楽健法研究会 東光寺の楽健法セラピスト養成講座

楽健法セラピスト養成講座の記録・現在第12期(2012年)4月開講から来年3月まで毎月の記録です

第9回12月10日(2日目)その4

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
 次に佛、乾闥婆の背に跨(またが)りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと押し下りぬ。
 佛曰く、ここを一道(いちどう)と名付くべし。
 ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得(う)るなり。
 全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。
 一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。




 

 骨盤が左右均等でなくてゆがんでくると背骨のズレとか、背中が曲がって来たりして背骨が飛び出したりとかするんです。ま、それによって体が悪くなるので、脊椎の矯正をさえすれば病気が治るっていう理論がカイロプラクティック・整体と呼ばれている考え方です。
(宥厳先生)カイロプラクティックは背骨を矯正する。背骨のずれがあるから矯正するというので、左右の筋肉の緊張を取らないで、背骨だけ強制的にガッと入れるテクニックをカイロの人たちは勉強するんですが、ちょっと危ないですね。

 下手にやられると脊椎に損傷を与えて、障害者になってしまう人もあります。  
 大阪でも何年か前に背骨を損傷して半身不随になって車椅子で暮らすようになった人が、裁判を起こして2,500万円の賠償かなんか裁判所から命じられてたのを僕は新聞で読んだの記憶してます。ま、だから、背骨を無理に矯正しないで、楽健法で筋肉をまず緩めて行けば背骨のずれは、元に戻っていきますので、まず硬いところをほぐすていうことを中心にいつも考えていってください。

「全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。」ま、他のところ踏むのも背骨をまっすぐするために、やってるようなものですよっていうことを言ってるわけですね。

「一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。」触掌というのは、手のひらをかるく当てて、癒してあげることです。私もまだ楽健法も何にも知らないで喘息を患ってた頃に、かなり肩が凝って辛かったもんですから、大阪の城東区の初めて飛び込んだ、ある鍼灸師のところに行ったことがあるんです。そしたら、七十くらいのおじいちゃんでしたけど、その人が針をやってくれて、終わりの時にね、背中にほーっと手を当ててくれたんです。その手の暖かさがね、何とも言えない温かい気が伝わってきて、なんて気持ちの良い手だろうと思いました。

本当に数秒間でしたが、パーっと当ててくれたんですが、何か一生忘れられないような手の感触でしたね。だから、ああいう気のこもった手で人を触らないといけないなと思っています。何かこう癒されるというか、力を入れたわけでもなんでもなくて、両手を重ねて、ふぁっふぁっふぁ3回ほど押してくれただけなんですけど。その感覚を未だに体に覚えてて、だから、人をやってあげてる時に、あのような気をあげたいわけです。あのとき良い気持ちにさせられたということがいまもとても勉強になっています。

 皆さんも是非、ちょっと手を当ててあげるだけで、なんと気持ちの良い手なんだろうと、気持ちが相手に伝わるようにやってあげてほしい。まあ、楽健法やってるとだんだん、そういういい気が出てきて、相手が気持ちよく、その人のそばに行くとなんとなく感じが良くてね、何かさわやかな風が吹いてくるような、そういうキャラクターですね。楽健法を続けていると、そういうものにだれもがいずれ成長していくと思います。

はい、琴美ちゃんどうもありがとう。
(琴美ちゃん)ありがとうございました。




 佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔(じがん)をほころばせり。
 菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆とともに、浄福(じょうふく)に包まれたり。




(宥厳先生) はい、非常に幸せな気分になりましたか?乾闥婆さん(笑)
(琴美ちゃん)はい、なりました。







 佛曰く、病気にて夭折(ようせつ)するは治療の理法を得ざるが故なり。
 治らざる病はあらずと心得うべし。
 依(よ)るところの手段なによりも肝要なり。
 まず、否定的な心を棄(す)て、可能性を信ずべし。

 信じて楽健法を行ぜよ。




 この病気にて夭折って言うのは、若くして死ぬということ、まだまだ死ななくていい年齢に死ぬことを夭折するって言います。七十五も過ぎて死ぬことは夭折とは言わないですね。四十代とか三十代とか、まあ、五十過ぎたら夭折とは言わないですね。だいたいもっと若いときですね。

「治療の理法を得ざる」って言うのは、それが治るような治療法を行っていないということですね。西洋医学はそれが治るような治療を行なっているかどうかですね。何か行ったら直ぐにでも治してくれるようなことは言うんだけれども、本当は治るどころかますます悪くなったり、どうかしたら、慢性化させてしまったり、もっとひどくなればあっという間に死んでしまったりしますね。

 そういう、これは理法を得ていない、つまり理屈にあっていないということですね、その病気を治す方法が。だから理法を得れば必ず、病気というのは治ります。で、ここに「治らざる病はあらずと心得うべし。」って言うの、どんな状況まで追い込まれてもちゃんと理法にあえば、その方法さえとれば必ず治る道はあるわけですね。だけど、それが西洋医学一辺倒でつまり西洋医学依存症という風に僕が言ってるんですけど、日本人のほとんど九割九分までは西洋医学依存症という病気になってます。だから、他の治療法なんて考えようともしない。これはもう大変な病気ですね。だから、そういう人たちの意識を変えるためには、やはり楽健法をもっと広めないといけないだろうし、アーユルヴェーダなんかもね、もっと多くの人が知ってね、勉強するという気持ちになってもらわないといけないんですけどね、基本の基を勉強しようという人が本当にいないんです。

 何か手近にテクニックだけ覚えて早く商売しようとかいう人がたくさんいるんですけど、治療や健康法について深く考えて、所謂、原理…所謂ダルマですね。ダルマってのは真理のことですけど、そういうダルマを自分で考えて、それを会得してそれでそれに従って生きていこうということですね。自然致死力で死んでいこうとかいう風に思う人が本当に少ないんですね。

 ガンの患者がガンで後三月ですって言われたら、三月だったら何もしないほうがいいんですよね。それを後三月で死にますって言われてるのに、入院して点滴して、点滴やら抗がん剤やってコバルトも当てて、ね、ついに三月で死んでいくわけですよ。あんなことしないほうがいい。もう一切やめて。だから、残り少ないといわれたり、思ったりしたら、医者などにかからない方が理法にかなっています。六十歳を過ぎて医者に行くっていうのだいたい未熟なひとです。人生を誤って生きてきていますね。

 アントン・チェーホフって言うロシアの小説家のね、どの芝居だったか忘れましたけど、3人姉妹か、カモメか、桜の園かどれか忘れましたけれども、ある六十過ぎたお年寄りが、「私は今から医者に行って診察してもらう」って言うセリフが芝居の中に出てくる。そしたら、ある若い学生が「ケッ、六十も過ぎて医者に行くなんて」って馬鹿にするんです。

 六十も過ぎたら勝手に病気が治るか、自分の人生がどう言う風に後変化していくか、わかっとるはずなんですね。それがわかってないから、相変わらず医者に行ってね、何か見てもらってどないかなると考える。だから、六十過ぎて医者に行くっていうのは年の取り方を間違えた人ですね。考え方も間違ってます。まあ、あの目が悪いとか、歯が痛いとか言うのは行ったらいいんですよ。だけど内科的な病気なんかではね、医者になんか行く必要はあまりないですね。

 まあ、それこそ、「信じて楽健法を行ぜよ」って書いたのはこれでだいたい解決していくからです。まあ、健康診断に毎年行くとかね、そういうことは必要ありません。六十過ぎたら、どっちにしたって後五十年生きられませんからね。ま、(一同笑)
(斉藤さん)必要なくなっちゃってしまったわ、私も(一同笑)

(宥厳先生)だいたいそれは、だから理法を分かってないから医者の診察受けるんですよ。ね。診てもらたって本当にわかってないのよ、向こうだって。あやしいな、とかデータだけ見て、でデータが普通の人よりちょっと多かったら、あなたは異常だということを言うんですから、だから、データに体を合わす必要なんか全くありませんからね。自分の健康状態で自分を自覚して、自分の体感で毎日生きていくということが一番大事なことです。だから、敏子さんも医者に行くことも診察を受ける必要も、検診を受ける必要も全くないです、あなたはとても元気ですから。居眠り運転さえしなければ(一同笑)。

(琴美ちゃん)でも、会社で受けさされたらねぇ。
(斉藤さん)会社に入ったら受けないといけない。
(宥厳先生)そんな会社やめなさい。(一同笑)。そういう時は休む。もう家でちょっと受けましたから、とか何とか言って。
(受講生)結果を出さないといけないから、会社は。
(宥厳先生)ああ、そうか。偽造しましょう(一同笑)。
(受講生)私はもうそういう事してますっていうね。そういう決まりで。
(宥厳先生)それはもう病人を如何にして集めるかという工夫の輪の中に入れられてるねぇ。大変な会社におりますねぇ。(一同笑)
(琴美ちゃん)みんなそうですよ。それで、全員再検査だからね。
(宥厳先生)




 楽健法は易行にして、理法深甚(りほうじんじん)の理(ことわり)なり。
 他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。



易行と言うのは易しいということですね。わかりやすい。わかりやすくて実行しやすいという事を易行ということですね。




 心してこれを行じ衆生を済度せよ。
 日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土(ぐしょうじょうど)、即身成佛(そくしんじょうぶつ)の光の海と転ずること必定なり。

 これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施(ふせ)の行にて、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶(とも)に功徳(くどく)を得べしと。

 さらに佛、偈(げ)に説いて曰く。

 
楽健法を学び行ずる者病を癒し人間を癒す。無畏(むい)を施し慈愛を自覚させる。たとえ病む者といえども他者を癒やさんとして楽健法を学び行ずれば自らの病が癒されること必定(ひつじょう)他者の救済は自らの救済なり。楽健法を行ずれば光の人となる。




この中で無畏を施しっていう言葉が出てきてますが、これは施無畏と言う風にいいます。無畏の上に「施す」という字を書いてね、お布施の施。施無畏(せむい)という言葉は仏教でよく使われます。

 この施無畏は人に正しい知識をきちんと与えて、恐れをなくしてあげることですね。それが患者が来たら、あんたほっといたら、この影とか、このデータではあなたは長くない。ほっといたら長くないよ、なんていうのはこれは脅迫ですね。これはだから、医者という…医者というかお坊さんというか聖職者にある人は無畏を施すのが仕事であって、正しい事を人に教えて畏れをなくしてあげる、つまりそれは科学的な知識をちゃんと相手に持たせるということでもあるんですね。それが無畏を施すことなんです。

 だから仏教というのは正しいことを教えて畏れをなくしてあげる、衆生は知らないから恐れるわけですからね。だから、皆さんは医者の恐ろしさを知らないからね、怖くないところで命を救ってくれるように思ってるだけで、それは、とんでもない誤解です。行けば死ぬかもしれない、あっという間に。

 私の姉も医者にいかなければ生きとったと思うんですけれども、行った途端に2時間で死にましたよ。点滴やられて。水膨れになってきてね。慌てて集中治療室に連れ戻したけど、一旦点滴で入れた薬なんか抜けないじゃないですか。ね。あっという間に死にました。だから、そういうことが起こらないようにもともと医者になんかいかなければこういうことにならないんですけど。

 姉はずっと医者に行ってましたから行くことに抵抗はなかったんでしょうが、昨日は無事だったから今日も無事とは限らないです。医者は思いつきで違った事をやるかもわかりませんからね。だから、本当に怖い。本当に体が弱ったときはだから医者に行かないほうがいい。元気な時はまだ抵抗力があるから(一同笑)、大丈夫ですけどね。そういう人は医者に行って点滴受けても死ぬ人はいないと思いますけど、本当に体が弱ったら医者にいかないほうがいいです。

 まあ、自然致死力に頼って死ぬのを待つ。それが楽健法してくれる人がいたらやってくれる人を待つというのが正解です。まあ、これが無畏と言うことですね。医者はやはり無畏を施すのが仕事であるべきなんですね。脅迫するなんてもってのとか、だから、脅迫するような、ほっといたら死ぬよ、とか脅迫するような医者とは付き合わないでよろしいです。それはもうレベルの低い次元の低い医者で、医者とは言えない。医者の資格っていうのはアーユルヴェーダでもやかましく言いますけれども、やっぱり正確な事を伝えるべき役割があります。死ぬよって言うのは単なる脅迫で正確なことではないですからね。そんなん、誰がいつ死ぬかなんて本当に分かる人なんていないですよね。

 とことん治療しても悪くなっていき、追い詰められた人のいのちはあと何日もつかていうのはそれは医者はよくわかりますよ、経験をたくさん積んでますから。だけど、元気な人がいつ死ぬかなんてのは本当にわかる人なんていませんね。だから、まあそういうつもりで、無畏を私たちは楽健法を通してね、楽健法を知らない人に無畏を施す、畏れなくていいよ、と教えてあげるんですね。

 だから、皆さんは施無畏をする、そういう立場に今立とうとしている菩薩、光輝楽健菩薩ですからね。皆さん頑張って、まわりの皆さんに無畏を施してほしいですね。まあ、あとはこの踏み方を書いてるだけなんです。まあ、これくらいにしておきますね。

 楽健法経はこういうお経ですけれども、まあ、今しゃべったようなことで、額縁屋になった話なんかは本に書かなくていいと思いますけれど(一同笑)。ま、ちょっとちあきちゃんにも頑張っていただいて、過去の楽健法のやつも出来たらね、先月もだいぶ書いてくれています。前にもいくつも触れてると思うので、まとめて、それで、もうこれで本にしたらいいよというのを私に是非ください。お願いいたします。(一同笑)。これで、もう本ができたね。じゃ、今から楽健法しましょう。40分くらいの楽健法やったらいけるね!はい!もうたっぷりやって昼からまた少し話して、昼からの楽健法なしにするか?食後もまたやりたい?
(受講生)みんながやりたいって。
(宥厳先生)じゃ、早いめの楽健法やって、サッと飯食って。ね、もう一回楽健法やって終わりましょう!
(受講生)何番ですか?
(受講生)7番です。 



楽健法(6)






Lunch
●カレー(じゃがいも、玉ねぎ、とうがらし、りんご、油揚げ、なす、ピーマン、チーズ、しいたけ、しめじ、セロリの葉っぱ、こんにゃく、マンゴー、にんじん、ニラ、トマト、にんにく、しょうが、ナンキン、ふき)●加賀の山芋●ぜんざい●高野豆腐●ゴボウ●漬物(日の菜、カブラ、ハクサイ)添え






楽健法(7)







終わりの会「礼儀」



12/11 15:32
(宥厳先生)メールアドレス、みんな渡りましたか?みんな中へ入って。
(琴美ちゃん)そこじゃなくて!
(宥厳先生)重ならない!これで、みんな揃ったんか?ニッシーがおらんのちゃうんか?
(ニッシー)いる~~~!!(一同大爆笑)



(宥厳先生)この間からね、京都のね臨済宗の、あ!そこ重ならないで、ほら!ニッシーのところ重なってるよ、そこ、ほら。ニッシーが悪いんじゃなく、土井ちゃんが悪い!とかくニッシーは濡れ衣を着せられる。あの、臨済宗の尼さんがイオンハウスの講習会にお越しになってね、それで私に挨拶するときにね、非常にこう礼儀正しくここまで頭を畳に付けるんですよ、それで私にそんなことした人ここに一人もおらん(一同大爆笑)。いっぺんやってみましょう、はい。頭つけて、はい。



(琴美ちゃん)そんな膝の近くに頭つかいないよ。(一同大爆笑)
(宥厳先生)だけど、衣を着て端然として真面目な顔でね、こう畳に頭つけてお辞儀されるとね、何か思わずドギマキしますね。
(琴美ちゃん)何か絵ずらがちがいますよね。
(宥厳先生)あんまり行儀のいい方じゃないですけどね。まあ、あの礼儀っていうのは折り目正しいっていうことですね。やっぱりひとつの生活の何か一番基礎をなしてる部分ですね。挨拶をきちんとするっていうのはね。
(幸子先生)まず来たらはじめに挨拶をする、と。あまりした人聞いたことないですけど(一同笑)



(宥厳先生)この二日間は少し、催し物をやったりしてまあ忙しい思いもしたけれども、楽しめたかとも思うのですが、是非ね、ちあきちゃんの方にメールで感想送ってください。手書きでも構いませんから。ちょっとハガキでも…。いつもハガキを下さる丁寧な人もいらっしゃいますけれども。
(琴美ちゃん)土井さんは私にFAXしてください。私が打ってちあきにメールしますからFAXの人は私にFAXしてください。ちあきに私が打ってメールします。
(ちあき)ありがとうございます。
(琴美ちゃん)これ以上ちあきの仕事を増やさない。
(宥厳先生)FAX送る人?
(土井さん)はーい!
(宥厳先生)あんただけ?(笑)じゃあ、あの是非感想書いてね、せっかく催し物をやってもね、何の感想も持たない連中かと思うのもね、寂しいですから。まあ、それなりの何かいろんな感想を受けられたと思うんですね。今朝もああやって堀江真美さんに般若心経ピアノでやってって言ったら、はいって言ってやったでしょう?ああいう姿勢は見習わなあかん人がおるんですね。
(琴美ちゃん)やれっていったのにね!
(宥厳先生)ねぇ!何度も言ってるんですけど。
(西澤さん)あれっあれっ?



(宥厳先生)何かね、やはりプロというものはそういうね、うじうじする壁がないんですよ。私でもそれは頼まれたらパッとやりますよ、何でも。できることはね、即やります。そういう風に積極的になっていかないといろんなところで、うじうじうじうじする癖がついちゃう。パッと実行する。そうやって手軽に取り組んでみることですね。何もそれは軽率なことでも何でもなくて、僕はそういうのが人間がこう一つ成長していった証だと思うんですね。だから、変なところでグズグズ後ろに下がらない。でも、あの大抵物事がうまくいかない人って言うのはどっかで手前の方でやる以前にね、グズグズグズグズ、何かやろうとしないで、別に抵抗しているわけでもなくて、それで嫌いなふりをしたりね、拒絶したりするふりするんですけどできることはさっと手軽に取り組むような姿勢で、これは僕は楽健法やっていくうえでも大事な心がけじゃないかなと思います。だけど、まあ、押しかけて言ってまでお節介はしませんけれども、頼まれたりしたらさっとやってあげると。

なかには厚かましい人もおってね、何かぼくとどっか会合に出て行ったりすると、その場でちょっとじゃあ踏んでみてくださいなんて言う人が、そんなのは応じる必要ないです。プロというのはそんなに軽率にやらない。そういうところではね。そういう何かけじめって言うのは勿論ありますけれども、まあ、あの必要な場面ではパッとやってあげたらいいですね。何かどんなもんかただで試してもらおうってね、大先生捕まえてちょっとやってみてくれ、なんて言う失礼な人がおるんですよ。そういう人には必ず僕は断りますけどね。そんなことはしませんけれども。まあ、皆さんもそういうあたりは普通の対等に付き合える相手には普通に接して気軽にあんまりグズグズ、恩にも着せないで、やってほしいと思います。また、来月、え~っともう次は正月やね。じゃあ、また正月明けてからお目にかかります。それで、年末いつも何人かの方がここへ30日餅ついたりして、源ちゃんも来て餅つき手伝ってくれたり、まあ、時間と暇があって行くところがなくて(一同大爆笑)、誰にも相手にされない人はここに泊まっていただいて結構ですので、まあお越しになっていただいたら、家内も喜ぶかと思います。
(幸子先生)いや~~~
(宥厳先生)怒ったフリしてますけど、本当は喜んでます。
(幸子先生)感情は表します。(一同笑)
(宥厳先生)じゃあ、これで終わります。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(宥厳先生)あれ、誰が額をくっつけるか見とった人おったんちゃう?(一同笑)
(幸子先生)ちあきちゃん、横向いとったんちゃうん。
(ちあき)いえいえいえ。
(宥厳先生)じゃ、どうもありがとうございました。



おまけ

羝羊(ていよう)




愚童(ぐどう)




嬰童(ようどう)




唯蘊(ゆいうん)




大乗(だいじょう)






抜業(ばつごう)




覚心(かくしん)




極無(ごくむ)




秘密(ひみつ)



一道(いちどう)



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