(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第四十四章 後のお祭り 十一

2011-11-22 20:34:12 | 新転地はお化け屋敷
「私達、今日で夫婦になったわけだけど、どうしよっか? お互いの呼び方」
 呼び方。つまり僕が栞さんを「栞さん」と呼び、栞さんが僕を「こうくん」もしくは「孝一くん」と呼んでいる、そのことについての話であるようです。
「ええと、どうしても変えて欲しいってわけじゃないって言ってましたけど……」
「うん。でも夫婦だったらもう、呼び捨てもアリなのかなあって。少なくとも年上とか年下とか、そういうこと気にする関係じゃあないわけだし」
「まあ、そうですよね」
 今現在僕が栞さんを栞さんと呼んでいるのは、栞さんのほうが年上だからというだけの理由ではなく、僕が栞さんを「そういうふうに見てそういうふうに慕っているから」です。……が、今栞さんが言ったことももっともだなあ、とも。
「前に少しだけ試した時は、結局元に戻っちゃったよね。呼び捨て」
「でしたねえ」
 それはなにも呼び捨てが嫌だったというわけではなく、今の呼び方のほうがしっくり来るから、とそれだけのことでした。なのでもし今、栞さんが「呼び捨てのほうがいい」ときっぱり望んでくれるなら、特に抵抗もなく僕はそれに応じるでしょう。
 けれど今回は、というか今回も、そういう話ではありません。栞さんから言い出したことであるにせよ、決定権は僕に譲られているのです。
「うーん……例えば、例えばですよ? 栞さん」
「なに?」
「もし僕が呼び捨てにするとしても、それは別に栞さんを見る目が変わったとかじゃなくて」
「あはは、それくらいは承知してるよ」
 言い切る前に笑い飛ばされてしまいました。どうやら、それほどまでに馬鹿馬鹿しい心配だったようです。
「こうくんからだってそうだし、それに私からだってそう。呼び方が変わったって、お互いのことをどんなふうに思ってるかはずっと変わらないよ。いま私がこんなこと言ってるのは、『結婚したから』って、ただそれだけのことだからね?」
 そこまで説明されて初めて、「何を言わせてるんだ僕は」なんて。
 そうして馬鹿馬鹿しい心配だったことを自認までしたところで、けれど僕は引き続きううむと唸ることになるのでした。
 繰り返しになりますが、栞さんは別に呼び方を変えてくれと強要しているわけではありません。こんなのはどうかな、と提案しているだけなのです。つまり呼び捨てと現状維持のどちらかが正しい選択だという話ではなく、問われているのは僕の意思のみなのです。
 その意思を暫くの間右へ左へふらつかせた僕ですが、けれどずっとそのままというわけでもなく、
「栞さん」
「うん」
 食事中の栞さん曰く「そんなに重要なことでもない」話についてかなり真面目に考えた結果、一つの答えを出すことができました。
「呼び捨てさせてもらっても宜しいでしょうか」
 どちらでも構わないというスタンスだった栞さん、しかし僕のその返事ににっこりと微笑んでみせるのでした。
「うん」
「ちなみにあの、そうする以上は二人でいる時だけってことじゃなくて、他の人の前でも」
「うん」
「……ではその、そういうことでお願いします」
「うん」
 うんと言う度、笑顔が濃くなる栞さん。今に至ってはなんというかもう、輝き始めんばかりに嬉しそうです。ううむ、どちらでも構わないというのが嘘だったとは思えないし、なんでこんなに嬉しそうなんでしょうか?
 しかしともかくそう決まった以上、今後はそうさせてもらいましょう。
「じゃあ次は私だね」
「ん?」
「こうくんのこと、なんて呼ぶか」
 ああ、そっちの話も含まれてたんですか。……じゃなくて、含まれてたのか。
「その前に、理由とかって訊かないの? なんで呼び捨てにしたか」
「なんとなく分かっちゃうからね。それとも、訊いて欲しかった?」
 それまでとは変わった口調に戸惑う様子はまるでないまま話を進める栞さん、じゃなくて栞でしたが、けれどその口調で話しかけた途端、引き続き嬉しそうにしながらこちらへもたれ掛かってきたのでした。
 拒む理由も放置する理由もないだろう、ということでその肩に手を回したりしながら、こちらも言い返します。
「訊いて欲しかったかなあ」
 正直そんなふうに言い返されるとはまるで思っていなく、なので少々ながら驚かされもしたのですが、そこはなんとなく平然を装っておきました。
 そんなふうに無駄な虚勢を張ったりするようだからずっと「栞さん」だったんだろうなあ、なんてことを考えたりもしましたが、もちろんながらそれは今後もずっとそのままです。「呼び方が変わったって、お互いのことをどんなふうに思ってるかはずっと変わらない」ですからね。
「なんで呼び捨てってことにしたの?」
 こういう流れからだと冗談っぽくなったりするのかなあと思いきや、投げ掛けられたのは違和感の生じる余地がないごく普通の疑問文。それはつまり「冗談っぽく訊かなかった」というただそれだけのことなのですが、しかし何やら僕は、返事の前に栞を抱き締めたくなってしまうのでした。我慢しましたけど。
 けれどその我慢の代わり、
「栞がさ」
 説明の最初に栞の名前を持ち出してみました。
「うん」
「栞が、大吾達の部屋で『キスしたい』って言ってきたのと同じような理由かな。さっきも話してたけど、僕と栞の関係とか普段の振舞いとかって、それ自体は多分殆ど変わらないだろうから、一つくらい結婚した証拠になるような変化が欲しかったっていうか」
 酔いが覚めたら全部夢だった、という杞憂から、キスという行動で結婚したことを示そうとした栞。それが真剣な不安にまでなるというのは、原因の一つとして「栞が幽霊だから」というものが挙げられるでしょう。
 ――が、では幽霊でない人はそんな荒唐無稽な不安を一切覚えないかと言われれば、そんなことはないわけです。
「情けないかもしれないけど、僕もちょっと不安になっちゃって」
 今が幸せの絶頂であることには、間違いがないというのに。
 自分が発した言葉に対してそんなふうに思ったところ、けれど栞はくすくすと笑いました。
「それくらい、誰だってそんなふうに思うことはあるんじゃないかな。だって、これだけ幸せなんだし」
 幸せなのに、ではなく、幸せだから。即座にそちらの論が正しいとまで言うつもりはありませんが、しかし少なくとも、栞が僕に思い付けなかった可能性を示してくれたことは事実です。
 そんなふうに思った僕は、ならばその瞬間栞にどんな想いを向けたか。それを表す明確な単語は思い付けませんでしたが、それがとても温かいものであることは、間違いありませんでした。
 けれど、そんな僕を見詰める栞はここで、少し苦笑い。
「まあその、でも私ほどっていうのは少数派だと思うっていうか、そうじゃないと大変なんだけどね。今はもうそんなことないけど、幸せだとそれが怖くて泣いちゃうっていう」
 僕達が付き合い始めて暫くの間……いや、それの発生に僕の存在は関係していないのですから、僕と付き合って暫く経つまで、という表現のほうが正確でしょう。
 栞は、幸せだと感じると泣きだしてしまう時期がありました。
 それが原因で僕と一緒にいて急に泣き出すことがちょくちょくありましたし、それが原因で交際の申し出を断られそうにもなりました。
「栞……」
 そう昔の話というわけでもありませんし、楽しい思い出というわけでもありません。けれど僕はなんだか無性にそれを懐かしく感じ、するとそれに合わせて愛しさまでもが一緒に込み上げてきて、名前を呼ばれてこちらをまじまじと見ている栞を今度こそ抱き締めました。
「あはは、辛かった頃の話を持ち出してこういうことになるって、ちょっと卑怯な気もするけどね」
「なんでもいいよ。僕は栞を愛してる」
「……うん」
 辛い思いをさせると分かったうえで強引に申し込んだ交際は今日、結婚という一つの節目を迎えることができた。
 ――そんな言葉をはっきり頭に思い描くと、嬉しくて嬉しくて堪りませんでした。
「『なんとなく分かる』って言ってたけど、想像通りだった? 呼び捨てにした理由」
「まあね。そりゃあ、真っ先に私の名前が出るような理由だったし」
 止め時が見付けられそうにない抱擁を、話を元に戻すことで強引に終了させます。ずっとそうしていても構わないと言えば構わないのですが、まだこの話は終わっていなかったりもするわけで。
「じゃあ、お待たせしました。次は栞の番ってことで」
「うん」
 僕が栞を栞と呼ぶことにした理由を話したなら、今度は栞が僕をどう呼ぶかという話。
「でもなんか、今みたいな展開の後だと申し訳ないような気もするんだけど、具体的に案があるわけじゃないんだよね。私も変えてみよっかなー、程度の話で」
「そう思わせることが申し訳ないような気もするけどね、こっちとしては」
 本来ならさっきのような、なんというかこう、言ってみれば大袈裟な展開になるような話ではなかったんでしょうし。もしかして栞、だから初めのうち理由を訊こうとしなかったんでしょうか?
 ともかく、「そっちに気にしてもらうようなことじゃないよ」という栞の言葉に続いて、話は元に戻ります。
「『こうくん』とか『孝一くん』とかって、正直どうなんだろうね? 結婚した相手への呼び方として」
 具体的に案があるわけじゃないと言っていた栞はしかし、話し初めから割と具体的な質問をしてくるのでした。
「うーん、そう言われればちょっと違和感があったりはするけど、でも言われなかったら気にならないレベルかなあ。今までそう呼ばれてたっていうのもあるし」
 他の人達はどうだろうか、ということで例を挙げるなら、その候補はいくつかあるわけです。このあまくに荘の中だけでも僕と栞を除いて家守さんと高次さん、大吾と成美さん、そして清さんと三組の既婚者がいるわけですし、もちろんあまくに荘の中だけに限るわけでもないですし。
 けれどそこで槍玉に挙がるのは、やはりというか何と言うか、自分の両親なのでした。もしもお母さんがお父さんをくん付けで呼んでいたりしたら――。
 うむ、それは変なのでしょう。間違いなく。
「じゃあそれに決めるかどうかはともかく、違和感がない呼び方って何があるかな」
「……『あなた』とか――いや、それはないか。ないね」
 うちの親もそうですが、特定の個人に限らず「夫婦」というものの基本形を思い浮かべるなら、殆どの場合はその呼び方なのでしょう。というわけで挙げてみた「あなた」案ですが、しかしどうにもこうにも僕と栞には似合わないような。
「そうかなあ?『あなた』、私は別にいいと思うけど」
「嫌ってわけじゃないんだけどね」
 なので、栞がそれを望むなら別にそれでもいいわけです。でもそういう決め方をするなら栞が僕に尋ねる必要がなくなってしまうわけで、ならばこうして相談を持ち掛けられている以上は、自分の意見も反映させておきたいなあと。強いて言えば、これがいいと思えるような案を見付けたいなあと。
「栞からも呼び捨てにしてみるとかは?」
「『孝一』って? うーん、私はそっちのほうがもやもやしちゃうかなあ」
 眉をひそめる栞。僕は結構いいと思ったんだけどなあ、ということで、どうやら珍しく意見が合わないようでした。
 となると、
「やっぱり現状維持が一番ってことになるのかなあ?」
「ちょっと肩透かし感があるけど、そうっぽいねえ」
 まだたった二つの案がやんわり否定されただけなのですが、しかし僕も栞も諦めムードを漂わせ始めます。元々積極的に変えようとしていたわけじゃない、というのが大きかったのでしょう。
「うーん、でもこうくんが『栞さん』から『栞』になったのに、私は何も変わらないっていうのはやっぱりなあ……」
 諦めムードを漂わせつつ、しかし栞、諦めきれない様子でもありました。
 僕が変わったのに自分は変わらない。具体案もないままこの話題を持ち出したのは、どうやらそれが気になってのことだったようです。
「あ、そうだ」
 なんてことを考えている間に、何やら思い付いたようです。
「逆はどうかな、こうくんの」
「逆? 僕の?」
「うん。こうくんがさん付けを止めたから、今度は私がさん付けするっていう」
「つまり……『孝一さん』ってこと?」
「うん」
 自分で口にした瞬間は正直、背筋に寒気が走りました。が、僕が自分で言った場合を問題にしているわけではなく、飽くまで栞が僕をそう呼ぶという話。ならばここはひとつ、
「取り敢えず、一回それで呼んでみて」
「孝一さん」
 …………。
 ……。
 いいかもしれない。
「あ、なんかだらしない顔になった」
「いやっ……! いや、まあ、いいかなあとは思ったけどね、正直」
 つい反射的に照れ隠しをしてしまいそうになりましたが、考えてみれば意味がないうえ馬鹿馬鹿しいので止めておきました。
「じゃあ今のにする?」
「いやちょっと待って。良かったけど、良かったからこそ、他にもっといいのがあるんじゃないかってふうにも思っちゃうんだけど」
「ふふ、欲張りさんだねえ」
 今のが欲張りと評されるようなことなのかは疑問でしたが、しかし栞がそう思うならそういうことでも結構です。ええ欲張らせて頂きますとも、呼び方一つでこんなにも一喜一憂させられる人が相手なんだから。
「良かったのは良かったんだけど、落差がちょっと大き過ぎるかなあとも思うかな。今の今までさん付けしてた相手から逆にさん付けされるようになるって」
「でもそれでさん付けを止めちゃったら、結局振り出しに戻っちゃうよ?」
「うむむ」
 その通り。今良かったと思ったその案は名前の下に「さん」を付けただけであって、それを却下してしまうと残るのは名前のみ。つまりは呼び捨てなのですが、それはさっき否定されたばかりなので、ならば結局何も残らないのです。
 さて、どうしたものか。
 さん付けそのものでなく今自分で口にした「落差」を問題とするのなら、それを和らげるような何かしらの工夫を加えてやればいいんだけど……。
「あっ」
「おっ」
 順序立てて考えたことが功を奏したか、ここで一つ閃きました。
「こうさん」
「こうさん?」
「名前じゃなくて、『こうくん』のほうをさん付けにしてみた」
 なんせ基にしているものが親しみ加減の極みであるところの愛称というものなので、全く無いとは言わないまでも、落差はかなり軽減されます。そこへ来て耳通りの良さは変わらないので僕としてはかなりいい具合なのですが、さてどうだ。
「こうさん。……おお、一年前に戻っちゃったね」
「一年前? こうさ――ああ、高三。いや分かり辛いよ栞、それは」
「あはは、そうだった? 負けを認めた時でもいいけど」
「降参、ね。まだそっちのほうが分かり易いけど、呼ばれる度に負けを意識するのはちょっと辛いかなあ」
「ごめんごめん、もちろん冗談だよ」
 軽く笑い、そして栞はふと落ち着いた表情に。
「孝さん。――これでいい?」
 若干ニュアンスが変わったような気がしましたが、しかしそれはむしろ、歓迎したくなるような変化なのでした。「気がした」という程度の変化なので、何がどう変わったのかも、それにどんな感想を持ったのかも、具体的には表現できそうにありませんでしたが。
「うん。僕はそれに決めた」
「ふふっ、じゃあ決定。宜しくね、孝さん」
 僕がそれに決めたから、という理由だけであるならば先に出た呼び捨て案だって通っていたわけで、しかしそうではなかった以上、栞もこの呼び方を気に入ってくれたということなのでしょう。
「別に改めて宜しくするほど何か変わったわけでもないけど、こっちからも宜しくね、栞」
 呼び方が変わっただけで、お互いがお互いへ向ける気持ちはこれまでと変わらない。そう話していましたしね、さっきも。
「……なんか、ちょっと気恥ずかしいかも」
「かもね」
 決まったばかりの新しい呼び方で呼び合ってみたところ、二人揃ってもぞもぞと。
 けれど栞、その直後にこちらへ悪戯っぽい笑顔を向け、そしてこんな行動に出ました。
「というわけで、強硬手段」
 初手から強硬手段っていうのは気が短過ぎないかなあとも思ったのですが、だからと言ってこちらの足の間に腰をずらしてくる栞を拒んだりはしない僕なのでした。
「いちゃいちゃしてれば恥ずかしさは気にならないってこと?」
「うん。でもあと、これもして欲しいかな」
 それもまた羞恥心を乗り越えるための行動なのか、それともいちゃいちゃすることの延長でしかないのかはともかく、栞は僕の手を取り、それをそのまま自分の胸の中央へ。
「今日一日、お疲れ様」
 手の行き先を確認したところ、自然とそんな言葉が出てきました。
「うん。……ふふ、やっと落ち着けた」
 口調は冗談ぽいものでしたが、しかし栞、そんなことを言いながらもう一方の手までも僕の手に重ねてきます。口調がどうであれ、それを見た時点でもう冗談だとは思えませんでした。
 ずっと待ち望んでいたのでしょう、この時間が来ることを。
「もうちょっと早くこうしてあげれば良かったかな」
「大丈夫。おかげさまで、もうそんなに切羽詰まるようなことはないから。――ふふ、むしろ待ってた分、余計にいい気持ちかも」
 栞はどんどん強くなっている。それが僕のおかげだとか、そういう話は有難く頂戴しておきつつ、しかし今は横に置いておくとして――だったら栞はそのうち、この時間自体を必要としなくなるんじゃないだろうか。
 もちろんそれは喜ばしいことだけど、でもちょっと寂しかったりもするような。
 そんなふうに思ってしまった僕はつい、栞を抱く力を強めてしまいました。
「孝さん?」
 強く抱くぐらいのこと、別に珍しいわけでもありません。しかし、そうなる前兆というか流れが無かったことに、ということなのでしょう。栞から怪訝そうな表情を向けられてしまうのでした。ならば僕は「あ、ごめん」などと謝りつつ、入ってしまった力を抜いていきます。
「どうかしたの?」
 尋ねられてしまいました。しまいました、なんて表現をするからには、それは僕にとって具合の宜しくない展開なわけです。
 栞が強くなることが寂しい、なんて、恥ずかしくて情けなくて格好悪くてとても言えたものではありませんでした。
「何を気にしてるのか分からないけど、こんなに優しくしてくれてる時くらい、何も遠慮してくれなくていいよ? 私、ちゃんと応えるから」
 こんなに、のところで傷跡の跡を抑えている僕の手をぽんぽんと叩く栞。そんなことをされてしまったら今度は気後れしていることが情けなく思えてくるわけで、結局僕は、今思ったことを栞に話してしまうのでした。
「そっか。孝さん、『寂しい』なんて思ってくれるんだ」
「ごめん」
「ふっふっふ、しかし孝さん、それは無駄な心配というものだね。私、寂しいなんて思う暇がないくらい甘えちゃうよ? 絶対に。だって、家族になれちゃったんだもん」
 栞、またしても冗談ぽい口調。
 けれど今度は表も裏も冗談らしく、そしてそういうことは何となく察せられてしまうようで、今の今まで申し訳ない気持ちでいっぱいだった僕は、ついつい笑ってしまうのでした。
「そっか」
「そうだよ、今だってこんなだし。それに孝さん、もし寂しいなんて思うことがあったとしても、そうなったら多分孝さんのほうから甘えてくるでしょ?」
「うーん、そりゃまあそうなるかなあ」
「そうなった時、私がそれに冷たくすると思う?」
「そっか。……はは、そりゃそうだよね。これはとんだ失礼を」
「お詫びはキス一回ってことで手を打とうかな」
 早速と言わんばかりに甘えたことを言われてしまいました。
 けれど僕は、それを真面目なお詫びの印として実行しておきました。ずっとそうだと思ってはいたわけですが、栞はやっぱり「栞さん」であり続けるようです。
 ――重ねた唇が離れ、栞とまじまじ見詰め合う形になったところ、なにやらくすっと笑われてしまいました。
「甘えただけのつもりだったのに、すっごい真面目な顔でキスされちゃった」
「あ、ごめん。つい」
「ううん、いいよ。私、孝さんのそういうところが好きなんだしね」
 呼び方が変わってもお互いへ向ける気持ちは変わらない。僕から栞についての実証がたった今されたばかりですが、どうやら栞から僕についても、同じことが起こったようでした。
 すると栞、僕の手を握る力をきゅっと強め、そして僕と同様の真面目な顔に。
「大好きだよ、孝さん」
 その言葉はそれこそ、甘えた状態のまま言ったほうが似合うものなのでしょう。けれど栞はそれを、僕に合わせた気持ちで発します。似合うとか似合わないとかではなく、ただ僕のことだけを想って、発してくれます。
「僕もだよ。大好きだ、栞」
 ここで甘えたままでいられない僕は、恐らく人より少々めんどくさい性格をしているのでしょう。けれど栞はそれに合わせてくれますし、何より僕のそんな性格を好意的に捉えてくれます。
 ただでさえ好きな女性にそんなことをされてしまったら、そりゃあ「好き」の頭に「大」を付けざるを得ないというものでしょう。「好き」を越えているわけですから。
 まあ、ちょっとくらいは恥ずかしかったりしないわけでもありませんけどね。
 あちらもそんなふうに思ったのか、それとも僕が照れを顔に出してしまったのか、はたまた単に甘ったるい言葉を伝え合ったからなのか、栞がくすっと笑ってみせます。
 が、その直後、そのくすっと笑った栞の口からこんな疑問が。
「ああでも、今だともう『好き』より『愛してる』のほうがいいのかな?」
「んー、どうなんだろうねそういうの。……いや、少し前までの気持ちが今はもう無いかって言われたら、そんなことないしなあ」
 好意と愛情が同じものであるなら栞の髪はもっと早くに伸び始めていた筈、なんてこともありますし、恋と愛は似てるようで別のもの、という話をした覚えもあります。ならば「好き」を全て「愛してる」に置き換えるのが正しいのかと言われれば、そういうことでもないのではないでしょうか。
「つまり孝さん、まだ私に恋をしてるってこと?」
「そういう言われ方をするとなんか認めたくないけど、まあ間違いはないんじゃないかな」
 それはそれで「呼び方が変わってもお互いへ向ける気持ちは変わらない」と同種の話ということになるんだろう。そう考えると、栞の質問は肯定せざるを得ませんでした。もちろん不服だとか、そういうわけじゃないんですけどね。
 その返事を訊き、すると栞、「へへ、そっかー」とまるで子どものあどけなさを思い起こさせるような喜び方を。
「えらい嬉しそうだけど、栞はそうじゃないってこと?」
「ううん、そっちもそうなんだって、そういう意味で嬉しかっただけ」
 …………。
 徹底的に甘えてきてるなあ、これは。今日はそうあるべき日なんだし、だったらそれでいいんだけど。


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