ただ帰ってきただけだというのに妙にドキドキしたりしながら車を降り、そして反対側から降りた栞さんのほうを窺ってみると、あちらもあまくに荘の方向へ顔を向けつつ神妙そうな顔をしているのでした。
というわけで、あまくに荘駐車場からこんにちは。204号室住人、日向孝一です。
「お、緊張してる顔だねえ。二人とも」
と声を掛けてきたのは高次さん。こういう時にそういうことを言ってくるのは殆どの場合家守さんなので、それだけのこととはいえちょっと意外に思うのでした。
がしかし、高次さんだからこそ、「そういうこと」ではないんだろうな、とも。
「なんでそこでこっち見て笑うかね? こーちゃん。しかも申し訳なさそうに」
いえいえ。あとすいません。
「はっは、なんとなく分からんでもないけどな。でもまあそれはそれとして――話が上手くいったって、結婚できたってことになったら、思いっきり祝われるだろうしねえ。みんなのことだし」
「なんですよね……」
こちとらそれがなくてもただ「夫婦として帰ってきた」ということだけで胸に圧迫感を覚えるほどだというのに、それを槍玉にあげられるわけですからねえ。もちろん、それは嬉しいことなんですけど。
「えーと、孝一くん。やっぱりさ」
「ん? なんですか?」
何やら尋ねてきた栞さんは、引き続き神妙そうな顔をしていました。ならばそういう顔をする必要があるような質問なのでしょうが、さてそれは。
「私、自己紹介から入ったほうがいいのかな。『喜坂栞から日向栞になりました』って」
……まあ、結婚したということはそういうことになるわけですが、しかし。
「そういえばそのへん、今まで話してきませんでしたっけね」
大多数はそうなるとは言っても、全ての例でそうなるというわけではありません。夫婦別姓のままという人もいれば、夫が妻の姓を名乗るってこともあるわけで。特に後者は目の前に実例の二人がいらっしゃいますし。
とはいえ、話してこなかったというのは何も忘れてたというわけではなく、無意識のうちに「栞さんが日向を名乗る」という前提を作ってしまっていたのでしょう。なんせ無意識なので明確にそう考えていたわけではないのですが、たった今こうして話題になってみた感じ、どうもそうだったとしか。
というわけであるならば、こう尋ねなければならないでしょう。
「栞さんはそれでいいんですか?」
今更かよ、という突っ込みどころは自覚していますが。
「うん」
神妙な顔のままそう短く返事をした栞さんはしかし、その直後、ふっと緊張が解けたように柔らかく微笑むのでした。
「喜坂栞改め、日向栞です。これからも末長く、宜しくお願いします」
その自己紹介を真っ先に受けることになったのは、僕なのでした。
それについては家守さんと高次さんが拍手をしてくれましたが、どちらかといえば嬉しいよりも恥ずかしいのでした。せめて外じゃなくて家の中だったら、というのは恐らく見当違いなんでしょう。
「帰ってきたか! どうだった!?」
ひとまず部屋に戻りましょう、ということで二階へ上がり、202号室の前を通りかかったところ、そこの台所の窓から成美さんが勢いよく顔を出してきました。
そんな成美さんは現在、小さい方の身体。それが窓から顔を出しているということは、シンクに完全に登ってしまっているのでしょう。
「ただいま、成美ちゃん」
勢いのある成美さんとは対照的に、ゆったりと普段通りの返事をする栞さんなのでした。駐車場でのこともあってか、適度にガス抜きができているようです。
「特に荷物があるわけでもないし、このまま上がらせてもらっていい?」
「もちろんだとも、さあ入れ入れ。ああ、家守達は――」
「お仕事の格好のままだから、着替えてから来ると思うよ」
という遣り取りを聞きながら、特に拘るわけでもないけど今回は僕か栞さんの部屋に集まったほうがそれっぽいんじゃないかなあ、なんてふうにも。しかし成美さんがドタドタと窓から顔を引っ込め、その後ドアが開かれたところ、玄関の履物の数を見てそんなことはどうでもよくなりました。
――ああ、やっぱり清さんももうここに来てるのか。ということはジョン達もだろうし、あとこっちの靴は……そうか、庄子ちゃんもか。
『おかえりなさい』
「ワンッ!」
というわけで、想定通りのメンバーから一斉にお迎えの言葉を頂いたわけですが、その中には想定していなかった姿が一つ。
大吾の膝の上へ座った成美さんのそのまた膝の上へ飛び乗ったのは、猫さんでした。
「ただいま戻りました。猫さんも来てたんですね」
「うむ」
その猫さんを緩く抱き留めながら、成美さんは満足げに頷きます。
とはいえ今の今まで家守さんはいなかったわけで、だったら猫さんは人の言葉は喋れませんし、同時に聞きとることもできません。もちろんたまたまここを訪ねていたということも考えられはするのですが、どうしてこうもタイミング良く?
なんて思ってみたところ、しかしこちらから尋ねるまでもなく成美さんが答えを提示してくれました。
「どこにいるかは分からないにしてもどうせこの近辺だろうからな、ということで、外でちょっと大声を上げてみたのだ。言葉は分からなくとも、声自体は覚えていただろうからな」
愛のなせる業……というのは、ちょっと大袈裟でしょうか。大声を上げるって絵面からして、そんなロマンチックさは似つかわしくないですし。
「まあだから、なんでオレらがこんな集まってるかってのもまだ伝わってはないんだよな」
「はは、皆揃って浮き足立ってることぐらいは分かるだろうけどな」
大吾の言葉に軽く笑いながら、成美さんは猫さんの顎の裏をくすぐるようにします。すると猫さん、気持ちよさそうに目を細めるのでした。
可愛いとは思うのですがしかし、いざ話し始めると大人っぽいというか貫禄があるというかな方であり、しかも事ここへ至ってまだ事情が伝わっていないというのが少々間の抜けた感じでもあったりして、ついつい吹き出しそうになってしまうのでした。
「じゃあせっかくだし、楓さんと高次さんが来るまで結果発表は後回しにしよっか。猫さんにも事情を説明して、それから」
「いいのか? うむ、では是非そうしてやってくれ。ありがとう喜坂、本人に代わって私が礼を言うぞ」
「お礼を言われるほどのこと――じゃ、ないけど……」
「どうかしたか?」
何やら言い淀む栞さんに成美さんは首を傾げますが、
「……ううん、それも後にする」
とのこと。そして栞さんは、こちらを向いてくすりと笑みを溢すのでした。
喜坂、じゃないんですもんね、もう。結果発表も同然になっちゃいますから今は言えませんけど。
「じゃあその話はあとでってことにしてよ、なあ喜坂、孝一のPARENTSってどんな感じだった?」
誰もが最も気にしているであろう話題を後回しにしたところ、次に出てきたのはそんな話題なのでした。
ちなみに話題提供者であるサタデーですが、ナタリーさんとともに清さんを雁字搦めにしています。何があってそうなったのかは分かりませんが、何もなくたってそうなり得るので気にしても仕方がないでしょう。
「すっごく優しい人達だったよ。孝一くんの話もいっぱい聞かせてもらったし」
僕からすればそれはあまり正当とは言えない評価なわけですが、まあ口を挟んだりはしません。栞さんの気分を害するような真似はしたくありませんし、それに親が気に入られて悪い気がするわけじゃありませんしね。
「喜坂さんについてのお話はどうでしたか?」
サタデーに代わって、その下の――というか内側のと言うか――清さんからそんな質問が。しかしそれについては、
「あはは、それを話しちゃったら結果が予想出来ちゃうじゃないですか」
「んっふっふ、引っ掛かりませんでしたか」
怖い見た目でいつものように笑う清さんなのでした。っていうか、引っ掛かってたらどうするつもりだったんでしょうか。
「でも、凄いよねえ。結果はまだ分からないにしても、親に会いに行っちゃうなんて」
今度は庄子ちゃんでした。
ちなみに今日の庄子ちゃん、テールは一本。その髪型からはついさっきまでの家守さんが思い起こされますが、ここへ来る時にはもう括ってはいないのでしょう。と、どうでもいいことを考えたりもしつつ。
「ん? 親に会うってだけだったら庄子ちゃんだってほら、今そこに」
「んっふっふ」
「いやっ……! これは、いやそうだけど、そういうことじゃなくて!」
外堀は逆に盛り上がって山になるくらい埋まっていますが、肝心の本丸へ踏み入れない庄子ちゃん。気の毒に、なんて言っちゃいけないんでしょうけど。
とはいえ学校ではちょくちょく会っているようですし、踏み入れないと言っても塀に足を掛けるぐらいのところまでは行っているんでしょうけどね。
「あんまモタモタしてっと、同級生の女子に手ぇ出されたりしても知らねえぞ」
「こっ、怖いこと言わないでよお……。学年差のことは本気で気にしてんだから……」
「手も出てこねえし、そうらしいな」
そこでしたり顔は兄としてどうなんだ大吾。というわけで、意地の悪い兄に代わってこの僕が。
「まあでも庄子ちゃん、学年差ったって歳にすればたった二歳の差なんだし」
「私と孝一くんなんて四歳差だもんねえ?」
「わたしと大吾なんて計測不能だぞ」
「ワンッ!」
ジョンとマンデーさんって年の差どうなんだろう? というのはまあ、いいとして。
「学校でどうだとかはあんまり関係なくなるんじゃないかなあ、付き合ってさえしまえば。まあその、中学高校でそういう経験なんて全くなかった僕が言ってもアレなんだけど」
「そうですよね!――ってここで元気よく言っても、会ったらまた何もできなくなるんでしょうけど……でもまあ、ここでそう言っとくくらいは」
それだって、ここですら元気を出せないよりはよっぽどマシなのでしょう。というわけで庄子ちゃん、今後も是非その意気で。
「頑張ってね」
「はいっ!」
僕も今日頑張ってきたから、というのはこれまた結果発表も同然になりそうなので、口に出る寸でのところでなんとか抑えておきました。言えたら割と効果のある一言だったと思うんだけどなあ。
「あそうだ、成美さん」
「なんだ?」
結果発表の後にまた機会があったら言おうかな、なんて考えていたところ、庄子ちゃんは兄の膝の上の成美さんへ声を掛けます。
「旦那さん、抱っこしてもいいですか?」
「おお、構わんぞ。むしろ歓迎だ、身内同士が仲良くしてくれるというのは」
身内同士。猫さんが旦那さんであることはもちろん、庄子ちゃんだって義妹なんですもんね、今は。猫さんも庄子ちゃんもたまにここを訪れるだけだから、二人が揃うことってあんまりないですし。
というわけで成美さんから猫さんを渡された庄子ちゃんは、彼をぎゅっと胸に抱き留めてこう言いました。
「何もしてないと清明くんの話題ばっかり振られちゃうから、浮気しときます」
「ははは、なるほどな」
誰に尋ねられるでもなく語られたその理由ですが、納得のいくものではありました。旦那さんに浮気、という字面を想像しちゃうとえらく生々しく思えたりもしますけど。
「兄ちゃん、猫じゃらし貸してもらってもいい?」
「ああ、あっちに置いてあるからお好きに」
「はーい」
今語った理由が嘘だということはないのでしょうが、どうもそれ以外のところでも上機嫌そうな庄子ちゃんなのでした。庄子ちゃんは以前「全力猫じゃらしの刑」なる「遊び」で成美さんをダウンさせた実績があるわけですが、猫さん、大丈夫でしょうか。
とはいえ庄子ちゃんが猫じゃらしを取りに私室へ向かったところ、猫さんはその場に残されており、ならば他の人の目が届かないところで「遊ぶ」というわけではないようです。最低限タオルを投げ込むくらいならできそうなので、ちょっと安心。
「私としては本当に、庄子さんが清明とお付き合いしてくれたら嬉しいんですけどねえ」
「でもやっぱり、一番大事なのは当人の気持ちじゃないですか?」
「んっふっふ、それはもちろん」
庄子ちゃんが部屋を出た後、その庄子ちゃんの耳に届かない程度の声量で、清さんとナタリーさんはそう語らうのでした。
実の親から冗談でなく真剣に後押しされたりしたら、庄子ちゃんとしても行動を起こさないではいられないんでしょうけど……そういうことじゃないんでしょうね、やっぱり。
そんなことを考えながら庄子ちゃんのニコニコ顔が戻ってくるのを待っていたところ、それより先に「ピンポーン」と。
「おっ、やっと来たか」
車の音ならともかく、そこそこ賑やかだと階段の足音とかは拾いきれないんだなあ。なんてことはどうでもいいのですが、真っ先に動いたのは成美さん。大吾の膝から立ち上がり、とてとてと玄関へ向かいます。
「こういうのは成美さんの仕事なんだね」
「んー、まあそうだな、言われてみれば」
大吾としてはあまり自覚は無かったようですが、すっかり成美さんの仕事なのでした。しかしまあ、チャイムが鳴る前から応対に出る場合のことも考えれば、そうなるのが順当なのかもしれません。そのハンデをひっくり返して応対役を勝ち取るとなったら、そりゃよっぽどのことでしょうし。
……勝ち取るとかそんな気合い入った話でもないんですけどね、これくらいのこと。
「まあでも清サン、猫被ってるだけですよありゃ」
庄子ちゃんに続いて成美さんも席を外したところで、話題を戻す大吾。ならばもちろんそれは庄子ちゃんのことを言っているのでしょうが、
「んっふっふ、そうだとしても結構なことじゃないですか。言い換えればそれは人目を気遣えるってことなんですし」
そりゃまあ、誰に対しても無遠慮に振舞うなんてことになったらそれはそれで問題なわけで、だったらそんな清さんの言い分はごもっともなのでしょう。
ということで大吾も反論できずに唸るばかりなのですが、
「猫がどうかしたかー?」
玄関の方からそんな声が。そういうことじゃないです成美さん。
家守さんと高次さんが到着し、庄子ちゃんも猫じゃらしを手に戻ってきて、それぞれ適当な位置に座り込んで一息ついたところ、成美さんから家守さんへこんな質問が。
「着替えたら来ると聞いていたが、それにしては時間が掛かったな。いや、急かすとかそういう話ではないが」
そう長々と待ったわけではありませんが、着替えるだけだったと考えれば、まあ確かに長かったかな、とも。
「んー、ちょっとだけ休憩をね。二人のことったって仕事は仕事だったわけだし」
「んっふっふ、むしろこのお二人のことだからこそ、だったりするんじゃないですか?」
「あはは、さすがせーさん。分かってるねえ」
ちなみに家守さん、たまたまながら僕の傍に座っているわけですが――目がちょっと赤いかな、と。
だからどうだとまで言うつもりはありませんが、まあしかし、少なくともこれだけは。
「今日はありがとうございました」
言いつつ頭を下げると、栞さんもそれに倣って同じように。
「どういたしまして。と言っても、決め手はアタシらの助力よりこーちゃんとご両親の仲の良さだったけどね、どう見ても」
そこまで良いってわけでもないんですけどね、とは言わず、甘んじてその言葉を頂戴しておきました。自分でそう思わないにしても、結局はそういうことなんでしょうしね。
「すまんが家守、もう一仕事頼みたいのだが……」
そう言った成美さんが視線を送るのは、庄子ちゃんの膝の上の猫さん。彼について何を頼みたいかというのは、言わずとも知れたことでしょう。
「ああ、うん。いやあ、こういう日に来て貰えてたってのは嬉しいね。自分もゲスト側の人間だけどさ」
とはいえ、猫さんはたまたま来ていたというわけではありません。やや強引な手段で彼を呼び付けていた成美さんは、照れ臭そうな笑みを浮かべるのでした。
――で、さて。
「もういいかな?」
頭を上げた栞さんが、僕へ向けてそう言いました。その通り、これで全員揃って準備も完了です。ならばここからは皆さんが聞きたいと思っていた、そして僕達も話したいと思っていた、結果発表の時間です。
「栞さんからどうぞ」
「うん」
どう伝えたものか、予め決めていたりはしていません。が、それに準じるような会話はしていたので、それに沿うよう栞さんを促してみました。
軽く咳払いをしながら、栞さんが姿勢を正します。それはそういう雰囲気であるという以外に緊張の表れでもあるのでしょう、なんせ発表を栞さんに任せた僕までもが、同じような動きをしているわけで。
「えーと……私、今日から日向栞になりました。改めて、これからも宜しくお願いします」
周囲の面々の表情が、ぱっと明るくなります。
「それはつまりどういうことだ?」
「栞さんが日向さんのお嫁さんになったってことですよ!」
「なるほど、それはめでたいことだな。名前が変わる理屈はよく分からんが」
状況を把握するまで間があったせいか、声が大きくなっている庄子ちゃんに比べて猫さんは落ち着いた様子。しかしそれでも、しっかり祝ってくれたのでした。それでもちゃんと嬉しい――と言うより、むしろストレートに祝われるより印象強かったりするのかもしれません。
そしてストレートに祝ってくれる人達からの「おめでとう」という言葉もあって、ついつい感激が目から零れそうになったりも。
それを何とか堪えた僕の横では、栞さんが頬に一筋だけ。
親や家族からはもちろんだけど、加えて親しい人達からも認めてもらって初めて――。
うん、多分、そういうものなんだと思う。
それはもちろんこの場に居合わせていない大学の友人についても同じことが言えるわけですが、電話やメールで伝えるというのはなんだか味気ないような。というわけで、いずれ大学で会った時に直接伝えることにしておきました。
お祝いムードでわいわいしている中そんななことを考えていたところ、
「そうだ成美、上手くいったってんなら忘れる前に」
「おお、そうだった」
という大吾と成美さんの会話が耳に入りました。どうかしたの? と声を掛けようとしたところで家守さんに栞さん諸共思い切り抱き付かれてそれどころではなくなり、そんな中ただ視線だけで追ったところ、二人はそそくさと台所へ移動したのでした。
「よく頑張ったねえ、二人とも!」
「そ、そんなに頑張ったって感じでも……というか、あの、高次さん助けてください」
栞さんは家守さんの抱擁を普通に受け入れ嬉しそうにしていますし、僕だってそりゃ嬉しくはあるのですが、でもそればっかりではないのです。お嫁さんを貰っても健全な男子なのです、やっぱり。
そのお嫁さんの前でこれは不味かろうと助けを求めたわけですが、しかし高次さんから返ってきたのは、拒絶の意なのでした。
「今日だけは勘弁してやってもらえないかな。俺、水を差すのは忍びなくて」
それはつまりその、家守さんがどれだけ僕と栞さんのことを想ってくれていたのかという話なのであって、ならばそんなことを言われてしまうと、僕はそれ以上助けを求めるどころか抵抗の意思すら失ってしまうのでした。
栞さんが喜坂栞から日向栞になったという話。家守さんがそれを耳にするのは駐車場と合わせて二回目であり、しかも今の僕と高次さんの話だって聞こえていたでしょうに、それでも抱き付く力が緩められることはありませんでした。
「よかったね、しぃちゃん」
「はい」
「ありがとう、こーちゃん」
「……はい」
栞さんへは「よかったね」で、僕へは「ありがとう」。抱き付かれてみっともなく慌てふためいた直後ではあるものの――
霊能者とかを抜きにしてこの人と知り合えてよかったなあ、と僕はそう思い、その親愛の情の表現として、こちらからも家守さんを抱き返したのでした。
「んっふっふ、いい夫婦ですねえ」
「でしょうね、間違いなく」
「おや、貴方がたの話でもあるんですよ? 高次さん」
「ん? はっは、これは一本取られましたね」
この流れだったらむしろそちらがメインでしょう、なんてことを盗み聞きしながら思う僕なのでした。
で、そんな折。
「……兄ちゃんと成美さん、何やってんだろ?」
庄子ちゃんがそう呟きました。そういえばそうだった、二人とも台所で何を?
ガサゴソと物音が聞こえないでもない台所方向を気にしてみたところ、しかしサタデーがそれとは別のところへ食い付きました。
「ケケケ、この場にいたら一緒に褒めてもらえたかもってか? 本っ当に大吾と哀沢のことが好きだよなあお前は」
「んなっ! そ、そういうわけじゃ……成美さんならともかく、兄ちゃんのことなんて」
「お前たち兄妹は仲が悪かったのか? そういうふうには見えなかったが」
「い、いやいや旦那さん、そういうわけでもなくて」
「素直になれないだけだもんね、庄子ちゃ」
「ナタリーストーップ!」
にわかに大変な状況に陥った庄子ちゃんでしたが、核心を突くナタリーさんの言葉を遮ろうとしつつも実際に遮れたのは「ん」の一文字だけだったので、核心は見事に露呈してしまうのでした。
「なんだそういうことか。成美に対する大吾も前はそんなふうだったと聞くし、ふむ、さすがは兄妹といったところだな」
という猫さんの言葉に庄子ちゃん、反論はできないながら、不満はぶくぶくと膨れ上がっているようでした。
「ぐ、ぬ、ぬ、ぬ……! こ、こうなったらこの猫じゃらしで記憶が飛ぶまで……!」
実際にそんなことが可能なのかはともかく、庄子ちゃんにとってはそうせざるを得ないほど重大な失態だったようです。
が、その時。
「ワフッ」
ぱくっ。
と、ジョンが取り出された猫じゃらしに噛み付いてしまいました。いつの間にそんな庄子ちゃんのすぐ傍へ、というのはまあどうでもいいとしても、
「わーっ! ちょっとジョン、これはそういうのじゃ……いや近い! 近いけど! 近いけどでも違うよ!」
猫をじゃれされるためのものに犬がじゃれついてしまったと。確かに近くはあるのでしょうが、だからといってそれを連呼する庄子ちゃんはきっと、相当に慌てているのでしょう。
そして先端の部分がジョンの口にすっぽり収まっているためか、当の猫さんはまるで無反応なのでした。
「ワフワフワフ」
無理に引っ張ったら壊れるかも、ということなのでしょう。猫じゃらしを口から引っ張り出そうとはしつつも左右に振る程度に留める庄子ちゃんですが、ジョンもそれに合わせて顔を左右に。
とはいえそれは猫じゃらしに引っ張られているというより、自分から猫じゃらしの動きに合わせているように見えます。ならば恐らく、噛み付いたと言っても軽く咥えている程度のものなのでしょう。
そんなことしたらそれこそ壊れちゃうだろうしね、なんてことを考慮するだろうと思えるほどのジョンの利口さには、よくあることながらただただ感心するばかりです。
しかしそんなジョンの戯れもそう長く続くことはなく、猫じゃらしは無事に口から――。
「うああ、涎まみれ……」
無事、ではありますよね。多分。
ともかく庄子ちゃん、弱々しく「洗ってきます……」とだけ言い残して洗面所へ向かうのでした。
で、残された猫さんですが。
「直前に記憶がどうとか怖いことを言っていたような気もするし、恐らく助けてもらったということなのだろうな」
「ワン!」
「うむ、ありがとうジョン。犬にもいい奴はいるものだな」
そう言って猫さんが尻尾をしゅっしゅと左右に振ると、ジョンも同じくぱたぱたと尻尾を振るのでした。
というわけで、あまくに荘駐車場からこんにちは。204号室住人、日向孝一です。
「お、緊張してる顔だねえ。二人とも」
と声を掛けてきたのは高次さん。こういう時にそういうことを言ってくるのは殆どの場合家守さんなので、それだけのこととはいえちょっと意外に思うのでした。
がしかし、高次さんだからこそ、「そういうこと」ではないんだろうな、とも。
「なんでそこでこっち見て笑うかね? こーちゃん。しかも申し訳なさそうに」
いえいえ。あとすいません。
「はっは、なんとなく分からんでもないけどな。でもまあそれはそれとして――話が上手くいったって、結婚できたってことになったら、思いっきり祝われるだろうしねえ。みんなのことだし」
「なんですよね……」
こちとらそれがなくてもただ「夫婦として帰ってきた」ということだけで胸に圧迫感を覚えるほどだというのに、それを槍玉にあげられるわけですからねえ。もちろん、それは嬉しいことなんですけど。
「えーと、孝一くん。やっぱりさ」
「ん? なんですか?」
何やら尋ねてきた栞さんは、引き続き神妙そうな顔をしていました。ならばそういう顔をする必要があるような質問なのでしょうが、さてそれは。
「私、自己紹介から入ったほうがいいのかな。『喜坂栞から日向栞になりました』って」
……まあ、結婚したということはそういうことになるわけですが、しかし。
「そういえばそのへん、今まで話してきませんでしたっけね」
大多数はそうなるとは言っても、全ての例でそうなるというわけではありません。夫婦別姓のままという人もいれば、夫が妻の姓を名乗るってこともあるわけで。特に後者は目の前に実例の二人がいらっしゃいますし。
とはいえ、話してこなかったというのは何も忘れてたというわけではなく、無意識のうちに「栞さんが日向を名乗る」という前提を作ってしまっていたのでしょう。なんせ無意識なので明確にそう考えていたわけではないのですが、たった今こうして話題になってみた感じ、どうもそうだったとしか。
というわけであるならば、こう尋ねなければならないでしょう。
「栞さんはそれでいいんですか?」
今更かよ、という突っ込みどころは自覚していますが。
「うん」
神妙な顔のままそう短く返事をした栞さんはしかし、その直後、ふっと緊張が解けたように柔らかく微笑むのでした。
「喜坂栞改め、日向栞です。これからも末長く、宜しくお願いします」
その自己紹介を真っ先に受けることになったのは、僕なのでした。
それについては家守さんと高次さんが拍手をしてくれましたが、どちらかといえば嬉しいよりも恥ずかしいのでした。せめて外じゃなくて家の中だったら、というのは恐らく見当違いなんでしょう。
「帰ってきたか! どうだった!?」
ひとまず部屋に戻りましょう、ということで二階へ上がり、202号室の前を通りかかったところ、そこの台所の窓から成美さんが勢いよく顔を出してきました。
そんな成美さんは現在、小さい方の身体。それが窓から顔を出しているということは、シンクに完全に登ってしまっているのでしょう。
「ただいま、成美ちゃん」
勢いのある成美さんとは対照的に、ゆったりと普段通りの返事をする栞さんなのでした。駐車場でのこともあってか、適度にガス抜きができているようです。
「特に荷物があるわけでもないし、このまま上がらせてもらっていい?」
「もちろんだとも、さあ入れ入れ。ああ、家守達は――」
「お仕事の格好のままだから、着替えてから来ると思うよ」
という遣り取りを聞きながら、特に拘るわけでもないけど今回は僕か栞さんの部屋に集まったほうがそれっぽいんじゃないかなあ、なんてふうにも。しかし成美さんがドタドタと窓から顔を引っ込め、その後ドアが開かれたところ、玄関の履物の数を見てそんなことはどうでもよくなりました。
――ああ、やっぱり清さんももうここに来てるのか。ということはジョン達もだろうし、あとこっちの靴は……そうか、庄子ちゃんもか。
『おかえりなさい』
「ワンッ!」
というわけで、想定通りのメンバーから一斉にお迎えの言葉を頂いたわけですが、その中には想定していなかった姿が一つ。
大吾の膝の上へ座った成美さんのそのまた膝の上へ飛び乗ったのは、猫さんでした。
「ただいま戻りました。猫さんも来てたんですね」
「うむ」
その猫さんを緩く抱き留めながら、成美さんは満足げに頷きます。
とはいえ今の今まで家守さんはいなかったわけで、だったら猫さんは人の言葉は喋れませんし、同時に聞きとることもできません。もちろんたまたまここを訪ねていたということも考えられはするのですが、どうしてこうもタイミング良く?
なんて思ってみたところ、しかしこちらから尋ねるまでもなく成美さんが答えを提示してくれました。
「どこにいるかは分からないにしてもどうせこの近辺だろうからな、ということで、外でちょっと大声を上げてみたのだ。言葉は分からなくとも、声自体は覚えていただろうからな」
愛のなせる業……というのは、ちょっと大袈裟でしょうか。大声を上げるって絵面からして、そんなロマンチックさは似つかわしくないですし。
「まあだから、なんでオレらがこんな集まってるかってのもまだ伝わってはないんだよな」
「はは、皆揃って浮き足立ってることぐらいは分かるだろうけどな」
大吾の言葉に軽く笑いながら、成美さんは猫さんの顎の裏をくすぐるようにします。すると猫さん、気持ちよさそうに目を細めるのでした。
可愛いとは思うのですがしかし、いざ話し始めると大人っぽいというか貫禄があるというかな方であり、しかも事ここへ至ってまだ事情が伝わっていないというのが少々間の抜けた感じでもあったりして、ついつい吹き出しそうになってしまうのでした。
「じゃあせっかくだし、楓さんと高次さんが来るまで結果発表は後回しにしよっか。猫さんにも事情を説明して、それから」
「いいのか? うむ、では是非そうしてやってくれ。ありがとう喜坂、本人に代わって私が礼を言うぞ」
「お礼を言われるほどのこと――じゃ、ないけど……」
「どうかしたか?」
何やら言い淀む栞さんに成美さんは首を傾げますが、
「……ううん、それも後にする」
とのこと。そして栞さんは、こちらを向いてくすりと笑みを溢すのでした。
喜坂、じゃないんですもんね、もう。結果発表も同然になっちゃいますから今は言えませんけど。
「じゃあその話はあとでってことにしてよ、なあ喜坂、孝一のPARENTSってどんな感じだった?」
誰もが最も気にしているであろう話題を後回しにしたところ、次に出てきたのはそんな話題なのでした。
ちなみに話題提供者であるサタデーですが、ナタリーさんとともに清さんを雁字搦めにしています。何があってそうなったのかは分かりませんが、何もなくたってそうなり得るので気にしても仕方がないでしょう。
「すっごく優しい人達だったよ。孝一くんの話もいっぱい聞かせてもらったし」
僕からすればそれはあまり正当とは言えない評価なわけですが、まあ口を挟んだりはしません。栞さんの気分を害するような真似はしたくありませんし、それに親が気に入られて悪い気がするわけじゃありませんしね。
「喜坂さんについてのお話はどうでしたか?」
サタデーに代わって、その下の――というか内側のと言うか――清さんからそんな質問が。しかしそれについては、
「あはは、それを話しちゃったら結果が予想出来ちゃうじゃないですか」
「んっふっふ、引っ掛かりませんでしたか」
怖い見た目でいつものように笑う清さんなのでした。っていうか、引っ掛かってたらどうするつもりだったんでしょうか。
「でも、凄いよねえ。結果はまだ分からないにしても、親に会いに行っちゃうなんて」
今度は庄子ちゃんでした。
ちなみに今日の庄子ちゃん、テールは一本。その髪型からはついさっきまでの家守さんが思い起こされますが、ここへ来る時にはもう括ってはいないのでしょう。と、どうでもいいことを考えたりもしつつ。
「ん? 親に会うってだけだったら庄子ちゃんだってほら、今そこに」
「んっふっふ」
「いやっ……! これは、いやそうだけど、そういうことじゃなくて!」
外堀は逆に盛り上がって山になるくらい埋まっていますが、肝心の本丸へ踏み入れない庄子ちゃん。気の毒に、なんて言っちゃいけないんでしょうけど。
とはいえ学校ではちょくちょく会っているようですし、踏み入れないと言っても塀に足を掛けるぐらいのところまでは行っているんでしょうけどね。
「あんまモタモタしてっと、同級生の女子に手ぇ出されたりしても知らねえぞ」
「こっ、怖いこと言わないでよお……。学年差のことは本気で気にしてんだから……」
「手も出てこねえし、そうらしいな」
そこでしたり顔は兄としてどうなんだ大吾。というわけで、意地の悪い兄に代わってこの僕が。
「まあでも庄子ちゃん、学年差ったって歳にすればたった二歳の差なんだし」
「私と孝一くんなんて四歳差だもんねえ?」
「わたしと大吾なんて計測不能だぞ」
「ワンッ!」
ジョンとマンデーさんって年の差どうなんだろう? というのはまあ、いいとして。
「学校でどうだとかはあんまり関係なくなるんじゃないかなあ、付き合ってさえしまえば。まあその、中学高校でそういう経験なんて全くなかった僕が言ってもアレなんだけど」
「そうですよね!――ってここで元気よく言っても、会ったらまた何もできなくなるんでしょうけど……でもまあ、ここでそう言っとくくらいは」
それだって、ここですら元気を出せないよりはよっぽどマシなのでしょう。というわけで庄子ちゃん、今後も是非その意気で。
「頑張ってね」
「はいっ!」
僕も今日頑張ってきたから、というのはこれまた結果発表も同然になりそうなので、口に出る寸でのところでなんとか抑えておきました。言えたら割と効果のある一言だったと思うんだけどなあ。
「あそうだ、成美さん」
「なんだ?」
結果発表の後にまた機会があったら言おうかな、なんて考えていたところ、庄子ちゃんは兄の膝の上の成美さんへ声を掛けます。
「旦那さん、抱っこしてもいいですか?」
「おお、構わんぞ。むしろ歓迎だ、身内同士が仲良くしてくれるというのは」
身内同士。猫さんが旦那さんであることはもちろん、庄子ちゃんだって義妹なんですもんね、今は。猫さんも庄子ちゃんもたまにここを訪れるだけだから、二人が揃うことってあんまりないですし。
というわけで成美さんから猫さんを渡された庄子ちゃんは、彼をぎゅっと胸に抱き留めてこう言いました。
「何もしてないと清明くんの話題ばっかり振られちゃうから、浮気しときます」
「ははは、なるほどな」
誰に尋ねられるでもなく語られたその理由ですが、納得のいくものではありました。旦那さんに浮気、という字面を想像しちゃうとえらく生々しく思えたりもしますけど。
「兄ちゃん、猫じゃらし貸してもらってもいい?」
「ああ、あっちに置いてあるからお好きに」
「はーい」
今語った理由が嘘だということはないのでしょうが、どうもそれ以外のところでも上機嫌そうな庄子ちゃんなのでした。庄子ちゃんは以前「全力猫じゃらしの刑」なる「遊び」で成美さんをダウンさせた実績があるわけですが、猫さん、大丈夫でしょうか。
とはいえ庄子ちゃんが猫じゃらしを取りに私室へ向かったところ、猫さんはその場に残されており、ならば他の人の目が届かないところで「遊ぶ」というわけではないようです。最低限タオルを投げ込むくらいならできそうなので、ちょっと安心。
「私としては本当に、庄子さんが清明とお付き合いしてくれたら嬉しいんですけどねえ」
「でもやっぱり、一番大事なのは当人の気持ちじゃないですか?」
「んっふっふ、それはもちろん」
庄子ちゃんが部屋を出た後、その庄子ちゃんの耳に届かない程度の声量で、清さんとナタリーさんはそう語らうのでした。
実の親から冗談でなく真剣に後押しされたりしたら、庄子ちゃんとしても行動を起こさないではいられないんでしょうけど……そういうことじゃないんでしょうね、やっぱり。
そんなことを考えながら庄子ちゃんのニコニコ顔が戻ってくるのを待っていたところ、それより先に「ピンポーン」と。
「おっ、やっと来たか」
車の音ならともかく、そこそこ賑やかだと階段の足音とかは拾いきれないんだなあ。なんてことはどうでもいいのですが、真っ先に動いたのは成美さん。大吾の膝から立ち上がり、とてとてと玄関へ向かいます。
「こういうのは成美さんの仕事なんだね」
「んー、まあそうだな、言われてみれば」
大吾としてはあまり自覚は無かったようですが、すっかり成美さんの仕事なのでした。しかしまあ、チャイムが鳴る前から応対に出る場合のことも考えれば、そうなるのが順当なのかもしれません。そのハンデをひっくり返して応対役を勝ち取るとなったら、そりゃよっぽどのことでしょうし。
……勝ち取るとかそんな気合い入った話でもないんですけどね、これくらいのこと。
「まあでも清サン、猫被ってるだけですよありゃ」
庄子ちゃんに続いて成美さんも席を外したところで、話題を戻す大吾。ならばもちろんそれは庄子ちゃんのことを言っているのでしょうが、
「んっふっふ、そうだとしても結構なことじゃないですか。言い換えればそれは人目を気遣えるってことなんですし」
そりゃまあ、誰に対しても無遠慮に振舞うなんてことになったらそれはそれで問題なわけで、だったらそんな清さんの言い分はごもっともなのでしょう。
ということで大吾も反論できずに唸るばかりなのですが、
「猫がどうかしたかー?」
玄関の方からそんな声が。そういうことじゃないです成美さん。
家守さんと高次さんが到着し、庄子ちゃんも猫じゃらしを手に戻ってきて、それぞれ適当な位置に座り込んで一息ついたところ、成美さんから家守さんへこんな質問が。
「着替えたら来ると聞いていたが、それにしては時間が掛かったな。いや、急かすとかそういう話ではないが」
そう長々と待ったわけではありませんが、着替えるだけだったと考えれば、まあ確かに長かったかな、とも。
「んー、ちょっとだけ休憩をね。二人のことったって仕事は仕事だったわけだし」
「んっふっふ、むしろこのお二人のことだからこそ、だったりするんじゃないですか?」
「あはは、さすがせーさん。分かってるねえ」
ちなみに家守さん、たまたまながら僕の傍に座っているわけですが――目がちょっと赤いかな、と。
だからどうだとまで言うつもりはありませんが、まあしかし、少なくともこれだけは。
「今日はありがとうございました」
言いつつ頭を下げると、栞さんもそれに倣って同じように。
「どういたしまして。と言っても、決め手はアタシらの助力よりこーちゃんとご両親の仲の良さだったけどね、どう見ても」
そこまで良いってわけでもないんですけどね、とは言わず、甘んじてその言葉を頂戴しておきました。自分でそう思わないにしても、結局はそういうことなんでしょうしね。
「すまんが家守、もう一仕事頼みたいのだが……」
そう言った成美さんが視線を送るのは、庄子ちゃんの膝の上の猫さん。彼について何を頼みたいかというのは、言わずとも知れたことでしょう。
「ああ、うん。いやあ、こういう日に来て貰えてたってのは嬉しいね。自分もゲスト側の人間だけどさ」
とはいえ、猫さんはたまたま来ていたというわけではありません。やや強引な手段で彼を呼び付けていた成美さんは、照れ臭そうな笑みを浮かべるのでした。
――で、さて。
「もういいかな?」
頭を上げた栞さんが、僕へ向けてそう言いました。その通り、これで全員揃って準備も完了です。ならばここからは皆さんが聞きたいと思っていた、そして僕達も話したいと思っていた、結果発表の時間です。
「栞さんからどうぞ」
「うん」
どう伝えたものか、予め決めていたりはしていません。が、それに準じるような会話はしていたので、それに沿うよう栞さんを促してみました。
軽く咳払いをしながら、栞さんが姿勢を正します。それはそういう雰囲気であるという以外に緊張の表れでもあるのでしょう、なんせ発表を栞さんに任せた僕までもが、同じような動きをしているわけで。
「えーと……私、今日から日向栞になりました。改めて、これからも宜しくお願いします」
周囲の面々の表情が、ぱっと明るくなります。
「それはつまりどういうことだ?」
「栞さんが日向さんのお嫁さんになったってことですよ!」
「なるほど、それはめでたいことだな。名前が変わる理屈はよく分からんが」
状況を把握するまで間があったせいか、声が大きくなっている庄子ちゃんに比べて猫さんは落ち着いた様子。しかしそれでも、しっかり祝ってくれたのでした。それでもちゃんと嬉しい――と言うより、むしろストレートに祝われるより印象強かったりするのかもしれません。
そしてストレートに祝ってくれる人達からの「おめでとう」という言葉もあって、ついつい感激が目から零れそうになったりも。
それを何とか堪えた僕の横では、栞さんが頬に一筋だけ。
親や家族からはもちろんだけど、加えて親しい人達からも認めてもらって初めて――。
うん、多分、そういうものなんだと思う。
それはもちろんこの場に居合わせていない大学の友人についても同じことが言えるわけですが、電話やメールで伝えるというのはなんだか味気ないような。というわけで、いずれ大学で会った時に直接伝えることにしておきました。
お祝いムードでわいわいしている中そんななことを考えていたところ、
「そうだ成美、上手くいったってんなら忘れる前に」
「おお、そうだった」
という大吾と成美さんの会話が耳に入りました。どうかしたの? と声を掛けようとしたところで家守さんに栞さん諸共思い切り抱き付かれてそれどころではなくなり、そんな中ただ視線だけで追ったところ、二人はそそくさと台所へ移動したのでした。
「よく頑張ったねえ、二人とも!」
「そ、そんなに頑張ったって感じでも……というか、あの、高次さん助けてください」
栞さんは家守さんの抱擁を普通に受け入れ嬉しそうにしていますし、僕だってそりゃ嬉しくはあるのですが、でもそればっかりではないのです。お嫁さんを貰っても健全な男子なのです、やっぱり。
そのお嫁さんの前でこれは不味かろうと助けを求めたわけですが、しかし高次さんから返ってきたのは、拒絶の意なのでした。
「今日だけは勘弁してやってもらえないかな。俺、水を差すのは忍びなくて」
それはつまりその、家守さんがどれだけ僕と栞さんのことを想ってくれていたのかという話なのであって、ならばそんなことを言われてしまうと、僕はそれ以上助けを求めるどころか抵抗の意思すら失ってしまうのでした。
栞さんが喜坂栞から日向栞になったという話。家守さんがそれを耳にするのは駐車場と合わせて二回目であり、しかも今の僕と高次さんの話だって聞こえていたでしょうに、それでも抱き付く力が緩められることはありませんでした。
「よかったね、しぃちゃん」
「はい」
「ありがとう、こーちゃん」
「……はい」
栞さんへは「よかったね」で、僕へは「ありがとう」。抱き付かれてみっともなく慌てふためいた直後ではあるものの――
霊能者とかを抜きにしてこの人と知り合えてよかったなあ、と僕はそう思い、その親愛の情の表現として、こちらからも家守さんを抱き返したのでした。
「んっふっふ、いい夫婦ですねえ」
「でしょうね、間違いなく」
「おや、貴方がたの話でもあるんですよ? 高次さん」
「ん? はっは、これは一本取られましたね」
この流れだったらむしろそちらがメインでしょう、なんてことを盗み聞きしながら思う僕なのでした。
で、そんな折。
「……兄ちゃんと成美さん、何やってんだろ?」
庄子ちゃんがそう呟きました。そういえばそうだった、二人とも台所で何を?
ガサゴソと物音が聞こえないでもない台所方向を気にしてみたところ、しかしサタデーがそれとは別のところへ食い付きました。
「ケケケ、この場にいたら一緒に褒めてもらえたかもってか? 本っ当に大吾と哀沢のことが好きだよなあお前は」
「んなっ! そ、そういうわけじゃ……成美さんならともかく、兄ちゃんのことなんて」
「お前たち兄妹は仲が悪かったのか? そういうふうには見えなかったが」
「い、いやいや旦那さん、そういうわけでもなくて」
「素直になれないだけだもんね、庄子ちゃ」
「ナタリーストーップ!」
にわかに大変な状況に陥った庄子ちゃんでしたが、核心を突くナタリーさんの言葉を遮ろうとしつつも実際に遮れたのは「ん」の一文字だけだったので、核心は見事に露呈してしまうのでした。
「なんだそういうことか。成美に対する大吾も前はそんなふうだったと聞くし、ふむ、さすがは兄妹といったところだな」
という猫さんの言葉に庄子ちゃん、反論はできないながら、不満はぶくぶくと膨れ上がっているようでした。
「ぐ、ぬ、ぬ、ぬ……! こ、こうなったらこの猫じゃらしで記憶が飛ぶまで……!」
実際にそんなことが可能なのかはともかく、庄子ちゃんにとってはそうせざるを得ないほど重大な失態だったようです。
が、その時。
「ワフッ」
ぱくっ。
と、ジョンが取り出された猫じゃらしに噛み付いてしまいました。いつの間にそんな庄子ちゃんのすぐ傍へ、というのはまあどうでもいいとしても、
「わーっ! ちょっとジョン、これはそういうのじゃ……いや近い! 近いけど! 近いけどでも違うよ!」
猫をじゃれされるためのものに犬がじゃれついてしまったと。確かに近くはあるのでしょうが、だからといってそれを連呼する庄子ちゃんはきっと、相当に慌てているのでしょう。
そして先端の部分がジョンの口にすっぽり収まっているためか、当の猫さんはまるで無反応なのでした。
「ワフワフワフ」
無理に引っ張ったら壊れるかも、ということなのでしょう。猫じゃらしを口から引っ張り出そうとはしつつも左右に振る程度に留める庄子ちゃんですが、ジョンもそれに合わせて顔を左右に。
とはいえそれは猫じゃらしに引っ張られているというより、自分から猫じゃらしの動きに合わせているように見えます。ならば恐らく、噛み付いたと言っても軽く咥えている程度のものなのでしょう。
そんなことしたらそれこそ壊れちゃうだろうしね、なんてことを考慮するだろうと思えるほどのジョンの利口さには、よくあることながらただただ感心するばかりです。
しかしそんなジョンの戯れもそう長く続くことはなく、猫じゃらしは無事に口から――。
「うああ、涎まみれ……」
無事、ではありますよね。多分。
ともかく庄子ちゃん、弱々しく「洗ってきます……」とだけ言い残して洗面所へ向かうのでした。
で、残された猫さんですが。
「直前に記憶がどうとか怖いことを言っていたような気もするし、恐らく助けてもらったということなのだろうな」
「ワン!」
「うむ、ありがとうジョン。犬にもいい奴はいるものだな」
そう言って猫さんが尻尾をしゅっしゅと左右に振ると、ジョンも同じくぱたぱたと尻尾を振るのでした。
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