「いざいちゃいちゃしようってことになった時も、結局は今みたいにいつの間にかそういう話になっちゃってるし」
そんな風に言ってみる僕ではありましたがしかし、もちろんのことそこに批判的な意図を含ませてはいません。なんせそれで「いちゃいちゃできてる気がする」ってことなんですから、当然好きでそうしているわけですしね。
で、それくらいのことは栞だってそりゃあ分かっているのでしょうが、とはいえそれでも今みたいな言い方をされれば反論したくもなるようで、
「でもほら、一緒にお風呂入ってみたりもしたよね? この間なんか買ったばっかりの水着着ちゃったりしてさ。って、あはは、そっちは正直失敗だったけどさ」
とのことでした。確かにあれは失敗でした――じゃなくて、確かにああいうのは正しく「いちゃいちゃする」というものに分類される行動ではあるのでしょう。が、
「逆に言って、そこまでしないとただ単にいちゃいちゃだけはしてられないっていうか」
「だよねえ」
どうやら栞、分かっていてそう言ったようなのでした。本人がすっぱり失敗だったと断言している水着着用のパターンはともかくとして、一緒に入浴するというのは、なんというかこう、寸前の行いではあるわけです。何のとは言いませんけど。で、世の恋人達はいちゃいちゃするためと称して毎度毎度そんなことをしている、なんてことにはもちろんならないわけで、となればそれはやはり、僕達の不器用さを表してしまっているのでしょう。
ううむ。こんなところで意見が完全に一致するというのもどうかと思わなくもありませんが、如何なものでしょうか。
などと特に深刻なわけでもなくそんなふうに思っていたところ、「あとはこれかな」と栞。
「くっ付いたりしたらすぐに意識がこっちに向いちゃうもんね、私も孝さんも」
そう続けた栞の手は、いつものあの箇所に添えられていました。
「まあね」
で、意識がそっちに向くということは僕の手もそこに添えられることになるわけで、となれば必然、口にする言葉だってそれに即したものになってくるわけです。
それで今この場ではどうするのか、と数秒ほど栞の動きを伺ってみましたが、どうやらあちらから動く気はないようです。とはいえ何も思うところがないというわけでももちろんないようで、その目はあからさまにこちらへ期待を投げ掛けてもいますが。
「たまにはそういうのなしで、とかのほうがいい?」
「意地悪で言ってるよね? それ」
そりゃあもう、本気で言うわけないしねこんなこと。
というわけで、心なしか急いでいるように見えなくもないような速度で饅頭の残りを平らげた僕と栞は、結局その後いつもの通りにいつもの通りなことになったのですが、しかしせめてもの悪あがきというかなんと言うか、普段なら座椅子を持ってくるところ今回は、
「あー、時間を持て余してるって感じだねえ。昼間からここにいると」
「もうちょっと違うことを感じて欲しい場面ではあるんだけど……」
ベッドの上なのでした。ええ、そんなこと感じられちゃうんじゃあ悪足掻きにすらなってませんとも。
「大丈夫、照れ隠しだよ」
「今更照れるっていうのもそれはそれでどうなの?」
そりゃまあ形の上では胸を触られているということにもなるわけですが、形の上を気にする段階でもないでしょうに。
「いやあ、あはは、やっぱり想像しちゃってさ。これが私達じゃなかったらここからどうなるんだろうか、みたいな」
「ああ、まあさっきの話の後だとねえ」
それにしたって、とまでは言いますまい。実際にそういうことをしようとしているのならともかく、そうでないのなら空気をぶち壊しにしてしまうだけですし。
というわけで。
「改めて、今日はお疲れ様、栞」
「……ん」
栞が照れ隠しに言ったことと同様、これまた昼間には相応しくない台詞ではありますが、とはいっても今回はやはりそういうことになるのでしょう。今日ここに触れながら出すべき話題ということなら。
「もしまだ泣きたいとかだったら胸はいくらでも貸すよ?」
「それはもう大丈夫だってえ」
そう言って笑う栞は確かにもう大丈夫なのでしょう。しかしそうは言いながら、傷跡の跡に添えられた僕の手に自分の手を重ねてもくるのでした。例え大丈夫でもそれくらいは、ということなのでしょう。
「胸を貸してもらうとか慰めてもらうとかじゃなくて、対等なところで温かい気持ちを――なんて言うのかな、共有したいっていうか。あはは、手がこんな感じなんじゃあ、あんまり説得力ないかもだけど」
「んー、まあその辺は大丈夫なつもりだよ。説得力とか、栞のことを理解するのに今更そんなもの必要ないし」
少々恥ずかしい台詞を頂いたので、こちらからも恥ずかし返しを。いやまあ、当然何の意味もない行為ではあるんですけどね?
「だろうね」
で、普通に納得されてしまいました。余計に恥ずかしいのは気のせいではないのでしょう。
「運がいい、って言い方は変なのかもしれないけどさ」
「ん?」
「お母さんまであんなにいい人なんて凄いよね、日向さん家」
人との出会い方というのは様々なわけでして、それら全てを一括りに運によるものとするならそりゃあ変なのかもしれませんが、しかし今回に限ればそうでもないんじゃないでしょうか。お母さんがいい人そうだから関わりを持ったというわけではなく、僕との縁を通じてたまたま知り合ったらたまたまいい人だった、ということになるんですしね。
ということになるんですけど、
「息子はコメントし難いって、そういうの」
「あはは、そっか」
出会いが運によるものだったというのはともかく、実の母を素直に褒めるというのは、大なり小なり誰でも抵抗はあるんじゃないでしょうか? 実は僕だけ、なんてことになったらそれって結構ショッキングな事実ってことになっちゃいますけど。
「まあでも、こういう言い方ならできるかな」
「ん?」
「お母さんがいい人で通るんだったらお父さんもまず大丈夫」
「あー、捻くれてるねえ」
そう言わないでよ。これでも頑張った結果なんだから。
とは言ってもまあ、実のところお父さんについてはお母さんほど抵抗があるわけじゃないんですけどね。お母さんがさんざん嫌味ったらしく言っていた通り、家にいる間は寝転んでテレビを見てばかりの人なせいか。って、もしそうだとしたらちょっとあんまりな理由ですけど。
ともあれ。
「でもそんな捻くれ者の孝さんも、明日は素直になるって約束してくれたんだよねー」
お母さんの話をしている間にお母さんの精神性がうつってしまったのか、何やら意地悪なことを言い始める栞。取っている体勢の割に随分と挑戦的なことです。こっちはここからどうとでもできてしまうというのに。
いや、しませんけどね?
「栞はそのほうがいい?」
「うーん、そうだねえ。もしそうなったら惚れ直すくらいはするかも」
「随分だねそれ……」
というのはつまり、今の惚れっぷりが実はそれほどでもないということなのでしょうか? 親に対して素直でないとは言っても、それは別に仲が悪いというほどのことでもないわけですし。素直でないというのはつまり、裏に素直な気持ちがあるってことですしね。
「――あ、いやいや、今それほど好きじゃないって話じゃないよ? 大好きだよ?」
声色か顔色か、僕の考えを察したらしい栞は慌ててそう付け足してもくるのでした。これはこれでまた、この体勢でそういうこと言われちゃうと、というところですがどうしたもんでしょうかね。
「こんなことしてるくらいだし、そりゃあね」
言って、さっきからずっと触れている箇所をとんとんと軽くノックしてみました。ちょっとでも左右にずれると擬音がまた変わってくる、なんて話は横に置いておきまして、
「うん」
結果、少々照れ臭そうにしながら小さく頷く栞なのでした。
いろいろと挙がった候補の中ではかなり軽い方に分類される対応ではありましたが、ここはまあこれくらいで良しとしておきましょう。いやだって、ここで重い方のあれやこれやを持ち出しちゃったりしたら、それってなんだか本気で傷付いた反動でそうしたみたいじゃないですか。まさか、今の遣り取りだけでそんな。
「それにしても惚れ直すって、栞、本当に気に入ってくれてるよねうちの親のこと」
これまでにも何度かそう思わされたことはありましたが、僕への評価にまで絡んでくるほどとなると、それはもうよっぽどのことなのでしょう。なんせこれでも夫です、妻にとって重大な存在であるということくらいは自負している、というか自負できるくらいじゃないといけないわけですし。
というわけで改めてそんなことを言ってみたところ、すると栞、小さく笑ってからこんなふうに。
「それもあるけどね」
「ん? 他にも何かあるの?」
「内緒」
つまりは他にも何かあるようなのでした。
が、さっぱり見当が付きません。そしてさっぱり見当が付かないので、その内緒というのがいつまで内緒なのかも同様に。
「まあ会った回数とか考えたらお父さんじゃなくてお母さんなんだろうけど、なに? 女同士で意地の悪いこと企んでるとか?」
「あはは、こればっかりはそういうんじゃないよ。私が勝手に楽しみにしてるだけ」
「楽しみに?」
ますますさっぱりです。が、しかしその本当に楽しみそうな様子から、どうやら僕が冷や冷やさせられるような類いの話ではなさそうでした。なんせ傷跡の跡を触るにあたって後ろからすっぽり抱きかかえている今の状態なので、雰囲気とか空気とかいったものが、察するどころではなくもう直接伝わってくるというか。
「明日、いい結婚式になるといいね」
「そうだね」
どうしてここでその話が出てきたのかもまたさっぱりでしたが、中身がどうあれそうあって欲しいのは間違いないので、取り敢えず頷いてはおくのでした。
で、さっぱりなうえ秘密であるというならこちらからはもうどうしようもないので、ならばその結婚式、もとい結婚に関連する話に切り替えていこうと思うのですが、
「どうしよっか、指輪」
「え、それは――」
「婚約指輪の方ね、結婚指輪じゃなくて」
「ああ」
即座に眉をしかめた栞に対しては、こちらも即座に対応。だったら最初からそう言っておけという話ではあるんですけどね。
今日だけでも何度も話題になっている通り、結婚式は明日です。ならばそこで用いることになる結婚指輪を今日中に用意するというのは、さすがに無理があろうというもの。となればそれについてはもう四方院さんにお任せするしかないとして、一方で婚約指輪についてですが――。
プロポーズの際に渡すものであるというその性質上、期限が迫っているどころか期限を過ぎているわけです。が、だからこそもう開き直っちゃってるというか何と言うか。……ううむ、我ながら往復ビンタ食らっても文句言えないぞこれ。
「普通は相手に内緒で用意してサプライズ的に渡すものなんだろうけど、もうそんな感じでもなくなっちゃってるし」
「あはは、確かにね」
往復ビンタどころか機嫌を損ねる様子すら微塵も感じさせない栞なのでした。もちろん、それが分かっているからこそ今こういう話を持ち出したってことでもあるんですけどね。
「あ、でもさすがに費用は僕持ちってことにさせてね? 結婚指輪はまあ、ああいう話になったわけだけどさ」
「ふふ、頼っていいからってなんでかんでも頼ってくるんじゃあ、それってただの駄目亭主だしねえ」
駄目亭主。まだ実際に刺さってはいないとはいえ、耳が痛い言葉です。
とそれはともかく、結婚指輪の費用については栞にお願いすることになっている我が家のお財布事情なのでした。情けない、とはしかし、快くそれを引き受けてくれた栞の手前、そんなふうに言ったり思ったりはしないでおきましょう。
「で、ですね栞さん」
「何かなこうくん」
…………。
あ、そういうアレじゃなかったつもりなんですけどね? たまにそういうことしたりもしてますけど。ちょっと恋人時代に戻ってみよう的な。
恥ずかしいので話を進めましょう。
「結婚指輪はそりゃあ無理だとして、婚約指輪を当日中に、というのは栞さん的にはアリでしょうか?」
「え、今からってこと?」
「そちらが宜しいのであれば」
何故結婚指輪は無理で婚約指輪は可能だと思ったのか。別に後者を軽んじているというわけではないのですが――といってもあまり説得力はないのでしょうが――婚約指輪については渡すことにこそその重きを置いていて、それ自体の高価さは結婚指輪に比べれば、飽くまでも比べればという話ですが、そこまで重要ではないと思うのです。もちろんそれは、僕の個人的な意見ではありますし、そもそもその「渡す」という行為自体、時期も手段も逸脱してしまってはいるわけですけど。
暫くののち。
「ちょっと考えてみたけど」
「はい」
「大丈夫みたい。嬉しくなってる、私」
客観視し過ぎて他人事みたいな物言いになっている栞ではありましたが、しかしどうやらその言葉に嘘や誇張は含まれていないようでした。少し前の話に出てきたのと同様、そういうのが感じ取れるくらい密着しているわけですしね。この場合だとちょっと卑怯くさいですが。
「でも孝さん、嬉しいのは嬉しいんだけど」
「ん?」
「私、自分に合う指輪のサイズがまだ……」
当然出てくる問題ではありました。幽霊である以上、お店で測ってもらうというわけにもいかないんですしね。
しかしそれについては、
「栞、一個だけ確認したいんだけど」
「なに?」
「前に一貴さん達と指輪見に行った時、平岡さんと指のサイズが同じだって話になってたよね?」
栞的にはもしかしたら指輪を見に行ったことより水着を買ったほうがメインになってたりするのかもしれませんが、それはともかく。
一貴さんの最初の恋人であり、かつ現在お付き合いをしている諸見谷さんに続く二人目の恋人でもあるという複雑な立場にある平岡さん。そんな彼女は栞と同じく幽霊であり、なので栞と同じくその場で指輪のサイズを測るというわけにはいかなかったのですが、
「あれって本当に同じだった? 間違いなく?」
「う、うん。そりゃもう、指輪屋さんでの話だったんだからびっくりするくらいぴったりだったけど。でもなんで?」
「平岡さんのサイズは分かってるんだよ。九号だって」
「ええと……なんで?」
二度尋ね返してくる栞。もちろんこの時点で不思議に思われこそすれ不審に思われるような要素は何もなく、なので栞が浮かべているのはただただ疑問の色だけだったのですが、しかし僕はこれから、恐らくそれを崩してしまうであろう話をしなければなりません。黙ったまま、というわけにはいきませんしね、そりゃあ。
「一貴さんが教えてくれたんだよ。平岡さんが居眠りしてる間に内緒で測ってたんだってね」
「それって、いつの話?」
栞の顔が険しくなりました。となればそれはもちろん、僕が一貴さんからそれを教えてもらったのがいつなのかという話ではなく、一貴さんが平岡さんの指のサイズを測ったのがいつなのかという話なのでしょう。
僕だって不審に思い、だからその場で一貴さんに尋ねたのです。今の栞と同じことを。
「栞が思ってる通りだよ」
「そっか……」
それだけで伝わり、そして確認は必要ないのでした。
それは一貴さんと平岡さんが一度離ればなれになる前、つまり、平岡さんが亡くなる前の話だったのです。
「よかったね、またちゃんと付き合えることになって」
「そうだね」
次いで出てきた祝福の言葉はしかし、やはりどこか、躊躇いがちでもあるのでした。
とはいえあまり長々と気落ちしてばかりもいられません。今からしようとしていることをこんな気分のままで、というわけにはそりゃあいきませんし、それに何より、僕達が無闇にこんなふうでいるというのも、当の平岡さんからすれば失礼にあたるんでしょうしね。
――というわけでその「今からしようとしていること」、つまりは婚約指輪を買い求めに、以前も訪れた宝石店へまたやってきた僕達なわけですが。
「緊張してる?」
「恥ずかしながら」
「あはは、まあ仕方ないってやっぱり」
気休めではなく道連れにしかならないのでわざわざ指摘はしませんでしたが、栞も若干ながらその声色に緊張を含ませているのでした。
下見に訪れたことがあっても、やることがただの買い物であっても、あとついでに高価なものは初めから諦めているにしても、それでもやっぱり普段そうそうには用がない種類の店舗です。自意識過剰は百も承知ですが、なんというかこう、とてつもない場違い感に苛まれてしまいます。
「一人で来るのと二人で来るの、どっちが多いんだろうなあ」
落ち付かなさからついついそんなどうでもいいことが気になってしまいますが、それに対しては「そこはそんなに偏ってもないんじゃないの?」と栞。
「単なる自分用のアクセサリーとして買いに来る人もいるだろうし、それにほら、内緒で買って驚かせるってことは当然買う時も一人なんだし。婚約指輪」
「そっか……」
さらっと例として挙げてくる辺り、内緒で買わないし驚かせもしないということについては、本当にどうとも思っていないらしい栞なのでした。もう一つの例については、もう、そんなことができる人と自分との経済的格差が泣けてくるのであまり考えないようにします。
「そもそも私達、本当は二人なのに他の人からは孝さん一人だけに見えてるわけだしね。だったらもう、他の人がどうかなんて気にしても意味ないんじゃない?」
「それもそうか」
少々強引な気もしますが、しかしそれで押し切れるなら押し切っておくべき場面でしょう。いやはや、頼りになるお嫁さんです。
「なんだったらいっそ、他の人から見えないのをいいことにキスでもしてあげようか?」
「それはノーサンキューでお願いします」
頼りになり過ぎるのも困りものです。見えないからって平然と出来ることでもないでしょうに。
……あと、なんせこのタイミングですから、どうせするなら買った指輪を渡してからの方が、というのもなくはないんですけどね。
「ふふっ。――よし、じゃあ早速どれ買うか決めにかかっちゃおうか」
「早速っていうほど素早くもなかったけどね、ここに着いてから。僕のせいだけど」
「そういう孝さんも可愛くて好きだけどね私」
褒められているのは間違いないのにどういうわけだかあまり嬉しくない。今日はなんだか、こういうのが多いような気がします。
ともあれ指輪選びが開始されるわけですが、
「こういう場合ってどうなんだろうね? 私の好みと孝さんの好み、どっちが優先されるのか」
「どっちってそりゃあ、栞が着けるものなんだから栞の好みじゃないの?」
何をそんな当たり前のことを、とこの時点ではそう思っていたのですが、
「そう? 成美ちゃんのネックレスみたいなのも素敵だと思うんだけどなあ、私。あれだって指輪じゃないけど婚約指輪の代わりなんだし」
「…………」
言われてみればそうなのでした。あれは大吾の――僕も多少意見を求められたりはしましたけど――好みであって、成美さんの好みではありませんでした。なんたって成美さんですから、好みも何も装飾品というもの自体をよく把握していなかったことでしょうしね。
成美さんにはこれが似合うだろう、という理由で選んだにしても結局はそれだって大吾の意見であって、成美さんの好みということにはやはりならないわけです。
「単なるアクセサリーならともかく、婚約指輪ってことなら相手ありきで、しかも一生ものでしょ? だったら自分じゃなくて、その相手の好みに合わせたものっていうのも変じゃないと思うけどなあ。なんていうか、その指輪の中にいるのが誰かって言ったら、自分じゃなくてその結婚する相手なんだし」
なかなか熱く語ってくる栞。そして、その熱さに押し切られたというわけではなしに、その意見は充分納得に足るものなのでした。
「分かった。じゃあそのつもりで見てみるよ」
「うん、すぱっと理解してもらえると気持ちいいね」
今の流れで機嫌を良くしてくれる人っていうのも中々珍しいんじゃないかなあ、とは思うけどね。そしてもう一つ、選び方がどうあれ予算の関係で選択肢はそんなに広くないんだけどね。…………いや、それに対する感想は伏せさせて頂きますけど。
――ともあれ、一通り見て回ったところ。
「派手派手しいのじゃなくても、割と細かい作りが違ってるものなんだね」
「まあ、別の商品として並べてる以上はねえ」
「派手派手しい」という形容はこの場合ほぼ「高価な」に等しいわけですが、こちらから何を言うまでもなく、そこらへんをぼやかしつつ購入対象から除外してくれている栞なのでした。指輪のこととは関係無しに抱き締めたくなるところではありましたが、それはまあ実際そうするにしても家に帰った後に取っておくことにしまして。
細かい作り、というからには、顔を近付けて見比べないと分からない程度のものなんかもあるわけです。なんの飾り付けもなく、ただちょっとリングに捻りが加えられているだけのものだとか。
「さてさて、孝さんはどんなものを選んでくれるのかなあ?」
「そう言われると緊張するなあ。言われたくたってそう思われてるのは分かってるんだけど」
ついでに付け加えるのなら、どんなものを選ぼうがそれを選んだのが僕でさえあれば栞は喜んでくれるということが分かっていても、です。まあだからといって適当に選ぶわけではもちろんないので、緊張するくらいの方が丁度いいのかもしれませんけど。
で、それはともかくどういったものを選ぶかなのですが。
装飾があるもののほうがいい、と一概にそう言い切れもしないのが難しいところです。そうでなければ使用可能金額いっぱいな中で最も派手な物を選べばいいだけなのですが、シンプルなものもそれはそれで、というか。
というのも、それを指に嵌めることになる栞です。僕が言うのもなんですが栞には洒落っ気というものがなく――とはいえそれは性格によるものではなく、通常触れるべき時期に触れられなかったからなのでしょうが――なので、指輪だけそこから逸脱してしまうと、それこそ「派手派手しい」感じになってしまうわけです。そこばかり目立ってしまう、というか。
栞がさっき言っていたように婚約指輪なんて一生ものであるわけで、ならば今後その洒落っ気を持ち始める可能性を考慮してみるのもいいのかもしれませんが、しかし……。
「うーん」
「難しい?」
商品棚と僕の間に、ひょいと顔を覗き込ませてくる栞。なんともタイミングのいいことですが、そう、栞はこういう人なのです。どこか子どもっぽいところがあるというか。いやもちろん悪い意味ではなく、むしろ褒め言葉として、ですけど。
ならば果たしてそういう人に似合う指輪というのはどういうものか、というのも結局のところは人それぞれ考え方があるのでしょうが、しかしここで参照すべきは他の誰でもなく僕の考え方なのであって――。
「これ」
僕が指し示したのは、飾り付けがなく、それどころかちょっとした捻りすら加えられていない、ただただ指輪として最低限の形を取っているだけのものなのでした。
それでも商品の中で一番安いというわけでもないのが僕にはよく分かりませんでしたが、そこは今頓着すべきところではありません。例え安いどころか値が張るものだったとしても、予算内に収まってさえいれば僕はこれを選んでいたことでしょうしね。
「どう、かな」
指輪を見、そしてこちらを向き直った栞は、嬉しそうに頬を緩めてくれたのでした。
そんな風に言ってみる僕ではありましたがしかし、もちろんのことそこに批判的な意図を含ませてはいません。なんせそれで「いちゃいちゃできてる気がする」ってことなんですから、当然好きでそうしているわけですしね。
で、それくらいのことは栞だってそりゃあ分かっているのでしょうが、とはいえそれでも今みたいな言い方をされれば反論したくもなるようで、
「でもほら、一緒にお風呂入ってみたりもしたよね? この間なんか買ったばっかりの水着着ちゃったりしてさ。って、あはは、そっちは正直失敗だったけどさ」
とのことでした。確かにあれは失敗でした――じゃなくて、確かにああいうのは正しく「いちゃいちゃする」というものに分類される行動ではあるのでしょう。が、
「逆に言って、そこまでしないとただ単にいちゃいちゃだけはしてられないっていうか」
「だよねえ」
どうやら栞、分かっていてそう言ったようなのでした。本人がすっぱり失敗だったと断言している水着着用のパターンはともかくとして、一緒に入浴するというのは、なんというかこう、寸前の行いではあるわけです。何のとは言いませんけど。で、世の恋人達はいちゃいちゃするためと称して毎度毎度そんなことをしている、なんてことにはもちろんならないわけで、となればそれはやはり、僕達の不器用さを表してしまっているのでしょう。
ううむ。こんなところで意見が完全に一致するというのもどうかと思わなくもありませんが、如何なものでしょうか。
などと特に深刻なわけでもなくそんなふうに思っていたところ、「あとはこれかな」と栞。
「くっ付いたりしたらすぐに意識がこっちに向いちゃうもんね、私も孝さんも」
そう続けた栞の手は、いつものあの箇所に添えられていました。
「まあね」
で、意識がそっちに向くということは僕の手もそこに添えられることになるわけで、となれば必然、口にする言葉だってそれに即したものになってくるわけです。
それで今この場ではどうするのか、と数秒ほど栞の動きを伺ってみましたが、どうやらあちらから動く気はないようです。とはいえ何も思うところがないというわけでももちろんないようで、その目はあからさまにこちらへ期待を投げ掛けてもいますが。
「たまにはそういうのなしで、とかのほうがいい?」
「意地悪で言ってるよね? それ」
そりゃあもう、本気で言うわけないしねこんなこと。
というわけで、心なしか急いでいるように見えなくもないような速度で饅頭の残りを平らげた僕と栞は、結局その後いつもの通りにいつもの通りなことになったのですが、しかしせめてもの悪あがきというかなんと言うか、普段なら座椅子を持ってくるところ今回は、
「あー、時間を持て余してるって感じだねえ。昼間からここにいると」
「もうちょっと違うことを感じて欲しい場面ではあるんだけど……」
ベッドの上なのでした。ええ、そんなこと感じられちゃうんじゃあ悪足掻きにすらなってませんとも。
「大丈夫、照れ隠しだよ」
「今更照れるっていうのもそれはそれでどうなの?」
そりゃまあ形の上では胸を触られているということにもなるわけですが、形の上を気にする段階でもないでしょうに。
「いやあ、あはは、やっぱり想像しちゃってさ。これが私達じゃなかったらここからどうなるんだろうか、みたいな」
「ああ、まあさっきの話の後だとねえ」
それにしたって、とまでは言いますまい。実際にそういうことをしようとしているのならともかく、そうでないのなら空気をぶち壊しにしてしまうだけですし。
というわけで。
「改めて、今日はお疲れ様、栞」
「……ん」
栞が照れ隠しに言ったことと同様、これまた昼間には相応しくない台詞ではありますが、とはいっても今回はやはりそういうことになるのでしょう。今日ここに触れながら出すべき話題ということなら。
「もしまだ泣きたいとかだったら胸はいくらでも貸すよ?」
「それはもう大丈夫だってえ」
そう言って笑う栞は確かにもう大丈夫なのでしょう。しかしそうは言いながら、傷跡の跡に添えられた僕の手に自分の手を重ねてもくるのでした。例え大丈夫でもそれくらいは、ということなのでしょう。
「胸を貸してもらうとか慰めてもらうとかじゃなくて、対等なところで温かい気持ちを――なんて言うのかな、共有したいっていうか。あはは、手がこんな感じなんじゃあ、あんまり説得力ないかもだけど」
「んー、まあその辺は大丈夫なつもりだよ。説得力とか、栞のことを理解するのに今更そんなもの必要ないし」
少々恥ずかしい台詞を頂いたので、こちらからも恥ずかし返しを。いやまあ、当然何の意味もない行為ではあるんですけどね?
「だろうね」
で、普通に納得されてしまいました。余計に恥ずかしいのは気のせいではないのでしょう。
「運がいい、って言い方は変なのかもしれないけどさ」
「ん?」
「お母さんまであんなにいい人なんて凄いよね、日向さん家」
人との出会い方というのは様々なわけでして、それら全てを一括りに運によるものとするならそりゃあ変なのかもしれませんが、しかし今回に限ればそうでもないんじゃないでしょうか。お母さんがいい人そうだから関わりを持ったというわけではなく、僕との縁を通じてたまたま知り合ったらたまたまいい人だった、ということになるんですしね。
ということになるんですけど、
「息子はコメントし難いって、そういうの」
「あはは、そっか」
出会いが運によるものだったというのはともかく、実の母を素直に褒めるというのは、大なり小なり誰でも抵抗はあるんじゃないでしょうか? 実は僕だけ、なんてことになったらそれって結構ショッキングな事実ってことになっちゃいますけど。
「まあでも、こういう言い方ならできるかな」
「ん?」
「お母さんがいい人で通るんだったらお父さんもまず大丈夫」
「あー、捻くれてるねえ」
そう言わないでよ。これでも頑張った結果なんだから。
とは言ってもまあ、実のところお父さんについてはお母さんほど抵抗があるわけじゃないんですけどね。お母さんがさんざん嫌味ったらしく言っていた通り、家にいる間は寝転んでテレビを見てばかりの人なせいか。って、もしそうだとしたらちょっとあんまりな理由ですけど。
ともあれ。
「でもそんな捻くれ者の孝さんも、明日は素直になるって約束してくれたんだよねー」
お母さんの話をしている間にお母さんの精神性がうつってしまったのか、何やら意地悪なことを言い始める栞。取っている体勢の割に随分と挑戦的なことです。こっちはここからどうとでもできてしまうというのに。
いや、しませんけどね?
「栞はそのほうがいい?」
「うーん、そうだねえ。もしそうなったら惚れ直すくらいはするかも」
「随分だねそれ……」
というのはつまり、今の惚れっぷりが実はそれほどでもないということなのでしょうか? 親に対して素直でないとは言っても、それは別に仲が悪いというほどのことでもないわけですし。素直でないというのはつまり、裏に素直な気持ちがあるってことですしね。
「――あ、いやいや、今それほど好きじゃないって話じゃないよ? 大好きだよ?」
声色か顔色か、僕の考えを察したらしい栞は慌ててそう付け足してもくるのでした。これはこれでまた、この体勢でそういうこと言われちゃうと、というところですがどうしたもんでしょうかね。
「こんなことしてるくらいだし、そりゃあね」
言って、さっきからずっと触れている箇所をとんとんと軽くノックしてみました。ちょっとでも左右にずれると擬音がまた変わってくる、なんて話は横に置いておきまして、
「うん」
結果、少々照れ臭そうにしながら小さく頷く栞なのでした。
いろいろと挙がった候補の中ではかなり軽い方に分類される対応ではありましたが、ここはまあこれくらいで良しとしておきましょう。いやだって、ここで重い方のあれやこれやを持ち出しちゃったりしたら、それってなんだか本気で傷付いた反動でそうしたみたいじゃないですか。まさか、今の遣り取りだけでそんな。
「それにしても惚れ直すって、栞、本当に気に入ってくれてるよねうちの親のこと」
これまでにも何度かそう思わされたことはありましたが、僕への評価にまで絡んでくるほどとなると、それはもうよっぽどのことなのでしょう。なんせこれでも夫です、妻にとって重大な存在であるということくらいは自負している、というか自負できるくらいじゃないといけないわけですし。
というわけで改めてそんなことを言ってみたところ、すると栞、小さく笑ってからこんなふうに。
「それもあるけどね」
「ん? 他にも何かあるの?」
「内緒」
つまりは他にも何かあるようなのでした。
が、さっぱり見当が付きません。そしてさっぱり見当が付かないので、その内緒というのがいつまで内緒なのかも同様に。
「まあ会った回数とか考えたらお父さんじゃなくてお母さんなんだろうけど、なに? 女同士で意地の悪いこと企んでるとか?」
「あはは、こればっかりはそういうんじゃないよ。私が勝手に楽しみにしてるだけ」
「楽しみに?」
ますますさっぱりです。が、しかしその本当に楽しみそうな様子から、どうやら僕が冷や冷やさせられるような類いの話ではなさそうでした。なんせ傷跡の跡を触るにあたって後ろからすっぽり抱きかかえている今の状態なので、雰囲気とか空気とかいったものが、察するどころではなくもう直接伝わってくるというか。
「明日、いい結婚式になるといいね」
「そうだね」
どうしてここでその話が出てきたのかもまたさっぱりでしたが、中身がどうあれそうあって欲しいのは間違いないので、取り敢えず頷いてはおくのでした。
で、さっぱりなうえ秘密であるというならこちらからはもうどうしようもないので、ならばその結婚式、もとい結婚に関連する話に切り替えていこうと思うのですが、
「どうしよっか、指輪」
「え、それは――」
「婚約指輪の方ね、結婚指輪じゃなくて」
「ああ」
即座に眉をしかめた栞に対しては、こちらも即座に対応。だったら最初からそう言っておけという話ではあるんですけどね。
今日だけでも何度も話題になっている通り、結婚式は明日です。ならばそこで用いることになる結婚指輪を今日中に用意するというのは、さすがに無理があろうというもの。となればそれについてはもう四方院さんにお任せするしかないとして、一方で婚約指輪についてですが――。
プロポーズの際に渡すものであるというその性質上、期限が迫っているどころか期限を過ぎているわけです。が、だからこそもう開き直っちゃってるというか何と言うか。……ううむ、我ながら往復ビンタ食らっても文句言えないぞこれ。
「普通は相手に内緒で用意してサプライズ的に渡すものなんだろうけど、もうそんな感じでもなくなっちゃってるし」
「あはは、確かにね」
往復ビンタどころか機嫌を損ねる様子すら微塵も感じさせない栞なのでした。もちろん、それが分かっているからこそ今こういう話を持ち出したってことでもあるんですけどね。
「あ、でもさすがに費用は僕持ちってことにさせてね? 結婚指輪はまあ、ああいう話になったわけだけどさ」
「ふふ、頼っていいからってなんでかんでも頼ってくるんじゃあ、それってただの駄目亭主だしねえ」
駄目亭主。まだ実際に刺さってはいないとはいえ、耳が痛い言葉です。
とそれはともかく、結婚指輪の費用については栞にお願いすることになっている我が家のお財布事情なのでした。情けない、とはしかし、快くそれを引き受けてくれた栞の手前、そんなふうに言ったり思ったりはしないでおきましょう。
「で、ですね栞さん」
「何かなこうくん」
…………。
あ、そういうアレじゃなかったつもりなんですけどね? たまにそういうことしたりもしてますけど。ちょっと恋人時代に戻ってみよう的な。
恥ずかしいので話を進めましょう。
「結婚指輪はそりゃあ無理だとして、婚約指輪を当日中に、というのは栞さん的にはアリでしょうか?」
「え、今からってこと?」
「そちらが宜しいのであれば」
何故結婚指輪は無理で婚約指輪は可能だと思ったのか。別に後者を軽んじているというわけではないのですが――といってもあまり説得力はないのでしょうが――婚約指輪については渡すことにこそその重きを置いていて、それ自体の高価さは結婚指輪に比べれば、飽くまでも比べればという話ですが、そこまで重要ではないと思うのです。もちろんそれは、僕の個人的な意見ではありますし、そもそもその「渡す」という行為自体、時期も手段も逸脱してしまってはいるわけですけど。
暫くののち。
「ちょっと考えてみたけど」
「はい」
「大丈夫みたい。嬉しくなってる、私」
客観視し過ぎて他人事みたいな物言いになっている栞ではありましたが、しかしどうやらその言葉に嘘や誇張は含まれていないようでした。少し前の話に出てきたのと同様、そういうのが感じ取れるくらい密着しているわけですしね。この場合だとちょっと卑怯くさいですが。
「でも孝さん、嬉しいのは嬉しいんだけど」
「ん?」
「私、自分に合う指輪のサイズがまだ……」
当然出てくる問題ではありました。幽霊である以上、お店で測ってもらうというわけにもいかないんですしね。
しかしそれについては、
「栞、一個だけ確認したいんだけど」
「なに?」
「前に一貴さん達と指輪見に行った時、平岡さんと指のサイズが同じだって話になってたよね?」
栞的にはもしかしたら指輪を見に行ったことより水着を買ったほうがメインになってたりするのかもしれませんが、それはともかく。
一貴さんの最初の恋人であり、かつ現在お付き合いをしている諸見谷さんに続く二人目の恋人でもあるという複雑な立場にある平岡さん。そんな彼女は栞と同じく幽霊であり、なので栞と同じくその場で指輪のサイズを測るというわけにはいかなかったのですが、
「あれって本当に同じだった? 間違いなく?」
「う、うん。そりゃもう、指輪屋さんでの話だったんだからびっくりするくらいぴったりだったけど。でもなんで?」
「平岡さんのサイズは分かってるんだよ。九号だって」
「ええと……なんで?」
二度尋ね返してくる栞。もちろんこの時点で不思議に思われこそすれ不審に思われるような要素は何もなく、なので栞が浮かべているのはただただ疑問の色だけだったのですが、しかし僕はこれから、恐らくそれを崩してしまうであろう話をしなければなりません。黙ったまま、というわけにはいきませんしね、そりゃあ。
「一貴さんが教えてくれたんだよ。平岡さんが居眠りしてる間に内緒で測ってたんだってね」
「それって、いつの話?」
栞の顔が険しくなりました。となればそれはもちろん、僕が一貴さんからそれを教えてもらったのがいつなのかという話ではなく、一貴さんが平岡さんの指のサイズを測ったのがいつなのかという話なのでしょう。
僕だって不審に思い、だからその場で一貴さんに尋ねたのです。今の栞と同じことを。
「栞が思ってる通りだよ」
「そっか……」
それだけで伝わり、そして確認は必要ないのでした。
それは一貴さんと平岡さんが一度離ればなれになる前、つまり、平岡さんが亡くなる前の話だったのです。
「よかったね、またちゃんと付き合えることになって」
「そうだね」
次いで出てきた祝福の言葉はしかし、やはりどこか、躊躇いがちでもあるのでした。
とはいえあまり長々と気落ちしてばかりもいられません。今からしようとしていることをこんな気分のままで、というわけにはそりゃあいきませんし、それに何より、僕達が無闇にこんなふうでいるというのも、当の平岡さんからすれば失礼にあたるんでしょうしね。
――というわけでその「今からしようとしていること」、つまりは婚約指輪を買い求めに、以前も訪れた宝石店へまたやってきた僕達なわけですが。
「緊張してる?」
「恥ずかしながら」
「あはは、まあ仕方ないってやっぱり」
気休めではなく道連れにしかならないのでわざわざ指摘はしませんでしたが、栞も若干ながらその声色に緊張を含ませているのでした。
下見に訪れたことがあっても、やることがただの買い物であっても、あとついでに高価なものは初めから諦めているにしても、それでもやっぱり普段そうそうには用がない種類の店舗です。自意識過剰は百も承知ですが、なんというかこう、とてつもない場違い感に苛まれてしまいます。
「一人で来るのと二人で来るの、どっちが多いんだろうなあ」
落ち付かなさからついついそんなどうでもいいことが気になってしまいますが、それに対しては「そこはそんなに偏ってもないんじゃないの?」と栞。
「単なる自分用のアクセサリーとして買いに来る人もいるだろうし、それにほら、内緒で買って驚かせるってことは当然買う時も一人なんだし。婚約指輪」
「そっか……」
さらっと例として挙げてくる辺り、内緒で買わないし驚かせもしないということについては、本当にどうとも思っていないらしい栞なのでした。もう一つの例については、もう、そんなことができる人と自分との経済的格差が泣けてくるのであまり考えないようにします。
「そもそも私達、本当は二人なのに他の人からは孝さん一人だけに見えてるわけだしね。だったらもう、他の人がどうかなんて気にしても意味ないんじゃない?」
「それもそうか」
少々強引な気もしますが、しかしそれで押し切れるなら押し切っておくべき場面でしょう。いやはや、頼りになるお嫁さんです。
「なんだったらいっそ、他の人から見えないのをいいことにキスでもしてあげようか?」
「それはノーサンキューでお願いします」
頼りになり過ぎるのも困りものです。見えないからって平然と出来ることでもないでしょうに。
……あと、なんせこのタイミングですから、どうせするなら買った指輪を渡してからの方が、というのもなくはないんですけどね。
「ふふっ。――よし、じゃあ早速どれ買うか決めにかかっちゃおうか」
「早速っていうほど素早くもなかったけどね、ここに着いてから。僕のせいだけど」
「そういう孝さんも可愛くて好きだけどね私」
褒められているのは間違いないのにどういうわけだかあまり嬉しくない。今日はなんだか、こういうのが多いような気がします。
ともあれ指輪選びが開始されるわけですが、
「こういう場合ってどうなんだろうね? 私の好みと孝さんの好み、どっちが優先されるのか」
「どっちってそりゃあ、栞が着けるものなんだから栞の好みじゃないの?」
何をそんな当たり前のことを、とこの時点ではそう思っていたのですが、
「そう? 成美ちゃんのネックレスみたいなのも素敵だと思うんだけどなあ、私。あれだって指輪じゃないけど婚約指輪の代わりなんだし」
「…………」
言われてみればそうなのでした。あれは大吾の――僕も多少意見を求められたりはしましたけど――好みであって、成美さんの好みではありませんでした。なんたって成美さんですから、好みも何も装飾品というもの自体をよく把握していなかったことでしょうしね。
成美さんにはこれが似合うだろう、という理由で選んだにしても結局はそれだって大吾の意見であって、成美さんの好みということにはやはりならないわけです。
「単なるアクセサリーならともかく、婚約指輪ってことなら相手ありきで、しかも一生ものでしょ? だったら自分じゃなくて、その相手の好みに合わせたものっていうのも変じゃないと思うけどなあ。なんていうか、その指輪の中にいるのが誰かって言ったら、自分じゃなくてその結婚する相手なんだし」
なかなか熱く語ってくる栞。そして、その熱さに押し切られたというわけではなしに、その意見は充分納得に足るものなのでした。
「分かった。じゃあそのつもりで見てみるよ」
「うん、すぱっと理解してもらえると気持ちいいね」
今の流れで機嫌を良くしてくれる人っていうのも中々珍しいんじゃないかなあ、とは思うけどね。そしてもう一つ、選び方がどうあれ予算の関係で選択肢はそんなに広くないんだけどね。…………いや、それに対する感想は伏せさせて頂きますけど。
――ともあれ、一通り見て回ったところ。
「派手派手しいのじゃなくても、割と細かい作りが違ってるものなんだね」
「まあ、別の商品として並べてる以上はねえ」
「派手派手しい」という形容はこの場合ほぼ「高価な」に等しいわけですが、こちらから何を言うまでもなく、そこらへんをぼやかしつつ購入対象から除外してくれている栞なのでした。指輪のこととは関係無しに抱き締めたくなるところではありましたが、それはまあ実際そうするにしても家に帰った後に取っておくことにしまして。
細かい作り、というからには、顔を近付けて見比べないと分からない程度のものなんかもあるわけです。なんの飾り付けもなく、ただちょっとリングに捻りが加えられているだけのものだとか。
「さてさて、孝さんはどんなものを選んでくれるのかなあ?」
「そう言われると緊張するなあ。言われたくたってそう思われてるのは分かってるんだけど」
ついでに付け加えるのなら、どんなものを選ぼうがそれを選んだのが僕でさえあれば栞は喜んでくれるということが分かっていても、です。まあだからといって適当に選ぶわけではもちろんないので、緊張するくらいの方が丁度いいのかもしれませんけど。
で、それはともかくどういったものを選ぶかなのですが。
装飾があるもののほうがいい、と一概にそう言い切れもしないのが難しいところです。そうでなければ使用可能金額いっぱいな中で最も派手な物を選べばいいだけなのですが、シンプルなものもそれはそれで、というか。
というのも、それを指に嵌めることになる栞です。僕が言うのもなんですが栞には洒落っ気というものがなく――とはいえそれは性格によるものではなく、通常触れるべき時期に触れられなかったからなのでしょうが――なので、指輪だけそこから逸脱してしまうと、それこそ「派手派手しい」感じになってしまうわけです。そこばかり目立ってしまう、というか。
栞がさっき言っていたように婚約指輪なんて一生ものであるわけで、ならば今後その洒落っ気を持ち始める可能性を考慮してみるのもいいのかもしれませんが、しかし……。
「うーん」
「難しい?」
商品棚と僕の間に、ひょいと顔を覗き込ませてくる栞。なんともタイミングのいいことですが、そう、栞はこういう人なのです。どこか子どもっぽいところがあるというか。いやもちろん悪い意味ではなく、むしろ褒め言葉として、ですけど。
ならば果たしてそういう人に似合う指輪というのはどういうものか、というのも結局のところは人それぞれ考え方があるのでしょうが、しかしここで参照すべきは他の誰でもなく僕の考え方なのであって――。
「これ」
僕が指し示したのは、飾り付けがなく、それどころかちょっとした捻りすら加えられていない、ただただ指輪として最低限の形を取っているだけのものなのでした。
それでも商品の中で一番安いというわけでもないのが僕にはよく分かりませんでしたが、そこは今頓着すべきところではありません。例え安いどころか値が張るものだったとしても、予算内に収まってさえいれば僕はこれを選んでいたことでしょうしね。
「どう、かな」
指輪を見、そしてこちらを向き直った栞は、嬉しそうに頬を緩めてくれたのでした。
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