時に二つの乱を起こした。
関東では、平将門の乱、瀬戸内では、藤原純友の乱
2つあわせて、承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱
(2)乱の時代背景
第60代「醍醐天皇」と摂関家は「藤原忠平」の頃、中央では「源平藤橘(げんぺいとうきつ) 」と呼ばれる
家の者しか出世できなくなり、それ以外の貴族達は朝廷での職に魅力を失っていった。
中央で権力争いをしている頃、朝廷は地方自治を各地の国司・受領に託した為、
国司は私利私欲に走り、豪族は巨大な荘園を拡大し、地方政治は乱れていく。
中央に戻らず地方に留まって、富を蓄えて地方豪族となる者が増え続けていった。

農民の多く荘園内に住み、自分の土地は自分で守る自衛の考えが普及していく。
第61代朱雀天皇の時代は、「公地公民」が音をたてて崩壊していった時代であった。
地方では、次第に争いごとが多くなっていく。
戦う農民 VS 盗賊化する農民
荘園主 VS 国司
武士団 VS 押領使・追捕使
そんな時代背景の中、元国司が武士団を力でまとめあげ、朝廷に従わない者が現れ出す。
関東平野では、桓武天皇の子孫の平将門。
瀬戸内では、元伊予国司の藤原純友である。
(2)平将門の乱
桓武天皇の血をひく祖父「高望王」が、関東の国司から、地元定着する。
935年、土地争いから、平将門は、叔父平国香、源護らと戦う
936年、源護の告訴によって、朝廷によばれる
937年、朱雀天皇即位による大赦で、関東に戻る / 富士山噴火
938年、承平から、天慶に元号が変更
「興世王」と「藤原玄明」を国司からかくまい、国司と対立する
939年、関東各地の国府を襲撃し、国府印を奪う
940年、新皇を名乗り、朝廷軍に討伐される
【平将門の血統】
桓武天皇系の血をひく「高望王(たかもちおう)」は、平の姓を賜って臣下降籍し、
国司となった上総(千葉県)に任期後も住み着き、原野開墾し、富と武力を増しつつ、
子世代の時には、上総・常陸・下総・相模へと勢力拡大を続けていた。

(拡大)
孫の「平将門」は、少年時代(15才頃)は京に出て、当時の権力者「藤原忠平」に使えていたが、
滝口の武士でしかなく、しがない宮使えに見切りをつけて、
父「平良将」の跡を継いで、茨城県の本拠地「石井の館」に戻り、「伴類(ばんるい)」と
呼ばれる周辺の有力者や農民を支配しつつ、原野の開墾などで領地を広げていった。


【叔父との戦い】
935年、勢力拡大を続ける将門に対して、「平国香と源護(みなもとのまもる)」が
攻め入ったが、平将門が勝利する。
この後、叔父「平良正」とも戦い、勝利する。
(国香との戦いは、土地の奪い合い、将門の妻が良兼の娘である為などの理由が考察されている)

936年、叔父「平良正」「平良兼」と平国香の子「平貞盛」が結託して将門に戦いを挑むも
将門優位であった。

同年、「源護」が朝廷に出した告訴状により、将門は朝廷に召還され、検非違使庁で尋問を
うけるも、ちょうど937年の朱雀天皇即位の大赦にあたり、免罪されて関東に戻ってくる。
その後も、平良兼と将門は度々戦うも、将門有利な状態であった。
937年、富士山噴火
938年、京都に大地震など、天災や地方の乱が多く、それらを鎮めるために
元号を「天慶(てんぎょう)」と改めている。

【国司との戦い】
身内との戦いで勝利を収めた将門は、坂東(関東地方)ではすっかり名を轟かせた存在であった。
そんな時、武蔵国の郡司「武芝」が、国府の役人「興世王(おきよおう)」と「源経基」と
戦っていると聞き、仲裁を買って出た。
これを縁として、後に新国府とうまくいかなくなった「興世王」をかくまい、仲間にする。
同じ頃、常陸の国の「藤原玄明(はるあき)」が、国府から追われているのを、かくまう。
こうして、国府から追われる者2名をかくまった将門は、国府(朝廷)を敵に回すようになり、
939年、常陸国府と直接対決し、国司の館を焼き払ったうえ、国司の印を奪い、
つづいて下野国府、上野国府を攻めて、それぞれの国府印を奪う。

【新皇を名乗る将門】
この頃、八幡大菩薩を名乗る巫女が、平将門の前に現れ、将門に帝位を授けると神託を告げた。

これを[昌伎神託(かむなぎしんたく)」と言う。
将門は、自分を新しい天皇「新皇(しんのう)」と呼ぶようになり、坂東(関東のこと)を
朝廷より独立して支配しようとした。

将門は「除目」を行い、石井を本城として国司や大臣の任命を行い、
坂東8カ国の統治を目指す。最盛期には8千人といわれた平将門軍は「兵(つわもの)」
で構成されていた。
「兵つわもの」とは、かつて蝦夷討伐に派遣された軍事貴族の末裔であったと言われる。
【朝廷の反撃】
朱雀天皇の世になってから、東では平将門の乱、西では藤原純友の乱、噴火に大地震、天変地異
と世の乱れにとまどいつつも、摂政「藤原忠平」は討伐の兵を挙げた。

940年、修理大譜夫という職の、前年ようやく参議になった68歳の「藤原忠文」を征東大将軍に任命して、
関東に派遣するも、間に合わなかった。

【最後の戦い】
平将門最後の戦いは、朝廷軍が到着する前に動いた、
従兄弟で宿敵の「平貞盛」と押領使「藤原秀郷」の連合軍とであった。
初めは将門側が風上となり、矢が相手側によく飛んで有利な戦いであったが、
突然風向きがかわり、矢が将門の眉間に突き刺さったのが、最後であった。

将門が国府を焼き払ってから2ヶ月後、新皇を名乗って1ヶ月後の幕切れであった。
「源経基」は、「武芝」の段階で、平将門の乱を予言していたとして、昇進している。
さらし首にされた将門は、『将門純友東西軍記』によれば、首のない胴体が首を探し、
体のない首が体を捜して、夜な夜なさまよい歩き、地元の人々を悩ませた。とある。
しかし、怨霊の篭った将門の首もついには力尽きて地上に落ちた、という。
東京都千代田区大手町の「将門塚」は、将門の骸が眠るといわれている。

point
939年、「高望王」の子孫の、平将門の乱がおきる。
初めは平氏同士の領土争いから、国司と戦うようになり、
自分を新皇とよび、上総の猿島を中心に支配するが、
940年、「平貞盛」と「藤原秀郷」に討たれる。
『将門記(しょうもんき) 』に記載。
例題:坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、選べ。
『将門記』、『純友追討記』、『陸奥話記』、『保元物語』
(3)藤原純友の乱
藤原純友は、藤原冬嗣からの藤原北家の傍系の子孫であり、本人は伊予国(愛媛県)の
国司(じょう・三番位)であったが、任期満了後も伊予に留まり、瀬戸内海の海賊達を束ね、
「日振島」を拠点として、海賊の頭領として、西国から朝廷へ向かう税をのせた船を襲う
などして、急速に力を増していった。

935年、紀貫之が土佐国司から都へ戻り、『土佐日記』を書く
936年、朱雀天皇の摂政「藤原忠平」が「紀淑人(きのよしと)」を派遣して、
取引をもちかけるも、純友はのらなかった。
940年、平将門が討伐された頃、純友は瀬戸内各地の国府を襲撃していた。
941年、「小野好古(おののよしふる)」と「源経基」を追捕使として派遣するが、
純友は、朝廷の西の拠点である九州大宰府の宝物庫を襲撃し、焼き払っている。

【純友の最期】平将門の乱では、征東大将軍として派遣された「藤原忠文」は、戦いに間に合わなかったが、
藤原純友の乱で、再度「征西大将軍」として九州に派遣されている。
今度は、純友配下最大勢力の「藤原恒利(つねとし)」が、朝廷側に寝返っていた為、
博多湾の戦いでは、朝廷軍の圧倒的優位で、純友を討伐した。
山川出版 詳細日本史 P72
山川 詳細日本史図録P80
山川 詳細日本史研究P115
940年ごろの、平将門の乱と、藤原純友の乱をまとめて[承平・天慶の乱]と言う。
中央で藤原摂関家の権力が強まり、荘園拡大の果てに地方政治は乱れ、
公地公民が崩壊していった。
乱れた地方では、地方豪族が「武士化」していく。
940年、武士化し力を巨大化させた地方豪族が、同時に二つの乱を起こした。
関東では、平将門の乱、瀬戸内では、藤原純友の乱
2つあわせて、承平(じょうへい)、天慶(てんぎょう)の乱
(2)乱の時代背景
第60代「醍醐天皇」と摂関家は「藤原忠平」の頃、中央では「源平藤橘(げんぺいとうきつ) 」と呼ばれる
家の者しか出世できなくなり、それ以外の貴族達は朝廷での職に魅力を失っていった。
中央で権力争いをしている頃、朝廷は地方自治を各地の国司・受領に託した為、
国司は私利私欲に走り、豪族は巨大な荘園を拡大し、地方政治は乱れていく。
中央に戻らず地方に留まって、富を蓄えて地方豪族となる者が増え続けていった。

農民の多く荘園内に住み、自分の土地は自分で守る自衛の考えが普及していく。
第61代朱雀天皇の時代は、「公地公民」が音をたてて崩壊していった時代であった。
地方では、次第に争いごとが多くなっていく。
戦う農民 VS 盗賊化する農民
荘園主 VS 国司
武士団 VS 押領使・追捕使
そんな時代背景の中、元国司が武士団を力でまとめあげ、朝廷に従わない者が現れ出す。
関東平野では、桓武天皇の子孫の平将門。
瀬戸内では、元伊予国司の藤原純友である。
(2)平将門の乱
桓武天皇の血をひく祖父「高望王」が、関東の国司から、地元定着する。
935年、土地争いから、平将門は、叔父平国香、源護らと戦う
936年、源護の告訴によって、朝廷によばれる
937年、朱雀天皇即位による大赦で、関東に戻る / 富士山噴火
938年、承平から、天慶に元号が変更
「興世王」と「藤原玄明」を国司からかくまい、国司と対立する
939年、関東各地の国府を襲撃し、国府印を奪う
940年、新皇を名乗り、朝廷軍に討伐される
【平将門の血統】
桓武天皇系の血をひく「高望王(たかもちおう)」は、平の姓を賜って臣下降籍し、
国司となった上総(千葉県)に任期後も住み着き、原野開墾し、富と武力を増しつつ、
子世代の時には、上総・常陸・下総・相模へと勢力拡大を続けていた。

(拡大)
孫の「平将門」は、少年時代(15才頃)は京に出て、当時の権力者「藤原忠平」に使えていたが、
滝口の武士でしかなく、しがない宮使えに見切りをつけて、
父「平良将」の跡を継いで、茨城県の本拠地「石井の館」に戻り、「伴類(ばんるい)」と
呼ばれる周辺の有力者や農民を支配しつつ、原野の開墾などで領地を広げていった。


【叔父との戦い】
935年、勢力拡大を続ける将門に対して、「平国香と源護(みなもとのまもる)」が
攻め入ったが、平将門が勝利する。
この後、叔父「平良正」とも戦い、勝利する。
(国香との戦いは、土地の奪い合い、将門の妻が良兼の娘である為などの理由が考察されている)

936年、叔父「平良正」「平良兼」と平国香の子「平貞盛」が結託して将門に戦いを挑むも
将門優位であった。

同年、「源護」が朝廷に出した告訴状により、将門は朝廷に召還され、検非違使庁で尋問を
うけるも、ちょうど937年の朱雀天皇即位の大赦にあたり、免罪されて関東に戻ってくる。
その後も、平良兼と将門は度々戦うも、将門有利な状態であった。
937年、富士山噴火
938年、京都に大地震など、天災や地方の乱が多く、それらを鎮めるために
元号を「天慶(てんぎょう)」と改めている。

【国司との戦い】
身内との戦いで勝利を収めた将門は、坂東(関東地方)ではすっかり名を轟かせた存在であった。
そんな時、武蔵国の郡司「武芝」が、国府の役人「興世王(おきよおう)」と「源経基」と
戦っていると聞き、仲裁を買って出た。
これを縁として、後に新国府とうまくいかなくなった「興世王」をかくまい、仲間にする。
同じ頃、常陸の国の「藤原玄明(はるあき)」が、国府から追われているのを、かくまう。
こうして、国府から追われる者2名をかくまった将門は、国府(朝廷)を敵に回すようになり、
939年、常陸国府と直接対決し、国司の館を焼き払ったうえ、国司の印を奪い、
つづいて下野国府、上野国府を攻めて、それぞれの国府印を奪う。

【新皇を名乗る将門】
この頃、八幡大菩薩を名乗る巫女が、平将門の前に現れ、将門に帝位を授けると神託を告げた。

これを[昌伎神託(かむなぎしんたく)」と言う。
将門は、自分を新しい天皇「新皇(しんのう)」と呼ぶようになり、坂東(関東のこと)を
朝廷より独立して支配しようとした。

将門は「除目」を行い、石井を本城として国司や大臣の任命を行い、
坂東8カ国の統治を目指す。最盛期には8千人といわれた平将門軍は「兵(つわもの)」
で構成されていた。
「兵つわもの」とは、かつて蝦夷討伐に派遣された軍事貴族の末裔であったと言われる。
【朝廷の反撃】
朱雀天皇の世になってから、東では平将門の乱、西では藤原純友の乱、噴火に大地震、天変地異
と世の乱れにとまどいつつも、摂政「藤原忠平」は討伐の兵を挙げた。

940年、修理大譜夫という職の、前年ようやく参議になった68歳の「藤原忠文」を征東大将軍に任命して、
関東に派遣するも、間に合わなかった。

【最後の戦い】
平将門最後の戦いは、朝廷軍が到着する前に動いた、
従兄弟で宿敵の「平貞盛」と押領使「藤原秀郷」の連合軍とであった。
初めは将門側が風上となり、矢が相手側によく飛んで有利な戦いであったが、
突然風向きがかわり、矢が将門の眉間に突き刺さったのが、最後であった。

将門が国府を焼き払ってから2ヶ月後、新皇を名乗って1ヶ月後の幕切れであった。
「源経基」は、「武芝」の段階で、平将門の乱を予言していたとして、昇進している。
さらし首にされた将門は、『将門純友東西軍記』によれば、首のない胴体が首を探し、
体のない首が体を捜して、夜な夜なさまよい歩き、地元の人々を悩ませた。とある。
しかし、怨霊の篭った将門の首もついには力尽きて地上に落ちた、という。
東京都千代田区大手町の「将門塚」は、将門の骸が眠るといわれている。

point
939年、「高望王」の子孫の、平将門の乱がおきる。
初めは平氏同士の領土争いから、国司と戦うようになり、
自分を新皇とよび、上総の猿島を中心に支配するが、
940年、「平貞盛」と「藤原秀郷」に討たれる。
『将門記(しょうもんき) 』に記載。
例題:坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、選べ。
『将門記』、『純友追討記』、『陸奥話記』、『保元物語』
(3)藤原純友の乱
藤原純友は、藤原冬嗣からの藤原北家の傍系の子孫であり、本人は伊予国(愛媛県)の
国司(じょう・三番位)であったが、任期満了後も伊予に留まり、瀬戸内海の海賊達を束ね、
「日振島」を拠点として、海賊の頭領として、西国から朝廷へ向かう税をのせた船を襲う
などして、急速に力を増していった。

935年、紀貫之が土佐国司から都へ戻り、『土佐日記』を書く
936年、朱雀天皇の摂政「藤原忠平」が「紀淑人(きのよしと)」を派遣して、
取引をもちかけるも、純友はのらなかった。
940年、平将門が討伐された頃、純友は瀬戸内各地の国府を襲撃していた。
941年、「小野好古(おののよしふる)」と「源経基」を追捕使として派遣するが、
純友は、朝廷の西の拠点である九州大宰府の宝物庫を襲撃し、焼き払っている。

【純友の最期】平将門の乱では、征東大将軍として派遣された「藤原忠文」は、戦いに間に合わなかったが、
藤原純友の乱で、再度「征西大将軍」として九州に派遣されている。
今度は、純友配下最大勢力の「藤原恒利(つねとし)」が、朝廷側に寝返っていた為、
博多湾の戦いでは、朝廷軍の圧倒的優位で、純友を討伐した。
山川出版 詳細日本史 P72
山川 詳細日本史図録P80
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