若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

これは何かの冗談ですか? 法学部教員の「法の支配」の驚きの実態

2017年01月27日 | 政治
「法の支配」が、法学部の中ですら自明の概念でないということが明らかとなった、背筋が寒くなる記事をご紹介。

これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態(木村 草太) | 現代ビジネス | 講談社
======【引用ここから】======
今日も大学の法学部では、民法や会社法、労働法に刑法が講じられている。

そこでは、「法とは何か?」、「法の支配は実現できるか?」などと考える必要はない。国会が制定したルールが法だと誰もが思っているし、裁判官や警察官は粛々と法を実現している。「なぜこれが法なのか」などと悩む学生は、よほどの変わり者だろう。

法学部法律学科の講義では、法の定義も、法の支配も自明なのだ。

======【引用ここまで】======

国会が制定し、裁判官や警察官が粛々と執行しているのは、「法律」であって「法」ではない。国会が法律を制定し、警察官をはじめ各種公務員が法律に則って業務を行い統治することを「法治主義」という。一方、「法の支配」は、「法」が国家のあり方を規定し、権力が法によって拘束されるという理念である。

「法律」は国民に対して向けられるルールであり、「法」は権力者に対して向けられるルールである、ということが言える。(この「法」が具体化されたものが憲法であり、憲法によって権力を拘束するのが「立憲主義」である。)

「法の支配」の理念からは、立法者である国会に対し
「法律は特定の人に対する命令の形であってはならない」
「法律は自由権を侵害するものであってはならない」
といった要請が導かれる。「法」が国会に対し「法律」の備えるべき要件を指定し、これを踏まえて国会は国民に対して適用する「法律」を制定する。

「法律が一定の内容・水準を満たしている『実質的法治主義』であれば、『法の支配』とはほぼ同じ意味だ」
という反論がありそうだが、「法の支配」と「法治主義」では「権力者に対するルールか国民に対するルールか」というベクトルの向きが違う。このベクトルの向きを理解していないと、立憲主義は理解できない。

木村草太氏は、学校の現状について次のように嘆いている。

======【引用ここから】======
この教材は、「困難を乗り越え、組体操を成功させる」という学校内道徳の話に終始する。学校内道徳が、法規範の上位にあるのだ。いや、もっと正確に言えば、学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない。法の支配が学校には及んでいないようだ。これは治外法権ではないのか。
======【引用ここまで】======

学校の中に適用されている法律の内容を問題視して「法の支配が及んでいない」と嘆くなら理解はできる。しかし、道徳が学校の中で法律の適用を妨げていることを指して「法の支配が及んでいない。治外法権ではないのか」というのは、どう考えても「法の支配」の理解とは程遠い。

そんな人が「法学部法律学科の講義では、法の定義も、法の支配も自明なのだ。」なんて言うから、もう可笑しくてしょうがない。いや、可笑しいとばかり言ってもいられない。なんせ、この大学教員が大学で教鞭をとり、「法の支配」のズレた理解をした学生が今この瞬間にも世に送り出されているのだから。

さて。

この木村氏は、次のように言う。

======【引用ここから】======
今回紹介した教材は、「学校内道徳が法の支配を排除する」という道徳の授業の危険をとても分かりやすく表現している。あらゆる子どもを受け入れる公教育が公教育であるためには、もっと普遍的な教育こそが必要ではないか。
以上の議論から得られる私の結論は、至ってシンプルだ。学校では、道徳ではなく、法学の授業に時間を割くべきなのだ。

======【引用ここまで】======

公教育の中で法学教育を求める木村氏。これが実現すれば、学校で法律の授業をするための教員向けの研修会の講師や、小中高校で使う法学テキストの執筆等、さまざまな需要が発生する。そうすれば、木村氏をはじめ法学部教員に対し、税金を原資とした仕事が多数発注されることだろう。税金の分け前を要求する連中がよく用いる手である。

私がこのようにひねくれた見方をしてしまうのには、理由がある。

======【引用ここから】======
、「法学の授業が大事なのは分かるが、法学は難しすぎて、道徳の授業と置き換えるのは無理だ」と思う人もいるかもしれない。しかし、法学の基本となる考え方や法律の基本的な内容は、それほど難しいものではない。

参考書としても、『キヨミズ准教授の法学入門』など、分かりやすくて、面白い本はたくさんある。最近では、社会的活動に関心の高い弁護士さんも増えたから、制度を整えれば、授業に協力してくれる専門家を見つけるのも難しくないだろう。

~~~~~(中略)~~~~~
木村草太(きむら・そうた)
1980 年生まれ。憲法学者。首都大学東京法学系准教授。東京大学法学部卒業。同助手を経て現職。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の急所―権利論を組み立てる』(羽鳥書店)、『憲法の創造力』『憲法の条件―戦後70 年から考える』(NHK出版新書)などがある。

======【引用ここまで】======

本文の中で第三者的に「参考書として分かりやすくて面白い本」として紹介しておいて、それが自身の著書という所でズッコケてしまった。そういう人なのだろう。

集団的自衛権で盛り上がった時、井上達夫氏と木村氏の論戦を見て、井上氏の方が圧倒的に説得力があり、木村氏の意見に全く賛同できなかったのを思い出した。私なら、この人の本は買わないな。「法の支配」について学ぶのであれば、木村氏ではなく、阪本昌成氏の著作をおすすめしたい。

「法の支配」にいう法(及びこれを具体化した憲法)は、国家に対するルールである。学校内に法律の適用を及ぼすことを指して「法の支配」と呼ぶのは間違いである。


※追記:学校内における組体操やイジメの問題を、学校内の道徳問題として全て解決しようとするのではなく、特に傷害や恐喝が生じた場合は法律問題として解決すべきという点については、賛同するところである。

右も左も人権侵害? ~ 人権侵害をできるのは公権力2 ~

2017年01月14日 | 政治
当ブログでは、「SEALDSとその仲間たちは立憲主義や基本的人権を理解していない」として批判してきた。

○SEALDSは立憲主義を理解しているか? 安保と就職と辞職勧告のエトセトラ - 若年寄の遺言

○立憲主義を理解しよう! ~ 陳情書の内容面から ~ - 若年寄の遺言

○立憲主義の浸透度合い ~ 人権侵害をできるのは公権力 ~ - 若年寄の遺言

この一連の記事の中で引用していたものを、再度掲載する。

○第154回国会-会議日誌・会議資料
=====【引用ここから】=====
◎阪本昌成参考人の意見陳述の要点

•憲法は、国家を名宛人とするものであり、市民に対する行為規範ではない。

=====【引用ここまで】=====

”表現の自由”でも『一線』を超えると制限されるが扱いはデリケート | みずほ中央コラム | 東京・埼玉の理系弁護士
=====【引用ここから】=====
(1)『人権侵害』は誤用率が高い
誤用率の高いフレーズに『人権侵害だ』というものがあります。

<『人権侵害』の誤用例>
・他者に暴力を受けて怪我をした
 →『これは人権侵害だ!』
・他者にヒドいことを言われて凹んだ
 →『これは人権侵害だ!』

法律学としては,これは間違いです。
悪意のない取り違えでしょうけど。
人権は,対国家,公的機関という場面で使われます。
典型例は刑罰です。
対私人では人権自体は登場しないのです。

<正確な表現>
『民法上の不法行為による損害賠償請求が成り立つ』
『違法性のある行為だ』

=====【引用ここまで】=====

この立憲主義と人権に対する考え方は、なかなか浸透しない。SEALDSをはじめとする左派・リベラルだけでなく、右派・保守の側もそうである。

【要望書、提出】沖縄に派遣された機動隊の人権を偏向報道から護る要望【大阪府知事・府議会、大阪市長・市議会】 | 小坪しんやのHP~行橋市議会議員
=====【引用ここから】=====
 沖縄に派遣された機動隊員に対し公然と行われている人権侵害は極めて深刻である。沖縄県議会で公開された、「市民」を称する基地反対派の暴言はかつての左派活動家のようで聴くに堪えない。さらには殴打まで明らかとなった。
~~~~~(中略)~~~~~
 警察官は公費で賄われる行政職であり、沖縄への派遣は本人の意思ではない。故郷と離れた地で激務にあたる中、「心が歪んでいるから顔も歪んでいる」「人殺しの子どもは人殺し」など凄まじい暴言で人権が侵害されていることは、沖縄県議会でも明らかとなっている。挑発に屈し失点があったことは事実であり、この点は追及されるべきである。そして実際に処分も下された。しかしながら、基地反対派による警察官への人格・尊厳を傷つける発言、つまり「警察官への人権侵害」は報じられておらず、両論併記とは言い難い。
~~~~~(中略)~~~~~
1 歪んだ報道から沖縄に派遣された機動隊員の人権と名誉を護ること。
=====【引用ここまで】=====

憲法上の人権規定は国家に対する制限規範であり、人権侵害を引き起こすのは国家である。国家権力が私人の行為を制限する場合にのみ、人権侵害は成立する。私人である基地反対派がいくら警察官に対し暴言を吐こうとも、これは厳密に言えば人権侵害ではない。

人権侵害に該当しないからといって、じゃあ警察官に対する基地反対派の行為が全て無制限に許されるのかと言えばそうではない。人権侵害ではないが違法性のある行為、人権侵害ではないが民法上の不法行為として損害賠償請求の対象となる行為ということで、警察官に対する暴言や暴行、特に当該警察官が公務を離れた際に危害を加えたり警察官の家族に危害を加えたりする旨の脅迫は許されるものではない。粗暴な犯罪者として対処するべきである。

ただ、重ねて言うが、私人の行為についての「人権侵害」という言葉の乱用は「憲法によって国家権力を制限する」という立憲主義の趣旨に合致しない。私人の行為を指して「人権侵害」と呼ぶのは法務省人権擁護局が長年用いてきた手口であり、右派が警鐘を鳴らしてきた人権擁護法案の根底に流れている考え方である。人権擁護法案やヘイトスピーチ規制といった「リベラルによる統制国家化」に繋がるものであり、私人の行為を指して「人権侵害」と呼ぶことは厳に慎まなければならない。