若年寄の遺言

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子育ては「公的責任」?

2008年12月19日 | 政治
公務員のためいき: 保育園が倒産
↑ここに、猪熊弘子氏の書いた『AERA』(2008年11月17日号)の記事抜粋が掲載されている。

この状況を、倒産した園に預けた親の「自己責任」だというつもりなのか。保育園は子どものための施設であり、本来、行政の責任で運営されるべきものだ。公的保育の責任を放棄し、安易に企業の参入を許すやり方が、むしろ子育て不安を増幅させている。世界的な企業でも一夜で倒産する時代。子どもたちの安定した生活を守るために、保育への企業参入を見直すべき時期に来ているのではないだろうか。


以下、私見。

子育ての主体は、あくまで親である。子供が成人するまでは、親が第一次的に責任を負う。家庭で子供を育てるか、子育ての一部を保育園や幼稚園等の施設に外注するかは、親の選択に委ねられている。外注した場合にのみ、施設は、親・施設間の契約の範囲内で第二次的に責任を負う。これはあくまでも、親の第一次的な責任を前提とする補助的なものだ。

「保育園は子どものための施設」という議論は、本質を誤魔化すものだ。親は、施設に対価を払って、子育てとして子供に費やす時間と労働力を施設から買っている。保育園は親が子育てを外注する施設であり、親のための施設だ。時間、人手、建物の維持や食事の提供などは、最終的には金額に換算され、誰かが費用を負担しなければならない。これは、自治体による施設運営であろうと企業による施設運営であろうと、異なるところはない。

「公的保育の責任」の強調は、我が子への保育の責任放棄を許すことにつながる。行政の責任は、保育園を運営した場合に、誰がいくら負担したのか、子供一人当たりの保育単価はいくらなのか、そういった点を明示することにある。保育園を運営すること自体は行政の責任ではない。保育園を運営するか否かは、自治体の裁量の範囲内であり、最終的には納税者の選択に委ねられるものだ。

猪熊氏は、保育園を「子どもが生まれて初めて関わる社会」と位置づけている。そして、子供の安定した生活を確保するため、行政による保育園の永続的な運営を要求し、企業の参入を制限するよう主張している。しかし、今は「世界的な企業でも一夜で倒産する時代」なのだ。永続的な運営自体が、相当なコストを必要とする。この時代に、タダで安定が手に入るなんて甘い考えは通用しない。


ここでひとつ、逆転の発想をしてみてはどうだろうか?
「保育園の倒産は、子供にとって良い社会経験になる」と前向きに捉えるのだ。
早かれ遅かれ、子供はそういう社会に叩き落されるのだから。

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