若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

「政府-正統性=暴力団」 ~ 政府に新たな役割を持たせない ~

2017年05月24日 | 政治
以前、当ブログにて「公務員 - 合法性 =ヤクザ」と述べたことがある。

○「公務員-合法性=ヤクザ」「労働組合=-合法性」「公務員+労働組合=ヤクザ」 - 若年寄の遺言
○公務員とヤクザの違い ~合法的略奪の反道徳性~ - 若年寄の遺言

今回は、この視点をもとに「国家」「政府」を見てみよう。

国家の三要素とは -意味/解説/説明 | 弁護士ドットコムで法律用語をわかりやすく
=====【引用ここから】=====
国家の三要素とは、「領土・国民・主権」であり、「国家」であると認定されるために必要な基準要項のことを意味する。法学・政治学の観点から、これら「領土・国民・主権」をもつものを「国家」としている。
-----(  中略  )-----
主権について、正統な物理的実力のこと。この実力は、対外的・対内的な性格をもって、排他的に行使できなければならない、つまり、主権的でなければならない。
=====【引用ここまで】=====

暴力団ミニ講座その5
=====【引用ここから】=====
5) 縄張り
「縄張り」とは、暴力団が正当な権利を持っているわけでもないのに、他の暴力団組織が活動することを拒否し、自己の権利として主張している勢力範囲のことです。

-----(  中略  )-----
こうした、暴力団の縄張り意識には、要するに、一定の土地とその区域内において、その集団が独占的、恣意的に支配する権利と、さらにその内外を明確に区分する境界の意識の3つが含まれているわけです。
=====【引用ここまで】=====

この二つの説明がよく似ていると思ったのは、私だけだろうか。

国家(≒暴力団とその縄張り)の範囲内では、実力行使によって他の国家を排除した独占的な権益が生じている。政府は、暴力団と同じように自身の実力によって縄張りから他の政府の影響力を排除し、縄張りからの上納金を集めている。

この二つの説明の中で、政府と暴力団が違うのはどこかと言えば、マックス・ウェーバーが言うところの「正統(当)性の有無」である。つまり、

「公務員 - 合法性 = ヤクザ」

という式が成り立つのと同様に、

「政府  - 正統性 = 暴力団」

という式が成り立っている。
政府と暴力団の違いは、ほとんど「正統性の有無」しか無く、これ以外の、例えば成り立ちや行動原理、あるいは政府指導者間の駆け引きと暴力団のそれ、といったものは非常によく似ていると言える。

暴力団は、誰も頼んでもいないのに勝手に「ここは俺たちの縄張りだ」と主張し、他の暴力団の影響力を排除し、その実力を背景にして飲食店等に対し「ここはうちの縄張りだ、みかじめ料を払え」と脅してくる。政府も、個々の住民が同意していようがいまいが無関係に「ここは我が領土であり、お前は我が国民だ」と主張し、刑罰を背景に徴税している。

さてここで、一定のみかじめ料の収入が見込める地域で、既存の暴力団が手を引いて空白地帯ができたら、他の暴力団は好機と見て縄張りを広げようとするだろう。同様に、日本国政府という正統性を(一応)備えた暴力団が、日本国という縄張りを放棄したらどうなるだろうか。今が好機とばかりに、他国政府が縄張りを拡大してくることが予想される。また、国内的には、日本国政府という上位の暴力団が消えたことで、暴力団が自身の勢力拡大に乗り出すことだろう。

こうした事態に対し、無政府資本主義者は、民間警備会社との契約による治安維持を主張している。これを採用すれば、隣町を縄張りとする暴力団の拡大は防げるかもしれない。しかし、民間警備会社と契約する者の中には、「民間警備会社が有する実力をもって逆に隣町を縄張りとする暴力団を制圧し、隣町との間で抱えていた水利権や廃棄物処理のトラブルを、うちの町にとって一方的に有利な形で解決してしまおう」と考える人も出てくるだろう。国内的には、
暴力団 対 暴力団、
暴力団 対 民間警備会社、
民間警備会社 対 民間警備会社
という群雄割拠時代の幕開けとなり、同時に、他国政府が介入してくるというわけだ。

「アラブの春」の顛末を見ても、既存の国家の枠組みの全否定によって武装勢力の乱立が起きてしまうよりは、政府の権限に一つ一つ制限を加えていくやり方のほうが良いのではなかろうか、と思う今日この頃。

政府は「国防」というサービスを提供するために設立された組織ではない。暴力団が拡大し長期間にわたって存在し、正統性(らしきもの)を備えたに過ぎず、厄介な存在であることに変わりは無い。政府も暴力団も無ければ無い方が良い。ただ、これを全部なくすことができるのか。例えば、日本政府を無くしたところで
「アメリカ政府と中国政府とロシア政府とが分割して縄張りを主張するようになるだけではないか?」
「別の暴力団が台頭して日本国政府が就いていたポジションに就こうとするだけではないか?」
という疑問が残る。

さて。

リバタリアニズムには、国家の存在を認めるか否か、国家の役割をどの程度認めるかという点から、「古典的自由主義」「最小国家主義」「無政府資本主義」といった分類がなされている。言ってみれば、国家を、その中の統治組織である政府をどこまで小さくするかというゴールの設定に関する議論である。
政府≒暴力団という視点からは、
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないがある程度の役割を認める(古典的自由主義)」
「政府は暴力団の親類であって好ましい存在ではないが根絶は難しいからきつくきつく拘束しておくべき(最小国家)」
「政府は暴力団の親類なのだから根絶すべき」
といった議論になるだろう。

ここまでの議論について、私自身、どこをゴールに設定するのが理論的に正しいのか、また現実的にどこまで可能なのか、ここ数年ほど迷いに迷っているというのが現状である。

ただ1つ言えることは、

人権や差別問題や政治的公正を重視した政治

を称揚する発想や姿勢は、通常、リバタリアニズムの考え方からは出てきにくい、ということだ。政治によって課題解決を図るのは、政府(≒暴力団)の強制力によって遂行されることを願うという非リバタリアニズム的思考法である。

・政府(≒暴力団)の手によって保障される人権
・政府(≒暴力団)の手によって解消される差別問題
・政府(≒暴力団)の手によって実現される政治的公正

差別を解消しようと政府が施策を打ち出したことで、利権を生み出してしまったように、政治で解決しようとする意図は別の歪みを生じさせ新たな問題を引き起こす。もし、現時点で政府が特定の課題解決に積極的でないのなら、そのままにしておくのがベターである。そして、政府に介入させずに課題解決を図る道を探らなければならない。

政府は、実力をもって住民からみかじめ料を取ることを生業としている組織である。こういった組織は、雁字搦めに拘束し、住民へ影響の無いところでの縄張り争いに専念させよう。政府は、本能として他国政府や国内の暴力団との縄張り争いをしようとする。これ以外、政府には何もさせないことが、かえって人権保障や差別の解消に寄与するだろう。

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