ろくでなし子どころではない? 日本人は古代から「わいせつ」だった! 考古学的に見る女性器表現
アーティストのろくでなし子氏による、女性器をモチーフにした作品を巡って、「わいせつ」の定義を問う論議が巻き起こったのは記憶に新しい。だが、現代に伝わる過去の日本の創作物を見ると、考古学的には女性器を表現した器物は珍しいものではない。
代表的なところでは、縄文時代に作られた土偶だ。土をこねて焼いた人形で種類は豊富にあるが、原則的に土偶は女性をモチーフにしている。しかも、その造形から多くは妊婦を形作っていると考えられている。推測の域は出ないものの、出生率が低いうえに、出産の成功率も不安定だった縄文時代において、妊婦は特別な存在であったのだろう。
そんな土偶のなかでも見事な女性器を表現しているのが、中ッ原遺跡(長野県茅野市)で出土し現在、国宝にも指定されている「仮面の女神」である。縄文時代後期(約4500~3300年前)のものと推定されており、顔に仮面が装着されているのが最大の特徴ではあるが、下腹部に注目すれば見事な女性器が表現されている。
ほかにも女性器表現のある土偶で国宝に指定されたのが、「合掌土偶」である。体育座りのようなポーズをしており、胸の前で手を合わせている。胸の膨らみがあることから女性であることは間違いなく、股間にも女性器が表現されている。
さらに土偶以外に、壺に注ぎ口を付けたような形をした「注口土器」も、注ぎ口を中心に女性器を表現している。また、男性器を象徴したものとされているのが、「石棒」である。男性自身をリアルに表現しており、数多くの遺跡から発掘されている。
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縄文時代が終わりから約600年経過した古墳時代でも女性器表現は使われている。代表する遺物に埴輪がある。土で作られた人形で、死者を送る儀式に使われたとされる。土偶よりもバリエーションが多いが、性器を表現したとものはそれほど多くない。代表的なところでは、宮崎県の新田原古墳群百足塚(にゅうたばるこふんぐんむかでづか)古墳で発掘された女性器と男性器を持つ埴輪がある。
土偶や埴輪の性器表現はどれもディフォルメされたもので、冒頭のろくでなし子氏の事件で取り沙汰されたようなリアル表現とはいえない。では、歴史的にリアルな女性器を表現するようになったのはいつからなのか。
その起源は定かではないが、江戸から明治時代にかけて「女拓」と呼ばれる遊びが花街で芸者遊びの一種として定着していた。
やり方は魚拓と同じで、女性器を魚に見立てて凹凸に墨を置き、紙を張り付けて形状を記録する。魚拓自体は、1839年(天保10年)に庄内藩・藩主酒井忠発によって始められたとする説が有力である。
「女拓」は芸者遊びとして定着していったが、呼び名はよりリアルに「まん拓」などと言われるようになっていった。昭和に入る頃には物好きの遊びと位置づけられて、アンダーグラウンドな文化になっていったのだ。
昭和の後半になってもわいせつ表現に対する取り締まりはあったが、正確な記録は残されていない。だが、日本人が古代から女性器を表現してきたということは間違いないのだ。
(文=丸山ゴンザレス/考古学者崩れのジャーナリスト)
※画像:「長野県茅野市ホームページ」より