(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十八章 家族 五

2010-11-26 20:39:25 | 新転地はお化け屋敷
 今更ながら薄暗さが気になった部屋を改めて見回してみても、もちろん何か変化があるわけではない。しかしそこで、あることに気がついた。自分の部屋をこの角度で見渡した経験は数少ないか、もしかしたら全くなかったということに。
「……こうくんも言ってたっけ、そんなこと」
 要は、机に向かって勉強するということが殆どなかったのだ。確かこの机は小学校の入学と同時に買ってもらったものだから、三年の時に倒れるまで――つまりは二年ちょっとしか、学習机としては機能しなかったわけだけど。
 もちろん勉強をしないといっても、人によっては本を読んだりする時に机を使うこともあるのだろう。私は、ベッドに腰掛けるか寝転ぶかしていたので、そういう用途ですら机はあまり使わなかったが。
 ――こんなことになると知ってたら、いくらでも勉強しただろうになあ。
 当時そんなふうに思うわけがないのは百も承知だが、ついそんなことを考えてしまった。いつもこうくんの大学について行っていろいろな講義にお邪魔しているのは、その後悔というほどでもない後悔があってのことでもある。
 何かを学ぶのは楽しい。元来の勉強好きというわけでもない私がそんなふうに思うことができるのは、学ぶことができなかったからなのだろう。ここにいた頃の私や今のこうくんのように、机はあるけど勉強するわけじゃないというのは、恐らくそれが普通なのだ。もちろんそれは、する必要があっても絶対にしない、なんて話ではなく。
「もったいないなあ」
 なんて、自分に対して言ってみた。こうくんにも掛かる言葉ではあるけど、そこまでは意図していないということで。
 私はいつも、赤いカチューシャを着けている。もちろん今日だってそうだ。これは入院中、年相応のお洒落というものが出来ない私にお母さんがくれたもので、宝物であると同時にお気に入りの装飾品でもある。
 でもそれは、このあんまり使わなかった机だって同じだった筈なのだ。小学校という学び舎に入ることになった私を、ならばとこの学ぶための家具でお祝いしてくれたのだ。だったらこの机だって、このカチューシャみたいにもっと使えばよかったな。――という感想は、もちろん今更ではあるのだが。

 ……それにしても、実際にはあまり使わなかった机にでもいろいろと想いを馳せられるものだなあ。
 暫くぼうっとしてみたものの、けっきょく纏めの感想は机に持っていかれてしまった。けれど、それはそれでいいことなのだろう。何か一つを強く想えるということは、少なくとも私の気持ちは、ここをまだ忘れてはいないということなのだから。
 ではこの部屋についてはこれでめでたしめでたしということで、ならばこの後はどうしようか。隣の物置部屋はまあ、わざわざ入っても仕方ないとして(というより何かを倒したりして物音を立てる危険が大きいので、避けておくべきだろう)、その隣のお父さんとお母さんの寝室も、なんとなく入り難い場所ではある。
 別に入ってはいけないと言い含められていたようなことがあるわけではなく、理由としては子ども心に「あそこはお父さんとお母さんの部屋だから」と意識して入らないようにしていたせいなのだろう。だから眠れない夜も、寝室で寝かせてもらうのでなくお母さんにわざわざ来てもらっていたわけだし。
 物置部屋も寝室もなしということならば、取り敢えず目指すべきは一階ということになる。しかしそれには少々問題があって、階段は足音が目立つのだ。その足音を誤魔化してくれる食器洗いはもう終わっているかもしれないし、さてどうしたものだろうか。
 階段の前で立ち止まり、「ゆっくり下りれば大丈夫だろうか」とか、「手すりに体重を掛けるようにすれば」とかいろいろ考えていたところ、玄関のドアが開く音が。
「あれ?」
 今の時間にお父さんが帰ってくるわけでもなく、お客さんだったとしてもお母さんが何かしら声を掛けるだろう。それが何もなくドアの音だけするということは、お母さんが出掛けたということだろうか?
 見えない位置なので、それしかあり得ないと思っていながらそれを結論にはさせられないでいると、次いでガチャリと鍵を閉める音。ならば今度こそ、確定なのだろう。
「そ、それじゃあ……」
 というわけで、一応はそろりそろりと一階へ。丁度いいタイミングではあったものの、お母さんが出掛けたということがちょっと寂しかったりしないでもない。私がここにいる間に帰ってこられるような、手短な用事だったらいいんだけど。
 しかしそんなことばかり言っていると今度は「お父さんにも会えたらなあ」なんてことになってしまいそうなので、あまり欲張りはしないでおこう。夜までここに居続けるというのは、自分の家ながらちょっとどうかと思わないでもないし。
 向かった部屋はダイニング。とはいえダイニングキッチンなので、さっきお母さんを見た時と結局は同じ場所ということになる。分けて言ってもダイニングはダイニングだけど、キッチンは台所って言っちゃうなあ。なんて、かなりどうでもいいことを考えてみたりも。
 テーブルの椅子の数は四つ。私がここにいた時は全員が揃っていても必ず一つが空いていたけど、当たり前ながら今は二つ空くことになるのだろう。
 席が二つ空いたお父さんとお母さんだけの食事風景というのは、思い描くとなんだか寂しかった。そしてそれと同時に、こうくんの――私の料理の先生の教えが頭に浮かんでくる。食事の醍醐味は団欒にこそあるものだと。団欒、できているだろうか。お父さんとお母さん。
 テーブルと椅子は私がいた時と変わっていなかったものの、しかし台所はどうしてさっき気が付かなかったんだろうと思ってしまうくらいに様変わりしていた。ものの配置自体は記憶の通りながら、ガスコンロや冷蔵庫、それにレンジもトースターも、新しいものに買い替えられていたのだ。
 そりゃまあ、下手したら十年以上前の記憶だ。ただ買い替えたというだけでなく、それが既に二度ほど行われていてもおかしくないくらいなのだろう。家電製品がそれぞれ何年くらい保つものなのかとか、あまり詳しくはないけど。
 台所のほうを見てみたということで、なんとなくお母さんが洗い終えた食器のほうにも目がいった。ぱっと見た瞬間には特に気になるものはなかったけど、視線を余所へ移してから「ん?」と。
 そうしてもう一度食器のほうを向き直り、気になったものを見てみる。
 茶碗だった。それ自体は何の変哲もないのだが、しかし、なんだか小さいのだ。
 お父さんとお母さんで、お父さんのほうが大きめの茶碗を使っていたという記憶はある。けれどだからといって、お母さんの茶碗が小さかったというような記憶は、ないように思う。
「私の……かな?」
 私がその茶碗を使っていたという直接的な記憶があるわけではないものの、大きさからそうなんじゃないだろうかと思った。まあ、私がいなくなったからといってわざわざ捨てるようなこともないのかもしれないし、だったら少しだけ食べたい時に使うようなことも、あるのかもしれない。
 そんなことがあって、ついでに食器棚の茶碗も見てみることにした。もしかしたらこの茶碗以外にも、自分が使っていた茶碗があるかもしれない、ということで。もちろん、見付けてどうなるというわけでもないのだが。
「あ、これ」
 自分の記憶にしっくりくる茶碗は、すぐに見つかった。おおよそ食事とは無縁であろう可愛らしい花柄の、落としても割れないプラスチック製の茶碗。かなり怪しい記憶ではあるものの、幼稚園を卒業するぐらいまで使っていたように思う。
 そして先程の茶碗と同じでこれも小さく、ならば先程の茶碗は、私が幼稚園の卒業後に使っていたものということなのだろう。
「……ふふっ」
 なんとなく、笑ってしまった。変わったところがありつつ、けれど変わっていないところもあるということが、どうやら私は嬉しかったらしい。多分、何一つ変わっていなかった場合より嬉しいんじゃないだろうか? もちろん、実際に比べてみるというわけにはいかないんだけど。

 ダイニングを出て、今度は居間へ。一方をダイニングと呼ぶならこちらはリビングと呼んだ方が統一感があるんじゃないだろうかと思いはしたものの、まあ気にしても仕方がないということで。
 こちらも台所と同じく、所々が変わっていた。テレビが新しくなっていて、それに合わせてかテレビの下の棚も記憶と違うものになっていた。そしてどうやら、テーブルも買い替えられたらしい。
 それだけ変わっているともう部屋全体が違った印象に見えるものの、まあしかし、特にだからどうだというわけでもない。私の部屋や台所の茶碗なんかと違い、ここには私に纏わるようなものは特にないだろうし。
 しかしそれ以外のところで、ちょっと気になるものが。床にタオルケットが落ちていたのだ。それがどう使われてここに落ちているかはもちろん分からないものの、しかしなんとなく、お母さんがお昼寝でもしてたのかな、と。自分が今日、昼寝をしたからだろうか? いや、そうでなくても昼寝くらいは思い付くのだろうが。
 ――私に纏わるものが特にないだろう。そう思いはしたものの、探せば何かしら出てきたりはするだろう。しかし現状、ものの位置を動かしてしまうというのはできるだけ避けておきたいので、なかなかそうもいかなかったりする。思い出を振り返るというなら、アルバムなんかを見ればいろいろと面白いのだろう。けれどそんな理由で、それもなかなか難しいのだった。まあそもそも、アルバムがどこに置いてあるのかをまず知らないのだが。
 少しだけ、休憩することにした。
 床に座ったままソファにもたれるようにし、あたかもテレビを見ているような姿勢で、ただぼーっと。何年離れていようともさすがは自宅、そうしているだけでも落ち着けるのだった。
「…………あっ」
 ぼーっとし過ぎたのだろうか、気が付くと傍のタオルケットを掴んでしまっていた。まさか無造作に置いたであろうタオルケットの状態までお母さんが覚えているとは思えないが、しかしさっきも確認した通り、できるだけものは動かしたくない状況だ。一応、どんなふうに置いてあったか思い出して置き直し――。
「いや、少しだけ」
 誰かに確認を取るようなことを呟いて、私はそのタオルケットを膝の上に被せた。さすがにそれだけで温かいというようなことはないものの、しかしそのふわふわとした柔らかさは心地良い。あと、何やらいい匂いがするようなしないような。
 ――この匂い、お母さんの?
 というのはなにもそれがお母さんを想起させるような匂いだったというわけではなく、「このタオルケットはお母さんがお昼寝に使ったのかもしれない」という状況からの判断だ。そして実際のところ、いや違うかな、という結論に。この匂いがお母さんのものであるということに確証がなければ、逆にお母さんのものではないということにも確証があるわけではないけど、なんとなくそう思った。洗ったばかりで洗剤の匂いがするとか、そういうことなのだろう。
 しかし匂いの正体が何であれいい匂いなのには間違いがなく、なので暫くの間、使わせてもらうことにした。使うといっても、膝に乗せておくだけではあるんだけど。
 ふわふわ加減といい匂いと、あと丁度窓からの日差しが当たる位置に座っているので、ただそうしているだけでも気持ちがいい。これで今日、昼寝をしていたりしなかったら、ついうとうとするくらいはしたのではないだろうか。もちろん、いつお母さんが帰ってくるともしれないこんなところで寝るわけにはいかないのだが。
 五分ほどこうしているか、もしくはその間にお母さんが帰ってきたりしたら、行動を再開しよう。それだけ決めて、引き続きぼーっとすることにした。

 がちゃり、と物音が。どうやら玄関の鍵が開けられたようで、ならばお母さんが帰って来たのだろう。
「はっ!」
 その音で私は目を覚ました。……まあつまり、しっかり眠ってしまっていたわけだ。
 どれくらい眠っていたのだろうかとかお母さんはどこへ行っていたのだろうかとか、あと寝ている間に何か動かしたりしていないだろうかとか、頭がちょっとした混乱状態になってしまう。が、取り敢えずはタオルケットをもとあった位置に戻し、当座の安全だけは確保。考えてみれば大したことはしていないものの、混乱状態の中で私は、「よく思い付いた」と自分を褒めておいた。
 ともかくそれで一息つき、あとは下手に動くよりこの場でじっとしていたほうがいいだろうということで、取り敢えずはお母さんの動向を窺うことにした。いくらあちらから見えないといっても、お互いに歩きまわるというのは危なっかしいだろう。
 ここから玄関は見えないので、当然帰って来たお母さんも見えない。しかし向こうから聞こえてくる音に、どうも車輪か何か、そんな感じの音が混じっているような気がする。――などと思っている間に、それはすぐ聞こえなくなったが。
 そしてその何だか分からない音に変わって、今度はお母さんの足音に気を取られることになった。どうやらこちらへ向かってきているらしいのだ。
 もちろんじっとしていれば気付かれることはないのだが、それでもやはり、不安と緊張は拭い切れない。透明人間なんて、なれたとしても気楽には生活できないんだろうなあ――なんて考えも浮かんだのだが、しかしよく考えれば、「今の私って透明人間も同様だったっけ」とも。
 不安と緊張が高じてか妙なことを考えてしまったものの、しかしそれで事態が好転するわけもなくお母さんの足音が接近。この部屋に入るにせよ入らないにせよ、少なくとも目の前の廊下は通るはず――。
 と。
 私は、意外なものを見た。
 思った通りに廊下を通り掛かり、更にはこの部屋へ入ってきたお母さん。その腕にすやすやと気持ちよさそうに眠る小さな子どもを……というか、赤ちゃんを抱いていた。
「え、ええっ?」
 いろいろと考えたんだと思う。全く纏まりを見せないそれらの考えが一つ一つはどういうものだったかと説明することはできないものの、しかし、その中から取り出した正解に近いであろうたった一つだけは、文章にすることができた。
 あの赤ちゃんは、お母さんの子ども。
 どうやら私は知らない間にお姉さんになっていたらしい。……大きいなあ、年齢差。
 なんせ私が二十二だ。一、二歳くらいであろうこの子とは、ゆうに二十以上の差があるということになる。姉弟(姉妹かもしれないが)というよりは親子だ。
 ということは、お母さんからすればあのこと同い年の孫がいてもおかしくないということにも。実際の年齢差より、そちらのほうが衝撃が大きかった。いや、自分が子どもを産めないことを後ろめたく思ったとか、そういうわけではなく。
 あのいい匂いがしていたタオルケットは、ならばお母さんでなくあの子が使っていたのだろうか? お母さんは眠ったままのその子を床に横にさせ、タオルケットをその小さな身体の上に掛けていた。私が膝に掛けていた程度のものが、その子の身体だとすっかり掛け布団だった。
 横にした時、「きゅうう」とでも表せばいいのか、その子は甲高くも弱々しい声を上げた。けれどそこから特にぐずるようなこともなくすうすうと眠り続け、私はともかく、お母さんもそのタオルケット越しのお腹にぽんぽんと手を当てながら、安心したようだった。
 赤ちゃんの成長が何歳くらいでどうなるとかいったことは、あまり詳しくないというかいっそ全く知識がないくらいではある。しかし見た感じで言うなら、こうして床に直接寝かせられるというのは生後数ヶ月くらいにはなってたりするんじゃないだろうか、と。本当に生まれた直後なんかだと、ずっとベッドに横になっているイメージがある。イメージでしかないとも言うが。
 ――そういえば、そのベッドはどこにあるんだろうか? 昼寝はここでしているにしても普通に寝る時はやっぱりベッドなんだろうし、今まで見てきた中にはそれらしいものは見当たらなかったし。やはり、寝室とかになるのだろうか。
 といった感じにいきなり現れた自分の弟もしくは妹にいろいろ考えていたところ(もちろん実際に『いきなり現れた』のはむしろ私のほうなのだが)、お母さんが立ち上がる。赤ちゃんばかりに気を取られて意識に上らなかったものの、そういえばずっと腕に掛けていたビニール袋からは、魚の尻尾が飛び出していた。多分、成美ちゃんがよく使っているあのお魚屋さんだろう。

 お母さんが部屋を出、赤ちゃんと二人きりになった私は、その顔を覗き込んでみた。丸い顔、薄く赤らんでいる柔らかそうな頬、そして半開きの小さな口は、恐らくは大半の人が赤ちゃんを見た時にそう思うであろうことと同様、とても愛くるしい。
 そして、
「……親子だなあ」
 やっぱり茶色いその髪。頭髪に関するお母さんの血は、どうやらとても強いらしい。
 親子だなあ、と思ったものの、それは同時に私とこの子が姉弟もしくは姉妹であるということでもある。できることならこの子が産まれてくるまでの経過にも立ち会いたかったものだが、しかしこうして唐突に会っただけでも、それはとても嬉しいことだった。
 そんなふうに思ってしまうと、つい髪に触ってみたくなる。お母さんが部屋を出ていてこの子も寝ているとなれば、少しぐらいなら大丈夫なのではないだろうかと。
「…………」
 触ってみた。
 その後自分の髪も触り、手触りを比べてみた。やはり、赤ちゃんの髪は私よりもふわふわとしている。
 それは個人の髪質の差というよりは、この子がまだ赤ちゃんだからという面のほうが大きいのだろう。若さの表れ――いやそれ以前に、幼さの表れと言うべきか。
 羨ましい。そんな言葉が頭をよぎる。
 幼いという情報からはどうしても、その先にある「成長」というものを連想してしまう。そしてその成長というものは、生きていることの表れなのだろう。私はそう思う。死んでしまったからなのだろうか? そんなふうに思ってしまうのは。
 無論、幽霊だって成長することはできる。内面的なものについては生きている人と同じく、そして肉体的なものだって、私がそうしたように条件を満たせば。――だが、条件を満たす必要があるのだ。ならば、どちらが普通だと言われれば、肉体が成長しないことのほうが普通ということになるのだろう。
「…………」
 柔らかそうだった頬に触れる。見たままに、いや見たまま以上に、柔らかかった。
 これからこの子はすくすくと、そして健やかに、成長していくのだろう。小学三年生までは私もそうだった。けれどその後倒れ、病院暮らしが始まってから幽霊になってしまうまでの期間を指して、「成長した」とはなかなか言い難いものがある。もちろん年は取っていたのだが。
 この子は、恐らくそんなこともなく成長を続けるのだろう。生きたままでいられるのだろう。
 羨ましい。私は、この子がとてもとても羨ましかった。幽霊になってから幸せを得られた私でも、やはりそんなふうに思うところは少なからずあるらしい。
 けれど――。
「幸せになってね」
 今の私は、「羨ましい」という感情をそう変換させる。もっともっと羨むような人生を送って欲しいと、そう思うことができる。
 少し前までの私なら、世界と同じくこの子を呪っていたかもしれない。いや、そうしていたことだろう。「羨ましい」という感情が、「妬み」という感情に変換されるわけだ。
「幸せになってね」。口にするとどこか芝居掛かっていて、自分で少し恥ずかしくもなりもしたけど、しかし本心から出た言葉であることに違いはない。再び近付いてきたお母さんの足音に赤ちゃんから離れつつ、私は自分の胸の内にある温かいものを、誇らしく思うことにした。

 戻ってきたお母さんは、たった今までの私のように赤ちゃんを眺めていた。初めのうちこそその寝顔を見て微笑んだりしていたものの、少し経つと、ふうと息を吐いて何かを考えるような表情になる。
 食器洗いをし、それが終わったら買い物に出掛け、そして帰って来てからもまだ落ち着けないらしいお母さん。よく考えればそれらだけだとそう大して忙しいということにはならないものの、しかし普段の自分の暇さのせいか、「そろそろゆっくりして欲しい」なんて思ってしまったりも。確実に余計なお世話ではあるのだろうが。
 ならばそれはさておき、お母さんは赤ちゃんを見て何を考えているのだろうか――と思ったとほぼ同時にお母さんは赤ちゃんを抱き上げ、部屋を出て行ってしまった。
 階段でもない限りは目立つような足音が立ったりしない家だが、しかしそれでもすぐ後ろをついていくのは躊躇われた。なのでその場を動かないまま見送ると、少し後に廊下から階段を上る足音が。どうやらついていったところで無駄になっていたらしい。
 恐らく、赤ちゃんがぐっすり眠ってしまっているからということで、床ではなくベッドに寝かしつけに行ったということなのではないだろうか。ずっと静かだったということは、お母さんが買い物に出掛ける前からずっと寝ていたんだろうし。
 もう少しあの子を見ていたかったという気持ちはあるものの、しかし今日私がここへ来たのは別の目的――赤ちゃんのことはここへ来てから知ったのだから当然だが――なので、これで踏ん切りをつけて行動を再開できる、と前向きに考えてみる。
 ならば実際にも行動だということで、暫くの休憩を終えて立ち上がる。行くあてがあるわけではないが、あてがなくとも歩き回っていれば何かしら見付けることもあるだろう。まあ、部屋数自体はそう沢山あるというわけではないのだが。
 というわけで、別の部屋。ここもまた私に纏わるようなものがある可能性は低い部屋だが、しかし、空きっ放しになっていた押入れの中に目につくものがあった。
「あれ、こんな所に?」
 アルバムだった。他にも救急箱やら裁縫箱やら、あと物差しやハサミなどいろいろな小物が納められている中、最近使われたということなのか、小型の本棚も一緒に入っているというのにそこから外れて横倒しに置かれていた。
 最近使われたということで見る前からなんとなく想像はついていたものの、表紙だけ捲ってみるとそこにはあの子の写真が。というわけで想像通り、そのアルバムは私でなくあの赤ちゃんのものだった。まあそもそも自分のアルバムがここに納められているという記憶は全くなかったので、これが私のものである可能性は初めからかなり低かったのだが。
 ものに触って動かすのはできれば避けたい、というのはこれまでと同じなので、置かれていた位置から動かさないままページだけを捲る。このアルバムが私のものでないと分かったとはいえ、それでもやっぱり興味はあった。可愛らしいのはもちろんのこと、それを抜きにしても――何と言えばいいのか、姉弟もしくは姉妹なわけだし。
「…………」
 あの子が生まれる時、お父さんも病院に行ったということなのだろうか。明らかにお母さんのものではない視点から、生まれたばかりのあの子を写した写真がいくつかあった。この分だと、ビデオを撮っていたりもするのではないだろうか。
 ――というのも、私もそうだったのだ。自分のそういうビデオを見たのは、小学校に入ったくらいだったろうか? 少なくとも入院するよりは前だった。生まれたばかりの私自身より、はしゃぎ過ぎてカメラの揺れが酷いことになっていたお父さんばかりが気になっていた思い出がある。お母さんもそのことで笑ってたっけ。
 その時はそんなふうには思わなかったけど……そりゃあそうだよね、初めての子どもだったんだし。まあ、人柄も多分に影響してはいるんだろうけど。


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