フライングで楽健法始めちゃました!
仕切り直しで、「楽健法経前編」
12/10 13:08
(宥厳先生)おはようございます。
(一同)おはようございま~す。
(宥厳先生)昨日からここに来る女性がみんな別人に見えるんです。どういうわけか。
(琴美ちゃん)先生、どうしたんですか。(笑)
(宥厳先生)どうも、おはようございます。
(一同)おはようございます。
(宥厳先生)全員そろってますね。
(ちあき)た、多分…。
(琴美ちゃん)絶対に!
(宥厳先生)はい。
(宥厳先生)あの~、昨日から本堂の方を色々と片づけたり、ピアノが届いたりして、それで今朝、調律に来られて二時間ばかり。さっき出来上がったばっかりです。それで、西澤先生がチェックした結果、まあ非常によろしいと(笑)、いう話だったんでホッとしています。
先月は楽健法経のテキストをお渡ししましたけれども、これを今日もとりあげます。これについて今回講義するのは、来年の、たぶん春以降になると思うんですけど、五月書房というところで新しい楽健法の入門書を出す予定にしています。数年前から出さないかと五月書房から声をかけられていたんですが、出版社のほうは実用的な楽健法だけに特化した入門書と言うか、図解入りの分りやすい実用の本を考えて私に話を持って来られたんです。
ところがもうすでに楽健法については、ベストセラーとまでは行きませんけども、長年ずっと皆さんが読んでくださってる私の本と、幸子先生の著作の本の2種類がありますしね。
それで、いまさら実用書で分りやすそうな本といっても、たとえば、ゴーストライターが書いたようなハウツーものの本なんかは、出したくないという気持ちがあるのです。
私が楽健法の活動をはじめて以来、自分の課題にしてきたのは、楽健法を世界中に広めたいと言うことです。そういう強い気持ちがあって、あのDVD、ビデオのなかにセットでいれている解説本には、楽健法経を掲載して、英語の翻訳も載せています。また楽健法経をインターネットにアップして、英語とスペイン語の翻訳もアップしてあるんです。10年ほど前に、英訳を読んだスペイン人の方が、訪ねて見えられて、東光寺に二週間くらい泊って、楽健法を教えてあげたことがあるんです。男の方でしたけれども。その人が英文からスペイン語に楽健法経を重訳してくれたわけです。だから、いま2ヶ国語の翻訳があるんです。で、更にこれにフランス語と中国語と朝鮮語とインドネシア語に翻訳して、それで、全部で7カ国になるのかな、日本語を入れたら。そういう楽健法経を軸にした入門書の本にしようと思っているわけです。今、増野真理子さんのお友達の松浦素子さんがイラスト描いてくれていまして、ほぼイラストも出来上がってきています。この講習会で先月も楽健法経のことを話しましたけれども、このテープ起こしをしたものを軸に、今度の単行本に、楽健法経を講義するというような形で、それで実技も同時に勉強できるような本を作ろうと考えています。
楽健法経の7カ国語訳入りですね。講義の内容までは翻訳できませんが、楽健法経の翻訳で世界の人たちに楽健法が一応勉強できるようにしようという、欲張った発想で本作りしようとしてるわけです。
それで、またちあきさんには御苦労をかけますけど、今日喋ったことも含めて、で、過去に楽健法経について喋ったことも含めて拾って頂いて編集したいと考えています。
(琴美ちゃん)あ!ちあきゴーストライターだ!
(宥厳先生)ゴーストライター(笑)ちょっとまた協力して頂こうかな、と言う風に思ってます。それで少しまだ喋れてない…あ、僕、眼鏡どっかに…あった!(一同笑い)。もう少しここで今日お喋りをして、ま、そういうことをベースに仕上げようかなと言う風に思ってるわけですね。まあ、よろしくお願いします。
新しい本を書くと言うのはなかなか大変な作業です。今日も一冊家内が、昨日だったかだれかにもらったといって持ってきてくれましたけど、楽健法の本のパクリだ、なんてみんなが言ってる丁さんって言う人の作った本ですね、あの本が若い女性に喜ばれるかどうか分らないんですけれども、あの本も楽健法の普及には役だっています。呼び名が楽健法からほかの名前にかわっても、やってることは楽健法に違いはありませんからね。偽物と呼びたくなるようなものも現れないようでは駄目ですね。私は家元とか本家とかなどということにこだわりなんかしない。関係ないですね。足で踏む健康法、楽健法が世界に広がることを私は期待しています。
今度の本で、楽健法経を取り上げたら若い人にはとっつきにくいかもしれないですけれども、本として寿命の短い実用書、一度出版したらもうそれで後は消えてしまうようなそういう本にはしたくないと言う気持ちもあって楽健法経の解説というスタイルの本を考えています。息長く人が読んでくれる本って言うのは何がその生命力を保ってるのかということですね。「二人ヨーガ楽健法」という1981年に出した本が、未だに農文協から継続して出版されて、まあ年に千冊前後くらいですけれども、やはり売れ続けているというのは、何か説得力や訴える力みたいなものが内容にあるからだろうと思います。
書いている内容、問題意識が、過去のものになっていない、古ぼけていってないということではないかな、と思います。だから、まあそれは、私が自分が楽健法をやったりアーユルヴェーダ学会で色々勉強したりして、その中でいつも自分が強く持っていたものですね。それがやはり現代の文明、現代人の生活に対する批判精神だと思うんですね。それは、現代医学に対する批判精神でもあるし、それからいくらいいことを賢い人に教わっても決してそれを守ることができないような、たくさんの人達ですね、仏教的にいえば衆生ですが、そういう人たちに対して、今もって楽健法のあの本が訴えかけるもの、説得力を持ってるから、共感して読んでくれるんだろうと思います。
みなさんが知ってるお経と言うのは本来、時代でいえば二千数百年以上も昔の釈尊が説法した内容を記述したものをいうのですが、釈尊の生の言葉が収録されたお経はそれほど多くはないし、これがそうだという特定もできないということがわかっています。仏教が時代の変遷とともに教団が分裂したり分派したりしながら発展していく過程で新しく書かれたものがほとんどだといっていいのです。
先月、偽のお経(ぎきょう)のことを話しましたが…覚えていますか?「偽経/ぎきょう」と言う風に言います。お経と言うものはお釈迦様が話されたことをまとめたものということになっていますが、伝わっているたくさんのお経は、本当はどのお経がお釈迦様の喋った本当の記録なのかなんてことはわからなくて、ほとんどは後世の仏教の指導者たちが、仏教を布教するために創作したものが、釈尊の説いたものだという風に流布されているわけです。インドから中国へ渡ってそこで漢訳され、朝鮮を経て日本に伝わって来た多くのお経ですね。そういう大乗仏教の経典は一切経としてまとめられています。有名な観音経なんかが載ってる法華経も、釈尊が亡くなってから何百年も経ってから創作されたものです。私が毎朝お唱えする真言宗のお経もそうですけれども、後世になってから創作されたお経です。
釈尊の言葉がそのまま伝わってると言うのは、テラワーダっていう、かつては小乗仏教と言ってましたけど、スリランカとかビルマとかタイとかそういうところに伝わってる阿含経典ですね。日本では発句経と言うような名前で訳されていますが、中村元先生が訳した「真理の言葉、スッタニパーダ」という名前で岩波文庫にもはいっています。そういうお経は釈尊の生のお言葉だろうと考えられているんです。それ以後のいわゆる一切経なんかにおさめられている何百巻ものお経は後世になって書かれ積み重ねてこられた文献ですね。そういうものだと思って間違いないです。
現代になって新しくお経が書かれるということはまずないですが、私は楽健法を布教したいために楽健法経というお経の形で、いかにも昔からあったお経のスタイルで楽健法経を書いたわけです。では後世に書かれたお経は偽経だとした、それは価値がないのかということですね。大乗仏教の経典もそうですけれども、いつの時代に作られたものであっても書かれていることが真理(ダルマ・法)であって、それが本当に人々の救いや癒しになり、実際に役に立つものであればね、それはお釈迦様の言葉であろうと、ほかの人が書いたものであろうと、本当に役立つ価値があればいいわけです。人間は絶えず考え、工夫発明しながら、より人の役に立つものを作ることを繰り返してきて、今日の文明の発展させて来たわけです。多くの偽経なしには、仏教が世界の三大宗教には育たなかったでしょう。
まあそういう意味で私も楽健法経と言うのを書きました。それと、楽健八句地蔵経なんていう八つの言葉で終わりになるお地蔵様を拝むお経も作ったりしています。
そのお経は楽健法の本に掲載しています。
楽健八句地蔵経
南無地蔵尊
足裏抜業
心身仏界
一心同仏
現世楽健
華開楽土
楽々楽々
万民笑顔
こういうお経です。こんなお経をひらめいて書く気になったのは、楽健寺の御本尊さんはお地蔵さんですよね。このお地蔵さんの前でお勤めしながら、お地蔵さんは日本の佛さんの中で一番たくさんある佛さんではないかと思ったんです。お地蔵さんって言うのは法華経の「従地涌出品」というところに書かれていますが、地湧菩薩といって地面の中から湧いてくる佛さんだと言う風に書かれていますし、それで、日本中の至る所にお地蔵さんが祀られて、佛さんとしては数が最も多いかもしれないんですけども、このお地蔵さんを拝むための短いお経がないんですね。観音さんだったら延命十句観音って言うのがあります。お一番身近なお地蔵さんを拝む延命十句観音経のような短いお経をと思ってこの八句地蔵経を書いたわけです。
延命十句観音経を知ってる人いますか?この中に。知らない?みなさん。観音さんのおまつりされてるお寺さんに行くと延命十句観音経と言って短い十句です、終わりがね。延命十句観音経ぉ~…おゆきさん、覚えてますか?
(幸子先生)今出てこない。
(宥厳先生)あ、そうですか(笑)。まあ、あのそのお経の話ではないのでやめときますけれども(一同笑い)。私も忘れたりして(笑)。まあ、あのーそういう意味でね、ま、楽健法経もいかにも昔から書かれてあったような形で書いたわけです。これは後に大阪の東方出版と言うところから経本として出版されたわけです。それで、この教本を允許状と一緒に皆さんに記念にお渡ししています。現在、東方出版で発行した経本がもうほとんどなくなってしまいました。それでまたお経の本を作るかどうしようかと悩んでたところですが、今回企画している本を出せば、楽健法経の欠本の穴埋めにもなります。
経本は折本になっていて、お守りのように大事に持ち歩くひともいるほどで、有難いと大切に扱われているものですから、いつか再版しようかと考えています。東光寺にしかない大事な経本ですからね。
楽健法経を出した時に、あの経本を書店に常時置いてくれたら、関心のある人が手にしてくれると思って、出版社に話をつけて出してもらったんですけれども、書店は1か月経つと本を配給元に返却しちゃうんですよね、売れ残った本は。ずっと置いとくと言うことなんかしてくれない。1カ月経っても返本しなければ請求書が来るわけです。買ったものとみなされる。だから、1か月以内売れない本は送り返してしまうんですね。そうやって出版社には返本の山ができるわけです。本が売れない時代ですから出版社は本はたくさん作らないようにするんです。楽健法経も常置してくれる書店はなかったですね。
今度、楽健法経のこの本は初版4,000部出す予定です。で、4,000部って言うたらかなりの部数ですよね。売れるかどうかわからないので近頃は1,500部くらいしか出さない本が多いんですよね、本が出ましたらだいたい九割が東京で売れます。関東圏で。それで、残りの一割が全国に散らばるんだそうです。
では本文を見ていきましょう。
是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。或(あ)る時佛、喩師婆伽所(ゆしばかしょ)にて、楽健法を説きたまえり。春うららなる季節、圍繞(いにょう)する諸菩薩の中央に、乾闥婆(けんだつば)を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。
是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。は如是我聞と書きますが、お経の冒頭にはかならずこの言葉がでてきます。このように私は釈尊からお聞きしましたという意味で、私というのは十大弟子のひとり阿難陀というひとでこのひとが聞いた内容を話したことがお経の内容になるという構成です。普通は如是我聞=にょぜがもん、と読みますが真言宗の理趣経では漢音で読むので、如是我聞=じょしがぶん、と読みます。
ある日お釈迦さまが喩師婆伽所で楽健法を伝授すると言うのでたくさんの弟子が集まりました。春うららなる季節にたくさんの人、仏教の志を立ててこれから精進しようという人を菩薩と言うんですね。菩薩と言うのはもう悟りを開いてしまった人ではなくて、
向上心を持ってこれから求道しようというそういう立場の人を菩薩と言うんですね。釈尊が諸菩薩の集いの中央にいて、そこに敷楽健曼陀を敷いて乾闥婆を寝か楽健法をいまから伝授します。
まず佛、座より立ちて自らの御佛足(おみあし)を具示(ぐし)して曰(のたまわ)く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。
足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。
足をどういう風に考えるかっていうことですね。ここで、強調したいのは、足はただ歩くためにあるんじゃなくて、楽健法をやって人を踏むためにあるんだと言うことを強調したいためにここで、「わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。」と言う風に書いたわけです。だから、足の裏は大地を歩くために、土を踏むだけではなくて、そのことだけに足を使うと思ったら大間違いですよ、と。足はもっと色んな使い方があるよ、というので楽健法への誘いを書いてるわけです。
足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
普通ひとは足は歩くためにあるんだとしか思わないわけですね。しかし足は楽健法をするためにもある。また、足はただ単に地を歩くためだけでなく、歩いている道も、「それはただに地と地を結ぶ」、これは他の土地とこの土地、例えば、和歌山と奈良とか、東京と奈良とか言う風に地と地ですね。結ぶためにのみ道があるんじゃないよ、と。道は人々の心と心を結ぶためにあるんだということを強調したいわけですね。道を行き来するっていうのは物を運ぶためだけでもないんですね、それ人と人、心と心を結ぶために道があるのです。楽健法をする足は、心と心を結ぶんだと言うことを強調しているわけです。
「生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。」法を結ぶと言うのは真理を伝えると言う意味ですね。法って言うのはダンマと言う風に言いますけど、これは真理のことですね。つまり、間違いのない、或いは科学的なあり方ですね。仏教と言うのは、霊感で見えないものを見て言ったりする不思議世界ではないんです。お釈迦様が仏教を開いたきっかけになったのはアーユルヴェーダだろうと言う風に言われてるわけですね。アーユルヴェーダと言うのはひとの役に立つものを科学的に考える生活の知恵です。そういう学問ですね。釈尊はこの学問を参考にして、当時いろんな摩訶不思議な世界に心を奪われたり、お坊さんが…当時のバラモンのお坊さんが怪しげな話だとかを人々が鵜呑みにしてですね、振り回されて、要するに搾取ばっかりされていた、そういう人々を救うために仏教をはじめたわけですね。宗教を駆使して人々を支配する立場に立つ僧侶などというのは、悪賢くて頭のいいのが、何も知らない無知な民衆を怪しい理屈でたぶらかして、財宝を集めるために存在してるようなものだったのです。そういうことではいけないと言うので、お釈迦さまが仏教を説くことになったわけですね。そういう風に考えて間違いありません。
道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健(きょうけん)ならざれば遠く歩むこと難し。
これは、まあ当たり前ですね。健やかな五体があって初めて道を歩いて行ける。
また足が如何(いか)ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度(しゅじょうさいど)に赴(おもむ)くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度(さいど)せんとする衆生(しゅじょう)からも、常に学ばんとする求道(ぐどう)の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。
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これも足のことを言ってますけど、いくら五体満足でも、歩いて行こうと言う気持ちがなければね、うちのおかみさんなんかは出歩いて行くのが好きですから、行動範囲が広いんです。私は足は強健ですけれども、あんまりあっちこっと歩くのはめんどくさいからじっとしてようと思うほうで、ここへ来られたら踏んであげるよ、というような感じで生きてる部分があるんです。しかし足も人によって、どういう心を持っているかによって全然持ってる意味が違ってくるんですね。衆生済度に赴く、遠いところに行ってね、わざわざ東京まで行って毎月楽健法を教えるというのもそうですね。足を使って衆生済度に赴くわけです。そのことで自分も生かされています。
楽健法を必要としているのに、まだそれがあることを知らない人たちに、楽健法の考え方を伝えたり、やってあげていかに有益かを伝えたりする。そのためには健やか想いがないといけない。自分だけが楽しもうとか、得しようとかいう自己中心ではなくて、困ってる人たちに何とかしてあげたいという、そういう優しい慈愛の心がなければだめですね。そして、苦しんでのたうちまわってるような人の姿を見ても、その姿から常に何かを学ぶという心構え、そういう衆生からも常に学ぶ。これが、「済度せんとする衆生からも常に学ぼうとする求道の心」ですね。だから、先生になったらもう全部知ってるから、引きだしに入ってるものを小出しにしてそれを講義したら役割が終わるんじゃなくて、師匠というものは常に謙虚に生徒からもっと学ぶことがいっぱい、常にあるんです。だから、そういう初心を忘れてはいけません。それが「求道」ということですね。道を求める。だから、私はなんでも知ってるんだから勉強する必要もなければお前たちから得るところは何もないよと言う先生がいたとしたらそれは馬鹿な先生ですね。もし、そういう態度で教えるような先生は人として偽物が多いです。本当に師匠になるような人は謙虚で、教養があるというのは引き下がって見ることができるということですね。
自分の持ってる世界と違ったものもちゃんと理解してそれを受け入れたり、そこからも学ぶ姿勢をもっている。それが求道ということですね。
足に光あり。
汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心(ぐどうしん)と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。
足と言うのは道を歩くだけでなく光を持ってる。すごいパワーを持ってる。だから、あなたの足は汝の楽健法を学ぼうとするそういう強い求める気持ちと、それで、それを学んで人を救ってあげたいというそういう優しい慈悲の心が一つになった時に足が本当に力を持つようになります。だから、「楽健法を行ずる者は光輝楽健菩薩と呼ばるるなり。」だから、今皆さんは光輝楽健菩薩と言うお名前を持った菩薩さんであります。そういうつもりで取り組んで行きましょうということです。
東西南北…ちょっと暑うなってきた、僕。何で暑くなってきたかというたら、下に綿入れ着とって(一同笑い)。この綿入れ、穴が開いてるんです。ほら!
(幸子先生)自慢せんでもいいやん。(一同笑い)
(宥厳先生)あ、あのー着替えがないんですよ、これしか(一同笑い)。あ、どこやったかな忘れてしまった(笑)。
(琴美ちゃん)東西南北です。
(宥厳先生)あ、そうそう。
東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集(いしゅう)する人々数多(あまた)あるなり。
蝟集するっていうのは蝗(イナゴ)の大群のようにたくさん集まって来るということですよ。だから、皆さんの所にまだ蝟集する人々があまりないとすれば、まだ皆さんが修行が足りないと言うことですね。だから、修行が足りて有名になると蝟集してくる。蝟集するっていうのは、たくさんの人が集まると言うことですね。で、ここはまあ蝟集の五分の一か二分の一くらいの蝟集…し始めてるのかな。
(琴美ちゃん)違う臭いがするかもしれない。(異臭)(一同笑い)
富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。
世の中には富める者のほうが少ないかもしれませんけれども、数多の貧しき者…たくさん貧しい人はおります。貧富を問わずですね、強健なる者もあり、病弱なるものもある。
病気って言うのは万人に常に平等ですから。金があるから病気にならないということはない。金のある人のほうが病気なりやすいかもしれませんね。貧乏人は病気しないかもしれません。貧乏人っていうのは病気したら治すためのお金もありませんからね。今の日本の貧乏人はみんな健康保険持ってますから、それで、良くないんですよ。生活のあり方を自覚しない。つまり、病気になったらお金がかかる。質素な暮らしでかつかつ食うだけのことしか出来なような時代に暮らした人はあんまり病気しなかったもんですよね。それで、子供はたくさん生まれます。貧乏人の子沢山って言うのはそれなんですよ。何故、貧乏人の子沢山かわかりますか。いまはみんな暮らし方が金持ち並だから、子供はようけおらんもんね。5人以上子供のおる人、この中で。いない?一人も?みんな金持ちなんだ。貧乏の子沢山って昔からよく言うじゃない。聞いたことあるよね。なぜ、貧乏人は子沢山か。それは、肉など贅沢なものを食えなかったから体が酸性化しないでしょ。それと、贅沢出来ないから他の遊びもあまりないし、ね。それで、もうガキがうるさいし。子沢山な夫婦はですね、他に楽しみがないもんで、子供が寝静まってから何かするんですね(笑)。そしたらまた子供が産まれる(笑)それが子沢山の理由なんですよ。それがね、お金があって子供もすくなくて、享楽でセックスするような、そういう夫婦には子供があまり生まれないですよ。だから、国が豊かになるほど子供が少なくなる。日本も少子高齢化、少子化してきたんです。子供が少なくなってきたのは、やはり経済的にレベルアップしたということもあるしね。貧富を問わず食べるものが贅沢になってきたということです。それは、文明国の…先進国は子供の数が減っていくというのはそういう理由なんですね。もう今やセックスそのものにも関心を持たなくなってくるようなね、そういう人がいっぱい出てきてるという現実があるんですね。なんか話が脱線しましたけど…ここのところはカットでよろしいですから(一同笑)。
正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。
もう死の間際なんだが助けてくれって必死になってしがみついてくる人もいっぱいいるだろうと、で、
此れを見、彼(か)を見るに至って、
これを見たり、そっちを見たりして、
此れを見、彼(か)を見るに至って、菩薩等如何(いか)にしてこれらの人々に光を与うるや。
そういう病気で苦しみのたうちまわってるね貧しい人々にどうやって光を与えたらいいか。
あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。
まあ、お坊さんって言うのは説法するのが仕事ですからね。理屈のわかってない人々に理屈を並べて納得させようというのが説法ですから。しかし説法してですよ、どんな立派なことを喋っておっても、「Without楽健法(楽健法なしで)」ですね、本当に人を救えるかどうかです。道端に立って説教して立派なこと言って、「玄米菜食をし、ご本尊に朝夕参来参拝すれば、あなた方の病気は必ず治ります」という事をお坊さんから聞かされて病気が治ったらそれはありがたいですけれど、そんなことは滅多に起こり得ないということをここで言うてるわけですね。そういうことを、「あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。」これは釈迦とかキリストとかぐらいだったら、ひょっとしたらそばに行っただけで病気が治る人がおるかも知れないけれど、僕はそれも多分あり得ないんじゃないかなという風に思います。
インドの聖者と崇められているひとに楽健法をしてあげたこともありますが、働き疲れた普通のひとの身体でしたね。仏陀というのはそんなもんじゃいけないですね。ひょっとしたらこっちの方が仏陀かもしれない。そう思いながら踏んであげたんですよ。気持ち良さそうな顔していびきをかいていられたね。ああいう人がそばへ行ったら病気が治るかといったら、治らないと思いますよ。聖者におおきな期待などしないで、ご家族や仲間で楽健法をするほうが賢明で確実です。
言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。
言葉で人を救うのは本当に難しいことです。至難というより不可能だろうと思うくらいですね。論理的に納得できたからといって病気がすぐ癒やされるものではないですね。だけど、本当に真理を持った言葉をキャッチする能力を病人がもし持ってたとしたら、あ、そうだったんだって事に病人が気がつけば、それは治る可能性はおおきくなります。病気が治ると言うのは本人が気付くか気付かないかというところに本当は大きな鍵があると思いますね。傲慢な考え方で金はいくらでも払うから治してくれじゃあ病気は治らないですね。生活習慣は何一つ変える気はないんだけども、とにかく病気を治してくれたら、財産半分あげるとかいうひとがいます。僕も何人かそんな経験がありましたよ。この腰痛を治してくれたらもう財産半分あげてもいいなんて言うひとに楽健法をしました。酵素風呂からあがった人に、一生懸命踏んであげたら「あ~治った」って言って黙って帰りましたね(一同大爆笑)。半分持ってくるとは言わなかった。今でもそのおっちゃんの顔思い出します。
この間もそう言えば酵素風呂の講習会に出席して火曜日まで泊まって行くって言ったおっちゃんがいたんですけど、ドタキャンどころか連絡も来なかったですね。そのひとは以前にやってきたとき、先生実はこの前宝くじが二千万円当たったんですよって、今度来た時にたんまり寄付しますからって言って帰って、その次に来られた時に、だいぶ長いこと考えてから財布から二万円出してくれました(一同笑)。自分でそう言って前回は帰ったんですから、出さないよりは出したほうがいいと思ったんでしょうね。そういう人もおります。
人間って言うのは面白いもんですね。ただ、そういう何か気持ちがなかなか吹っ切れない間はね、ものに執着してる、気持ちが切り替わらない、そう言う間は病気なんか治らないもんです。病気を治そうと思ったら物の執着をスカッと捨てる。病気にならないでいっぱい持ってる人は捨てなくてもいいですからね。これはおかみさんに向かって言ってるんですけど(一同爆笑)。まあ、僕が捨てたらいいなと思っても、向こうがそう思わなかったりするもんで。それで、どこ言うてたか忘れてしもたね(一同笑)。
菩薩等よくわが教えるところを心眼(しんがん)をもって追体験し体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。
まあ、心眼を持って追体験しっていうのは深く考察してですね、追体験する。つまり、やられてるの見たら、人が踏んでるの見たら想像力を働かせて踏まれてる気持ちでそれを見る。あるいは踏んでるつもりでそれを見るって言う風にしないと、ただ、ボーッと見とったんじゃダメだっていうことです。勉強っていうのはそうなんです。昔から職人でも何でもそうですけど、先輩の仕事を見て盗むということを言うんですね。だから他人の、優れた人がいれば、その人がやってることをその通り真似てみる。学ぶと言うのは真似るということでもあるって言うふうに昔から言われますけどね。
なかなか上達しない人は見ていないんです。素晴らしいものを見ながら追体験してないんですよ、見てる時に。あーすごいなーっと思っても、観察が素通りしてるんですね。観察力が高まって、そういうつもりで見ていれば必ず人は見るだけでも体解できます。体解って言うのは体で覚えるということですね。自分がやられてるように、あるいは自分がやってるように同時に二つの事を見て覚えちゃう、というくらいの気持ちで、「体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。」この体解っていう言葉が仏教では重要視されるんですね。体解って言うのは体できちっと覚えたこと。だから、覚えたこと、だから、しようという意思とやってることとの間に嘘がないことね。言行が一致してること。そういう事を大事にしないといけないですね。だいたい言うこととすることが違う人間はね嘘が多いということです、嘘が多過ぎる。言ってることが即考えてることであり、考えてることが即行動になっていく。楽健法の技を体解するということは心技一体、染み込んでしまうということですね。目をつぶっててもできる。自動車に長年乗って慣れてる人はね、車と一体になって乗れるし、自転車に乗れる人は転倒しないで軽々と走れるわけですね。それは体解してるからですね。ま、目をつぶってても体解してたらできると言うて、車を運転するときには目をつぶって運転しないようにしたほうがいいと思いますけど。
かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅(しきらっけんまんだら)に寝かせたまえり。
乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。
この、北枕にしてっていう風にわざわざ書いてあるのは、夜寝る時も北枕にしたほうが体に良くて、病気も早く治るのです。東西を頭にして寝てる人は是非北枕にして寝てみてくださいね。そうしたら、」地球の北から南に向かって流れてる力を頭の方からまっすぐ均等に受けますので病気が治りやすい。死んだ時は生き返る可能性があるので北枕に寝かせるんですね。死人を北枕に寝かせるので北枕は縁起が悪いなどと考えるのは間違い。そういう意味から北枕っていうことをわざわざここに入れたわけです。
この時、天香(てんこう)芳(かんば)しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。 佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。
「この天香芳しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。」
楽健法してる時にね、得も言われぬいい匂いが部屋に流れたりすること…体験した人いますか?僕は今まで何度か体験してます。お香も焚いてないのにいい匂いがしてくる。修業しよという気持ち、あるいは信仰しようという気持ち、そういう気持ちを持って楽健法をやっていますと、いい鈴の音色がきれーな何とも言えないような音色が聞こえたりすることがありますね。ある女流作家の方を一度踏んであげたことがあるんです。粟島行春先生の講義を高野山で受けたときに知り合った林えり子さんって人です。新幹線のグリーンに乗ると置いてある雑誌があるんですが、そこに日本の100人の若者って言うの毎月連載して載せていられます。30代くらいの若者がね、ユニークな仕事をしてる、そういうのを紹介しているページを3ページくらい書いてますけど、その林えりこさんに東京で楽健法やってあげた時に、突然天から良い匂いが降りて来た。それが、「天香(てんこう)芳(かんば)しく」って言うの、それを経験したことがありましたね。それで、「あれ、このいい匂いは何ですか?」ってふたりともびっくりしました。
古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心(ほっしん)せざる衆生には病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり。
この意味はわかりますね?ヨーガは自分がしようと意志した人がヨーガができるわけです。、傍からこの人はヨーガをしたらいいなと思っても本人にやる気がなければどうにもならないんです。これは馬に水を飲ませるようなものですね。馬を水のそばへ連れて行ったってね、馬が飲みたくなければ水を飲みませんからね。それで、馬に水を飲ませるような話だって言うんですね。だから、関心のない人は水を飲みたくない馬みたいなもので、楽健法する人がそばにおったって、踏んでくれともいいません。意味もわかりませんから出会えないんです。縁なき衆生は救い難し、というのはこのことですね。「自力自助」ヨーガというものは自分でするものです。で、やる気があってできることですね。だから、病気の人に、「発心(ほっしん)せざる衆生」って言うのは、やる気になってない人にはですね、「病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり」ということです。
また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。
いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。
だから、まあ食養、手当療法、色んな手当療法あります。この間も谷川さんがぼくの左足指が痛いのを気にかけてくださって足の裏に貼り付ける湿布薬を作ってきてくれました。
あれからあと続けてやってませんね実は。今日、ちあきちゃんがアップしてくれたブログ見たら僕の真っ黒けの足が写ってて、え~~~っと思って(一同笑)、飛び上がるような気がしましたが、こういう手当も効多しといえども労も多しってことですね。谷川さんが一生懸命あれを作ってくれた、そういう労、それをまた布に伸ばして貼り付けてラップでまいて、靴下を履いてと、色々な手間がかかるじゃないですか。何をするにしてもそうです。
オイルマッサージにしてもそうだし、食事療法ったって玄米菜食するなら、これもなかなか手間のかかることです。まあ、断食。これは非常に簡単で誰でも出来そうだけれども、普通の感覚の人は断食って言ったら怖がってね。第一、ものを食べないほど辛いことはないと思ってる人が多いですから。僕ははものを食うほどしんどいことはないと思う方ですから。だから、なるべく食わないでおれたらどんなに楽だろうと思いながら生きてるところがあるんですけど。
皆さんは毎日毎日もっと美味しいもの、もっと美味しいものと思って求めまくってる。それがまあ、普通の人ですね。だけど、そういう普通の人が病気になるんです、だいたい。何かわかってんのかいなって感じですね(笑)だから簡単に断食もできません。それから、アーユルヴェーダありって、このアーユルヴェーダって言うのは所謂全般的な医学のことですけれどもね。これも薬を飲むとか診察するとか適切な見立てを誤ったらダメだし。なかなか、いずれも効はあるかもしれないけど時間と手間がかかります。
ここに、「西洋医学あり」って書いても、良かったんですけど、それは、西洋医学はお経の中に入れなかったですけど。「いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。対症療法は色々あって、一時はちょっと楽になったりしますよね。西洋医学っていうのはだいたい対症療法が基本なんですね。その時の苦痛がとれたらいいんです。例えばステロイドを飲み続けたら、将来どうなるかっていうことは医者は重々知りながら、ひどくなっていくということを知りながら、なおかつ、薬を出していくという、結果がわるくなっていくことがはっきりしてるのにやり続ける。そういう不思議なことを止めないで繰り返す人たちですね。
これも、やはり、理(ことわり)っていうか、理屈が分かってないからなんですね。本当は。病を治すには薬を飲まないほうがいいっていうことは本当は正しいんだろうけども、まあ金儲けをするためには結果は考えない医者。今の医療界がそうなんですね。で、「病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。」ということです。
宿痾(しゅくあ)を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し。
宿痾って言うのは治りにくい持病のことですね。なかなか治らない病気。なんか前世に悪いことしたんだろうか。だけど、本当は毎日食ってるものに、暮らしに原因がひそんでるんだろうけどね、前世の因縁のせいにしたらいけないですね。生活習慣から出てくることが多いです。だけど、生まれたばっかりでね、生まれて間もなくそういう病気を抱える人もおります。両親が健全な生活を送ってなければ、生まれたこどもに病気がでたりします。生まれつき病気の人も結構いるわけです。子孫を健全にするには今が健全でなければいけないしその持続が大事ということですね。
されど病気の由縁(ゆえん)は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活の無知なるに由(よ)ることほとんどなり。
とまあ、ここまでで言い切ってみたんですけど、病気になぜなるのか、これは心の持ち方。どういうふうにものを考えたらいいのか、どういう考え方が理にかなってるのか、ですね。「理法わきまえず」って言うのはそういうことですね。精神生活の理法。だから、我ばっかり強くて、知情意のバランスが取れてないとね、人間っていうのは。苦しまなくてもいいようなところで苦しんだり、苦しんだって何にも変わりもしないのに苦しむばっかりっていうような人が多いわけですね。これは、精神生活に理法と言うのがない、あるいはわからないからです。食、運動、精神生活も、自分で自分を観察しながらコントロールできるような精神のゆとりっていうのかね。そういうものが人間には必要だということですね。
(電話の音♪♪♪~~~)
僕の電話かな?ちょっと待ってね。あ、ごめんなさい。
~~~中断~~~
孫でした。孫が車の停めるところがわからんってまごまごしてました(一同笑)。
人間の存在の法を知り、
人間の存在の法を知る、とは、自然の働きを知るということですね。人間の存在の法って言うのは皆さんもそれなりに考えていらるだろうと思うんですけども、法って言うのは在り方ですね。逆らいようのないものが自然にはあります。人間はどうやって、いかに生き、どこから来て何をしてどこに行くのかと言うようなことですね。これはもう人類の永遠の謎ですね。哲学の課題。人は、人はどこから来て、何をして、どこへ行くのか、ですね。
人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え、三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。
この「人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし」って言うのは、やはり、生理の根源って言ったら食生活から見直していくっていう事ですね。だから、それは病気が起きた時に単にそこが痛んでるから、例えば胃が悪い、子宮が悪いって言ったら、そこをとったらいいとかいう問題ではなくてね。なぜ、それが悪くなっていったのか、その為にどういう長年の蓄積を、病気を作るような、蓄積するような食生活をどれくらい続けてきたのかというようなことがあって、そういうことに気づけば、悪かったことを止めたら病気っていうのは治っていくわけですからね。
だから、まあ、それで、自然食に切り替えて治る人もいるし、何かそれなりにいろいろ自分で工夫されて、見つける人もおるでしょうけども、良くなるのは体の浄化をするっていうことですね。そして、流れを整え管にものがつまらないように、そして三毒によって、三毒って言うのは貪・瞋・癡(とん・じん・ち)って言う、仏教で三毒って言います。貪と瞋と癡。貪って言うのは貪る心。欲望ですね。で、瞋っていうのはすぐ怒ることですね。怒り。癡って言うのは愚かなって言う、無知なことですね。貪・瞋・癡。だから、無明と言う風に人々を言うのは、この貪・瞋・癡、三つのものを持っててね、物事の道理が十分わかってない人のことですね。それを衆生と言うものはそういうものだという風に、仏教というものはだいたい人々を少し上から目線で見ていますね、お前たちは要するに物を知らなくてレベルの低い救いがたい連中なんだから、教えてあげますよというような感覚で、宗教と言うのをやって来たわけですね。今だってそうなんですよね。どんな新興宗教が生まれたって、そこへ行ったらね皆さんが知らないものを与えられて知ることができるように思って勉強に行くわけですね。まあ、「三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。」
楽健法をすることでひとは新しい発見と出会います。楽健法は人生の再構築の道案内です。無知無明から抜け出す合理的な手段です。
また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
左より右に転ずべしと。
では、2時になったので、今からあとの部分の実技をしていただきますね。もう暫くしたら、堀江真美さんも来られると思うので、舞台の準備とか音響のチェックとか色んなことが必要になってくるので、僕と琴美ちゃんとが組む組み合わせで今から楽健法をやってください。来客が来たらぼくと琴美ちゃんの2人がサーっと逃げますから、みなさんは楽健法をやってくださいね、あとの用意もあるのだろうと思いますので早めの楽健法をパッと済ませて、という風にしたいと思います。
(琴美ちゃん)いやっ!ひっど~い。
(宥厳先生)琴美ちゃん、よろしいですか。
(琴美ちゃん)はーーい。
(宥厳先生)それで、今下に孫が来たみたいなんで、まあ、孫と息子が…上がってこないね、こっちに。
(琴美ちゃん)上に行っちゃったんじゃないですか?
(宥厳先生)行っちゃったんかな?
(幸子先生)上に上がったんちゃうん。
(宥厳先生)じゃあ、じゃあ、今から楽健法やりましょう。ハイ!ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(琴美ちゃん)先生、私たちの布団がないって。
(宥厳先生)ないの!?(一同大爆笑)。あ、そうか。ほんなら上に行こうか(笑)。じゃ、ま、楽健法をさっと45分くらいで裏表やってください。
(受講生)裏表(一同笑)
(宥厳先生)裏と表やんか(一同笑)