若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

政府が動くと無駄が増える ~ ふぞろいの休日たち ~

2010年02月20日 | 政治
地域でGWが1週間ずれる?大型連休分散に法改正検討 2010.2.14 MSN産経ニュース
 観光が集中する5月の大型連休の分散化を図ろうと、地域ごとに異なる時期に大型連休を取得する「祝日法改正案」が、今国会にも提出されることになった。憲法記念日など記念日自体は変えないが「◯◯地方は5月第2週に取得」などと定めて、その地方では最低限、官公庁や公立学校は休みになる仕組み。混雑緩和で観光需要を喚起する狙いがある。政府は「休日革命になる」と意気込む。
 政府の観光立国推進本部(本部長・前原誠司国土交通相)が、「休暇分散化ワーキングチーム(WT)」(座長・辻元清美国土交通副大臣)を設置して検討している。平成23年度の実施を目指している。
 WTは、3月に連休分散化の方策をまとめるが、国内を4~6地域に分割する案が有力だ。対象は5月と10月の大型連休。5月なら、ある地域は5月の第1週、別のブロックは第2週と時期を1週間ずつずらして休日を設定する。


ええと、九州に住む私と関東に住む両親とは、家族旅行まかりならん、と。

九州に本社があり関東の支社に勤める会社員はどうなるのだろうか。

九州と関東で遠距離恋愛中の人は悲惨なことになりそうだ。

関東から九州へ単身赴任中の人が連休を利用して帰っても、子供は学校。

関東から九州に転入した人が、役場の窓口で「この内容について前住所地の役場に電話で確認したいのですが、関東地区が今連休中で確認できないため、後日また来てください」と門前払いされるようなことが起きないだろうか。

銀行とかは、よく「この処理については○○営業日前までにお願いします」と言うが、地域をまたいだ送金とかはどうなるのだろうか。

東証と大証の休みが食い違って面倒なことにならないのか。

カレンダー、パソコン、携帯とかは、出荷する地域ごとに違うものになるのだろうか。

ちょっと考えただけでも、相当な無駄と労力が必要になりそうだ。連休の分散化とか調子の良いことを言っているが、この処理に追われてそもそも連休がとれない人が出てきそうだ。

国民目線?思いやりの政治?思いつきの政治の間違いでしょ?

外国人参政権推進派の国民観・国籍観

2010年02月10日 | 政治
日本国憲法には
「選挙権は日本国民固有の権利」
というルールが書いてある。一方で
「国民の定義は法律で規定する」
というルールも書いてある。
通常は
「国民の定義を定める法律とは国籍法であり、日本国民とは国籍法に定める日本国籍保持者のことだ」
と読むのが一般的な理解だ。

そして、外国人参政権に反対する者の多くは
「選挙権は日本国民固有の権利だから、外国籍の者に付与することは憲法違反だ」
という主張を展開する。


他方、外国人参政権推進派の中には、次のような主張をする者もいる。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 外国人に参政権を与える法的根拠
15条は公務員を選定する権利が国民固有と規定するが、10条で国民の定義は(別途に)法律で規定するとしており、どの法律で規定するかを憲法内で規定していない。現在の下位法である国籍法との結びつきの必然性を「検討」して、新しい別の法律で国民を再定義するアプローチがあります。
これについて、「憲法前文、1条に照らせば、憲法の国民主権の「国民」は、日本国民すなわち我が国の国籍を有するものを意味することは明らかだ」という考え方があります。
しかし憲法の中に明白な記述が無い以上、国民の定義は、集団的自衛権における憲法解釈と同様に、小泉元首相の郵政民営化解散のような国民的合意があれば、政治的に解釈の変更を行う事が可能であろうと考えます。


「憲法には『国民の定義は法律で定める』と書いてあるが、『国民の定義は国籍法で定める』とは書いていない。国籍法である必要はない。だから、別の法律で選挙権における国民の要件を再定義して何が悪い?国籍法とは別の法律で『選挙権行使における国民とは、日本国籍保持者及び永住外国人とする』と定めれば良いのだ。」

・・・という主張である。
この部分を見る限り、解釈としてはとりあえず成り立つ。

ただ、永住外国人を「国民」に含めるように解釈すると、新たな問題が出てくる。選挙権が国民固有の権利として奪うことができないものとされているのに、その前提たる「国民」が永住許可における政府の裁量で左右されるようになるのだ。

外国人の日本での滞在は、あくまでも行政が発する許可に基づく。許可には条件が付きものだ。その条件としては、
「犯罪を犯さないこと」
「更新手続きを定期的に行うこと」
「身分証を必ず携帯すること」
「再入国手続き無しに出国すれば永住許可は失効する」
等が考えられる。そして、定められた条件に反した場合、永住許可を失って国外退去処分や再入国の拒否となる。退去先は当然ながら国籍国となるし、国籍国はその者の入国を拒むことはできない。

どのような思想信条を持っていようとも、国民固有の権利たる選挙権を国民から奪うことはできない。しかし、永住外国人に対しては、立法・行政の裁量を用いることによって永住許可を取り消すことができる。推進派の主張のように永住外国人を「国民」に含めてしまうと、政府の裁量で「国民」に含まれていた者が「国民」でなくなるということが起きる。結果として選挙権を奪うことができてしまう。

永住許可を取り消すのと比べて、国籍を剥奪して国外退去させるのははるかに難しい。二重国籍であればともかく、単一国籍の者から国籍を剥奪するのは無国籍を防止する国際法上の原則に抵触するし、国外退去させるにも退去先がない。国籍を剥奪して無国籍者を作り出し、他国に押し付けてみたところで、他国はその者を受け入れる義務がない。

このように、永住許可に比べて国籍は国際法の関係もあって法的安定性が高い。永住許可に関する事項にはその国の立法府の自由裁量が大きく認められているのに対し、国籍は国際法上の縛りがあって永住許可よりも安定している。国民の要件としては、政府の裁量がはたらく余地のより少ない方を採用すべきである。


さて。

引き続き、外国人参政権推進派の国籍観を見てみよう。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 外国人に参政権を与える法的根拠
始めに民(人民)があり、民が集まって国ができると考えます。民主主義の本質とは、そういうものではないでしょうか。次に、政府とは何かを考えます。民が集まって代表を選び、その代表者が集まって行政を行う組織を政府と考えます。政府の基本ルールとなるのが、日本国憲法です。ゆえに、どこで生まれた民であれ、日本という場所を好み、そこに永住したいと願う民が、自分の生活を向上させる為に、あるいは生活の向上に積極的に参加したいと願う民を、国籍という後付の規範によって排除する事は間違いであり、国民の定義を憲法や法律に求めるのは、本末転倒と考えています。

 「まず国民があって、次に国家が存在する」
→「国家が後付の規範で国民の要件を定めるのは本末転倒」
→「そこに滞在する者が国民であり、国籍の有無は関係ない」

この理屈で行くと、合法か違法かを問わず、滞在期間も問わず、その時点でそこに滞在する全ての人をその国の国民であるとみなさなければならないことになる。なぜならば、滞在が合法か違法かを分ける法律、国民であるために一定の滞在期間を要求する法律というのは、後付の規範であるのだから。

そうすると・・・

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 永住外国人の地方参政権付与に賛成する
私は永住外国人に地方参政権を付与すべきであると考えています。但し、私の意見は、以下に述べる条件を前提とします。
まず、永住外国人の定義を変更します。現在の定義は、wikiではこのような説明となっています。これを以下のように変更します。すまわち、「日本国に、合法かつ適正な滞在許可(ビザ)を連続して保持しながら、国内に居住している期間が累計で7年間に達している外国人」です。


この考え方は、国家の定めた後付の規範で一定の外国人を「国民」として扱い、そうでない外国人を「国民」から排除するものだ。このブログ主自身の価値観で言えば「間違い」ということになるはずだ。永住許可や滞在許可は、後付の規範という意味では国籍と変わらないし、政府の裁量の余地が大きい永住許可・滞在許可の方が後付の規範という色合いが濃い。

なぜ国籍を基準とせず、より政府の裁量の余地が大きい永住許可・滞在許可を基準としようとするのか。始まりは、ごくごく単純な誤解にある。

Mutteraway 時事問題 を語るブログ 国籍の意味と選挙権
「参政権がほしければ、帰化すれば良い」という意見もありました。私は、国籍というのは、その人の心の中における文化(民族)のルーツを表すものであり、その人の出自だと思います。在日韓国人は、生まれた時から日本にいても、心の中の出自が韓国民族なのであれば、それはそのままで良いではありませんか。そういう人に「帰化」を迫るという事は、あたかも宗教おいて改宗を迫るようなものです。「参政権がほしければ、帰化すれば良い」というのは、いわば帰化を「踏み絵」に利用しようとする、大変レベルの低い議論です。

日本国籍を持つ者の中には、大和民族もいるだろうし、アイヌ民族もいるだろう。ラテン系の者もいるだろうし、朝鮮民族もいるだろう。国籍は多様な文化的背景を持った民族を包摂するものだ。ある国の国籍を持っているということと、特定の民族的出自とは結び付かない。在日韓国人が日本国籍を取得したら韓国系日本国民となるだけで、民族的出自には何ら影響しない。

「国籍とはその人の文化・民族のルーツを表すもの」というのは、個人的な思い込みに過ぎない。このような考え方では多民族国家を正しく理解することはできない。国籍とは「個人と国家との間の法的紐帯」と定義される法制度だ。国籍という法的なものと、出自という文化的なものとは全くの別物だ。

外国人参政権を認めようという議論は、国籍と民族的出自の混同という単純な誤解から出発して議論を組み立てているからおかしくなるのだ。

鳩山首相のガンジー信奉~資産家の迷走~

2010年02月01日 | 政治
ガンジーの言葉に「七つの社会的大罪」というものがある。


「原則なき政治」
「道徳なき商業」
「労働なき富」
「人格なき教育」
「人間性なき科学」
「良心なき快楽」
「献身なき信仰」



鳩山総理が、施政方針演説の中でこれを引用したらしい。

総理「演説にガンジーの『七つの社会的大罪』を引用しようと思います」
閣僚「『労働なき富』というのは、大丈夫ですか?」
総理「自分のことを言われるのはわかっている。だからと言ってガンジーの言葉が間違っているんですか?」


・・・個人の生き方の指針、自己への戒めとしてこれらの言葉を胸に刻んでおく分には問題ない。「ご勝手にどうぞ」で終わる。

しかし、これらの言葉を一国の首相が施政方針の中に盛り込むとなれば、間違っている。問題がありすぎるのだ。政府代表として、個人の自由な活動と私有財産に対して「道徳なき商業」「労働なき富」と攻撃し、人格・人間性・良心・献身といった徳を強調する。恐怖政治でおなじみ、ロベスピエールの演説のようだ。

ロベスピエールの論理的支柱となったルソーは、自己の欲求を満たそうとする個々の意思を排し、一般意思(個別的利害を越えた共通の利害、間違うことのない道徳的意思)への一致を求めた。個人は一般意思への服従によってのみ社会的自由を得ることができる、という論理を展開した。ルソーの論理は、統治論というよりも、あるべき道徳的人間を作り出す、人間改造論とでもいった方が良いかもしれない。

ルソーは、一般意思を発見、確認するための方法論をすっ飛ばした。「私の主張が一般意思に沿っている!」と言う者に対し、その真偽を確認する術がルソー理論には欠けている。そのため、ルソー理論を用いた後世の指導者達は「私達が一般意思・一般的利害を代表している。私の掲げる道徳論が正しい。個人的な利害にとらわれた人民が道徳的にあるべき姿に気づくよう、私が導いていかなければならない。そのためには強制もやむを得ない」として、人民に対して様々な規制・強制をかけ、敵対する集団に対しては攻撃・弾圧を加えた。これが完成すると、「われらが偉大なる将軍様は~」というお隣の世界となる。


だいぶ話が脱線。


ガンジーのような「共産主義者の中の共産主義者」から見れば、「道徳なき商業」「労働なき富」は社会的大罪だろう。しかし、私はそうは思わない。

まず「道徳なき商業」については、道徳を欠いた商行為(たとえば詐欺)が契約当事者間で問題になり、個人的法益を侵害する犯罪となることはあるだろう。しかし、これが「社会的」な罪になるというのは飛躍のしすぎだ。大抵の問題は、きちんと調べていけばその問題に係る人間は特定できる。これを「社会的」として名無し扱いする必要はない。「社会」や「国民」といった集団は行為しない。個人が行為する。

次に、「労働なき富」については、そもそも個人的な罪ですらない。単なる嫉妬でしかない。妬む暇があったら起業せよ。株主になれ。配当は度胸と才覚、先見の明への対価として与えられる。贈与・相続はそうして得られた私有財産の処分だ。何ら非難される筋合いのものではない。

私は、鳩山総理が親から億単位のお小遣いを貰っていて、その出所が株式の配当であることは非難しない。私が非難したいのは、その軽々しさだ。鳩山総理は軽々しくも「自分の政治理念と非常に重なる」と言っているが、そのガンジーは次のように述べている。

○ガンジーの言葉の窓 質疑応答 その3 平等の強制ではなく
社会全体が私のような考えに変わっていくまで待つつもりはありません。そうではなくて、自らが直ちに第一歩を踏み出したいのです。言うまでもないことですが、もし私が自動車を50台所有していたり、2.5ヘクタールほどの土地を持っていたのでは、私が考えるような経済的平等を達成することは、望みようもありません。そのような点については、私は貧しい人々の中でも最も貧しい人の生活レベルにまで、自分の暮らしを簡素にする必要があります。それこそ、過去50年あまり私が努力してきたことです。私こそ共産主義者の中の共産主義者と自認しています。

ガンジーという「共産主義者の中の共産主義者」の言葉は、鳩山家の存立基盤そのものを否定するものとなる。「七つの社会的大罪」を引用した総理本人はこれに気づいているのだろうか。もし気づいた上で引用しているのなら、馬鹿か、病気か、あるいは理念達成のため全財産を投げ打って暮らしを簡素にする覚悟があるのか、いずれかだろう。

○鳩山演説「労働なき富」にヤジ、「それはあんただ」(読売新聞 - 01月30日)
 昨年12月30日、インド訪問から帰国した鳩山首相は、松井孝治官房副長官に「自分の政治理念と非常に重なる」と告げ、インド建国の父、マハトマ・ガンジーの言葉を演説に盛り込むよう求めた。
 ニューデリーのガンジー廟で見た「七つの社会的大罪」だった。
 だが、26日の閣議で演説全文を目にした閣僚たちは、仰天した。「七つ」の中には、「労働なき富」という言葉があったのだ。首相が実母から毎月1500万円もの資金提供を受けていた問題を想起させないか――。
 「『労働なき富』というのは、大丈夫ですか?」。閣僚の一人がおそるおそる切り出すと、首相は「自分のことを言われるのはわかっている。だからと言って(ガンジーの言葉が)間違っているんですか?」とむきになった。
 この場で演説を読み上げた松井氏は「途中で感極まって涙を流した」(閣僚)といい、手直しを求める雰囲気ではなかったという。
 閣僚らの不安は的中した。参院本会議場で首相が「労働なき富」と読み上げた瞬間、野党席からは「それはあんただ」と激しいヤジが飛び交った。
 それでも、首相の危機感は薄い。「国民の心に響いたらと思っている。批判も覚悟で思い切ってやらせていただいた」。29日夜、首相は満足そうに語った。




○参考
ロベスピエール・・・理想と政治理念と民衆・・・第3章 理想と現実