楽健法研究会 東光寺の楽健法セラピスト養成講座

楽健法セラピスト養成講座の記録・現在第12期(2012年)4月開講から来年3月まで毎月の記録です

真美さんのライブの感想追加その2

2012年01月18日 | 第11期楽健法セラピスト講座
♪クリスマス&年末にピッタリのイベントで楽しい時間でした。ジャズには疎いですが…本堂でのピアノ、火鉢も雰囲気が良かったです。キーボードよりも生のピアノがたっぷり聴けたらさらに良かったと思います。先の風に~ ピアノ伴奏でまさかの合唱…結構楽しかったです。(Yumi)

行き違いで掲載が遅れて申し訳ございません



真美さんのライブのムービーアップしました。 ここをクリック

第9回12月9日(1日目)その1

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
フライングで楽健法始めちゃました!







仕切り直しで、「楽健法経前編」



12/10 13:08

(宥厳先生)おはようございます。
(一同)おはようございま~す。

(宥厳先生)昨日からここに来る女性がみんな別人に見えるんです。どういうわけか。
(琴美ちゃん)先生、どうしたんですか。(笑)

(宥厳先生)どうも、おはようございます。
(一同)おはようございます。
(宥厳先生)全員そろってますね。
(ちあき)た、多分…。
(琴美ちゃん)絶対に!
(宥厳先生)はい。



(宥厳先生)あの~、昨日から本堂の方を色々と片づけたり、ピアノが届いたりして、それで今朝、調律に来られて二時間ばかり。さっき出来上がったばっかりです。それで、西澤先生がチェックした結果、まあ非常によろしいと(笑)、いう話だったんでホッとしています。  
 先月は楽健法経のテキストをお渡ししましたけれども、これを今日もとりあげます。これについて今回講義するのは、来年の、たぶん春以降になると思うんですけど、五月書房というところで新しい楽健法の入門書を出す予定にしています。数年前から出さないかと五月書房から声をかけられていたんですが、出版社のほうは実用的な楽健法だけに特化した入門書と言うか、図解入りの分りやすい実用の本を考えて私に話を持って来られたんです。
ところがもうすでに楽健法については、ベストセラーとまでは行きませんけども、長年ずっと皆さんが読んでくださってる私の本と、幸子先生の著作の本の2種類がありますしね。  
 
 それで、いまさら実用書で分りやすそうな本といっても、たとえば、ゴーストライターが書いたようなハウツーものの本なんかは、出したくないという気持ちがあるのです。 
 
 私が楽健法の活動をはじめて以来、自分の課題にしてきたのは、楽健法を世界中に広めたいと言うことです。そういう強い気持ちがあって、あのDVD、ビデオのなかにセットでいれている解説本には、楽健法経を掲載して、英語の翻訳も載せています。また楽健法経をインターネットにアップして、英語とスペイン語の翻訳もアップしてあるんです。10年ほど前に、英訳を読んだスペイン人の方が、訪ねて見えられて、東光寺に二週間くらい泊って、楽健法を教えてあげたことがあるんです。男の方でしたけれども。その人が英文からスペイン語に楽健法経を重訳してくれたわけです。だから、いま2ヶ国語の翻訳があるんです。で、更にこれにフランス語と中国語と朝鮮語とインドネシア語に翻訳して、それで、全部で7カ国になるのかな、日本語を入れたら。そういう楽健法経を軸にした入門書の本にしようと思っているわけです。今、増野真理子さんのお友達の松浦素子さんがイラスト描いてくれていまして、ほぼイラストも出来上がってきています。この講習会で先月も楽健法経のことを話しましたけれども、このテープ起こしをしたものを軸に、今度の単行本に、楽健法経を講義するというような形で、それで実技も同時に勉強できるような本を作ろうと考えています。

 楽健法経の7カ国語訳入りですね。講義の内容までは翻訳できませんが、楽健法経の翻訳で世界の人たちに楽健法が一応勉強できるようにしようという、欲張った発想で本作りしようとしてるわけです。

 それで、またちあきさんには御苦労をかけますけど、今日喋ったことも含めて、で、過去に楽健法経について喋ったことも含めて拾って頂いて編集したいと考えています。

(琴美ちゃん)あ!ちあきゴーストライターだ!
(宥厳先生)ゴーストライター(笑)ちょっとまた協力して頂こうかな、と言う風に思ってます。それで少しまだ喋れてない…あ、僕、眼鏡どっかに…あった!(一同笑い)。もう少しここで今日お喋りをして、ま、そういうことをベースに仕上げようかなと言う風に思ってるわけですね。まあ、よろしくお願いします。

 新しい本を書くと言うのはなかなか大変な作業です。今日も一冊家内が、昨日だったかだれかにもらったといって持ってきてくれましたけど、楽健法の本のパクリだ、なんてみんなが言ってる丁さんって言う人の作った本ですね、あの本が若い女性に喜ばれるかどうか分らないんですけれども、あの本も楽健法の普及には役だっています。呼び名が楽健法からほかの名前にかわっても、やってることは楽健法に違いはありませんからね。偽物と呼びたくなるようなものも現れないようでは駄目ですね。私は家元とか本家とかなどということにこだわりなんかしない。関係ないですね。足で踏む健康法、楽健法が世界に広がることを私は期待しています。

 今度の本で、楽健法経を取り上げたら若い人にはとっつきにくいかもしれないですけれども、本として寿命の短い実用書、一度出版したらもうそれで後は消えてしまうようなそういう本にはしたくないと言う気持ちもあって楽健法経の解説というスタイルの本を考えています。息長く人が読んでくれる本って言うのは何がその生命力を保ってるのかということですね。「二人ヨーガ楽健法」という1981年に出した本が、未だに農文協から継続して出版されて、まあ年に千冊前後くらいですけれども、やはり売れ続けているというのは、何か説得力や訴える力みたいなものが内容にあるからだろうと思います。
 書いている内容、問題意識が、過去のものになっていない、古ぼけていってないということではないかな、と思います。だから、まあそれは、私が自分が楽健法をやったりアーユルヴェーダ学会で色々勉強したりして、その中でいつも自分が強く持っていたものですね。それがやはり現代の文明、現代人の生活に対する批判精神だと思うんですね。それは、現代医学に対する批判精神でもあるし、それからいくらいいことを賢い人に教わっても決してそれを守ることができないような、たくさんの人達ですね、仏教的にいえば衆生ですが、そういう人たちに対して、今もって楽健法のあの本が訴えかけるもの、説得力を持ってるから、共感して読んでくれるんだろうと思います。

 みなさんが知ってるお経と言うのは本来、時代でいえば二千数百年以上も昔の釈尊が説法した内容を記述したものをいうのですが、釈尊の生の言葉が収録されたお経はそれほど多くはないし、これがそうだという特定もできないということがわかっています。仏教が時代の変遷とともに教団が分裂したり分派したりしながら発展していく過程で新しく書かれたものがほとんどだといっていいのです。

 先月、偽のお経(ぎきょう)のことを話しましたが…覚えていますか?「偽経/ぎきょう」と言う風に言います。お経と言うものはお釈迦様が話されたことをまとめたものということになっていますが、伝わっているたくさんのお経は、本当はどのお経がお釈迦様の喋った本当の記録なのかなんてことはわからなくて、ほとんどは後世の仏教の指導者たちが、仏教を布教するために創作したものが、釈尊の説いたものだという風に流布されているわけです。インドから中国へ渡ってそこで漢訳され、朝鮮を経て日本に伝わって来た多くのお経ですね。そういう大乗仏教の経典は一切経としてまとめられています。有名な観音経なんかが載ってる法華経も、釈尊が亡くなってから何百年も経ってから創作されたものです。私が毎朝お唱えする真言宗のお経もそうですけれども、後世になってから創作されたお経です。

 釈尊の言葉がそのまま伝わってると言うのは、テラワーダっていう、かつては小乗仏教と言ってましたけど、スリランカとかビルマとかタイとかそういうところに伝わってる阿含経典ですね。日本では発句経と言うような名前で訳されていますが、中村元先生が訳した「真理の言葉、スッタニパーダ」という名前で岩波文庫にもはいっています。そういうお経は釈尊の生のお言葉だろうと考えられているんです。それ以後のいわゆる一切経なんかにおさめられている何百巻ものお経は後世になって書かれ積み重ねてこられた文献ですね。そういうものだと思って間違いないです。

 現代になって新しくお経が書かれるということはまずないですが、私は楽健法を布教したいために楽健法経というお経の形で、いかにも昔からあったお経のスタイルで楽健法経を書いたわけです。では後世に書かれたお経は偽経だとした、それは価値がないのかということですね。大乗仏教の経典もそうですけれども、いつの時代に作られたものであっても書かれていることが真理(ダルマ・法)であって、それが本当に人々の救いや癒しになり、実際に役に立つものであればね、それはお釈迦様の言葉であろうと、ほかの人が書いたものであろうと、本当に役立つ価値があればいいわけです。人間は絶えず考え、工夫発明しながら、より人の役に立つものを作ることを繰り返してきて、今日の文明の発展させて来たわけです。多くの偽経なしには、仏教が世界の三大宗教には育たなかったでしょう。
 まあそういう意味で私も楽健法経と言うのを書きました。それと、楽健八句地蔵経なんていう八つの言葉で終わりになるお地蔵様を拝むお経も作ったりしています。
 そのお経は楽健法の本に掲載しています。






楽健八句地蔵経

南無地蔵尊
足裏抜業
心身仏界
一心同仏
現世楽健
華開楽土
楽々楽々
万民笑顔






こういうお経です。こんなお経をひらめいて書く気になったのは、楽健寺の御本尊さんはお地蔵さんですよね。このお地蔵さんの前でお勤めしながら、お地蔵さんは日本の佛さんの中で一番たくさんある佛さんではないかと思ったんです。お地蔵さんって言うのは法華経の「従地涌出品」というところに書かれていますが、地湧菩薩といって地面の中から湧いてくる佛さんだと言う風に書かれていますし、それで、日本中の至る所にお地蔵さんが祀られて、佛さんとしては数が最も多いかもしれないんですけども、このお地蔵さんを拝むための短いお経がないんですね。観音さんだったら延命十句観音って言うのがあります。お一番身近なお地蔵さんを拝む延命十句観音経のような短いお経をと思ってこの八句地蔵経を書いたわけです。
 延命十句観音経を知ってる人いますか?この中に。知らない?みなさん。観音さんのおまつりされてるお寺さんに行くと延命十句観音経と言って短い十句です、終わりがね。延命十句観音経ぉ~…おゆきさん、覚えてますか?



(幸子先生)今出てこない。
(宥厳先生)あ、そうですか(笑)。まあ、あのそのお経の話ではないのでやめときますけれども(一同笑い)。私も忘れたりして(笑)。まあ、あのーそういう意味でね、ま、楽健法経もいかにも昔から書かれてあったような形で書いたわけです。これは後に大阪の東方出版と言うところから経本として出版されたわけです。それで、この教本を允許状と一緒に皆さんに記念にお渡ししています。現在、東方出版で発行した経本がもうほとんどなくなってしまいました。それでまたお経の本を作るかどうしようかと悩んでたところですが、今回企画している本を出せば、楽健法経の欠本の穴埋めにもなります。

 経本は折本になっていて、お守りのように大事に持ち歩くひともいるほどで、有難いと大切に扱われているものですから、いつか再版しようかと考えています。東光寺にしかない大事な経本ですからね。
 楽健法経を出した時に、あの経本を書店に常時置いてくれたら、関心のある人が手にしてくれると思って、出版社に話をつけて出してもらったんですけれども、書店は1か月経つと本を配給元に返却しちゃうんですよね、売れ残った本は。ずっと置いとくと言うことなんかしてくれない。1カ月経っても返本しなければ請求書が来るわけです。買ったものとみなされる。だから、1か月以内売れない本は送り返してしまうんですね。そうやって出版社には返本の山ができるわけです。本が売れない時代ですから出版社は本はたくさん作らないようにするんです。楽健法経も常置してくれる書店はなかったですね。

今度、楽健法経のこの本は初版4,000部出す予定です。で、4,000部って言うたらかなりの部数ですよね。売れるかどうかわからないので近頃は1,500部くらいしか出さない本が多いんですよね、本が出ましたらだいたい九割が東京で売れます。関東圏で。それで、残りの一割が全国に散らばるんだそうです。

 では本文を見ていきましょう。






是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。或(あ)る時佛、喩師婆伽所(ゆしばかしょ)にて、楽健法を説きたまえり。春うららなる季節、圍繞(いにょう)する諸菩薩の中央に、乾闥婆(けんだつば)を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。



 是(かく)の如(ごと)く我聞(われき)けり。は如是我聞と書きますが、お経の冒頭にはかならずこの言葉がでてきます。このように私は釈尊からお聞きしましたという意味で、私というのは十大弟子のひとり阿難陀というひとでこのひとが聞いた内容を話したことがお経の内容になるという構成です。普通は如是我聞=にょぜがもん、と読みますが真言宗の理趣経では漢音で読むので、如是我聞=じょしがぶん、と読みます。

 ある日お釈迦さまが喩師婆伽所で楽健法を伝授すると言うのでたくさんの弟子が集まりました。春うららなる季節にたくさんの人、仏教の志を立ててこれから精進しようという人を菩薩と言うんですね。菩薩と言うのはもう悟りを開いてしまった人ではなくて、
向上心を持ってこれから求道しようというそういう立場の人を菩薩と言うんですね。釈尊が諸菩薩の集いの中央にいて、そこに敷楽健曼陀を敷いて乾闥婆を寝か楽健法をいまから伝授します。





 まず佛、座より立ちて自らの御佛足(おみあし)を具示(ぐし)して曰(のたまわ)く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。
 足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
 それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。




 足をどういう風に考えるかっていうことですね。ここで、強調したいのは、足はただ歩くためにあるんじゃなくて、楽健法をやって人を踏むためにあるんだと言うことを強調したいためにここで、「わが足裏、汝(な)が足裏(そくり)を如何(いかん)んと考えるや。」と言う風に書いたわけです。だから、足の裏は大地を歩くために、土を踏むだけではなくて、そのことだけに足を使うと思ったら大間違いですよ、と。足はもっと色んな使い方があるよ、というので楽健法への誘いを書いてるわけです。





 足裏(そくり)に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。




 普通ひとは足は歩くためにあるんだとしか思わないわけですね。しかし足は楽健法をするためにもある。また、足はただ単に地を歩くためだけでなく、歩いている道も、「それはただに地と地を結ぶ」、これは他の土地とこの土地、例えば、和歌山と奈良とか、東京と奈良とか言う風に地と地ですね。結ぶためにのみ道があるんじゃないよ、と。道は人々の心と心を結ぶためにあるんだということを強調したいわけですね。道を行き来するっていうのは物を運ぶためだけでもないんですね、それ人と人、心と心を結ぶために道があるのです。楽健法をする足は、心と心を結ぶんだと言うことを強調しているわけです。

「生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。」法を結ぶと言うのは真理を伝えると言う意味ですね。法って言うのはダンマと言う風に言いますけど、これは真理のことですね。つまり、間違いのない、或いは科学的なあり方ですね。仏教と言うのは、霊感で見えないものを見て言ったりする不思議世界ではないんです。お釈迦様が仏教を開いたきっかけになったのはアーユルヴェーダだろうと言う風に言われてるわけですね。アーユルヴェーダと言うのはひとの役に立つものを科学的に考える生活の知恵です。そういう学問ですね。釈尊はこの学問を参考にして、当時いろんな摩訶不思議な世界に心を奪われたり、お坊さんが…当時のバラモンのお坊さんが怪しげな話だとかを人々が鵜呑みにしてですね、振り回されて、要するに搾取ばっかりされていた、そういう人々を救うために仏教をはじめたわけですね。宗教を駆使して人々を支配する立場に立つ僧侶などというのは、悪賢くて頭のいいのが、何も知らない無知な民衆を怪しい理屈でたぶらかして、財宝を集めるために存在してるようなものだったのです。そういうことではいけないと言うので、お釈迦さまが仏教を説くことになったわけですね。そういう風に考えて間違いありません。




道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健(きょうけん)ならざれば遠く歩むこと難し。




これは、まあ当たり前ですね。健やかな五体があって初めて道を歩いて行ける。




 また足が如何(いか)ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度(しゅじょうさいど)に赴(おもむ)くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度(さいど)せんとする衆生(しゅじょう)からも、常に学ばんとする求道(ぐどう)の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。

<r>
これも足のことを言ってますけど、いくら五体満足でも、歩いて行こうと言う気持ちがなければね、うちのおかみさんなんかは出歩いて行くのが好きですから、行動範囲が広いんです。私は足は強健ですけれども、あんまりあっちこっと歩くのはめんどくさいからじっとしてようと思うほうで、ここへ来られたら踏んであげるよ、というような感じで生きてる部分があるんです。しかし足も人によって、どういう心を持っているかによって全然持ってる意味が違ってくるんですね。衆生済度に赴く、遠いところに行ってね、わざわざ東京まで行って毎月楽健法を教えるというのもそうですね。足を使って衆生済度に赴くわけです。そのことで自分も生かされています。

 楽健法を必要としているのに、まだそれがあることを知らない人たちに、楽健法の考え方を伝えたり、やってあげていかに有益かを伝えたりする。そのためには健やか想いがないといけない。自分だけが楽しもうとか、得しようとかいう自己中心ではなくて、困ってる人たちに何とかしてあげたいという、そういう優しい慈愛の心がなければだめですね。そして、苦しんでのたうちまわってるような人の姿を見ても、その姿から常に何かを学ぶという心構え、そういう衆生からも常に学ぶ。これが、「済度せんとする衆生からも常に学ぼうとする求道の心」ですね。だから、先生になったらもう全部知ってるから、引きだしに入ってるものを小出しにしてそれを講義したら役割が終わるんじゃなくて、師匠というものは常に謙虚に生徒からもっと学ぶことがいっぱい、常にあるんです。だから、そういう初心を忘れてはいけません。それが「求道」ということですね。道を求める。だから、私はなんでも知ってるんだから勉強する必要もなければお前たちから得るところは何もないよと言う先生がいたとしたらそれは馬鹿な先生ですね。もし、そういう態度で教えるような先生は人として偽物が多いです。本当に師匠になるような人は謙虚で、教養があるというのは引き下がって見ることができるということですね。  
 自分の持ってる世界と違ったものもちゃんと理解してそれを受け入れたり、そこからも学ぶ姿勢をもっている。それが求道ということですね。




 足に光あり。

 汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心(ぐどうしん)と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。




 足と言うのは道を歩くだけでなく光を持ってる。すごいパワーを持ってる。だから、あなたの足は汝の楽健法を学ぼうとするそういう強い求める気持ちと、それで、それを学んで人を救ってあげたいというそういう優しい慈悲の心が一つになった時に足が本当に力を持つようになります。だから、「楽健法を行ずる者は光輝楽健菩薩と呼ばるるなり。」だから、今皆さんは光輝楽健菩薩と言うお名前を持った菩薩さんであります。そういうつもりで取り組んで行きましょうということです。

東西南北…ちょっと暑うなってきた、僕。何で暑くなってきたかというたら、下に綿入れ着とって(一同笑い)。この綿入れ、穴が開いてるんです。ほら!



(幸子先生)自慢せんでもいいやん。(一同笑い)
(宥厳先生)あ、あのー着替えがないんですよ、これしか(一同笑い)。あ、どこやったかな忘れてしまった(笑)。

(琴美ちゃん)東西南北です。
(宥厳先生)あ、そうそう。




 東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集(いしゅう)する人々数多(あまた)あるなり。




 蝟集するっていうのは蝗(イナゴ)の大群のようにたくさん集まって来るということですよ。だから、皆さんの所にまだ蝟集する人々があまりないとすれば、まだ皆さんが修行が足りないと言うことですね。だから、修行が足りて有名になると蝟集してくる。蝟集するっていうのは、たくさんの人が集まると言うことですね。で、ここはまあ蝟集の五分の一か二分の一くらいの蝟集…し始めてるのかな。
(琴美ちゃん)違う臭いがするかもしれない。(異臭)(一同笑い)




富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。




 世の中には富める者のほうが少ないかもしれませんけれども、数多の貧しき者…たくさん貧しい人はおります。貧富を問わずですね、強健なる者もあり、病弱なるものもある。

病気って言うのは万人に常に平等ですから。金があるから病気にならないということはない。金のある人のほうが病気なりやすいかもしれませんね。貧乏人は病気しないかもしれません。貧乏人っていうのは病気したら治すためのお金もありませんからね。今の日本の貧乏人はみんな健康保険持ってますから、それで、良くないんですよ。生活のあり方を自覚しない。つまり、病気になったらお金がかかる。質素な暮らしでかつかつ食うだけのことしか出来なような時代に暮らした人はあんまり病気しなかったもんですよね。それで、子供はたくさん生まれます。貧乏人の子沢山って言うのはそれなんですよ。何故、貧乏人の子沢山かわかりますか。いまはみんな暮らし方が金持ち並だから、子供はようけおらんもんね。5人以上子供のおる人、この中で。いない?一人も?みんな金持ちなんだ。貧乏の子沢山って昔からよく言うじゃない。聞いたことあるよね。なぜ、貧乏人は子沢山か。それは、肉など贅沢なものを食えなかったから体が酸性化しないでしょ。それと、贅沢出来ないから他の遊びもあまりないし、ね。それで、もうガキがうるさいし。子沢山な夫婦はですね、他に楽しみがないもんで、子供が寝静まってから何かするんですね(笑)。そしたらまた子供が産まれる(笑)それが子沢山の理由なんですよ。それがね、お金があって子供もすくなくて、享楽でセックスするような、そういう夫婦には子供があまり生まれないですよ。だから、国が豊かになるほど子供が少なくなる。日本も少子高齢化、少子化してきたんです。子供が少なくなってきたのは、やはり経済的にレベルアップしたということもあるしね。貧富を問わず食べるものが贅沢になってきたということです。それは、文明国の…先進国は子供の数が減っていくというのはそういう理由なんですね。もう今やセックスそのものにも関心を持たなくなってくるようなね、そういう人がいっぱい出てきてるという現実があるんですね。なんか話が脱線しましたけど…ここのところはカットでよろしいですから(一同笑)。




 正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。




もう死の間際なんだが助けてくれって必死になってしがみついてくる人もいっぱいいるだろうと、で、




 此れを見、彼(か)を見るに至って、




これを見たり、そっちを見たりして、




 此れを見、彼(か)を見るに至って、菩薩等如何(いか)にしてこれらの人々に光を与うるや。




そういう病気で苦しみのたうちまわってるね貧しい人々にどうやって光を与えたらいいか。




 あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。




まあ、お坊さんって言うのは説法するのが仕事ですからね。理屈のわかってない人々に理屈を並べて納得させようというのが説法ですから。しかし説法してですよ、どんな立派なことを喋っておっても、「Without楽健法(楽健法なしで)」ですね、本当に人を救えるかどうかです。道端に立って説教して立派なこと言って、「玄米菜食をし、ご本尊に朝夕参来参拝すれば、あなた方の病気は必ず治ります」という事をお坊さんから聞かされて病気が治ったらそれはありがたいですけれど、そんなことは滅多に起こり得ないということをここで言うてるわけですね。そういうことを、「あに路傍(ろぼう)に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得(う)るや否や。」これは釈迦とかキリストとかぐらいだったら、ひょっとしたらそばに行っただけで病気が治る人がおるかも知れないけれど、僕はそれも多分あり得ないんじゃないかなという風に思います。
 インドの聖者と崇められているひとに楽健法をしてあげたこともありますが、働き疲れた普通のひとの身体でしたね。仏陀というのはそんなもんじゃいけないですね。ひょっとしたらこっちの方が仏陀かもしれない。そう思いながら踏んであげたんですよ。気持ち良さそうな顔していびきをかいていられたね。ああいう人がそばへ行ったら病気が治るかといったら、治らないと思いますよ。聖者におおきな期待などしないで、ご家族や仲間で楽健法をするほうが賢明で確実です。




 言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。




 言葉で人を救うのは本当に難しいことです。至難というより不可能だろうと思うくらいですね。論理的に納得できたからといって病気がすぐ癒やされるものではないですね。だけど、本当に真理を持った言葉をキャッチする能力を病人がもし持ってたとしたら、あ、そうだったんだって事に病人が気がつけば、それは治る可能性はおおきくなります。病気が治ると言うのは本人が気付くか気付かないかというところに本当は大きな鍵があると思いますね。傲慢な考え方で金はいくらでも払うから治してくれじゃあ病気は治らないですね。生活習慣は何一つ変える気はないんだけども、とにかく病気を治してくれたら、財産半分あげるとかいうひとがいます。僕も何人かそんな経験がありましたよ。この腰痛を治してくれたらもう財産半分あげてもいいなんて言うひとに楽健法をしました。酵素風呂からあがった人に、一生懸命踏んであげたら「あ~治った」って言って黙って帰りましたね(一同大爆笑)。半分持ってくるとは言わなかった。今でもそのおっちゃんの顔思い出します。



 この間もそう言えば酵素風呂の講習会に出席して火曜日まで泊まって行くって言ったおっちゃんがいたんですけど、ドタキャンどころか連絡も来なかったですね。そのひとは以前にやってきたとき、先生実はこの前宝くじが二千万円当たったんですよって、今度来た時にたんまり寄付しますからって言って帰って、その次に来られた時に、だいぶ長いこと考えてから財布から二万円出してくれました(一同笑)。自分でそう言って前回は帰ったんですから、出さないよりは出したほうがいいと思ったんでしょうね。そういう人もおります。  
 
 人間って言うのは面白いもんですね。ただ、そういう何か気持ちがなかなか吹っ切れない間はね、ものに執着してる、気持ちが切り替わらない、そう言う間は病気なんか治らないもんです。病気を治そうと思ったら物の執着をスカッと捨てる。病気にならないでいっぱい持ってる人は捨てなくてもいいですからね。これはおかみさんに向かって言ってるんですけど(一同爆笑)。まあ、僕が捨てたらいいなと思っても、向こうがそう思わなかったりするもんで。それで、どこ言うてたか忘れてしもたね(一同笑)。



 菩薩等よくわが教えるところを心眼(しんがん)をもって追体験し体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。

まあ、心眼を持って追体験しっていうのは深く考察してですね、追体験する。つまり、やられてるの見たら、人が踏んでるの見たら想像力を働かせて踏まれてる気持ちでそれを見る。あるいは踏んでるつもりでそれを見るって言う風にしないと、ただ、ボーッと見とったんじゃダメだっていうことです。勉強っていうのはそうなんです。昔から職人でも何でもそうですけど、先輩の仕事を見て盗むということを言うんですね。だから他人の、優れた人がいれば、その人がやってることをその通り真似てみる。学ぶと言うのは真似るということでもあるって言うふうに昔から言われますけどね。

 なかなか上達しない人は見ていないんです。素晴らしいものを見ながら追体験してないんですよ、見てる時に。あーすごいなーっと思っても、観察が素通りしてるんですね。観察力が高まって、そういうつもりで見ていれば必ず人は見るだけでも体解できます。体解って言うのは体で覚えるということですね。自分がやられてるように、あるいは自分がやってるように同時に二つの事を見て覚えちゃう、というくらいの気持ちで、「体解(たいげ)し、もって衆生を済度すべし。」この体解っていう言葉が仏教では重要視されるんですね。体解って言うのは体できちっと覚えたこと。だから、覚えたこと、だから、しようという意思とやってることとの間に嘘がないことね。言行が一致してること。そういう事を大事にしないといけないですね。だいたい言うこととすることが違う人間はね嘘が多いということです、嘘が多過ぎる。言ってることが即考えてることであり、考えてることが即行動になっていく。楽健法の技を体解するということは心技一体、染み込んでしまうということですね。目をつぶっててもできる。自動車に長年乗って慣れてる人はね、車と一体になって乗れるし、自転車に乗れる人は転倒しないで軽々と走れるわけですね。それは体解してるからですね。ま、目をつぶってても体解してたらできると言うて、車を運転するときには目をつぶって運転しないようにしたほうがいいと思いますけど。




 かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅(しきらっけんまんだら)に寝かせたまえり。

 乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。




この、北枕にしてっていう風にわざわざ書いてあるのは、夜寝る時も北枕にしたほうが体に良くて、病気も早く治るのです。東西を頭にして寝てる人は是非北枕にして寝てみてくださいね。そうしたら、」地球の北から南に向かって流れてる力を頭の方からまっすぐ均等に受けますので病気が治りやすい。死んだ時は生き返る可能性があるので北枕に寝かせるんですね。死人を北枕に寝かせるので北枕は縁起が悪いなどと考えるのは間違い。そういう意味から北枕っていうことをわざわざここに入れたわけです。




この時、天香(てんこう)芳(かんば)しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。 佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。




「この天香芳しく妙音(みょうおん)とともにたなびけり。」

 楽健法してる時にね、得も言われぬいい匂いが部屋に流れたりすること…体験した人いますか?僕は今まで何度か体験してます。お香も焚いてないのにいい匂いがしてくる。修業しよという気持ち、あるいは信仰しようという気持ち、そういう気持ちを持って楽健法をやっていますと、いい鈴の音色がきれーな何とも言えないような音色が聞こえたりすることがありますね。ある女流作家の方を一度踏んであげたことがあるんです。粟島行春先生の講義を高野山で受けたときに知り合った林えり子さんって人です。新幹線のグリーンに乗ると置いてある雑誌があるんですが、そこに日本の100人の若者って言うの毎月連載して載せていられます。30代くらいの若者がね、ユニークな仕事をしてる、そういうのを紹介しているページを3ページくらい書いてますけど、その林えりこさんに東京で楽健法やってあげた時に、突然天から良い匂いが降りて来た。それが、「天香(てんこう)芳(かんば)しく」って言うの、それを経験したことがありましたね。それで、「あれ、このいい匂いは何ですか?」ってふたりともびっくりしました。




 古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心(ほっしん)せざる衆生には病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり。




この意味はわかりますね?ヨーガは自分がしようと意志した人がヨーガができるわけです。、傍からこの人はヨーガをしたらいいなと思っても本人にやる気がなければどうにもならないんです。これは馬に水を飲ませるようなものですね。馬を水のそばへ連れて行ったってね、馬が飲みたくなければ水を飲みませんからね。それで、馬に水を飲ませるような話だって言うんですね。だから、関心のない人は水を飲みたくない馬みたいなもので、楽健法する人がそばにおったって、踏んでくれともいいません。意味もわかりませんから出会えないんです。縁なき衆生は救い難し、というのはこのことですね。「自力自助」ヨーガというものは自分でするものです。で、やる気があってできることですね。だから、病気の人に、「発心(ほっしん)せざる衆生」って言うのは、やる気になってない人にはですね、「病患(びょうかん)を癒すには、はなはだ遠き手段なり」ということです。




 また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。
 いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。



だから、まあ食養、手当療法、色んな手当療法あります。この間も谷川さんがぼくの左足指が痛いのを気にかけてくださって足の裏に貼り付ける湿布薬を作ってきてくれました。 
 あれからあと続けてやってませんね実は。今日、ちあきちゃんがアップしてくれたブログ見たら僕の真っ黒けの足が写ってて、え~~~っと思って(一同笑)、飛び上がるような気がしましたが、こういう手当も効多しといえども労も多しってことですね。谷川さんが一生懸命あれを作ってくれた、そういう労、それをまた布に伸ばして貼り付けてラップでまいて、靴下を履いてと、色々な手間がかかるじゃないですか。何をするにしてもそうです。

 オイルマッサージにしてもそうだし、食事療法ったって玄米菜食するなら、これもなかなか手間のかかることです。まあ、断食。これは非常に簡単で誰でも出来そうだけれども、普通の感覚の人は断食って言ったら怖がってね。第一、ものを食べないほど辛いことはないと思ってる人が多いですから。僕ははものを食うほどしんどいことはないと思う方ですから。だから、なるべく食わないでおれたらどんなに楽だろうと思いながら生きてるところがあるんですけど。

 皆さんは毎日毎日もっと美味しいもの、もっと美味しいものと思って求めまくってる。それがまあ、普通の人ですね。だけど、そういう普通の人が病気になるんです、だいたい。何かわかってんのかいなって感じですね(笑)だから簡単に断食もできません。それから、アーユルヴェーダありって、このアーユルヴェーダって言うのは所謂全般的な医学のことですけれどもね。これも薬を飲むとか診察するとか適切な見立てを誤ったらダメだし。なかなか、いずれも効はあるかもしれないけど時間と手間がかかります。

 ここに、「西洋医学あり」って書いても、良かったんですけど、それは、西洋医学はお経の中に入れなかったですけど。「いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。対症療法は色々あって、一時はちょっと楽になったりしますよね。西洋医学っていうのはだいたい対症療法が基本なんですね。その時の苦痛がとれたらいいんです。例えばステロイドを飲み続けたら、将来どうなるかっていうことは医者は重々知りながら、ひどくなっていくということを知りながら、なおかつ、薬を出していくという、結果がわるくなっていくことがはっきりしてるのにやり続ける。そういう不思議なことを止めないで繰り返す人たちですね。

 これも、やはり、理(ことわり)っていうか、理屈が分かってないからなんですね。本当は。病を治すには薬を飲まないほうがいいっていうことは本当は正しいんだろうけども、まあ金儲けをするためには結果は考えない医者。今の医療界がそうなんですね。で、「病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。」ということです。




 宿痾(しゅくあ)を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し。




 宿痾って言うのは治りにくい持病のことですね。なかなか治らない病気。なんか前世に悪いことしたんだろうか。だけど、本当は毎日食ってるものに、暮らしに原因がひそんでるんだろうけどね、前世の因縁のせいにしたらいけないですね。生活習慣から出てくることが多いです。だけど、生まれたばっかりでね、生まれて間もなくそういう病気を抱える人もおります。両親が健全な生活を送ってなければ、生まれたこどもに病気がでたりします。生まれつき病気の人も結構いるわけです。子孫を健全にするには今が健全でなければいけないしその持続が大事ということですね。




 されど病気の由縁(ゆえん)は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活の無知なるに由(よ)ることほとんどなり。




とまあ、ここまでで言い切ってみたんですけど、病気になぜなるのか、これは心の持ち方。どういうふうにものを考えたらいいのか、どういう考え方が理にかなってるのか、ですね。「理法わきまえず」って言うのはそういうことですね。精神生活の理法。だから、我ばっかり強くて、知情意のバランスが取れてないとね、人間っていうのは。苦しまなくてもいいようなところで苦しんだり、苦しんだって何にも変わりもしないのに苦しむばっかりっていうような人が多いわけですね。これは、精神生活に理法と言うのがない、あるいはわからないからです。食、運動、精神生活も、自分で自分を観察しながらコントロールできるような精神のゆとりっていうのかね。そういうものが人間には必要だということですね。

 (電話の音♪♪♪~~~)
僕の電話かな?ちょっと待ってね。あ、ごめんなさい。
  ~~~中断~~~
孫でした。孫が車の停めるところがわからんってまごまごしてました(一同笑)。







 人間の存在の法を知り、




 人間の存在の法を知る、とは、自然の働きを知るということですね。人間の存在の法って言うのは皆さんもそれなりに考えていらるだろうと思うんですけども、法って言うのは在り方ですね。逆らいようのないものが自然にはあります。人間はどうやって、いかに生き、どこから来て何をしてどこに行くのかと言うようなことですね。これはもう人類の永遠の謎ですね。哲学の課題。人は、人はどこから来て、何をして、どこへ行くのか、ですね。




人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え、三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。



この「人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし」って言うのは、やはり、生理の根源って言ったら食生活から見直していくっていう事ですね。だから、それは病気が起きた時に単にそこが痛んでるから、例えば胃が悪い、子宮が悪いって言ったら、そこをとったらいいとかいう問題ではなくてね。なぜ、それが悪くなっていったのか、その為にどういう長年の蓄積を、病気を作るような、蓄積するような食生活をどれくらい続けてきたのかというようなことがあって、そういうことに気づけば、悪かったことを止めたら病気っていうのは治っていくわけですからね。

 だから、まあ、それで、自然食に切り替えて治る人もいるし、何かそれなりにいろいろ自分で工夫されて、見つける人もおるでしょうけども、良くなるのは体の浄化をするっていうことですね。そして、流れを整え管にものがつまらないように、そして三毒によって、三毒って言うのは貪・瞋・癡(とん・じん・ち)って言う、仏教で三毒って言います。貪と瞋と癡。貪って言うのは貪る心。欲望ですね。で、瞋っていうのはすぐ怒ることですね。怒り。癡って言うのは愚かなって言う、無知なことですね。貪・瞋・癡。だから、無明と言う風に人々を言うのは、この貪・瞋・癡、三つのものを持っててね、物事の道理が十分わかってない人のことですね。それを衆生と言うものはそういうものだという風に、仏教というものはだいたい人々を少し上から目線で見ていますね、お前たちは要するに物を知らなくてレベルの低い救いがたい連中なんだから、教えてあげますよというような感覚で、宗教と言うのをやって来たわけですね。今だってそうなんですよね。どんな新興宗教が生まれたって、そこへ行ったらね皆さんが知らないものを与えられて知ることができるように思って勉強に行くわけですね。まあ、「三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。」
楽健法をすることでひとは新しい発見と出会います。楽健法は人生の再構築の道案内です。無知無明から抜け出す合理的な手段です。




また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
 左より右に転ずべしと。




では、2時になったので、今からあとの部分の実技をしていただきますね。もう暫くしたら、堀江真美さんも来られると思うので、舞台の準備とか音響のチェックとか色んなことが必要になってくるので、僕と琴美ちゃんとが組む組み合わせで今から楽健法をやってください。来客が来たらぼくと琴美ちゃんの2人がサーっと逃げますから、みなさんは楽健法をやってくださいね、あとの用意もあるのだろうと思いますので早めの楽健法をパッと済ませて、という風にしたいと思います。

(琴美ちゃん)いやっ!ひっど~い。
(宥厳先生)琴美ちゃん、よろしいですか。
(琴美ちゃん)はーーい。
(宥厳先生)それで、今下に孫が来たみたいなんで、まあ、孫と息子が…上がってこないね、こっちに。
(琴美ちゃん)上に行っちゃったんじゃないですか?
(宥厳先生)行っちゃったんかな?
(幸子先生)上に上がったんちゃうん。
(宥厳先生)じゃあ、じゃあ、今から楽健法やりましょう。ハイ!ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(琴美ちゃん)先生、私たちの布団がないって。
(宥厳先生)ないの!?(一同大爆笑)。あ、そうか。ほんなら上に行こうか(笑)。じゃ、ま、楽健法をさっと45分くらいで裏表やってください。
(受講生)裏表(一同笑)
(宥厳先生)裏と表やんか(一同笑)

第9回12月9日(2日目)その2

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
楽健法(16)

おやつ~











奉納公演 堀江真美ジャズコンサートin東光寺 12月10日(土)夜6:30開演

オープニング






馬場健二郎さんとコラボ


宥厳先生のお孫さんの彩ちゃんとコラボ


宥厳先生とコラボ



受講生の感想
奉納公演 堀江真美ジャズコンサートin東光寺 12月10日(土)夜6:30開演

♪東光寺のコンサートは、蘇州夜曲や港の見える丘など好きな歌が聴けて、とても楽しかったです。先生の笛の音も大変良い音で素晴らしかったです。客席からとても近いので、迫力がありました。クリスマスソングと本堂のろうそくが、雰囲気出てました。(Miho)


♪宥厳先生とのコラボがあの場にピッタリでとてもよかったです。スケジュールが、開演までの時間はありすぎて、終わったあと忙しかったので、お客様のことを考えるとあの時間になってしまうのかもしれませんが土曜日だしせめて6時開演ならもう少しスムーズだったのではと思いました。(kimoto)

♪ピアノでのジャズバージョンを聞いてみたかったです。宥厳先生とのコラボは、とても素敵でもう少し聴きたかった。幸子先生の歌声が聴きたかったです。(Hiramatsu)


♪ 舞台を準備してくださった皆様のおかげで、気持ちよくライブを楽しむことができました。お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。今回から東光寺のコンサート&ライブのメンバーに見事復活を遂げたOyuki'sピアノ(ピアノOYUKIと命名しますか?)が加わりました。このようなときにCD‘復活’を出された真美さんが復活したピアノでライブをするなんて、縁浅からずの感があります。やはり生ピアノのライブは良いですね。真美さんの人柄も知ることができてよかったです。始に楽健をして、1か月分の凝りを解していただいたおかげで約2時間15分のライブも休憩無しで最後までしっかり聞くことができました。音痴ですが、「一緒に歌って」では、声もいつもより良く出たような気がします。昔の歌を知っていたということもありますが… 護摩のときのピアノも格別ですね。不思議な世界ですね。般若心経も鳴り物(?)付きのCDなどを聞いたこともありますが、ピアノ伴奏付きで詠唱したのは初めてです。欲を言うなら幸子先生の歌が聞きたかったです。ピアノも喜んだのではないでしょうか?セラピストの卒業式にでも是非お願いしたいです。お抱えピアニストもいることですし…山内両先生や前泊して色々準備してくださった方々に改めて、感謝したいと思います。合掌。(Toshiko)

♪堀江真美さんのジャズコンサートンを聞かせて頂き思ったことは幼少の頃からお母さんと一緒に音楽を楽しんでこられたのが よく伝わって懐かしい歌も聞き楽しく過ごさせて頂き有難うございました宥厳先生はじめ前日から準備して下さった方々有難うございました。(umeda)

♪今堀江真美さんのCDを聞きながら感想を書いてます。東光寺のライブの様子が蘇ってきます。真美さんのスタイル、ピアノ、歌声、トークなどプロってすごいなぁと思いました。私も真美さんの歌の様に楽しくリズムに乗って楽健が出来たらと思いました。(Takako)

♪今晩は、遅くなってごめんなさい。[お寺でのコンサートは、何かに包み込まれている様な不思議な心地良さを感じその時間だけが、無になれる様な気もしました。真美さんの歌声で元気もいただき何かホットする様な良い時間だったように思います。このような催しを立案していただきまして 山内ゆうげん先生 ありがとうございました。お世話かけてすいません。宜しくお願いします。(Takada)

♪12月のセラピスト合宿は東京からジャズシンガーの堀江真美さんを招いての素敵な夜のコンサートが催されました。東光寺の本堂は床や畳が新しくなり、きれいになった床に幸子先生の古いピアノが運ばれました。何年もの間、パン工房に置かれていたピアノは大改修されピカピカになって、その音色を聴けるのがとても心待ちでした。コンサートはスポットライトと蝋燭の灯りの中で、ピアノとキーボードそして真美さんの歌声がひときわ美しくスイングして楽しく素敵な時間が流れました。真美さんの歌声やピアノはもちろんですが、トークもまた大変興味深く話に引き込まれて2時間はあっという間に過ぎてしまいました。さて翌朝、いつものように本堂で護摩を焚く先生と般若心経を唱えるのですが、なんと真美さんがお経に合わせて即興でピアノを弾いてくださるとのこと、そのお経とピアノのコラボのなんと心地よかったことでしょう。般若心経を唱えているとピアノの音色が身体全体を包み込んでくれるような…Feel so good! 音楽って本当にいいものだとつくづく感じた時間でした。素敵な時間を過ごせて幸せでした。堀江真美さん、宥厳先生、幸子先生そしてありがとうございました。(小菅)

♪東光寺のコンサートは、蘇州夜曲や港の見える丘など好きな歌が聴けて、とても楽しかったです。先生の笛の音も大変良い音で素晴らしかったです。客席からとても近いので、迫力がありました。クリスマスソングと本堂のろうそくが、雰囲気出てました。(Miho)

♪堀江さんのピアノコンサート楽しい時間を過ごさせて頂きました。ご両親、ご先祖様への感謝の気持ちを持って、音楽をたのしんでられる様子がよく伝わってきました。私も改めて全ての人、物に感謝の気持ちを持って行動しなければと思いました。幸子先生のピアノ、新しく生まれかわった姿本当にうれしく思いました。良い物を大事にする気持ちも教わりました。 今度は、幸子先生のピアノと歌声を聞かせて頂きたいなあ。全てのことに感謝です。 (新田)

♪Mamiさんがピアノで奏でながら歌ってくれた曲は、マミさんのお母さんが子守唄がわりに歌ってくれた50年代のもので、私はもう少し若い世代なので、その時代を共にしていないのですが、どこかで耳にしたことのある曲ばかりでした。Mamiさんの歌の調べから、その時代の時のゆるやかな流れを感じ、私の中で眠っていた感情が揺れ動き、響き合って、静かに涙が流れつたっていました。”美しい言葉と音”は、いつの時代も変わらず、人の心の琴線にふれるのですネ。歌の合間でのマミさんトークも、マミさんの“こころの視点”がうかがわれ、貧富の差を超え、みんながハッピーでいられるように彼女が生きてきたことが、私のこころにも染みました。マミさんも神さまが天使として地球(ここ)に使わした一人なのですネ。みんなが自分の中にある宝ものをひとつひとつ、研いて輝いて生きてゆけますように、、、、途中、山内先生のお孫さんとマミさんのコラボで「海は広いな、、、」の子供の頃からなじみのある歌。大人になってくると「海は広いな」は、当たり前じゃないかと思ってしまうのですが、「月は昇るし、日は沈む」と遠くを眺めながら、その声は山々を越え、海へも届いているように感じ、「本当に海は広くて大きいんだなぁ」と再実感しました。そしてマミさんが「ハートがあれば歌は歌える」といいお孫さんが素人だった分、逆に彼女のハートが伝わってきて、“大きな海”を感じることができました。翌日、日の昇る前のシーンとはりつめた冷たい空気の中。暗がりにゆらめくローソクの炎といつになく静かに唱えられるお経とマミさんの場を読んだピアノの調べ。いつもとは違いピアノが入ることでお経を読む人、木魚をたたく人、タイコをたたく人、そして護摩を焚く山内先生、皆が相手を感じ気遣い、響かせ合ってゆくとこんなにも幻想的で調和した美しい場が生まれるのだということを見せていただきました。この感覚を日々日頃日常にまで日派ってこれたら、どんなに美しい世となることでしょう。きっとこの世は天国ですネ。それを目の前で見せてくださった山内先生を始め幸子先生、マミさん、皆々様に感謝感謝です。ありがとうございました。(Doi)

♪何と言っても堀江さんのピアノと宥厳先生の笛の共演は最高!感激のひと時でした。元々音楽なくても困らないくらい音楽とは縁遠いですが、音楽って良いもんだなぁと初めて思いました。心の奥に染み渡ったようで、途中 涙までこぼれてしまいました。翌朝の護摩ピアノもどんな風になるんだか想像もできませんでしたが、これもまた素晴らしく心地良い時間でした。いつもより踏み合いの回数、時間は少なかったですが、心底楽しめたセラピストの9回目でした。有難う御座いました。(山崎)

♪色々とお世話頂いていつもありがとうございます。感想文遅くなってすいません。 満月の夜、魂の歌とピアノ演奏を聞かせて頂き感動しました。世界中に笑顔があふれるようにと私も願います。 また、来年よろしくお願い致します。 (藤山)

♪ 昭和の香り漂う本堂に 戦後の音が広がる 絶望と希望の中 人々の心を癒し、力を与えた歌とメロディ 魂に響く音楽は時を超える 仏様と神様との出合い クリスマスソングに仏様も喜び 無限の光でみんなを照らし光輝かせる とても心地よい夜でした 皆さまありがとうございました。(Koyama)

♪般若心経のピアノにはその発想からして感動してしまいました。幸子先生の歌声が聴けなかったのは残念でしたが。(前々回歌うってえっしゃってたように記憶してたんですが)
生のピアノを聴ける、のはすごく贅沢感を感じます。音楽って素晴らしいとあらためて思いました。(須貝)

♪せっかくの演奏会でしたが具合が悪くなりご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。演奏会の最中にもかかわらず具合の悪い私の面倒をみてくださったやさしさにほんとうに 心暖まりました。今だに なぜに あんなに具合が悪くなったかは わかりませんが次のは 嘘のように 復活。自分でも 仮病かいと突っ込みたくなるほど元気になりました。なので 演奏は何も聴けていない状態で明かりも いじれず情けないかぎり、、、次回のイベントのときはこんなことがおこらないことを 祈るばかりです。みなさんご心配 おかけしてごめんなさい(Kotomi)

♪遅くなり申し訳ありませんが、堀江真美さんのピアノの感想をお送りします。東光寺には火鉢が置かれ、とても温かい雰囲気の中で、復元されたピアノの音色が奏でられました。
堀江真美さんが心の中にあるものをピアノで弾いているとおっしゃっていたことがとても印象に残っています。小さい頃に映画をご覧になった記憶はとても鮮烈なんだろうと思い、流れるような演奏でした。最後に弾かれたスマイルという曲は私も大好きです。ゆうげん先生の笛とピアノの音色もとても合っていて素敵でした。とても楽しいひとときをありがとうございました。(Fujiyama)

♪私にとっての音楽は、選んで聴く事は余り無く、自宅に居る時に着いているNHKラジオから流れる雑多な種類の曲を聴くとも無く聞いているくらいです。宥厳先生の所で聴いたり、ヨーガで使うマントラ、ジャパ、キールタンに良いなあと感じる事も有ります。そんな私ですが、まみさんの体から心に、心から音に、演奏する喜びが紡ぎ出されこちらまで楽しくなりました。私が映画の題名ドクトルジバゴで無く、曲名のラーラのテーマをリクエストしましたのに、思い出されてくださったのには、申し訳なく、お見事と、そして筋が通る生き方にも感心しました。曲名を聞いていると同年代ではと思ってしまいそうですが、お母様の年代なのでしょうね。こうして未知だった方に出会う機会を作ってくださった宥厳先生のおかげと感謝しています。ありがとうございました。以上です。(Kosamin)

♪東光寺には火鉢が置かれ、とても温かい雰囲気の中で、復元されたピアノの音色が奏でられました。堀江真美さんが心の中にあるものをピアノで弾いているとおっしゃっていたことがとても印象に残っています。小さい頃に映画をご覧になった記憶はとても鮮烈なんだろうと思い、流れるような演奏でした。最後に弾かれたスマイルという曲は私も大好きです。ゆうげん先生の笛とピアノの音色もとても合っていて素敵でした。とても楽しいひとときをありがとうございました。(kyoko)

♪クリスマスソングを生であんなに近くで聴けるなんてとても良い経験ができました。殺伐とした毎日に楽しい昔を思い出すことができました。キリスト教徒ではないのでクリスマスに感じることは、ずれているかもしれませんが…。翌朝の護摩の時のピアノも素晴らしかったです。是非、こちらhannyasingyo with mami.wmv でご覧下さい。(Chiaki)

♪幸子先生のピアノが、何十年かぶりにリニューアル!~なんてとても素敵なことですね。真美さんの歌声ともに、懐かしいメロディを奏でたピアノも喜んでいたと思います。翌朝の般若心経&ピアノ のコラボはピアノの音と26名の般若心経の声音が重なりあって本堂の空間に不思議な渦を巻き起こし、新鮮でした。(西澤さん)




懇親会









第9回12月10日(2日目)その3

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
二日目の朝~





朝のお勤め









朝の作務







Breakfast
●天然酵母パン●かぼちゃスープ●野菜サラダ(柿、アボカド、玉ねぎ、きゅうり、レタス)●サツマイモ







楽健法特訓















【楽健法経の再現伝授】 12/11 10:00

 昨夜12/10の堀江真美さんのジャズライブのあと、道場で会食もあって楽しいひとときをみなさんで過ごしましたが、近藤琴美さんが体調不良でダウンしました。二日目の朝はまだ不調の近藤さんを宥厳先生が釈尊、近藤さんを乾闥婆に見立てて、楽健法を施しながらのお話です。



(宥厳先生)昨日は「楽健法こそは最良の、楽々健々(らくらくけんけん)の法なるべしと。」というところまで読んだと思います。この続きはずっとこうしばらく一通り踏むシーンがずっと出てきます。それで、仏…これは「いわく」と読んでもいいんですけどね。「のたわく」でも、よろしいですけど。ま、僕はいつも「のたまわく」と言う風に読んでいますけど。




また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
左より右に転ずべしと。




※参照 http://www10.plala.or.jp/touyouigaku/page037.html

 これは東洋医学の陰陽論という哲学的な考えに基づきます。陰陽論では万物は全て陰と陽に分類されるとしています。例えば、太陽が陽なら月は陰。上が陽なら 下は陰。男女では男性は陽、女性は陰に属するとされています。左右の陰陽というものもあり、これによると左が陽、右が陰となります。そこで原則的に、陽に属する男性は陽の側である左から、陰に属する女性は陰の側である右から治療を始めます。治療効果がどれほど変わるかはわかりませんしそれ程こだわる必要もないのですが、一応これは鍼灸の「お作法」ですから、できるだけこれにしたがって治療を進めています。(栃木県真岡市・工藤鍼灸院のHP)

この、左から行うのは何故かという質問をよく受けるんですね。上に引用したような説明もあります。東洋医学は大体左から治療をやることが多いでが、なぜかというその意味は私も知りません、だから、左右というでしょうというように「左」が先だから。それから、めんどくさくなると僕が決めたんだ!と、こういうんですね(笑)。で、皆さんが聞かれたら、これは宥厳先生がそう教えた、だから、伝授という、伝授というか密教なんかで教わるとね、たとえ師匠が間違ったことを教えてもね、教わった通りにやらんといかんと(一同笑)。大体それが密教の方法論なんですよ。ですから伝授阿闍梨が教えた事は、逆のこと教わってもその通りにやるんです。高野山でもね老僧になると、教え方を忘れて逆のことをいったりすることもありますが、弟子はその通りやれ!と指導教師にいわれたことがあり、伝授を受けた通りやらされます。本当は逆なんですけど、おまえはそう伝授受けたんだからそっちでやりなさい、というようなことですね。ま、だから、伝授というのはそういうものかもわからない。ま、左からか右からか、厳密に言うと、どっちから先にやったって、私は効果は変わらないと思うんだけれども、漢方にうるさい人だったら、左からやることに蘊蓄を傾けて説明してくれるかも知れませんね。そういう人がもしおったら話を聞いて来て私に教えてください。上の引用では女性は右からとありますね。




佛、乾闥婆の大腿部(だいたいぶ)の付け根に、並はずれて大きく、衆人尊崇(しゅうじんそんすう)の左の御佛足を乗せて踏みたまえり。この時御佛足、光を放ちて、並みいる菩薩の眼(め)に慈光を降りそそぎ、菩薩等の心眼開け、乾闥婆の大腿部が、にわかに柔らかくなるを目撃したりき。




いまから乾闥婆に見立てた近藤さんを寝かせて宥厳先生=お釈迦様のワークショップです。釈迦の御御足はとびきり大きかったそうです。土踏まずのないべた足だったという説もあります。有名な仏足石もありますが、仏足石がべた足につくられることからそういわれてるのかもしれません。、仏足石は信仰の対象となって崇められています。
 御御足で大腿部の付け根を踏まれると、たちまち硬い筋肉が緩んで、見ている菩薩等は目が点になったことでしょう。楽健法の威力に瞠目です。

座禅し瞑想するのが修行の中心になっている仏教では、長時間の座禅をする宗派がいまも沢山あって参禅するひとが多いですが、ひたすら座り続けると腰痛になったり、背中を痛めたり、座禅のあとしばらくは達磨さんのように座ったきり立てなくなることもあるでしょう。私の考え方では、座禅はハタヨーガと交互に修行することが大切ですが、座禅に専念することを重視してハタヨーガなど、緊張ほぐすことを一切しない座禅のもとでは、参禅による身体の硬化や退化が起こり病気の原因となることでしょう。ここに登場する乾闥婆は、座ることに専念しすぎて、身体を硬くしてしまったものと仮定して腰痛持ちだと書いているのです。そういう迷妄を解こうとして今、釈迦が楽健法を教えることになったわけです。釈迦はかくて軽快なる楽健法を眼前に見せてくれます。

 乾闥婆、たちまちにして長年月(ちょうねんげつ)の坐禅によって生じていた腰痛が癒え、如来の御佛足より流れ入(い)る聖なる力が、全身を駆けめぐるを覚(さと)って、涕涙(なんだ)下るを止(とど)め得ず。


 乾闥婆はいつも感じている腰痛が解消したばかりか、なによりも尊崇している釈尊に楽健法をやってもらうわけですから、感激のあまり涕涙がとまらないのも当然ですね。涙が流れた、というのを「涕涙(なんだ)下るを止(とど)め得ず。」と言う風に古典ではこういう言い方をするんですね。こういう言い方もあるということです。


 佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊(ていよう)と名付く。身体の芯より足心に至る導管(どうかん)の筋なるべし。ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。


 これが今やってる大腿部の付け根のところですね。この先の説明ではもう一段上の右の五行目くらいに、「乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして」って言うふうに書いてありますから、そのポーズがこれです。この文章からも踏む姿勢が読み取れると思います。楽健法をやったことのない人にはどんなポーズだろうと思うかもしれないけど、楽健法の勉強をすこしやってたらこれを読んだらパッとわかりますね。それで、ここに、「佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許(あしもと)に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。」って、お釈迦様がしゃべった、ということですね。



 佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊(ていよう)と名付く。身体の芯より足心に至る導管(どうかん)の筋なるべし。
 ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。
 この「向上心が湧き出る」は長年の経験からこういう風に書いているわけですけど、楽健法で循環が良くなってきましたら気分が明るくなり生活意欲がもどってきて、やる気が出てくるわけです。



 次に佛、乾闥婆の足はそのままにして、上半身のみ上向きにさせたまいて、左足の羝羊よりさらに内側の筋を踏みたまえり。乾闥婆、痛きこと火を近づけたるがごとし、と覚ゆれど不思議に心地よく、神気身内(しんきしんない)に呼び戻されたるがごとし。


 上半身を上向きにして触れる大腿部の付け根の硬い筋肉は、楽健法で踏む部位のなかで、いちばん痛く感じるところですが、やさしく軽く数分以上根気よく踏み続けると痛みはその場で薄らいできます。生理痛の最中であってもその場で生理痛がなくなるポイントがこの部位です。このポーズで踏んであげたら、過度の疲労も瞬時にすかっと抜けてしまいます。強い疲労感がある時とか、二日酔いでくたくたというような時でも、ここを踏んであげるとその場で回復します。



「佛曰く、この部位を愚童(ぐどう)と名付く。」このポーズを愚童と言ってるんですね。

「これをゆるめれば、肝、腎の働きを盛んにして、婦人の生理を整え、」ここを踏むと生理を整えって言うのは、子宮の悪いような人、特に若い女の人で生理痛のひどい人はこの奥の筋肉が硬くなっています。多分初めて踏まれた人は、痛がってまともには踏ませないと思います。やさしくそっと踏んでいくと、ある回数をやれば痛さがそれほど感じなくなり、30分もしないうちに生理痛がその場でなくなります。楽健法をやってる間に治ります。

 東京で経験した事があるんですけど、二年間ほど生理の止まった状態で、いつも不機嫌で家族が手こずってる女子大生の娘を、お母さんが説得して楽健法に連れて来られたことがありました。仲間のご婦人方がぐるりに取り巻いて見てるところで、その生理痛の娘を踏んであげたんです。このポーズになって踏みだして3分ほど経って、まあ50回も踏んでないですね。ふと気がつくと、シーツが血で真っ赤になって広がっていく…ビックリしましたが、母親がさりげなくその子を起こしてシーツをまるめて娘を連れて行き、着替えをさせてからまたお願いしますって、なにもなかったように寝かせましたね。そのとき女の人ってのはすごいなと思いましたね。そのお嬢さんはいつも機嫌が悪くて困ってられたらしいですけど、生理がないってことは不機嫌の大きな理由になるんでしょうね。それがはじめて楽健法をやったところ、間もなくシーツに血が広がって生理が始まったんです。そういう経験があります。

「健やかな子宝を得るにいたり、」ここは高齢出産だと言われるような年齢、30代の後半になってからの初産では帝王切開することになるケースが多いんですけど、大腿部の付け根をしっかり踏んでゆるめておけば産道が開きやすくなって自然分娩で安産できます。20代の女性は30代に比べると身体が柔軟なんですね。楽健法はこの柔軟さを取りもどす方法なんです。足の付け根の硬い筋肉が締め付けて産道が開かないんですから、ここを柔らかくすれば自然分娩で何の問題もなく生まれます。

 妊婦さんには出産の間際まで毎日踏んであげるといいですね。臨月でお腹が大きくなっていてもうつ伏せになって背中を押しても大丈夫ですからね。もし不安がるようだったらちょっと座布団でも当ててやってあげてください。
妊婦さんによりますが、大きなお腹しても平気でうつぶせになる人もいます。なんにもそんなこと気にしない。身一つの時はお腹を下にして圧迫しようがね、別に赤ちゃんが苦しんだりそんなこと一切無いんですね。たぶん、中で喜んでるんだろうと思います。そういう刺激もあった方がいいのかもしれないね。

「健やかな子宝を得るにいたり、自己の存在の意味に気付くなり。」

それでこのように書いたわけです。






 次に佛、乾闥婆を上向きに寝かせ、鼠蹊部(そけいぶ)より膝までを、上から下へと踏みたまえり。




これで、この文章でこう踏んでいくというのがわかるね。



 佛曰く、この部位を嬰童(ようどう)と名付く。


嬰童(ようどう)と言うのは、みどりごのこと、赤ちゃんのことですね。



 嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。


 ここをよく踏んでいたら胃腸の働きがよくなります。経絡で言うと胃経ですね。ここが硬い人に最近あなたは老眼が進んでませんかっていったらたいていそうですって言われます。最近の僕のやり方ですが、こうやって全身をかるく揺すって(ローリング)あげることから始めることが多いです。揺らすという感じで足を下へ下げてきて膝に近いところは、内側に引き下ろすようにかるく踏んであげます。そうしたらあんまり痛くないですね。揺らしながら強く踏まれると痛くてたまらないので、その位置ではもう揺らさなくていいです。

まあ、ここのローリングは蹴飛ばすことになると痛いので、ここは体重を加減してゆっくり持っていくという風にしてあげないと、痛くてたまらんです。だけどこれが一番難しいってみなさんここおっしゃるんですよ。そんなんじゃなくて優しい気持ちで体重を軽く乗せてゆっくり押しておけばね。相手が慣れてきたらだんだん強くしていけばいいですね。これが嬰童(ようどう)のところです。




嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。
 乾闥婆、老眼なりしが御佛足が離れるやいなや、如来の御尊顔、常にも増して輝き、明らかに見ゆるを自覚して、いまここにわが不浄の身を横たえ、如来の御佛足を頂ける佛縁の不思議、有り難さを噛みしめたり。




(宥厳先生)これはあの、ここ踏んであげてる間に、ほんとに「あ、目が見えるようになった!」っておっしゃる人多いですね。そんな経験したひといますか?
楽健法のあと、新聞が眼鏡なしで読めるなんていうひとがいます。近視の人もかなり視力はよくなります。




 次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、






 左の胸からですね、ここをね、以前楽健法の本を書いた頃は、のの字に回すなんて書いてあったのですがいまは回さないで踏むことにしています。昔は手を曲げたままでしたね。こうやって、やったら。

(琴美ちゃん)いて!!(一同笑)
(宥厳先生)なかなか踏みにくいね、これ。それで、まあ、昨日確認のためビデオを見ましたけど、あれにもちょっとこういう踏み方していますが…まあ、のノ字を書くように、こっちへ引っ張っぱるというような気持ちでやってたんですけど、今はここをまっすぐ押し込むように踏んでいます。このほうが踏みやすくていい、やりやすいです。安定しますからね。なんでこんなポーズで踏めたかというと、始めた頃には鉄棒を持って体重を加減してやってたからね。それでこうやって踏めたんですよ。鉄棒なしではそれがちょっと難しいので、今は素直にまっすぐ踏むんです。

「左の胸から腕の付け根を踏み」ここも、こ右の足でまっすぐ踏んでいくとよろしい。踏んでから足をずらしますと筋肉を引っ張りますから、引っ張らないようにまっすぐ踏んでください。こうやって横にずらすと痛い。それで、こう持っていくように、ね、いま。こっちでもまっすぐ下におろすだけだったらあんまり痛くないんです。だけど、こっちに立って全部やろうと思うから、横にこう。そうすると痛くなる。
(琴美ちゃん)いた☆⌒(>。≪)
(宥厳先生)それで左足でこう踏んでいったら、足が横にずれないので、それで、こちらの足で踏んで行きましょう。利き足を同じところに立ったまま踏むんじゃなくて、小刻みに移動させてまっすぐ下に踏んであげるようにしてください。利き足は絶えず、細かく動いてます。利き足を一箇所においてどこもここも踏もうなんて横着なことはしないで、こまめに動くことが大事なんです。




次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、さらに指先まで御佛足にて踏み下りぬ。
 佛曰く、この部位を唯蘊(ゆいうん)と名付く。
 唯蘊をゆるめて見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶなり。
心臓の病も、呼吸の病もかるく癒されるなりと。






 からだの腕の付け根から胸にかけてが硬いと、心臓や肺を筋肉に圧迫されています。風邪を年中引いてるなんてひとは、ここの緊張がとれないからです。
 骨盤の周り、鼠径部のあたりと、胸の緊張が緩んできましたら、たいていの病人は回復します。ここが硬いので内臓にゆとりがうまれないので、疾病が起きるのです。健康とは身体がやわらかくて、内臓に伸び縮みできるゆとりがあるということなんです。

 楽健法経は左側の踏み方を解説しています。偈の方で「次に右に転じて繰り返せ」と言う風に書いてます。いま胸のところは説明のために近藤さんの左だけ踏みましたので、バランスの問題だから右も踏んでおきましょうね。

 胸から腕にかけては心臓の悪い人なんかは硬く、腕の硬い人は便秘しているとか、腸の悪い人ですね。便秘してる人はとっても二の腕が硬いでものです。腕の硬いところをよく踏んであげると間もなくドカッと出る人がいます。ここが緩んだらお通じがいっぺんに良くなるんですね。そういうことを経験すると、体は不思議だなと思いますね。

「心臓の病も、呼吸の病も」これは、乳がんとかね、乳腺炎、まあいろんな病気がありますけど、胸から腕を緩めていくことで良くなります。要するに循環を良くしていかないと病気なんか治りません、どんな病気でも。




 次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部(でんぶ)より



 
 うつぶせになって
 お尻を踏み足に下がってくるのですが、踏む人が両足の間に立つと、お尻は外側へ足が逃げるんです、どうしても。左の外側に立ったらスリップしないでお尻が踏みやすいです。足の付け根は両足の中に立って踏んであげると内側の筋肉にあたります。お尻は外へ出た時にまとめて踏むというやり方でもいいですね。スペースが広ければこうやって踏んだ方が踏む方も楽ですね。足は右で踏んでも左で踏んでも構いません。目的は踏むことにあるのであって、どっちの足で踏むかということは重要じゃありません。安全に踏めて効果があればいいわけですから。私は左右の足を変えながらふんでいます。硬いところを見つけたらよく踏んであげるようにしたらいいですね。まあ、




次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部(でんぶ)より膝裏(しつり)のそばまで踏み下りぬ。
 佛曰く、臀部は大乗(だいじょう)と名付くなり。
 大腿部から膝裏は抜業(ばつごう)と呼ぶべし。
 いずれの部位にも筋肉の付け根に潜脹(せんちょう)あり。
 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。











 この潜脹(せんちょう)というのは、私の作った言葉です、造語です。体の中に隠れて、潜ってて、硬く膨らんでるから潜水艦の潜と脹れるという字で潜脹という言葉を作ってみたんです。こういう言葉が医学用語にあるわけじゃないんですが、潜脹という言葉があると説明がしやすいですね。私が最初に京都の中心山荘へ二泊三日の講習会に10回ほど通った時には、先生方は体の中に玉があるって、「玉!玉!」って言ってました。ここの付け根にある玉、とか、そこらじゅうに玉がいっぱいできて玉だらけって言う風に言ってたんですけど、ま、玉というよりは潜脹と言ったほうがわかりやすいかな、ということで、言葉を作ってみたんです。

 潜張という言葉もだんだん僕の本を読んで知っている人がいて、「潜張がどうだ」とか言うようになってきましたから、言葉っていうのは理解しやすい概念を表す造語を使ったらいいですね。その他にも、私が作った言葉で「有害価(ゆうがいか)」有害の価(あたい)なんていう言葉を、楽健法の本に書いています。それは、例えば栄養価という言葉はよく使うでしょう?栄養価の高いものは体にいいと言うことで、昔から厚生省あたりが栄養価の高い卵、牛乳それから牛肉、そういったものどんどん食べましょう、なんて言って教育しながらずっと戦後やってきたわけです。

 で、確かに栄養価は高い。で、栄養価の高いものは体に良いっていう考え方が一般化しているわけです。カロリーが高くて行動の源になる、エネルギーになる。だから、栄養価の高いものはいいんだというというような考えでみんな食べてきたわけです。ところが、栄養価の高いもの中には成人病を引き起こす有害なものが潜んでるわけですね。僕は逆に栄養価は高いかもしれないけれども、有害価も高いよ、ということもわかりやすく言いたいわけですね。

 それで、栄養価に対して有害価という言葉を作って本に書いているわけです。だけど、あまり世間では有害価がどうかこうかというようなことは言われませんけれども、僕はまあ有害価という言葉で、「ああ、あなたはそれを食べてるの?」ずいぶん有害価が高いわね」というような話をすればわかりやすくなるかな、という考え方もあってそう言う言葉を作って使ってます。

 それから、他の言葉では例えば「自然治癒力」という言葉があるじゃないですか、皆さんは自然治癒力を持っているわけですけれども、人間には「自然致死力」っていうものもあるはずだと、死ぬ力ですね。それは医者が何も、スパゲッティー症候群にしてくれなくてもね、自分で死ぬ力があるんですから、だからほっといてくれたら安らかに死ねるわけでよね。だけど、なかなか今の世の中は安らかに死なせてくれない。それで、ま、自然致死力を利用してあの世に行きますから、ほっといてくださいって主張したいわけです。それで、まあ自然致死力っていうのを造語して書いてます。

 そういう何か分りやすい概念っていうのを提供することで「自然致死力」、いい言葉だな、と私はそれで死のう、などと聞いたら思いませんか?(一同笑)。ね、自然治癒力で治るというのと、自然致死力で死ぬっていうのも自然そのものですよね。老衰で本当に火の消えたように死んでいくっていうのは人間の権利です。医療で死のお手伝いなんかいらない。お節介なんかいらないです。

 この間からここでちょっと頒布なんかした和紙靴下の糸井さんっていう人は母親が104歳でこの間亡くなられたんだそうです。1年前に。その人は非常にシャキッとしたお年寄りで、まあ100歳過ぎてから、ちょっとこう施設みたいな、老人の介護の施設ですかね、そいういうところに入れたらしいですけれども、100歳過ぎても、そのお母さんは頭が非常にしっかりしてて、それでお花とかお茶を教えたりしてたらしいんですね。施設へ入ってから携帯電話使うようになって、それでご家族とメールのやりとりしてたそうです。104歳まで。

 そこのホームで100歳を超えて、もっと若い人もいっぱいおるんだけど、携帯電話使ってるのそのおばあちゃん一人だったそうですね。すごい人がいるもんだね、世の中には。それで、104歳になっても食事するときは必ずきちんと座って、それから、トイレでもきちんとトイレに自分で行く、そういうことを徹底してて、一切何か病院がこうしましょうか、とか、ああしましょうかとかいうことは聞かなくて、寝たまますますような世話を一切しなかったそうですね。

それで、104歳になってから、もう家に帰りたい、私はこんなところにいたくないとかって、家に帰ってきて、食事は机に向かいきちんと座って食べて、座ったままやったかな?きれいに平らげて、そのままで、今度食事を下げに行ったら息が切れてたんだそうです。そんなことを話していられましたね。これはもう自然致死力を活用した死に方ですね。素晴らしいなーと思いますね。そういう死に方ってなかなかできないもんですよ。

 私を額ぶち屋に仕立て上げた河野芳夫さんっていう絵描きさんがいたんですけどね。私よりだいぶ年上だったんですけれども、可愛がってくれましてね、   ちょうど二十歳のころに劇団月光会で知り合って何年目かのある日、河野芳夫さんの、アトリエに遊びに行った時に「山内君、いい職人さんを探してる額縁屋さんがあるんだけど、君やってみないか」って言って紹介されたのが額縁屋になるきっかけでした。ある額縁屋を紹介してくれたんです。河野芳夫さんの紹介ですって僕が行ったわけですね。私が23歳の頃はまだ女の子に間違われるような可愛い顔してたんです。それで、山内女子なんてみんなから言われて(一同笑)、そんな感じでしたね。赤い唇してね、小柄でね、姉のお古の背広なんて着て行くもんだから、額縁屋のオヤジはね、こんな若造に自分が欲しがってるような額縁ができるわけないとか思ったらしくて、それで、その店の中で一番高価な額縁を一点、サムホールっていってね、はがき大の額縁を僕に渡して、「この額縁、君作れるかね」っていうから「はあ、それはわけないです」って言ったんですよ。

 そしたら、信じられなような顔して、とりあえず持って帰ってできたら見せてくれって。それで面取り鉋を3つ4つ作って、額縁の模様になる凸凹のある面を取らないといけませんから。それで見本とそっくりに材料の木を削って額縁を作って一週間ほどして持っていったんですよ。そしたら、額縁屋のオヤジはね、まさかそんなに早くね、もう見せてくれた見本よりも立派なものができてくるなんて夢にも思ってませんから、ビックリ仰天して、それでもう早速、じゃ、お願いします、なんて、それから額ぶち屋になっちゃったんです。
 
 その額縁屋さんは、そういう仕事のできる職人さんがいなかったもんだから、今までね、それで、僕を一人占めしたいわけですよ。よその仕事をしてくれたら困るから、それで、もう、うちの仕事だけしといてくれ、専属で、その代わり仕事は十分回すし、その代わり、紹介してくれた河野さんにも僕が額ぶちやってるってことは内緒にしてくれって。それは、何故かというと、直接取引でやられだしたら困るから。それで、僕はまあ幼い真っ正直な青年でしたからね、まあいいでしょうってなことで、誰にも言わずにそこの仕事だけを受けてやりだしたんですよ。ま、それが額縁屋になった始まりですね。

ところが、額ぶち屋というものは、そこの親父は特に大阪の商人の中でもなかなかずるい河内者で、まあ後から考えたらこんなずるがしこい奴はおらんというようなオッサンだったんですね。それで「とにかくうちはもうどんな額縁でもできますから」って言って注文を取って来るんです。それで、変形サイズだとか、それ1点物の別注だとか、納期があまりないので早く欲しい、って言ったら急ぎの仕事があるのにそれよりも先にこれが欲しいとか言ってね。ドンドン無理難題を言ってきて、まあそれを言うてきたら僕はみんなこなすもんだから、僕が。苦もなくこなしちゃうもんだから、夜中でもどうしてもこれ明日ほしんだって言って来たりするような、そういうのを全部こなしてやったんですよ。

 私は純朴で正直ですから、材料代が何円で手間賃が何円でって本当に原価に近いような形でしか出さないでしょ、そうすると、向こうの方はこれはもう別注の特製ですって、私が出した20倍くらいの値段で売るわけです。最初に説明を受けていたんですけど、そのオヤジの話では、額縁屋というのは大体仕入れたものを曲げて売るって言うんです。曲げるというのは倍にして売るってことです。ところがそこは30倍にもして売るんですよ。それだけ、まあ僕がいい仕事をして出したわけで、それで、天下の額ぶち屋と言えば東京に多聞堂っていう額縁屋があってね、多く聞く堂って書くんですけど、多聞堂、ここの多聞堂の額縁は日本のそうそうたる画家たちがそこへ額縁をオーダーする。そうすると、多聞堂の額縁に入ってるとそれは本物だという証拠だ、偽物でない贋作でない絵だっていうくらいね、多聞堂には権威がある。それで、その私が取引した会社は関西の多聞堂にしたいって言う風におっしゃるんですね。まあ、私も若いですから、それはいい心意気だと思って頑張って、いい額縁をどんどん作ってね。夜もろくに寝ないで。

ところが、支払いのときになると、一括でポンっとくれたことがなくて、三回に分けられたりとか、それで、額縁屋っていうのは材料買うて乾燥させないといけないでしょう。あ、楽健法と関係ない話を(一同笑)。

ところが、乾燥させたいために木材をようけ買うとったんです。トラックにいっぱい積んで。ところが、それを買うのには資金がありませんから、それを融通しろと、お金出してくれっていったら、それもなかなか出してくれなくて、というような事でね、まあ、結局20年くらい付き合ってあまりあくどいことをするのがぼくにばれて、最終的には大げんかして、別れたんです。

 で、別れた途端に売上が二十倍くらいにポンっと上がって、今まで一点ずつやってたのがもう多くの画廊が僕のこと知ってましたからね、まとめて六号を10点とか八号も10点とか言ってまとめてくれるじゃないですか。それまで一点ずつやってたのが一気に10点ずつやります、とかいう、まとめて買ってくれるところがどっと何軒も増えたもんだから、そうすると一カ月の売上が、それまでは月に100万行けばいいような感じだったのが、500万も600万も毎月売上が出るようになって、1年間で40,000,000円くらい貯金ができて、これはえらいことになってきたぞって家内と話してたら、そしたら野末陳平さんが国会で絵画の異常なブームについて質問したら、とたんに絵が売れなくなって額ぶちの注文がピタッと止まった。それで、元の木阿弥になったという話です。

従業員雇ってましたからね、そのうちに回復するだろうと思ってせっかくできた貯金を食いつぶしては給料を払ってら、一年も持たないでパンクです。それでもうこんなことしててはこれはもうしょうがないから、当時はパンの研究してましたからね、それで、ここは工場を1つ潰して、パン屋にするぞってある日突然宣言して、でもう家内も兄弟もびっくりして、パン屋なんて言って、お前頭おかしいんちゃうか、とか言われて、いや!このパンはその内有名になってマスコミがいっぱい取材に来るようなパンだから、心配すんな!とか言ってね。それで、思いついたら1か月もしない内に額縁の工場がパン工場にもうパーンと2階も全部作って、それで大きな機械がどっかーんと入って、それで犬も食わないようなパンを長いこと試作したり、作ってたわけですけど。なかなか膨れなくて、あなたの悩みどころじゃないよ(一同笑)。ま、そんなことがありましたね。え~何言ってたんかわからんようになってきました。




 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。




ここは大事な身体のシステムにたいする考え方ですね。筋肉の硬さに比例してからだの中の管が通りが悪くなるんですが、潜脹をほどけると筋肉がゆるみ管の締め付けがなくなって血液や体液の流れが良くなるんです。




 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結(こうけつ)、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。
 病を癒すは管(くだ)を通すことに如かず。
 易行(いぎょう)なり。




これは力説したいところですね。「病を癒すは管を通すことに如かず。易行なり。」易行とは簡単に結果がでるんだということ。楽健法をやれば流れが回復するのは易行・簡単なんですね、あの、下水の会所の詰まったゴミを掃除すると排水は一気に快適になります。会所のゴミを取り除くという感覚が楽健法だと思ってください。潜脹イコール会所だから、非常に簡単なんだ、易行なんだということです。

 そういうことを知らない人が医者に行って検査を受けて薬だ手術だって大騒ぎになる。手術で取り除けってやられるわけですよ。潜脹をほぐして管を通したら治っちゃうのにね。そういうことを、多くの病人にやってみたらわかります。管さえ通れば治っちゃうんだということがね。ま、谷川さんなんかそういうこといっぱい経験されてきたんですね。病気の根治にはそれしかないんですね。それで、非常に易行と言うのは易しいということですね。簡単な方法なんですよっていうこと。




 ことに臀部の潜脹は冷えを呼びこむなり。

<hr>

 お尻は結構よく冷えて、お尻の冷たい人って多いですよね。女の人は特にね。短いスカートをはいたりしてね、足はむき出しで、スタイルのためには冷えを気になどしないのかな。

(土井さん)歌姫、寒そうでしたね。

(宥厳先生)あ、歌姫か!(一同笑)。まあ冷えるって言うのはやっぱり体の調子を悪くしますから良くないですけれども、かと言うて靴下5枚もはく人もおるけどね、あれも考えものだと僕は思いますね。なぜ、楽健法せんのだろうと、いうこともあるかもしれない。で楽健法で冷え治そうと思ったら、踏んでもらうことよりも人を踏むことですね。踏むことに如かずってね。




 潜脹をゆるめて、難治(なんじ)の宿痾も断ち切るに至るなり。
 心して踏むべしと。

 
 次に佛、乾闥婆の両足裏に御佛足にて乗りたまいて曰く、この部位をば覚心(かくしん)と名付くなり。
 足裏は反対側の頭脳と知るべし。
 足は実践を常に行ずる脳髄なり。
 愛しむべし。
 覚心は部分にして全体、全体にして部分なり。よく思案せよ。
 覚心を貴(とうと)び踏んで気をめぐらし、正精進(しょうしょうじん)に励むべしと。






反対側の脳髄というのは頭の中に脳髄があるわけですが、足の裏もそこで情報を的確にキャッチする賢い脳髄なんですよっていうことですね。足裏はやっぱり脳みそです。で、人を踏むときは足の裏で考える。頭で考える人は何かいろんな既成の知識が入ってたりして、胃の悪い人はあそこ踏んだらいいんだとかいうことにこだわる。だけど、足の裏が賢い脳髄になってる人は、ここが硬いんだからここを緩めるんだっていうことが足裏で直感できるんです。この人は胃が悪いから、ここにしようなんて思わない。硬いところを見つけて踏んでいくことですね。そういうことを脳髄だと言ってるわけです。

ま、だからこれは足の裏だけを踏んでも元気になる。これはまあこん中にも何人かの人が官足法だとか色々足の裏を揉む治療やってる人がいますけれども、足の裏だけでも確かに全身がよくなっていくんですね。だけど、まあ、直接ここが固いんだから足の裏だけ踏んでここを緩めるというよりは、硬い潜脹を直接踏んだ方が早いのは決まってますからね、だから、まあ楽健法は非常に合理的だと思うんですね。硬いところに直接アタックする。




 次に佛、乾闥婆の腕の付け根に御佛足を踏み与えたまえり。
 乾闥婆、痩せた背高き男なれば敷物に腕が密着せざるなり。

 
佛曰く、この部位を極無(ごくむ)と名付くなり。
 腕の敷物に着かざるは、胃の下垂あり。











 痩せっぽちの人は大抵背中が丸くなっててここが引っ付いてない人がおおいですね。胃下垂の人ですね。特に男の人で中年すぎたら胃下垂の人はそういう体型の人が多いです。腕がこう下にひっつかない。乾闥婆は痩せた胃下垂型の腕が床から浮き上がった人で、これが乾闥婆の姿勢ですね。そういう腕が床に着かないひとも、数回踏むと伸びて着く人は結構います。踏むと身体はすぐ変化していきます。あまりきつくない程度にこうやって踏んでいくといいんです。




 いまだ身体硬く、なお修行の余地大(おおい)なる証なり。
 心して楽健法を行じ、心身一如(しんしんいちにょ)の境地を体解すべし。と申されて、極無を御佛足にて軽く踏み,光明真言の呪を唱えたまえれば、乾闥婆の腕たちまちゆるみ伸びて敷物と密着す。

 
 菩薩等、開示悟入(かいじごにゅう)しつつ眺めるなか、次に佛、乾闥婆の頭上に廻り立ち、左肩の付け根に左足を与えたまい、




 ここは秘密という部位。秘密を踏むときは、相手のからだの外側のラインに立ちますが、踏む人は利き足と踏む足が直角になるよう足の位置と各度に注意してください。両足を前に向けると不安定でよろめきますからね。




御佛足の踵(かかと)が敷物に触れんばかりに踏み下げぬ。
 佛曰く、この部位を秘密(ひみつ)と名付くなり。
 諸々の病の予兆の現ずるところなり。
 肩凝りは未病の便り、便秘も未病の便りなり。あなどらず秘密を解くべしと。






 肩こりはつらいものですが、秘密を解いて緩めてあげることですね。肩から腕にかけて緩んできましたら、便秘まで解消していきますね。ここもそうですね。腕が硬い人は腸の働きが悪くてよく便秘してます。



第9回12月10日(2日目)その4

2012年01月07日 | 第11期楽健法セラピスト講座
 次に佛、乾闥婆の背に跨(またが)りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと押し下りぬ。
 佛曰く、ここを一道(いちどう)と名付くべし。
 ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得(う)るなり。
 全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。
 一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。




 

 骨盤が左右均等でなくてゆがんでくると背骨のズレとか、背中が曲がって来たりして背骨が飛び出したりとかするんです。ま、それによって体が悪くなるので、脊椎の矯正をさえすれば病気が治るっていう理論がカイロプラクティック・整体と呼ばれている考え方です。
(宥厳先生)カイロプラクティックは背骨を矯正する。背骨のずれがあるから矯正するというので、左右の筋肉の緊張を取らないで、背骨だけ強制的にガッと入れるテクニックをカイロの人たちは勉強するんですが、ちょっと危ないですね。

 下手にやられると脊椎に損傷を与えて、障害者になってしまう人もあります。  
 大阪でも何年か前に背骨を損傷して半身不随になって車椅子で暮らすようになった人が、裁判を起こして2,500万円の賠償かなんか裁判所から命じられてたのを僕は新聞で読んだの記憶してます。ま、だから、背骨を無理に矯正しないで、楽健法で筋肉をまず緩めて行けば背骨のずれは、元に戻っていきますので、まず硬いところをほぐすていうことを中心にいつも考えていってください。

「全ての部位の調整は、一道(いちどう)の調和をはからんが為なり。」ま、他のところ踏むのも背骨をまっすぐするために、やってるようなものですよっていうことを言ってるわけですね。

「一道を触掌(しょくしょう)して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。」触掌というのは、手のひらをかるく当てて、癒してあげることです。私もまだ楽健法も何にも知らないで喘息を患ってた頃に、かなり肩が凝って辛かったもんですから、大阪の城東区の初めて飛び込んだ、ある鍼灸師のところに行ったことがあるんです。そしたら、七十くらいのおじいちゃんでしたけど、その人が針をやってくれて、終わりの時にね、背中にほーっと手を当ててくれたんです。その手の暖かさがね、何とも言えない温かい気が伝わってきて、なんて気持ちの良い手だろうと思いました。

本当に数秒間でしたが、パーっと当ててくれたんですが、何か一生忘れられないような手の感触でしたね。だから、ああいう気のこもった手で人を触らないといけないなと思っています。何かこう癒されるというか、力を入れたわけでもなんでもなくて、両手を重ねて、ふぁっふぁっふぁ3回ほど押してくれただけなんですけど。その感覚を未だに体に覚えてて、だから、人をやってあげてる時に、あのような気をあげたいわけです。あのとき良い気持ちにさせられたということがいまもとても勉強になっています。

 皆さんも是非、ちょっと手を当ててあげるだけで、なんと気持ちの良い手なんだろうと、気持ちが相手に伝わるようにやってあげてほしい。まあ、楽健法やってるとだんだん、そういういい気が出てきて、相手が気持ちよく、その人のそばに行くとなんとなく感じが良くてね、何かさわやかな風が吹いてくるような、そういうキャラクターですね。楽健法を続けていると、そういうものにだれもがいずれ成長していくと思います。

はい、琴美ちゃんどうもありがとう。
(琴美ちゃん)ありがとうございました。




 佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔(じがん)をほころばせり。
 菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆とともに、浄福(じょうふく)に包まれたり。




(宥厳先生) はい、非常に幸せな気分になりましたか?乾闥婆さん(笑)
(琴美ちゃん)はい、なりました。







 佛曰く、病気にて夭折(ようせつ)するは治療の理法を得ざるが故なり。
 治らざる病はあらずと心得うべし。
 依(よ)るところの手段なによりも肝要なり。
 まず、否定的な心を棄(す)て、可能性を信ずべし。

 信じて楽健法を行ぜよ。




 この病気にて夭折って言うのは、若くして死ぬということ、まだまだ死ななくていい年齢に死ぬことを夭折するって言います。七十五も過ぎて死ぬことは夭折とは言わないですね。四十代とか三十代とか、まあ、五十過ぎたら夭折とは言わないですね。だいたいもっと若いときですね。

「治療の理法を得ざる」って言うのは、それが治るような治療法を行っていないということですね。西洋医学はそれが治るような治療を行なっているかどうかですね。何か行ったら直ぐにでも治してくれるようなことは言うんだけれども、本当は治るどころかますます悪くなったり、どうかしたら、慢性化させてしまったり、もっとひどくなればあっという間に死んでしまったりしますね。

 そういう、これは理法を得ていない、つまり理屈にあっていないということですね、その病気を治す方法が。だから理法を得れば必ず、病気というのは治ります。で、ここに「治らざる病はあらずと心得うべし。」って言うの、どんな状況まで追い込まれてもちゃんと理法にあえば、その方法さえとれば必ず治る道はあるわけですね。だけど、それが西洋医学一辺倒でつまり西洋医学依存症という風に僕が言ってるんですけど、日本人のほとんど九割九分までは西洋医学依存症という病気になってます。だから、他の治療法なんて考えようともしない。これはもう大変な病気ですね。だから、そういう人たちの意識を変えるためには、やはり楽健法をもっと広めないといけないだろうし、アーユルヴェーダなんかもね、もっと多くの人が知ってね、勉強するという気持ちになってもらわないといけないんですけどね、基本の基を勉強しようという人が本当にいないんです。

 何か手近にテクニックだけ覚えて早く商売しようとかいう人がたくさんいるんですけど、治療や健康法について深く考えて、所謂、原理…所謂ダルマですね。ダルマってのは真理のことですけど、そういうダルマを自分で考えて、それを会得してそれでそれに従って生きていこうということですね。自然致死力で死んでいこうとかいう風に思う人が本当に少ないんですね。

 ガンの患者がガンで後三月ですって言われたら、三月だったら何もしないほうがいいんですよね。それを後三月で死にますって言われてるのに、入院して点滴して、点滴やら抗がん剤やってコバルトも当てて、ね、ついに三月で死んでいくわけですよ。あんなことしないほうがいい。もう一切やめて。だから、残り少ないといわれたり、思ったりしたら、医者などにかからない方が理法にかなっています。六十歳を過ぎて医者に行くっていうのだいたい未熟なひとです。人生を誤って生きてきていますね。

 アントン・チェーホフって言うロシアの小説家のね、どの芝居だったか忘れましたけど、3人姉妹か、カモメか、桜の園かどれか忘れましたけれども、ある六十過ぎたお年寄りが、「私は今から医者に行って診察してもらう」って言うセリフが芝居の中に出てくる。そしたら、ある若い学生が「ケッ、六十も過ぎて医者に行くなんて」って馬鹿にするんです。

 六十も過ぎたら勝手に病気が治るか、自分の人生がどう言う風に後変化していくか、わかっとるはずなんですね。それがわかってないから、相変わらず医者に行ってね、何か見てもらってどないかなると考える。だから、六十過ぎて医者に行くっていうのは年の取り方を間違えた人ですね。考え方も間違ってます。まあ、あの目が悪いとか、歯が痛いとか言うのは行ったらいいんですよ。だけど内科的な病気なんかではね、医者になんか行く必要はあまりないですね。

 まあ、それこそ、「信じて楽健法を行ぜよ」って書いたのはこれでだいたい解決していくからです。まあ、健康診断に毎年行くとかね、そういうことは必要ありません。六十過ぎたら、どっちにしたって後五十年生きられませんからね。ま、(一同笑)
(斉藤さん)必要なくなっちゃってしまったわ、私も(一同笑)

(宥厳先生)だいたいそれは、だから理法を分かってないから医者の診察受けるんですよ。ね。診てもらたって本当にわかってないのよ、向こうだって。あやしいな、とかデータだけ見て、でデータが普通の人よりちょっと多かったら、あなたは異常だということを言うんですから、だから、データに体を合わす必要なんか全くありませんからね。自分の健康状態で自分を自覚して、自分の体感で毎日生きていくということが一番大事なことです。だから、敏子さんも医者に行くことも診察を受ける必要も、検診を受ける必要も全くないです、あなたはとても元気ですから。居眠り運転さえしなければ(一同笑)。

(琴美ちゃん)でも、会社で受けさされたらねぇ。
(斉藤さん)会社に入ったら受けないといけない。
(宥厳先生)そんな会社やめなさい。(一同笑)。そういう時は休む。もう家でちょっと受けましたから、とか何とか言って。
(受講生)結果を出さないといけないから、会社は。
(宥厳先生)ああ、そうか。偽造しましょう(一同笑)。
(受講生)私はもうそういう事してますっていうね。そういう決まりで。
(宥厳先生)それはもう病人を如何にして集めるかという工夫の輪の中に入れられてるねぇ。大変な会社におりますねぇ。(一同笑)
(琴美ちゃん)みんなそうですよ。それで、全員再検査だからね。
(宥厳先生)




 楽健法は易行にして、理法深甚(りほうじんじん)の理(ことわり)なり。
 他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。



易行と言うのは易しいということですね。わかりやすい。わかりやすくて実行しやすいという事を易行ということですね。




 心してこれを行じ衆生を済度せよ。
 日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土(ぐしょうじょうど)、即身成佛(そくしんじょうぶつ)の光の海と転ずること必定なり。

 これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施(ふせ)の行にて、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶(とも)に功徳(くどく)を得べしと。

 さらに佛、偈(げ)に説いて曰く。

 
楽健法を学び行ずる者病を癒し人間を癒す。無畏(むい)を施し慈愛を自覚させる。たとえ病む者といえども他者を癒やさんとして楽健法を学び行ずれば自らの病が癒されること必定(ひつじょう)他者の救済は自らの救済なり。楽健法を行ずれば光の人となる。




この中で無畏を施しっていう言葉が出てきてますが、これは施無畏と言う風にいいます。無畏の上に「施す」という字を書いてね、お布施の施。施無畏(せむい)という言葉は仏教でよく使われます。

 この施無畏は人に正しい知識をきちんと与えて、恐れをなくしてあげることですね。それが患者が来たら、あんたほっといたら、この影とか、このデータではあなたは長くない。ほっといたら長くないよ、なんていうのはこれは脅迫ですね。これはだから、医者という…医者というかお坊さんというか聖職者にある人は無畏を施すのが仕事であって、正しい事を人に教えて畏れをなくしてあげる、つまりそれは科学的な知識をちゃんと相手に持たせるということでもあるんですね。それが無畏を施すことなんです。

 だから仏教というのは正しいことを教えて畏れをなくしてあげる、衆生は知らないから恐れるわけですからね。だから、皆さんは医者の恐ろしさを知らないからね、怖くないところで命を救ってくれるように思ってるだけで、それは、とんでもない誤解です。行けば死ぬかもしれない、あっという間に。

 私の姉も医者にいかなければ生きとったと思うんですけれども、行った途端に2時間で死にましたよ。点滴やられて。水膨れになってきてね。慌てて集中治療室に連れ戻したけど、一旦点滴で入れた薬なんか抜けないじゃないですか。ね。あっという間に死にました。だから、そういうことが起こらないようにもともと医者になんかいかなければこういうことにならないんですけど。

 姉はずっと医者に行ってましたから行くことに抵抗はなかったんでしょうが、昨日は無事だったから今日も無事とは限らないです。医者は思いつきで違った事をやるかもわかりませんからね。だから、本当に怖い。本当に体が弱ったときはだから医者に行かないほうがいい。元気な時はまだ抵抗力があるから(一同笑)、大丈夫ですけどね。そういう人は医者に行って点滴受けても死ぬ人はいないと思いますけど、本当に体が弱ったら医者にいかないほうがいいです。

 まあ、自然致死力に頼って死ぬのを待つ。それが楽健法してくれる人がいたらやってくれる人を待つというのが正解です。まあ、これが無畏と言うことですね。医者はやはり無畏を施すのが仕事であるべきなんですね。脅迫するなんてもってのとか、だから、脅迫するような、ほっといたら死ぬよ、とか脅迫するような医者とは付き合わないでよろしいです。それはもうレベルの低い次元の低い医者で、医者とは言えない。医者の資格っていうのはアーユルヴェーダでもやかましく言いますけれども、やっぱり正確な事を伝えるべき役割があります。死ぬよって言うのは単なる脅迫で正確なことではないですからね。そんなん、誰がいつ死ぬかなんて本当に分かる人なんていないですよね。

 とことん治療しても悪くなっていき、追い詰められた人のいのちはあと何日もつかていうのはそれは医者はよくわかりますよ、経験をたくさん積んでますから。だけど、元気な人がいつ死ぬかなんてのは本当にわかる人なんていませんね。だから、まあそういうつもりで、無畏を私たちは楽健法を通してね、楽健法を知らない人に無畏を施す、畏れなくていいよ、と教えてあげるんですね。

 だから、皆さんは施無畏をする、そういう立場に今立とうとしている菩薩、光輝楽健菩薩ですからね。皆さん頑張って、まわりの皆さんに無畏を施してほしいですね。まあ、あとはこの踏み方を書いてるだけなんです。まあ、これくらいにしておきますね。

 楽健法経はこういうお経ですけれども、まあ、今しゃべったようなことで、額縁屋になった話なんかは本に書かなくていいと思いますけれど(一同笑)。ま、ちょっとちあきちゃんにも頑張っていただいて、過去の楽健法のやつも出来たらね、先月もだいぶ書いてくれています。前にもいくつも触れてると思うので、まとめて、それで、もうこれで本にしたらいいよというのを私に是非ください。お願いいたします。(一同笑)。これで、もう本ができたね。じゃ、今から楽健法しましょう。40分くらいの楽健法やったらいけるね!はい!もうたっぷりやって昼からまた少し話して、昼からの楽健法なしにするか?食後もまたやりたい?
(受講生)みんながやりたいって。
(宥厳先生)じゃ、早いめの楽健法やって、サッと飯食って。ね、もう一回楽健法やって終わりましょう!
(受講生)何番ですか?
(受講生)7番です。 



楽健法(6)






Lunch
●カレー(じゃがいも、玉ねぎ、とうがらし、りんご、油揚げ、なす、ピーマン、チーズ、しいたけ、しめじ、セロリの葉っぱ、こんにゃく、マンゴー、にんじん、ニラ、トマト、にんにく、しょうが、ナンキン、ふき)●加賀の山芋●ぜんざい●高野豆腐●ゴボウ●漬物(日の菜、カブラ、ハクサイ)添え






楽健法(7)







終わりの会「礼儀」



12/11 15:32
(宥厳先生)メールアドレス、みんな渡りましたか?みんな中へ入って。
(琴美ちゃん)そこじゃなくて!
(宥厳先生)重ならない!これで、みんな揃ったんか?ニッシーがおらんのちゃうんか?
(ニッシー)いる~~~!!(一同大爆笑)



(宥厳先生)この間からね、京都のね臨済宗の、あ!そこ重ならないで、ほら!ニッシーのところ重なってるよ、そこ、ほら。ニッシーが悪いんじゃなく、土井ちゃんが悪い!とかくニッシーは濡れ衣を着せられる。あの、臨済宗の尼さんがイオンハウスの講習会にお越しになってね、それで私に挨拶するときにね、非常にこう礼儀正しくここまで頭を畳に付けるんですよ、それで私にそんなことした人ここに一人もおらん(一同大爆笑)。いっぺんやってみましょう、はい。頭つけて、はい。



(琴美ちゃん)そんな膝の近くに頭つかいないよ。(一同大爆笑)
(宥厳先生)だけど、衣を着て端然として真面目な顔でね、こう畳に頭つけてお辞儀されるとね、何か思わずドギマキしますね。
(琴美ちゃん)何か絵ずらがちがいますよね。
(宥厳先生)あんまり行儀のいい方じゃないですけどね。まあ、あの礼儀っていうのは折り目正しいっていうことですね。やっぱりひとつの生活の何か一番基礎をなしてる部分ですね。挨拶をきちんとするっていうのはね。
(幸子先生)まず来たらはじめに挨拶をする、と。あまりした人聞いたことないですけど(一同笑)



(宥厳先生)この二日間は少し、催し物をやったりしてまあ忙しい思いもしたけれども、楽しめたかとも思うのですが、是非ね、ちあきちゃんの方にメールで感想送ってください。手書きでも構いませんから。ちょっとハガキでも…。いつもハガキを下さる丁寧な人もいらっしゃいますけれども。
(琴美ちゃん)土井さんは私にFAXしてください。私が打ってちあきにメールしますからFAXの人は私にFAXしてください。ちあきに私が打ってメールします。
(ちあき)ありがとうございます。
(琴美ちゃん)これ以上ちあきの仕事を増やさない。
(宥厳先生)FAX送る人?
(土井さん)はーい!
(宥厳先生)あんただけ?(笑)じゃあ、あの是非感想書いてね、せっかく催し物をやってもね、何の感想も持たない連中かと思うのもね、寂しいですから。まあ、それなりの何かいろんな感想を受けられたと思うんですね。今朝もああやって堀江真美さんに般若心経ピアノでやってって言ったら、はいって言ってやったでしょう?ああいう姿勢は見習わなあかん人がおるんですね。
(琴美ちゃん)やれっていったのにね!
(宥厳先生)ねぇ!何度も言ってるんですけど。
(西澤さん)あれっあれっ?



(宥厳先生)何かね、やはりプロというものはそういうね、うじうじする壁がないんですよ。私でもそれは頼まれたらパッとやりますよ、何でも。できることはね、即やります。そういう風に積極的になっていかないといろんなところで、うじうじうじうじする癖がついちゃう。パッと実行する。そうやって手軽に取り組んでみることですね。何もそれは軽率なことでも何でもなくて、僕はそういうのが人間がこう一つ成長していった証だと思うんですね。だから、変なところでグズグズ後ろに下がらない。でも、あの大抵物事がうまくいかない人って言うのはどっかで手前の方でやる以前にね、グズグズグズグズ、何かやろうとしないで、別に抵抗しているわけでもなくて、それで嫌いなふりをしたりね、拒絶したりするふりするんですけどできることはさっと手軽に取り組むような姿勢で、これは僕は楽健法やっていくうえでも大事な心がけじゃないかなと思います。だけど、まあ、押しかけて言ってまでお節介はしませんけれども、頼まれたりしたらさっとやってあげると。

なかには厚かましい人もおってね、何かぼくとどっか会合に出て行ったりすると、その場でちょっとじゃあ踏んでみてくださいなんて言う人が、そんなのは応じる必要ないです。プロというのはそんなに軽率にやらない。そういうところではね。そういう何かけじめって言うのは勿論ありますけれども、まあ、あの必要な場面ではパッとやってあげたらいいですね。何かどんなもんかただで試してもらおうってね、大先生捕まえてちょっとやってみてくれ、なんて言う失礼な人がおるんですよ。そういう人には必ず僕は断りますけどね。そんなことはしませんけれども。まあ、皆さんもそういうあたりは普通の対等に付き合える相手には普通に接して気軽にあんまりグズグズ、恩にも着せないで、やってほしいと思います。また、来月、え~っともう次は正月やね。じゃあ、また正月明けてからお目にかかります。それで、年末いつも何人かの方がここへ30日餅ついたりして、源ちゃんも来て餅つき手伝ってくれたり、まあ、時間と暇があって行くところがなくて(一同大爆笑)、誰にも相手にされない人はここに泊まっていただいて結構ですので、まあお越しになっていただいたら、家内も喜ぶかと思います。
(幸子先生)いや~~~
(宥厳先生)怒ったフリしてますけど、本当は喜んでます。
(幸子先生)感情は表します。(一同笑)
(宥厳先生)じゃあ、これで終わります。ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
(宥厳先生)あれ、誰が額をくっつけるか見とった人おったんちゃう?(一同笑)
(幸子先生)ちあきちゃん、横向いとったんちゃうん。
(ちあき)いえいえいえ。
(宥厳先生)じゃ、どうもありがとうございました。



おまけ

羝羊(ていよう)




愚童(ぐどう)




嬰童(ようどう)




唯蘊(ゆいうん)




大乗(だいじょう)






抜業(ばつごう)




覚心(かくしん)




極無(ごくむ)




秘密(ひみつ)



一道(いちどう)