大阪の橋下市長と対談し、「フルボッコにされた」とネット上で話題の、北大の山口二郎氏。
多分有名な人なんだろうけど、どういう経歴、思想の持ち主か私は全然知らなかった。そこで山口氏の発言、書き物を探していたら、下記の文章を見つけた。
○イギリス政治から何を学ぶか | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
私自身は、資本主義の暴走を是正し、人間の尊厳を守る社会経済政策を追求するという理念に共鳴してきた。その意味で、イギリス労働党をモデルとして日本の民主党に政策提言を行ってきた。
======【引用ここまで】======
○決意の行方 | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
今、政治の最高指導者が訴えるべきことは、震災を契機に高まった社会連帯の気運を政策として具体化することである。税・社会保障の一体改革と言うなら、国民の相互扶助により不幸な人をなくすという基本理念を明らかにした上で、財政の再分配機能をいかにして回復し、困難に見舞われた人をどのように支えていくか、基本的な枠組みを明らかにしなければならない。医療や子育て支援の拡充策を示す一方、所得税の累進制と資産課税の強化、非正規労働者に対する均等待遇などを組み合わせてこそ、国民は負担と受益のバランスを感じることができる。
======【引用ここまで】======
あぁ、私この人嫌いだわw
なーにが
「医療や子育て支援の拡充策を示す一方、所得税の累進制と資産課税の強化、非正規労働者に対する均等待遇などを組み合わせてこそ、国民は負担と受益のバランスを感じることができる」
だ。
この山口氏の政策を実施すると、負担は増えるが大して受益してない人が出現し、他方で負担は据え置きだがサービスの手厚くなる人が出現する。前者は損した気分だけが残り、後者は棚ぼたラッキーと思うだけだ。そこに、納得できるバランスなんて無い。
富の再配分によって、「国民」は「取られる人」と「貰う人」に二分される。それを「国民」とひと括りにし、「国民はバランスを感じることができる」と言うのは無理があろう。
「取られる人」の不公平感を、「国民」というひと括りにされた仮想の枠で隠蔽し、「震災を契機に高まった社会連帯の気運」に便乗して累進・再配分の強化を企てる。この山口氏の発言からは、火事場泥棒の臭いがする。
○菅直人の現実性について | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
菅はその出自からして、確かに左派的イメージを持った政治家である。権威主義を排して対等な個人同士が自由意思で結合する市民社会を志向するという点、市場経済の行きすぎを政府の力で是正し人間の尊厳を確保しようとするという点の二つにおいて、菅の主張は左派的である。
======【引用ここまで】======
左派の語る左派のイメージによると、どうも彼らは、市民社会と市場経済とは全く別個のものと考えているようだ。市民社会と市場経済の考え方についてはいろいろあるようだが、上記サイトを出発点として推察してみる。
市民社会では権威主義を排し個人は自由意思で結合し、もう一方の市場経済に対しては、政府の力を恃んで是正する。そうなると、市民社会と市場経済を全くの別物と捉えないといけない。同じ領域内で、個人の自由意思と政府権力という真逆の方向を目指すのは矛盾するからだ。
個人の自由意思を尊重する領域と、政府の介入を大きく認める領域。山口氏は、この二つを市民社会と市場経済という言葉でクッキリと線引きしている。
しかし、市民社会と市場経済とは、別物だろうか。
市民社会は「個人が自由意思で結合する」と聞いて、私が最初に連想したのは契約だ。契約は、市場経済の根幹を成している。全くの同義語ではないにしろ、市民社会と市場経済はかなりの部分で重なり合っていると考えるのが自然だ。
ここに、左派のおかしな点が出てくる。市民社会と市場経済という用語そのものをいくら眺めてみても、政府権力を排除すべき場合と権力の介入すべき場合の区別は導かれない。区別したいのであれば、何か別の基準が必要となる。
この点、リバタリアンによる区別の仕方は明快だ。権力の介入によって個人の意思や行為を制限しても構わないのは、他人に危害を加える場合のみに限定し、それ以外の場合については権力の介入を許さず個人の意思を尊重する。いわゆるミルの他者危害の原則を、多くのリバタリアンは採用している(はず)。
どうも、左派には、これに相当するような基準、権力を排すべき場合と権力で介入すべき場合を区別する基準がなさそうだ。
憲法学からは、民主政の過程で回復可能かどうかという観点から、精神的自由の制約と経済的自由の制約とを別の合憲性判定基準で判断する、「二重の基準論」が提示されている。ただ、「二重の基準論」は裁判所の判断の仕方を論じたもので、民主政を担う有権者に対し「これは市民社会だから政府介入ダメ、あれは市場経済だから政府介入OK」と判断するための基準、材料にはならない。
ところで、憲法学では「個人の尊厳」という言葉を多用する。
「基本的人権、国民主権、平和主義は個人の尊厳に由来する」
「日本国憲法は個人の尊厳を保障するために制定された」
「個人の尊厳や自己実現に必要であるから、精神的自由は価値が高い」
といった形で、よく使われる。
この「個人の尊厳」という道徳的な言葉を使うと、何か立派なことを言った気分になれる。「尊重」ではなく「尊厳」というところが、畏まった難しい感じを与えるポイントだ。道徳的であるため、「尊厳」と言われると反論しがたい感じを受ける。
この言葉は、確かに使い勝手は良い。「農業を通じた尊厳」「尊厳ある労働」「教育の尊厳」といったように、何か自分の利益になること、自分の関心の高い分野に「尊厳」という道徳的な言葉を付けるだけで、相手にある種の威圧を与えることができる。
この「尊厳」という言葉について、下記の論文の中で阪本昌成氏の考え方が紹介されている。
○憲法が想定する人間像 堀内健志
======【引用ここから】======
その灰色の領域は、『人間の尊厳』という壮大な理念に言及することによって埋められた。上位概念に訴えながら、〈○○の自由は、人間の尊厳にとって、必要不可欠である〉、といわれれば、その命題が結論を内包していることもあって、それに反論を加えることは困難である
======【引用ここまで】======
山口氏のサイトを読んで感じたのは、こうした「人間の尊厳」という道徳的な上位概念に言及することで、市民社会と市場経済の区別、政府権力の介入が許されない領域と許される領域の区別を「人間の尊厳という観点からすれば当たり前のこと」で片付けているのではないか、という疑念だ。
そう思わせられるほど、山口氏は「人間の尊厳」という言葉を多用する。
世の中には商品化できないものがあり、医療、教育、労働を脱商品化することが新政権の課題であり、それが人間の尊厳を守るための最後の砦だ
北海道大学 市民社会民主主義研究プロジェクト・東京大学大学院情報学環 共催シンポジウム グローバル資本主義と人間の尊厳
この大震災によって、日本に住む人々が連帯し、生命や人間の尊厳を守ることができるかどうかが問われている。
猛々しい競争にさらされている人々の、人間の尊厳を守るためにこそ、政治は存在するのである
小中学生の作文であれば大いに結構なのだが、法律や政治に関する主張の中で、こうした道徳的な言葉が出てきた場合は注意したい。
尊厳が保たれているというのは、具体的にどういう状態を指すのか。
ある人の尊厳性を保つために、他の人はどのくらいの負担を強いられるのか。
どういった場合に、人間の尊厳と関わりがないので政府の介入が許される、とされるのか。
尊厳性の有無を判断するのは誰か。
具体的な中身が無いと、それはただのスローガンだ。そして、スローガンを連呼するだけの人を学者とは呼ばない。『橋下主義(ハシズム)を許すな!』をはじめとする、政治学者である山口氏の著作を読んだら、「人間の尊厳」に関する事例や施策が数多く紹介されていることだろう。
きっと。
民主党、菅政権のブレーンをしていた程の人物だ。
具体的な施策で溢れていることだろう。
きっと。
きっと。
~~平成24年2月6日追記~~
やはり、彼らは「尊厳」という言葉がお好きなようで。
○鳩山元首相が活動名を「友紀夫」に変更 ― スポニチ Sponichi Annex 社会
======【引用ここから】======
鳩山由紀夫元首相は4日、自らの政治信条である「友愛」の一字を取って政治活動名を「鳩山友紀夫」に変更する考えを明らかにした。読み方は「ゆきお」で変わらない。北海道室蘭市の後援会会合で語った。
変更の理由について記者団に「友愛精神が十分に伝わっていない」と説明。「東日本大震災で絆の大事さに気付いた。絆はまさに友愛だ。名前に『友』を入れて理解を深めたい」と述べた。戸籍名を変更するかどうかは、家庭裁判所と協議するという。
鳩山氏は後援会会合で「日本を世界に尊厳をもって迎えられる国に育て上げたい気持ちで燃えている」と述べ、政治活動の継続に意欲を示した。
======【引用ここまで】======
「友愛」といい、「尊厳」といい、中身が漠然としてフワッした鳩山元首相のイメージにピッタリ。
多分有名な人なんだろうけど、どういう経歴、思想の持ち主か私は全然知らなかった。そこで山口氏の発言、書き物を探していたら、下記の文章を見つけた。
○イギリス政治から何を学ぶか | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
私自身は、資本主義の暴走を是正し、人間の尊厳を守る社会経済政策を追求するという理念に共鳴してきた。その意味で、イギリス労働党をモデルとして日本の民主党に政策提言を行ってきた。
======【引用ここまで】======
○決意の行方 | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
今、政治の最高指導者が訴えるべきことは、震災を契機に高まった社会連帯の気運を政策として具体化することである。税・社会保障の一体改革と言うなら、国民の相互扶助により不幸な人をなくすという基本理念を明らかにした上で、財政の再分配機能をいかにして回復し、困難に見舞われた人をどのように支えていくか、基本的な枠組みを明らかにしなければならない。医療や子育て支援の拡充策を示す一方、所得税の累進制と資産課税の強化、非正規労働者に対する均等待遇などを組み合わせてこそ、国民は負担と受益のバランスを感じることができる。
======【引用ここまで】======
あぁ、私この人嫌いだわw
なーにが
「医療や子育て支援の拡充策を示す一方、所得税の累進制と資産課税の強化、非正規労働者に対する均等待遇などを組み合わせてこそ、国民は負担と受益のバランスを感じることができる」
だ。
この山口氏の政策を実施すると、負担は増えるが大して受益してない人が出現し、他方で負担は据え置きだがサービスの手厚くなる人が出現する。前者は損した気分だけが残り、後者は棚ぼたラッキーと思うだけだ。そこに、納得できるバランスなんて無い。
富の再配分によって、「国民」は「取られる人」と「貰う人」に二分される。それを「国民」とひと括りにし、「国民はバランスを感じることができる」と言うのは無理があろう。
「取られる人」の不公平感を、「国民」というひと括りにされた仮想の枠で隠蔽し、「震災を契機に高まった社会連帯の気運」に便乗して累進・再配分の強化を企てる。この山口氏の発言からは、火事場泥棒の臭いがする。
○菅直人の現実性について | YamaguchiJiro.com
======【引用ここから】======
菅はその出自からして、確かに左派的イメージを持った政治家である。権威主義を排して対等な個人同士が自由意思で結合する市民社会を志向するという点、市場経済の行きすぎを政府の力で是正し人間の尊厳を確保しようとするという点の二つにおいて、菅の主張は左派的である。
======【引用ここまで】======
左派の語る左派のイメージによると、どうも彼らは、市民社会と市場経済とは全く別個のものと考えているようだ。市民社会と市場経済の考え方についてはいろいろあるようだが、上記サイトを出発点として推察してみる。
市民社会では権威主義を排し個人は自由意思で結合し、もう一方の市場経済に対しては、政府の力を恃んで是正する。そうなると、市民社会と市場経済を全くの別物と捉えないといけない。同じ領域内で、個人の自由意思と政府権力という真逆の方向を目指すのは矛盾するからだ。
個人の自由意思を尊重する領域と、政府の介入を大きく認める領域。山口氏は、この二つを市民社会と市場経済という言葉でクッキリと線引きしている。
しかし、市民社会と市場経済とは、別物だろうか。
市民社会は「個人が自由意思で結合する」と聞いて、私が最初に連想したのは契約だ。契約は、市場経済の根幹を成している。全くの同義語ではないにしろ、市民社会と市場経済はかなりの部分で重なり合っていると考えるのが自然だ。
ここに、左派のおかしな点が出てくる。市民社会と市場経済という用語そのものをいくら眺めてみても、政府権力を排除すべき場合と権力の介入すべき場合の区別は導かれない。区別したいのであれば、何か別の基準が必要となる。
この点、リバタリアンによる区別の仕方は明快だ。権力の介入によって個人の意思や行為を制限しても構わないのは、他人に危害を加える場合のみに限定し、それ以外の場合については権力の介入を許さず個人の意思を尊重する。いわゆるミルの他者危害の原則を、多くのリバタリアンは採用している(はず)。
どうも、左派には、これに相当するような基準、権力を排すべき場合と権力で介入すべき場合を区別する基準がなさそうだ。
憲法学からは、民主政の過程で回復可能かどうかという観点から、精神的自由の制約と経済的自由の制約とを別の合憲性判定基準で判断する、「二重の基準論」が提示されている。ただ、「二重の基準論」は裁判所の判断の仕方を論じたもので、民主政を担う有権者に対し「これは市民社会だから政府介入ダメ、あれは市場経済だから政府介入OK」と判断するための基準、材料にはならない。
ところで、憲法学では「個人の尊厳」という言葉を多用する。
「基本的人権、国民主権、平和主義は個人の尊厳に由来する」
「日本国憲法は個人の尊厳を保障するために制定された」
「個人の尊厳や自己実現に必要であるから、精神的自由は価値が高い」
といった形で、よく使われる。
この「個人の尊厳」という道徳的な言葉を使うと、何か立派なことを言った気分になれる。「尊重」ではなく「尊厳」というところが、畏まった難しい感じを与えるポイントだ。道徳的であるため、「尊厳」と言われると反論しがたい感じを受ける。
この言葉は、確かに使い勝手は良い。「農業を通じた尊厳」「尊厳ある労働」「教育の尊厳」といったように、何か自分の利益になること、自分の関心の高い分野に「尊厳」という道徳的な言葉を付けるだけで、相手にある種の威圧を与えることができる。
この「尊厳」という言葉について、下記の論文の中で阪本昌成氏の考え方が紹介されている。
○憲法が想定する人間像 堀内健志
======【引用ここから】======
その灰色の領域は、『人間の尊厳』という壮大な理念に言及することによって埋められた。上位概念に訴えながら、〈○○の自由は、人間の尊厳にとって、必要不可欠である〉、といわれれば、その命題が結論を内包していることもあって、それに反論を加えることは困難である
======【引用ここまで】======
山口氏のサイトを読んで感じたのは、こうした「人間の尊厳」という道徳的な上位概念に言及することで、市民社会と市場経済の区別、政府権力の介入が許されない領域と許される領域の区別を「人間の尊厳という観点からすれば当たり前のこと」で片付けているのではないか、という疑念だ。
そう思わせられるほど、山口氏は「人間の尊厳」という言葉を多用する。
世の中には商品化できないものがあり、医療、教育、労働を脱商品化することが新政権の課題であり、それが人間の尊厳を守るための最後の砦だ
北海道大学 市民社会民主主義研究プロジェクト・東京大学大学院情報学環 共催シンポジウム グローバル資本主義と人間の尊厳
この大震災によって、日本に住む人々が連帯し、生命や人間の尊厳を守ることができるかどうかが問われている。
猛々しい競争にさらされている人々の、人間の尊厳を守るためにこそ、政治は存在するのである
小中学生の作文であれば大いに結構なのだが、法律や政治に関する主張の中で、こうした道徳的な言葉が出てきた場合は注意したい。
尊厳が保たれているというのは、具体的にどういう状態を指すのか。
ある人の尊厳性を保つために、他の人はどのくらいの負担を強いられるのか。
どういった場合に、人間の尊厳と関わりがないので政府の介入が許される、とされるのか。
尊厳性の有無を判断するのは誰か。
具体的な中身が無いと、それはただのスローガンだ。そして、スローガンを連呼するだけの人を学者とは呼ばない。『橋下主義(ハシズム)を許すな!』をはじめとする、政治学者である山口氏の著作を読んだら、「人間の尊厳」に関する事例や施策が数多く紹介されていることだろう。
きっと。
民主党、菅政権のブレーンをしていた程の人物だ。
具体的な施策で溢れていることだろう。
きっと。
きっと。
~~平成24年2月6日追記~~
やはり、彼らは「尊厳」という言葉がお好きなようで。
○鳩山元首相が活動名を「友紀夫」に変更 ― スポニチ Sponichi Annex 社会
======【引用ここから】======
鳩山由紀夫元首相は4日、自らの政治信条である「友愛」の一字を取って政治活動名を「鳩山友紀夫」に変更する考えを明らかにした。読み方は「ゆきお」で変わらない。北海道室蘭市の後援会会合で語った。
変更の理由について記者団に「友愛精神が十分に伝わっていない」と説明。「東日本大震災で絆の大事さに気付いた。絆はまさに友愛だ。名前に『友』を入れて理解を深めたい」と述べた。戸籍名を変更するかどうかは、家庭裁判所と協議するという。
鳩山氏は後援会会合で「日本を世界に尊厳をもって迎えられる国に育て上げたい気持ちで燃えている」と述べ、政治活動の継続に意欲を示した。
======【引用ここまで】======
「友愛」といい、「尊厳」といい、中身が漠然としてフワッした鳩山元首相のイメージにピッタリ。