若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

わしのかんがえたさいきょうの過疎地対策 ~内田樹の引きこもり歩哨論~

2020年11月26日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回のお題は、内田樹氏。
「内田樹のトンデモここに極まれり」
な記事を見つけたので、これをいじっていこうと思います。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン

内田樹氏の妄言が、文春オンラインという比較的影響力のありそうな会社のサイトで紹介され、この人の著作物が出版される。インタビュー形式になってますが、文春側の人はどういう気持ちでこの妄言を聞いていたんでしょうか。

たいていの人は「また内田樹かー」と聞き流していると思うのですが、たまに真に受けてしまう人がいるから困ります。つい先日も
それなりに筋が通ってる感じがしました
と言う人がいて驚いてしまいました。
内田樹氏の妄言、放置しようかと思ったのですが、当ブログで前回ネタにした宇沢弘文も登場するので、前回記事の関連記事としてアップしてみます。

※前回記事
『社会的共通資本』という駄作 ~看板が違うだけで、中身は社会主義~ - 若年寄の遺言

【根拠なき「住んでるだけで大丈夫」】

「妄言」とは、「出まかせで根拠の無い言葉」を指します。内田樹氏は、根拠のない出まかせに立脚して思い付きの施策を提言しています。

それが、「過疎地に引きこもりを住まわせよう」です。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
内田 自然の力は本当にすごいんです。廃屋って、外から見るとそれとわかるほど荒れ果てますよね。人が住まなくなると、すぐに壁がはげ落ち、瓦が落ち、柱まで歪んでしまう。前に東京で見かけた廃屋は、半年後に通りがかったら竹が屋根を突き破っていました。その家に人が住んでいる頃にも、庭には竹林があったんでしょうけれど、竹が家の下にまで根を伸ばして、床を突き破るというようなことはなかった。人間がそこに住んでいるというだけで、自然の繁殖力は抑制されるからだと思います。
======【引用ここまで】======

内田樹氏は、「人間がそこに住んでいるというだけで、自然の繁殖力は抑制される」という考えをもっており、この妄言を元に主張を展開しています。
これについては、内田樹氏の発言に理解を示す方から、
何にもしないで、ただ人が居るだけなら、そりゃ竹も生えてくるでしょうけど、人が住む以上、雑草抜いたり竹の子採ったりするでしょ…ていう前提の話だと思いますよ
という擁護発言があったのですが、前提としての軽作業の必要性について、内田樹氏本人が明確に否定しています。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
もう1つアイディアがあるんですけれど、それは「引きこもり」の人たちに「歩哨」をしてもらうというものです。

 一説によると、日本にはいま100万人の「引きこもり」がいるそうです。その人たちに過疎の里山に来てもらって、そこの無住の家に「引きこもって」もらう。里山だと「そこにいるだけで」、里山を自然の繁殖力に呑み込まれることから守ることができる。部屋にこもって1日中ゲームやっていても、ネットをしていても、それだけで役に立つ。

======【引用ここまで】======

わざわざ括弧付きで
過疎の里山に来てもらって、そこの無住の家に「引きこもって」もらう
里山だと「そこにいるだけで」、里山を自然の繁殖力に呑み込まれることから守ることができる
と述べています。さらに重ねて、「部屋にこもって1日中ゲームやっていても、ネットをしていても、それだけで役に立つ」と述べています。



・・・そんなわけがあるか(笑)

反例として↓をご覧ください。
自然が自宅に迫ってくる恐ろしさ、その対応の大変さが伝わってきます。

〇竹害ひどい、我が家の竹害問題と対策

竹林が範囲を広げてくると、そこに人が住んでいても関係ありません。住んでいる人が竹を切って掘って薬撒いて重機を入れて、やっと竹害を抑えることができます。住んでいるだけで竹の繁殖力が抑制される・・・なんてことはありません。庭に竹林があれば、根の伸びる方向によっては床の下にやってきます。それが竹になり、床を押し、ある日「あれ?床が盛り上がってる?」となって初めて、住んでいる人が気付くわけです。住んでいる人間としては、「床を突き破られたら大変!」と床下に潜って竹を切り、根を絶ち、竹林も伐採し、必要なら薬も撒いて、重機で掘り起こして、それでようやく床を突き破られるのを防ぐことができるのです。引きこもりが家でじっとして事足りる案件ではありません。ちょっとした軽作業のレベルでもありません。

人が住むことで、建物内部の換気が出来たり、部屋に虫が常駐するのをある程度防ぐことができ、その結果部屋の壁や天井はいくらか長持ちするかもしれません。しかし、引きこもりが部屋の中にいるだけでは、家周辺の植物の繁殖は抑えられません。自然の力は本当にすごいんです。引きこもりが部屋にいるだけでは、自然の繁殖力に飲み込まれます。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 昔はどんな神社仏閣でも「寺男」とか「堂守」といわれる人たちがいました。門の開け閉めをしたり、鐘を撞いたり、掃除をしたり、たいした仕事をするわけでもないのですが、広大な神域や境内に人が1人いるだけで大きな建物が維持されて、森に呑み込まれるということは起きなかった。
======【引用ここまで】======

おじいちゃん、住んでいるだけじゃダメなんですよー

おじいちゃんが知らないだけで堂守さんはいろんな仕事をしているんですよー

引きこもりを移住させても、家でずっとゲームしてたら家の周りは荒れ放題ですよー

内田おじいちゃんは自分とこの家や道場をどう管理してるのかなー?全部人任せかなー?

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
内田 人間はフロンティアを開拓して、自然を後退させてきたわけですけれど、これからの人口減少時代では、自然の侵略を防いで都市文明を守ることがフロンティアの仕事になる。
======【引用ここまで】======

フロンティアの開拓には、そりゃあ大変な労力が必要です。無数の木を切り倒し、獣を追い払い、大岩を取り除き、飲み水を確保し、仮住まいをこしらえ、地面を均し、家を建て、土を耕し、植えた作物が実るまでの間の食糧を確保しなければいけません。
フロンティアの維持にも相当な労力が必要です。草刈を継続しなければすぐ荒れ地に戻りますし、耕し続けなければ田畑としての機能が著しく低下します。雨が降れば、排水路や道が川のようになり崩れることも考えられます。水が滞れば虫が湧きます。家も修繕しなければいけません。

自然災害、天候不良、凶作、野獣の襲撃、様々な理由により開拓途中で諦めた人、開拓後に維持管理できずに元の場所へ帰った人、そこで亡くなった人もいたことでしょう。

昔は、農業・林業によって得られる利益やメリットが、開拓・維持に伴う危険性や労力といったデメリットを上回っていたから、里山での生活が成り立ったのです。ある程度の自給自足の能力を備えた人が、「今のままでは生活が行き詰まるけど、あの山を切り拓けば今よりも飯が食えるかもしれない」というインセンティブに導かれて開拓に従事したことで、人間の生活する範囲は広がっていきました。その当時の技術・生活様式等々に照らして、里山を開拓し維持することでその当事者が以前よりも豊かになれたから、人の住む場所が広がったのです。

その後、技術革新や生活様式の変化によって、里山を開拓し維持するメリットが相対的に減少しました。米も野菜も、機械と肥料を使って平地で大規模に実施する方が、安くて大量に生産できます。人々は、不便な山間部よりも便利な平地の都市を選びました。昭和から平成、令和にかけて、人々は仕事や利便性を求めて里山から都市へ移住していきましたが、この移住した人々は里山に戻ることはほとんどなく、その子供達も都会に住み続けています。

【コスト無視した机上の空論】

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 いまの地方政策は、コンパクトシティ構想に見られるように、過疎地を積極的に無人化して、住人を地方の中核都市に集めて、行政コストを下げるという発想です。住人を1か所に集めてしまえば、交通網や通信網や社会的インフラの整備コストが一気に削減される。官僚たちはそういうことを机の上で電卓を叩いて計画しているのでしょうけれども、実際には里山が無人化すると、自然と文明の緩衝地帯がなくなる。そうなると、都市のすぐ外側にまで森林が迫り、野獣が徘徊するようになる。

 文明を守るためには、自然と都市の中間に里山が広がっていることが絶対に必要なんです。里山は自然の繁殖力を抑制し、それを人間にとって有用なものに変換する装置です。

======【引用ここまで】======

里山が無人化し、都市のすぐ外側まで森林が迫り、野生動物が徘徊するようになる。これは確かにリスクかもしれません。この野生動物に対し、都市住民が都市において直接的に対峙するコストと、都市から費用を出して緩衝材としての里山を維持し里山を盾として野生動物に対処するコストと、どちらが大きいのでしょうか。里山を維持するための労力を考慮せずに、

文明を守るためには里山が広がっていることが絶対に必要なんです

などと述べるのは、官僚もビックリな机上の空論です。

内田樹氏としては、
建前「自然と都市の中間に里山が広がっていることが絶対に必要なんです
本音(自分の生活圏が野生動物の生活圏と接するのが絶対に嫌なんです
という事なんでしょう。

人間の生活圏と野生動物の生活圏とは、どこかで接点を持っています。その接点を里山とするか、都市で直接接するかは、その地域や時代の技術や生活様式等によって異なります(海外では、ハイエナが城壁を越えて街へ入り込み、商店や民家の間を普通に歩いている光景も見られる、とか)。人間と野生動物とが接する部分では、どう接するかに知恵や工夫を施さなければいけません。リスクやコストを無視してはいけません。

【根拠なき「全人口の5分の1は里山に住むべき」】

内田樹氏の妄言は続きます。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 経済学者の宇沢弘文先生によると、全人口の20-25%くらいは農村に住まなくてはならないそうです。いま日本の農業従事者は人口の1.3%です。農村人口というのは別に農業従事者のことではありません。自然の過剰な繁殖力を抑制するために里山に住む人たちのことです。宇沢先生が出した20~25%の農村人口という数字にはそれほどきちんとした統計的な根拠はないんじゃないかと思います。割と直感的な数字だと思います。でも、この直感を僕は信じます。全人口の5分の1くらいは都市ではなく、里山エリアに住んだ方がいい。そこで年金生活をしてもいいし、作家活動をしてもいいし、音楽をやってもいいし、陶芸をしてもいい。とにかく里山に「人がいる」ということが大事なんです。
======【引用ここまで】======

はい出た、社会主義とほとんど見分けがつかない「社会的共通資本」でお馴染みの宇沢弘文です。

宇沢の信奉者曰く、数理経済学者としての業績はノーベル賞級らしいのですが、その後の「社会的共通資本」の提唱については哲学者・・・風のただの居酒屋談義のオジサンというのが、私の感想です。内田樹氏と同じ穴のムジナです。

そんな数理経済学者であったはずの宇沢の「全人口の20-25%くらいは農村に住まなくてはならない」という主張に、内田樹氏は賛同しています。ただ、宇沢も内田樹氏も、きちんとした統計的な根拠は持ち合わせていません。宇沢の著書『社会的共通資本』を読んでみても、その根拠は不明です。

全人口の5分の1くらいは都市ではなく、里山エリアに住んだ方がいい。

と述べる内田樹氏ですが、自身が館長を務める凱風館ってどこにあるの?
当然、どこかの山奥か限界集落だよね?


・・・と思っていたら・・・

・・・ええええっ、神戸市の市街地ですって!?!?!?


よし、凱風館をどこかの限界集落か消滅集落に移転させ、内田樹氏と道場に通う門下生達を歩哨として送り込もう。門下生全員が難しいなら、まずは内田樹氏ひとりでもいい。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
そういうミクロな求人とミクロな求職をマッチングする仕組みができれば、かなりの数の「引きこもり」が里山の「歩哨」として暮らして、かつて西部開拓者が経験したような達成感や全能感を経験して、メンタル的に回復するというようなことが起きるんじゃないか。そんなことをぼんやり夢想しています。

――やりたがる人、意外に多いと思います(笑)。

内田 フロンティアを守るのに実はそんなに頭数は要らないんです。大伽藍を守るのに「寺男」が1人いて、寝起きしているだけで十分だという話をしましたけれど、西部開拓でもそうなんです。

======【引用ここまで】======

フロンティアを守るのに、そんなに頭数は要らない。大伽藍を守るのに寺男が一人いて寝起きしているだけで十分なんです・・・よね?

インタビューの聞き手をしている文春オンライン側の人も、
やりたがる人、意外に多いと思います(笑)。
と悠長な事を言ってますが、真夏に草刈りを3時間した次の日にまた草刈りをしなきゃいけないとなったら、(笑)とか出てこないでしょうね。
凱風館移転に合わせて一緒に限界集落に住んだらいいと思います。

【「逆ホームステッド法」?】

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
 僕が提案する「逆ホームステッド」法は、放置された私有地や無住の家屋を自治体が接収して、コモンにして、そこに住んで5年間生業を営んだ人に無償に近いかたちで払い下げるというアイディアです。
======【引用ここまで】======

70年ほど前、日本で似たような事をやりました。政府が地主から土地を接収し、小作人に無償に近い形で払い下げる「農地改革」です。

農地改革の結果、小作人は喜びました。しかしその後、農地が農家一軒ごとに細切れにされたため、農業の規模拡大・効率化は阻害され、非効率な三ちゃん農業を細々と続けています。そうした兼業農家が、農業従事者のかなりの割合を占めています。農業は家業であって就職先にはならない、というイメージが固定化され、若者は就職先のある都会に出ていく・・・農村の衰退、過疎化の原因を辿っていくと、平等主義的な農地改革の失敗があります。

放置された土地・建物について、
「この土地を買おうと思ったのに、名義人は20年近く前に死んでいる。相続人が全部で数十人いる。誰が所有者か分からない。相続人を追いかけるのは事実上不可能だ」
といった事態は実際に生じています。これに対処するため、民法等を改正し、所有関係を整理する手段を定めるのは良いかもしれません。

しかし、所有者は分かっているがその所有者が放置している場合に、自治体が接収するのは、単なる財産権の侵害であり正当化できません。欲しいと思った人が、対価を払って所有者から買えば済む話です。内田樹氏や故宇沢弘文といった老人の思い付き妄言を実現するために、自由の基礎である私有財産制を犠牲にするなんて以てのほか。

日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン
======【引用ここから】======
もともと土地というのは私有すべきものではないと僕は思っています。一時的に公共のものを借りて使用しているだけで、使用しなくなったら、再び公共に戻すということでよい。
======【引用ここまで】======

宇沢弘文を信奉する社会主義者が、馬脚を露しましたよ。

「人口の20%程度は里山に住むべきだ。引きこもりが里山に住んだらいい」
という妄言は、個人の自由や個人の選択を蔑ろにし、コストやリスクの度外視に基づくものですが、この根底には社会主義・全体主義的な考え方があるのです。

何もしない引きこもりは過疎地へ送り込め、そうすれば社会全体の役に立つ・・・これって、杉田水脈氏の「生産性」発言と同じレベルの問題発言だと思うのです。少子化対策にならないからLGBTへの税金投入は正当化されないという杉田氏と、里山を維持するために自治体が引きこもりを里山に住まわせろという内田氏、この両者は一定の社会目標を達成するため個人の生き方に政府が介入しようとする点で共通しています。

「LGBTには生産性がない」? JobRainbowが改めて解説 | LGBT就活・転職活動サイト「JobRainbow」
======【引用ここから】======
このように、「社会に役立つ」「社会に役立たない」という基準で人の価値を判断するのは、いずれ「役立たない人は生きている価値がない/他の人よりも価値が低い」という考え方(優生思想)に結びついてしまいます。
======【引用ここまで】======

ということで、前回は宇沢弘文の『社会的共通資本』を買って読んで批判したのですが、今回の文春オンラインで宣伝されている内田樹氏の『コモンの再生』は、絶対に買いません(笑)。もう、おじいちゃんの妄言にお金を出したくありません。

『社会的共通資本』という駄作 ~看板が違うだけで、中身は社会主義~

2020年11月14日 | 政治
どうもこんばんは、若年寄です。

今回は、批判のためにわざわざ買ったけど、あまりにも面白くなくてためにならないので途中で積読になっていた、宇沢弘文著『社会的共通資本』を読んでの素人感想文です。

【社会的共通資本とは】

宇沢弘文は、本書の中で、そのタイトルでもある「社会的共通資本」という概念について

======【引用ここから】======
社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。(『社会的共通資本』はしがきⅱ頁)
======【引用ここまで】======

と説明しています(もう冒頭から妄想お花畑感が漂っていて吐き気がします)。この社会的共通資本の具体例として、河川、森林、道路、交通機関、医療、教育、さらには都市や農村等々を挙げています。こうした社会的共通資本は、

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。
資本主義における私有に委ねて企業が利益をむさぼることを排除しなければならず、同時に、社会主義における国有も否定して官僚統制に陥ることも防止しよう、ということのようです。そのために、信託・共有といった形態をとって、各分野の専門家の職業的規範に従い管理運営することで、

======【引用ここから】======
資本主義と社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限享受できるような経済体制(『社会的共通資本』はしがきⅰ頁)
======【引用ここまで】======

を実現しよう、それが社会的共通資本の理念だ、と主張しています。
こうして見てみると、宇沢は、資本主義と社会主義の両方を批判して、第三の道として「社会的共通資本」を提唱している・・・ように見えます。しかし、その内実はちょっと違います。

「ソ連が方法を間違えただけで、社会主義自身は正しい考え方なんだ」という左派リベラルの方を見かけたことがありますが、その元祖は宇沢かもしれません。

======【引用ここから】======
1917年のロシア革命を経て、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が正式に成立したとき、経済学の理論的、思想的考え方が、一つの政治体制として現実に存在しうるようになったことに対して、世界の多くの人々は心から祝福し、その将来に大きな期待をもった。また、第二次世界大戦を契機として、かつての帝国主義的植民地であった国々が独立し、その多くが社会主義を建国の理念として新しい国づくりの作業を始めたとき、私たちは、新しい時代の到来を心からよろこんだのであった。しかし、その後の社会主義諸国の経済的、社会的展望は必ずしもこのような楽天主義に応えるものではなかった。とくに、スターリンによって東欧諸国が社会主義に組み込まれていったプロセスについては、その暴力的、強権的手段に対してつよい批判と反感をもつことになった。(『社会的共通資本』13頁)
======【引用ここまで】======

社会主義国に組み込むプロセスや手段が暴力的であったり強権的であったのが悪かったけれど、戦後に社会主義諸国が出来た当初はその理念に賛同し心からよろこんだ事が窺えます。強権的で官僚的な統制が悪いのであって、そこさえ改善できれば社会主義の当初の理念を達成できる、というニュアンスは、本書の至る所にちりばめられています。社会主義国成立前から社会主義を批判していたミーゼスと比べると、だいぶ格が落ちますね。

宇沢弘文を評した著作に『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』といったタイトルが付くように、宇沢の社会的共通資本の考え方は、社会主義に親和的で、資本主義批判に軸足が置かれています。

いや、一応は社会主義も批判してはいます。

======【引用ここから】======
過去70年にわたる社会主義諸国の経験が明白に示すように、計画経済は、中央集権的な性格をもつものはいうまでもなく、かなり分権的な性格をもつものについても、例外なく失敗した。その原因は、一部分、計画経済の技術的欠陥にあったが、より根元的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった。(『社会的共通資本』18頁)
======【引用ここまで】======

ただ、この社会主義についての反省が、社会的共通資本には活かされていません。

【専門家の官僚化】

冒頭挙げたように、宇沢は

======【引用ここから】======
国家の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。(『社会的共通資本』5頁)
======【引用ここまで】======

と述べています。このくだりに、宇沢自身による「計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾する」という社会主義批判が全く活かされていません。社会主義官僚を専門家に置き換えただけなんですよ。なぜ社会主義国では独裁的な政治権力が生じ、官僚が力を振るい、そして官僚による計画経済の運営が行き詰まったのかの考察がほとんど無く、管理人を官僚ではなく職業的専門家に置き換えただけなので、同じ轍を踏むんだろうとしか思えません。職業的専門家も官僚も同じ人間なのだから、作り手が替わったところで、多数の市民に適用される制度、基準は、人の数だけ存在する個々人の内発的動機と矛盾・衝突するに決まっています。

社会主義国においては、私有は否定され国有となりました。その国有となった資源・財産の使用・分配状況や人事を記録する役職に過ぎなかったはずの「書記」、その取りまとめ役の「書記長」が、社会主義国においては絶対的な権限を持つ肩書となりました。

本書には、社会的共通資本における信託・共有財産について、その管理運営を行う専門家の代表が権力を持って「書記長」化するのを防ぐ手立てや専門家管理の危険性についてすらほとんど言及がありません。宇沢は、医師や学者といった専門家に対し、過ちを犯すな、強権を振るうな、官僚のように杓子定規に統制するなと求めてはいますが、それを実現するために提唱している方法が甘々の激甘です。

======【引用ここから】======
病院をはじめとするさまざまな医療施設・設備をどこに、どのようにつくるか、医師を始めとする医療に従事する職業的専門家を何人養成し、どこに、どのようにして配分するか、またどのようにして、実際の診療行為をおこなうか、さらに、診療にかかわる費用、とくに検査・医薬品のコストをだれが、どのような基準で負担するか、などにかんして、なんらかの意味で、社会的な基準にしたがって、希少資源の配分がおこなわれる。
 しかし、この、社会的基準は決して官僚的に管理されるものであってはならないし、また市場的基準によって配分されるものであってはならない。それはあくまでも、医療にかかわる職業的専門家が中心になり、医学に関する学問的知見にもとづき、医療にかかわる職業的規律・倫理に反するものであってはならない。そのためには、同僚医師相互による批判・点検を行う ピアーズ・レヴュー(Peers' Review)などを通して、医療専門家の職業的能力・パフォーマンス、人格的な資質などが常にチェックされるような制度的条件が整備されていて、社会的に認められているということが前提となる。
(『社会的共通資本』169頁)
======【引用ここまで】======

専門家の相互チェックで多少の不正は防げるかもしれませんが、それで効率的かつ公正な分配ルールが作れるのか。分配を行い基準を作成する人の相互による批判・点検等で能力や人格をチェックするだけでOKなら、社会主義は失敗していません。

社会主義においては、管理と分配を行う官僚が優秀で道徳的であると考えていたはずです。同様に、社会的共通資本においても、管理と分配を行う職業的専門家が優秀で道徳的であることが求められます。社会主義において優秀で道徳的である人だけが官僚になるわけではないのと同様に、社会的共通資本において優秀で道徳的である人だけがその分野の専門家になるわけでもありません。しかも、どちらにおいても、優秀で道徳的な人が管理と分配を行う地位に就いたとしても、効率的で公正な資源分配なんて誰にも分からないのです。

社会主義の弊害として、まず、私有を否定し国有としたことにより、国民は一生懸命に働く動機を見失い、働くよりも配分権限を持つ官僚に接近することが生活向上への近道となってしまう点があります。また、計画経済ではどこに資源を投じる事が効率的でどこでどういったヒト・モノ・カネが必要なのか、そういった判断を全て官僚が行いますが、判断を行うための能力や情報を官僚が持っていないという点、も挙げられます。国民のインセンティブの歪みと、官僚の情報把握・処理能力の限界です。

【金は出せ、口は出すな】

社会的共通資本を管理運営するためにも、ヒト・モノ・カネが必要です。社会的共通資本としての河川、森林、農村、道路、交通機関、医療、教育等々を維持し運営するための費用を、宇沢はどこから捻出しようとしていたのでしょうか。

「社会的共通資本!
  社会的共通資本!
   社・会・的・共・通・資・本!!!!」

と念仏を唱えることで、ヒト・モノ・カネが宙から湧いてくる・・・なんてわけはありません。
仮に、社会的共通資本の運営費用を税金で賄うのであれば、税金を徴収し、これを分配する作業が必要不可欠となります。

宇沢は、大学運営を例に挙げて、

======【引用ここから】======
イギリスの大学では、かつて「政府は金は出すが、口は出さない」というモットーが、大学のあり方を象徴していた時代もあった。(『社会的共通資本』154頁)
-----(中略)-----
私がいたケムブリッジ大学のカレッジは、ほとんど大学の理想像に近いものであった。それからずっとのちになって、社会的共通資本としての大学のあり方を考えるとき、私が心のなかに描いていたのはいつも、このカレッジのイメージであった。(『社会的共通資本』159頁)
======【引用ここまで】======

政府は金は出すが、口は出さない」という態度こそが、社会的共通資本の分野に対する政府のあるべき姿勢であると述べています。

しかし、税収は有限です。そうである以上は、税金を徴収し分配する権限を持つ者に対し、分配要求額を伝え、その金額が必要な理由を説明し納得させなければなりません。税金に依存する限り、徴収と分配の実務を取り仕切る官僚の意向は無視できません。

 社会的共通資本としての河川を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての農村を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての道路を維持管理するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての医療を管理運営するためには、〇〇円必要です。
 社会的共通資本としての・・・

・・・この金額を、各分野からの言い値で全額支払うことはできません。もし、金庫番が単年度だけでも各分野からの言い値で支払ってしまったら、翌年度から、各分野の中の人は
「言い値で政府は払ってくれるなら多めに要求しちゃえ」
となり、その瞬間に財政はパンクします。実際にパンクしそうになって行き詰ったのが、「ゆりかごから墓場まで」でお馴染みの当時のイギリスでした。

各分野からの要求額そのままでは支払えない、じゃあどうするかということで、金庫番役の官僚と各分野の交渉責任者が折衝し、金庫番が各分野における個別の事業の中身を聴いて必要性を判断し、聴き取った中での優先順位をつけて、税収とにらめっこしながら予算を配分していくことになります。その過程で、
「その業務、必要?」
「それを実施するためにこの金額は高くない?」
「今年しなきゃダメ?」
「それをやるならこういう形で管理してね」
といった形で、金庫番から各分野の事業に対し口が出されることになります。

予算折衝が、

 財務省 vs 各省庁

であれ、

 財務省 vs 社会的共通資本の各分野の代表

であれ、税金の配分である以上はやる事はそう変わらないでしょう。

【補助金分配のブラックボックス】

各分野の交渉担当者が、金庫番から予算を勝ち取ったとします。すると、この各分野の交渉責任者が、今度はそれぞれの分野の中で予算を分配することになります。予算配分権限を持つ交渉責任者が、分野の中の構成員や団体、事業者からの要求を聴き取り、それぞれに予算を配ることになります。

この交渉責任者が、公正に分配するとは限りません。交渉責任者との縁故で分配が決まるかもしれません。また、個別の事業者や団体への分配額の多寡を他の事業者や団体に説明できるようにするため
「▲▲の条件を満たし、◆◆について毎年報告すること」
といった分配基準を設ける、なんてことも想定されます。

財政民主主義の観点からは、予算配分の必要性をきちんと説明し、配分された予算は使途を明確にできることが重要となります。こうした財政民主主義と、「政府は金は出せ、口は出すな」と要求する社会的共通資本の理念とは相性が悪いと言わざるを得ません。社会的共通資本の議論は、使途不明金が発生するのを黙認し、むしろ推奨しているようなものです。納税者に対し、必要性が説明されていない事業、必要性を説明できない事業に金を使われるのを、黙って許可しろと求めるのは理不尽だと言うほかありません。

宇沢が理想の例として挙げたイギリスのUGC(大学補助金委員会)にしても、UGCが政府から予算を獲得し、これを各大学に分配する際に「不透明な分配だ」「ブラックボックスだ」といった批判が出されています。

この頃、UGCを介して補助金の配分を受ける大学が増えるのと同時進行で、他の社会福祉経費をはじめ各支出項目も膨れ上がり、国民の勤労意欲が失われるイギリスの社会主義化・英国病が蔓延しています。これに対処するため、社会福祉の見直しや補助金の削減、国営企業の民営化等々が行われ、1989年にはUGCも廃止されたわけですが、この前後の流れについて宇沢は、

======【引用ここから】======
1968年、UGCは大蔵省から教育・科学省に移管されることになって、イギリスの大学はまったく新しい環境に置かれることになった。教育・科学省が、大学における予算配分の過程に対して細部にわたって監督するようになり、同時に、大学における研究、教育の内容にまで、専門的な立場から容喙するようになった。とくにサッチャー政権となって、大学関係の予算を大幅に削減するという暴挙に出てから、大きく変質しはじめ、かつての、自由で、闊達な雰囲気が失われてしまった大学が多くなったという。(『社会的共通資本』161頁)
======【引用ここまで】======

と、政府による大学への介入や大学予算削減を「暴挙」とだけ評し、ではなぜこうした措置が取られたのかについての考察、言及がほとんどありません。宇沢にとって不都合だったのでしょう。
経済学の根本にある希少性を軽視し、財政民主主義や公金支出の説明責任をそっちのけで「政府は金は出す、口は出さない」を推奨する宇沢は、不誠実だなぁと思わずにはいられません。宇沢の数理経済学者としての実績は門外漢なのでよくわかりませんが、日本に戻ってからの「社会的共通資本」の主張は、居酒屋談義として聞き流して良いレベルだと思います。

社会主義に傾倒する人は、善意の人が多い。宇沢も、資本主義下で生じた分配の不公正や格差を嘆く善意の人でした。しかし、善意で分析をゆがめてはいけません。
宇沢は、本書の冒頭で新古典派経済学を

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資源配分の効率性のみを問題として、所得分配の公正性については問わない(『社会的共通資本』30頁)
======【引用ここまで】======

学問であると批判し、経済学とは本来、

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分配の公正、貧困の解消という経済学の本来の立場(『社会的共通資本』41頁)
======【引用ここまで】======

であると述べています。
これって、宇沢個人の願望ですよね?
私は、経済の仕組みや経済活動に見られる法則を分析・研究するのが経済学だと思っていたものですから、本書のこの記述を見て
「分析に願望が入っちゃってない?」
と残念に思ったものです。

資本主義批判、市場原理批判からスタートし、社会主義批判については「社会主義は官僚統制が悪い。専門家の管理にしたらきっと上手くいく」程度でお茶を濁して済ましている宇沢。そもそも、本当に資本主義における分配は不公正なのでしょうか。公正な分配とは一体何なのでしょうか。相対的貧困、格差は資本主義を否定しなければならないほどの問題なのでしょうか。

【社会的共通資本の極めて小さな可能性】

もし、社会的共通資本の理念が上手くいく場面・分野があるとしたら、特定の社会的共通資本を共同所有とし、その所有者・利害関係者・ステークスホルダーがある程度狭い範囲で限定可能な場合であって、かつ、管理運営費用が所有者・利害関係者・ステークスホルダーの任意の負担によって賄われている場合、位でしょうか。

本書で登場した「三里塚農社」構想は、その範囲が狭い範囲に限定されていることから、もし関係者の土地集約や関係者からの運営費用徴収の仕組みができれば、上手くいったかもしれません。しかし、関係者からの賛同が得られず構想倒れに終わっているようです。

二重行政を解消しようとするならば、本丸は「都道府県の廃止」 ~大阪都構想否決結果に寄せて~

2020年11月12日 | 地方議会・地方政治
どうもこんばんは、若年寄です。

大阪府・大阪市の二重行政を解消しようと、大阪維新の会が大阪市を廃止して4つの特別区に再編する「大阪都構想」を打ち出し、住民投票を仕掛けていました。
これが、令和2年11月1日の投票の結果、賛成少数で否決されました。

〇「大阪都構想」再び否決 松井大阪市長 任期全うし政界引退へ | 選挙 | NHKニュース
「賛成」67万5829票
「反対」69万2996票

【二重行政とは何か】

大阪維新の会は、大阪府と大阪市の二重行政を解消するため大阪市を廃止しようとしていましたが、そもそも二重行政とは何でしょうか。

二重行政とは、中央省庁と都道府県庁で同じような業務を実施し、あるいは都道府県庁と市町村役場で似たような公共施設を建設する等、複数の行政機関で公共事業が重複している状態を指します。二重行政の状態では、機能の同じ建物が近くにできてしまう無駄が生じたり、何かをしようとした時に中央省庁と都道府県庁、都道府県庁と市町村役場のそれぞれから許可を得たり調整しなければならないという非効率が生じます。

例えば、こちら

〇「国と地方の二重行政」の弊害の事例 福岡県
労働関係紛争、バリアフリー、職業紹介、職業訓練、商工会議所への指導、理美容の許認可、水産物販売・・・
様々な分野で中央省庁と都道府県庁が縄張り争いを繰り広げ、シマでの権益を主張しています。
「うちのシマで何やっとんじゃ、よそものが口出すんじゃねぇ」
「お前らこそ俺の縄張りで何勝手なことしとんじゃ」
って、まるでヤ〇ザですね。

【都道府県庁と市町村役場】

また、都道府県庁と市長村役場での二重行政もあります。

例えば、こちら。

事前協議について | 長崎県
特定施設入所者生活介護事業所 事前協議の流れ

お分かりいただけるでしょうか。

事業者が事業を始めようとする時に、介護保険の保険者である市町村と話をし、県とも話をしなければならない構図となっています。事業者からすれば、県と市町村の両方とやり取りをしなければならない事になります。さらに、市町村がOKを出したとしても、県がNOと言えば手続きはやり直しという非効率さ。

自分が事業者なら、
「なんだよここの県。面倒くさいなぁ。早く書類受理して手続きを進めろこの税金泥棒め」
「県庁と役場で言う事が違ってごちゃごちゃ煩いから、他の県で事業しようかな」
と思うところです。
(ちなみに、法律上は、事業者がやり取りすべきは県のみであり、市町村は意見書という形で出てくるだけ、という流れになっています。法律で定められた指定権者としての県の事務を、要綱レベルで勝手に市町村事務にしてしまう事は法律上問題無いのでしょうか。)

日本が生産性を低下させ国際的な地位を年々低下させているのは、様々な分野に張り巡らされた規制の多さ・複雑さであると指摘されています。規制の複雑さに拍車をかけているのが、これです。複数の行政機関の間で、ある時は権限を奪い合い、ある時は事務負担を押し付け合うことを繰り返す中で、複雑さ・非効率さがどんどん増していきます。
中央省庁の省庁間での権限争い、自治体内部での担当部署争いという「縦割り行政」と、中央省庁・都道府県庁・市町村役場という水平方向での重複という「二重行政」、縦と横に入り組んだ規制によって、個人や企業は雁字搦めになっています。その中で、無理強いされる無駄な作業のなんと多いことか。

【補完性の原理】

さて。

行政用語で、「補完性の原理」という言葉があります。地方自治における基本的原理とされているものです。

 個人でできることは個人で
 個人でできないことは家族で
 家族でできないことは地域で
 地域でできないことは最小の自治体単位で
 最小の自治体単位でできないことは広域的な行政単位で
 広域的な行政単位でできないことは国(中央省庁)で

というように、問題解決を出来るだけ身近な単位で処理し、それが出来なかった時に初めて一つ大きな単位での処理を検討する考え方です。これは、個人・家族・地域でできることに行政は手出しすべきでない、とするもので、「小さな政府」の考え方とも馴染みやすい理念だと思います。

さてこの時、最小の自治体単位は市町村であるわけですが、広域的な行政単位は即ち都道府県・・・とはなりうません。特定の問題について単独の市町村では解決できない場合に、複数の市町村で広域的に取り組めば対処できるものがほとんどだからです。隣り合う4~5市町村で解決できる事柄について、数十の市町村を管轄する都道府県が出てくる必要はありません。逆に、隣り合う市町村では対処できない、数十の市町村を管轄する規模でなければ対処できない事例って何があるでしょうか。

個別事案ごとに必要性に応じて広域連合を作れば足りるわけですし、その個別事案が消滅したり広域処理が不要になれば解散させる必要があります。恒久的に市町村役場よりも広域的な団体として都道府県庁を置いておく必要はなく、むしろ恒久的に置いておくことで、都道府県庁が自己増殖的に不要な業務を勝手に作ってしまいます。有害です。

【二重行政は都道府県/政令市に限らない】

今回、大阪維新の会は、現行の地方自治法の中で出来る事、出来ない事を考慮した上で、二重行政を解消する方策として「大阪市の廃止と特別区化」を大阪市民に提示しました。そして否決されました。

二重行政の問題は、大阪府/大阪市だけで生じているのではありません。大阪府と府内全ての市町村でも生じており、また、全国各地の都道府県と市町村の間でも生じています。今回、大阪市を廃止することはできなかったわけですが、二重行政の問題は大阪市固有の問題ではなく、大阪市を廃止できたとしても二重行政の弊害は全国各地で残ったままとなります。

いっそのこと、都道府県を廃止してしまえばどうでしょう。都道府県を廃止し、都道府県がやっていた事業の中で、どうしても残すべき必要があると個々の市町村で判断すればその市町村で継続すればいいし、不要であれば都道府県廃止と一緒に事業も廃止してしまえばいい、ということになります。必要な業務だけど個々の市町村で実施するのが難しければ、近隣市町村で組んで広域的に実施すれば良いのです。

都道府県を廃止することで、中央省庁との二重行政を解消することもできます。

都道府県庁の職員は、都道府県の廃止とともに一旦は全員失業することになります。ですが心配ありません。都道府県庁がやっていた業務の中で必要なものは市町村が実施するようになるわけで、そこでのノウハウを持った元都道府県庁職員を市町村職員として雇おうという需要が生じます。もし市町村職員としての雇用が生じなかったとしたら、それは、元都道府県庁職員が不要な仕事で飯を食っていたことの証拠に他なりません。

(単一市町村であっても、既存の公共施設を廃止してわざわざ同種の施設を建てるという無駄なハコモノ行政をやってしまうところもあるわけで、都道府県庁を廃止したからといって行政の無駄を根絶できるというわけではありませんが。)