合宿スタート10/09 13:00~
(宥厳先生)お元気でしたか?
(岡本さん)はいっ
(幸子先生)何で2枚もはくの?
(岡本さん)え?寒くない?
(宥厳先生)寒くない!
おはようございます。
(一同)おはようございます。ちょうど7カ月目に入ったんですね。だから、折り返し。後半戦です、今から。あっという間に後半戦になってしまったね。
(受講生)早い…
(宥厳先生)そんなこと言うてるうちに終わっちゃうけどね。命が終わる時もあっけなく終わっちゃうんだろうね。そういう風に思うわ。ああ、こないだまでやったのに…って(笑)
(岡本さん)どうやって思うんかな。
(宥厳先生)今日、あの、今手元にお配りしたのは先月、これをお渡ししましたよね。この…渡してない?
(幸子先生)渡してないよ。
(宥厳先生)渡してない!?ほな、あとであげるわね。あの~中西康郎(なかにしやすお)さんって言って上の座敷に私の若い時の美男のひげ面の顔を書いてあるじゃないですか。あれを描いた絵描きさんですね。随分、古い付き合いだったんですね。この方が2009年のお正月に、年賀状が毎年来るのが来なかったもんだから、それで、おかしいなと思って、電話しても出ないし、その内に娘のメールアドレスをなくしてると思ったんですけど、それがうまくパソコンの中で見出すことができたもんだから、それで問い合わせのメールを送ったら7月に死んだ、という返事だったんですね。
だから、友達が死んだのに半年以上も知らなかったということですね。そんなことがあったもんだからショックを受けまして、中西康郎さんって言う方は結構人望…人望と言うのか善人でね。とても善人で、友達も多くて、だから、誰かがその内に追悼会みたいなのやるだろうと思っていたんですけど、誰も声を上げないので、それで、今こうお渡ししたここに書いてるような成行きになってきたんです。これを例によってここの朗読の名手に読んでいただこうと思います(笑)。お願いします、ちょっと。
[早坂さんの美声で]
編集後記にかえて
2009 年の春、毎年きちんと届く年賀状が来ていなかったのが、不審のはじまりだったが、中西康郎さんは2008 年の7月30日に黄泉へと旅立っていた。しばらく疎遠になっていた娘の聡子さんにメールしてそのことを知らされたのだったが、かなりたってから駅前で写真屋を経営している兄の俊郎氏から通知の挨拶状を送ってくださった。中西康郎さんの追悼会などが、そのうちに開かれるのではないかと思っていたが、だれからもそうした動きがなかったので、それは私の役割ではなかったかと康郎さんに済まなかった思いで、遅まきながら追悼の遺作展を思い立った次第であった。何度か彼が個展を開催した上本町ギャラリーが快諾し協賛してくれたので、案内状に記載したように、この企画のためのカンパをお願いしたところ、大勢の方から寄せられて、この本も出版できることとなった。ご協力いただいた、中西康郎さんの縁のみなさんに深く感謝する次第です。表紙の写真は松田弘の未亡人、松田蓉子さんが提供してくれました。
今回の遺作展の作品在庫を確認のために、聡子さんに案内されてアトリエを訪問した際に、几帳面な彼の性格のまま、書棚も作品も、画材もきちんと生前のまま整頓されてあり、主の活動をいまも待っていた。
「フランス・スペイン・シンガポール旅日記」というこの日記帳は、この本の表紙に使っている中西康郎さんの手描きのデザインのカバーがかけられて、彼が半世紀以上も毎日書き綴ってきた何十冊もの日記帳のなかの一冊としてしまわれていた。そのほかの日記帳は、毎日1ページづつ書いていく一年間ごとの博文館などの日記帳だったが、この旅日記はA5判のスプリング閉じのノートで、表紙も変色して黄色くなり、背文字のところはことに焼けていたが、彼の特徴ある筆跡が目について真っ先に取り出してみたのであった。松田弘さんとふたりで、198 0 年6月27 日から8月11日まで行った旅行記であった。私は松田弘さんとも長いおつきあいがあって、中西康郎さんとは50 年にもわたる交友だったが、二人のこの旅行のことは記憶に残っていない。斜めに拾い読みしてみて、この日記帳を出版しようとその場で聡子さんと即決した。
二十歳ごろ、南のトリスバーへ詩の仲間と行ったとき、中西康郎さんは鳥打帽をかぶってカウンターで一人飲んでいた。詩の仲間がそのとき紹介してくれたことから私との付き合いがはじまった。
その後、意気投合して付き合ってきたが、天王寺の慶沢園で詩と写真展を開いたとき、彼は私の詩をパネルに十数点、詩の雰囲気に合ったレタリングで書いてくれたり、のちにその一連の詩を「雨季」という詩集に編んだとき、装丁と挿画を引き受けてくれて、自由美術の仲間の濱田弘康さんにも挿画を依頼してくれたりした。彼の結婚式には披露宴の司会も頼まれたりした。
彼はいつも胸のなかに住んでいる大事な友人であったが、若いころのように、一緒に飲み歩くということもしなくなって、たまに安否を尋ねる電話で体調を話し合うというような齢になってきたが、しばらく途切れていた電話の向こうには、受話器をとりあげるひとはいなくなっていた。
山 内 宥 厳
どうもありがとう。こんなあとがきですが、先ほど電話がかかってたのはこの本を何冊刷りますか、という印刷屋からの電話だったんですね。こういう表紙の、手書きのね、これは折り込み広告の白い紙の裏にマジックで文字を書いて、それで、カバーを掛けてあったんです、ノートに。
こういうノートの日記帳ですね。ところがそれが30年の間に焼けて、黄色い色になっちゃったっていう。セピア色になったんですね。それで、これは…中にはこういうパリのどっかの、明日歩くという地図をね、略図を描いて、ここへ行こうってことでしょうね。
こういうのが最初の方のページに入ってたりして、これで、これが、ここは無地なんですけどこちらが真ん中にこう背文字を手書きで書いてあってね、なんかすごい背文字の所がこんなに焼けて、黒くなってるんですけど、この感じのまま印刷しようと思って。それで、ここに写真を入れたんです。それで、松田蓉子さんが貸してくれた写真がこれなんですね。
昨日、10月8日に、中西康郎さんのアトリエに家内と琴美ちゃんも一緒に行って、アトリエの2階にキャンバスのまましまわれていた絵を下におろしてきて、庭の納屋みたいなところにしまってあった額ぶちを引っ張り出して、現役の額ぶち屋をやっている弟に無理をいって来てもらって、2時間くらいでやり終わって昨日の内にもう画廊へ運んじゃったんですね。ちょうど画廊が置いてくれる場所があったもんですから。それで、20日の日に飾り付けに行く予定してるんです。
晩年の中西康郎さん 上本町ギャラリーにて
下の旅のスナップは場所は分らないんですけど、46歳の中西康郎さんですね。
こちらの写真はラマンチャの村のスケッチ。これも松田蓉子さんが写真帳からはがして送ってくれたものです。ちいさな写真でしたが、スキャンしてみると割ときれいなのでね。細かいところまでよく出ています。それで、時間的にアトリエから探すのでは間に合わないから、もうこれで行こうということにしたんです。
昨日アトリエに行って、6Fの割と大きなスケッチブックなんですけど、それが10冊以上かな、書棚にあって、引っ張り出してみたらスペインのスケッチがいっぱい出てきました。昨日ね。だけど、もうそれをこの本に使うだけの時間的なゆとりがないので、それでもうこの写真が割ときれいなので、このまま使おうと思って、ちょっと回して見て下さい。
この人はとても整理がきちんとできている人で、まあ飲んべえでね、割と破滅型みたいなところも、なくもないんですけれども、お酒が好きで、しかし、晩年はちょっと喉か、顎かにガンができたりして、少しものが言いにくくなったりして、それで、電話にもあんまり出たがらなくなってたんですね。だけどぼくはまだ死なないだろうと思ってて、最後に電話した時はだいぶ声も通りやすくなって、ああ、だいぶ回復してきたんだなあと安心しとったんですけど、死んで半年以上も知らなかったっていうのはかなりショッキングなことだったんです。
昨日、額ぶちを取り付けるために行ってみたら、ちょうど手ごろな家庭でちょっと使いたいような、4Fとか6Fくらいのサイズの絵が全然なくて、8F以上ですね、ちょっと大きなサイズの絵ばっかり残ってたんです。ちいちゃな絵は多分、売ってしまったか、そういう絵を販売している画商みたいな関係にもかなり預けてあって、そのままになっているんだろうと思いますね。
それで、この日記帳をひろい読みしてみたらなかなかね、旅で書いて行ったにしては割ときちっとこう、旅の全容がわかるような書き方になっていて、中にはちょっと吹き出すような面白いシーンもあったりするので、78ページくらいになると思うんですけど、今印刷に取りかかっています。
それで、この日記をタイプしてくれたのが堀江真美のおばさんで、ここへ毎週来られる高峰靖子さんが三日間くらいでタイプしてくれたんですね。かなり長い文章ですね。ま、そういうことで日記を本にできたんですけど。この中のちょっと面白いシーンがあるのでそこを読んでいただこうと思います。
(早坂さん)面白く読めるかどうか…
(宥厳先生)ふふ、ちょっと読んでみて下さい。
フランス・スペイン・シンガポール旅日記1980~中西康郎
7月26日 晴
土曜だし、金もなくなったので、グラナダ・セントロにあったBANCO でトラベラーズ・チェック200 ドルペセタに替えたが、少しドルが安くなっている。先週の土曜にアランフェスでも替えたが、そちらの方が率がよかった。それにしても、1 週間で200 ドル消えたのは、少し注意しないといかん。帰れなくなる。
町中を散歩して、ツーリスモに寄り、パンフとポスターもらおうと思ったが、ポスターはなし。スペインの各地に、それぞれちゃんとツーリスモがあるのは立派。ガイドブックによると国あげての観光政策の現れであるらしい。BAR で、パンとバターをぬったパンを食い、ホテルに荷物を預けてサクロモンテか、アルバイシンをスケッチに行くべく、ホテルに頼むとOK。さればと金の精算をしたところ、昨夜のフラメンコの代金1,200pts がぬけておる。松田氏は早速シメタというわけで、悪く言えば逃げようということになった。
ホテルに荷をあずけていたのでは、伝票見て、付け落ちの金額はすぐ発見される。いま、預けたばかりの荷を、駅にもっていくと言って二人はホテルを出た。この辺りが実は不自然なのである。二人は何故か急ぎ足で、細い道をかけるように歩いてタクシーを探した。しかし、悪いことは出来ぬもの、タクシー乗り場でホテルの番頭さんにつかまって、フラメンコの代金を請求されたのである。マンガである。
ともかく駅までタクシーをとばし、駅の荷物預り所でと思ったら、かつて預かった荷物の爆発事件があって、一切預からんという。今さら重たい荷をかついでスケッチに行く気力もなくなっている。今夜夜行の寝台をキャンセルして、グラナダ14 時55 分発の急行で帰ることにした。少し時間あったので昼メシ用のパン、水、シェリー酒を買い、車中でのみ食いして、ウトウト仮眠しながら……。松田氏と席を離されたので、それしかない。22 時15 分にアトーチャにつき、どん底で夕食。ハリコンで日本酒を久し振りのむ。
約6 勺くらい、24pts 。ウイスキーも、スペインに来て一滴ものまないが、(高いので)日本酒もべらぼうに高い。どん底のおやじさんにたのんで、4 合ビン1 本、特に600pts でわけてもらい、持ち帰った。それでも1 合450 円である。気分よく酔ったものの、疲れがひどく、重い荷物を投げ捨ててやろうと思うくらいである。夜の12 時半ごろに、宿に帰る。
松田氏は、下の、のみ屋、マローノさん(店の名前はパリース)へ、アトリエの部屋の一件で相談に行った。オレは2,3洗濯して干す。お茶わかしてのむ。今日は日本茶が一番うまい。二泊三日でグラナダへ行きながら、泊まったホテルから、ながめるビブランビラ広場を一枚描いたのみ。悔いが残るが、体力がついて来なかった。しかし何といっても、ホテルのフラメンコの料金を忘れたのをいいことに、逃げようという悪い考えが、わざわいした。素直に支払って、ホテルに荷物を預けていれば4 ~ 5 枚のスケッチは出来たであろう。人間は正直でないといかん。今週は一晩だけ帰ったものの、深夜の2 日酔、5 日間出っぱなしは少しコタえた。そろそろ帰路につく日が近づいてきたが、荷物のことを考えると、全く頭が痛い。
☆ 余談・ホテルの追いかけて来た人、いや、田舎者が多分、ここへ来るだろうと「待っていた人」は善良そうな人だった。なんか後味の悪い気分である。
この旅行記を読んでいると松田弘と弥次喜多道中してるのがよくわかるんですね。松田弘という人はすぐこの近所に住んでたんです。亡くなって15年以上になるかと思うんですけど,この近所に住んでいた絵描きさんです。ここの駅前、皆さん来るときに天然酵母パンっていうサンチェリーっていう店の前を通ると思うんですけど、あそこのサンチェリーの奥さんに天然酵母パン教えてやってくれって私のとこへ連れて来たのがその松田弘さんっていう絵描きさんなんですね。
彼はスペインにアトリエを持ってまして、絶えずスペインに行って絵を描いていたんですね。ぼくは松田さんとも中西さんともずっと一緒に交流があって、松田さんのお宅で野草のてんぷらのパーティーをやったりしたことがあるんですね。昨日は中西さんの娘の聡子(あきこ)さんというお嬢さんと一緒に行ったんですけど、色々話してたら、松田さんの家で野草の天ぷらパーティをやったとき、聡子さんも来ていて、私、家内、それから、私を私を額縁屋にした河野芳夫さんという絵描きさんがいるんですけど、聡子さんはその時に松田さんが飼っている犬に飼い主の本人が腕を噛まれてね(笑)大きな犬でしたけど、そのことを子供だった聡子さんがよく覚えてて、ああ、そんなことがあったね、なんて、あの時がそうだったんだとか言うような話を昨日、してましたけどね。まあ、そういう友達関係だった。
松田弘さんはどういう病気で死んだのかちょっと病名までは覚えてないんですけども、奥さんの蓉子さんから、ある日電話がかかってきて、亭主が、松田が死んだんですけど、宥厳さんお願いがあるんですって言うから、僕はもうお寺にここにいましたからね、多分葬式でもやってくれって言うのかと思ったら、無宗教で葬式したいので司会をやってくれんかって話でね(一同笑い)。どうも坊主に無宗教の式の司会を頼みに来るか、と思って(一同大爆笑)。参ったなあと思ったんですけど(笑)。
まあ、この「編集後記にかえて」の所にも、中西康郎さんの結婚式の司会をしたって終わりの方に書いてありますけれども、結構、私にはそういう司会を、山内くんに司会を任せておくとパーティがだらけない、テキパキと進むというようなことで、よく司会を仰せつかったんですね。今まで3,4人の結婚披露宴の司会をしてるんです。
まあ、そんなこともあって松田弘さんのお葬式のとき、葬儀屋さんはね、これをやりましょうって言って、水車がくるくる回ったりね、何か哀れそうな声でもの言ったりして(笑)、音楽を流したり、あれがもう奥さんはかなわんのですよね。それで、ああいうのは一切やりたくないというので、宥厳さん司会やってくれって、葬儀屋さんが主張していることは宥厳さん断ってくれって、それでもうそんなことしなくていいって、こっちは俺がやるからもうほっておいてくれ、葬儀屋はちょっと最初にやっただけであとはもうこっちの思うよう進行するというようなことで、奥さんには喜ばれたんですけどね。まあ、だから真言宗のお坊さんでも無宗教の葬式を取り仕切らなあかんときもあるわけです。まあ、そんなこともありました。
この中西康郎さんについては、亡くなられて半年以上も気がつかなかったもんですから、この展覧会を、遺作展をやろうと決めて初めてアトリエに行った時に、昨日、琴美ちゃんも行ってくれたんですけど、二階の隅の床の間にかなりひどい疲れた顔の写真が拡大して額に入れてあったんです。お兄さんが写真屋さんなもんですから、ところが、雑誌か新聞かなんかに載った写真しか、まあ見当たらなかったんでしょうね。探す間もなかったのかもしれない。それで、ひどい顔をした、何かほんとにこの世の終わりのその日の夜明けみたいな顔して。
(岡本さん)際の際やな(一同笑い)
(宥厳先生)そんな顔の写真が昨日もありました。琴美ちゃんも見られたでしょう?それでまあ痛ましい気の毒やな、と思ったんです。それで、こうやって遺作展を僕がやろうというので、それで僕の友達で、僕が電話をかけたら少々は電話交渉くらいしてくれそうな田靡新さんに、小説を書いている男ですけど、それと二人でね、この仕事やり始めたんです(笑)。
こちらの風景の写真は前に中西さんが個展やったときに、ちょっと長めの案内葉書、よく個展の案内で使われてる80円払わないと送れない葉書があるんですけど、あれを僕が作ってあげたんですが、その時の写真なんですね、これ。それがパソコンに残ってたもんですから、そんな経緯でこの日記が来週の、あ、再来週だ!再来週の火曜日くらいにできてきます。だから、みなさんにもね、300ほど刷りますので、一冊ずつもらっておきますから、後で読んでいただけたらと思います。
(ちあき)[ブログに]書いてもいいですか(笑)
(宥厳先生)いいです、いいです(笑)。ちょろまかしておきますから。まあ、私が事務局長でね、これお金集めから何から全部やってそれでカンパを…そう言えばカンパを頂いてありがとうございました。
(梅田さん)そんな…ちょっとちょっと。
(宥厳先生)案内状に振り込み用紙付けてとりあえず送ったんですね。行けそうな範囲の人にね。それで、東光寺の関係では10人ほど送っただけですね。それで、中西さんの年賀状とかから住所を掘り起こして、それで170人くらいだったかな、まあそんな感じでお送りさせていただいたんです。
あ、そうか私ところは60名ありました。大阪とかの関係で。まあ、それで、梅田さんが、
(梅田さん)少し…
(宥厳先生)寄付して頂いて。いえいえ、そんな多い方です。ありがとうございました、本当に。まあ、あのそんなことでこの本が出せて、それで展覧会の会場費も何とか捻出できたわけですね。大阪で22日からですので、27日までね。金曜日から水曜日までですね。もし、時間が、大阪にこの時間におられたら、是非見てほしいと思います。20日の日に展示に行きます。
この中西康郎さんって言う人は、ここにも書いてますけど、その慶沢園(けいたくえん)って言うところで、家内も若くて美しい年頃でしたけれどもね、その頃に展覧会をやったんです。「詩と写真展」っていって写真家が二人とね詩人が二人。で、詩人はもう一人、私と中村光行と言う人と、写真家の名前ちょっと今…藤田さんと言ったかな、知られな写真家なんですけどね。抽象写真やってる人で。そういう人と展覧会をやったんですけど、この私の詩についてはかなり大きなこのテーブルのような大きさのパネルに中西さんが一つ一つその内容に合わして活字のようなレタリングとか崩し字のようなレタリングで、詩の雰囲気に合ったものをね、十数点も書いてくれたりしたんですね。
それで、詩集「雨季」と言う詩集をその後に編んだんですけど、それの時にも中西康郎さんは挿絵をたくさん描いてくれましてね。それで、まあ何か今から思ったらこっぱずかしいような詩集なんですけど、まあ懐かしい仕事をね、いとわずにきちっとやってくれた人です。その後、彼は結婚して聡子さんと言う娘ができて、奥さんはだいたいまあどちらかと言うとサラリーマンかなんかの安定した収入のある家庭に、結婚すれば似合うような人だったんでしょうか、貧乏絵描きと結婚したもんだから、やがて亭主に愛想を尽かしたのか、長続きしないで別れちゃったみたいですね。
このたび、中西康郎をしのぶ会で、遺作展をやりましたら、まあ彼の魂が、魂魄この世に留まっておればね、きっと喜んでくれるだろうとは思うんですけど、さらにこの旅行記が見つかったものですから、刊行できるというのは僕にとってもとても嬉しいことです。
旅行記だけでなくて、この人はね、毎日1ページの365日の日付の入った日記帳があるじゃないですか、よく。1冊、こんな分厚いの、1年1冊のやつね。あれをね、とにかく50年くらい、続けて書いてるんですよ。すごい分量なんです。それで、たぶん、あの文章を掘り起こしていくとね、この日記見てもわかるんですけど、きちっとこう書いておるのでね、貴重な記録文献だろうとは思うんですけれども、ま、彼がもっと世界的に有名になるような絵描きさんだったら、あの日記もねそれなりの注目、研究する人も出てくるかもしれないんだけれども、これまで営々とあそこに突っ込んできた彼の時間がね、どういう風に扱われるかということです。まあ、とりあえず、この旅日記だけは300部ですけど、一応単行本の形になるので、友達としてはそれ以上の作業までは、なかなか何年もかけてそんな研究するわけにもいきませんからね。まあ、そんなことで。今、最後の追い込み中です。
(宥厳先生)お元気でしたか?
(岡本さん)はいっ
(幸子先生)何で2枚もはくの?
(岡本さん)え?寒くない?
(宥厳先生)寒くない!
おはようございます。
(一同)おはようございます。ちょうど7カ月目に入ったんですね。だから、折り返し。後半戦です、今から。あっという間に後半戦になってしまったね。
(受講生)早い…
(宥厳先生)そんなこと言うてるうちに終わっちゃうけどね。命が終わる時もあっけなく終わっちゃうんだろうね。そういう風に思うわ。ああ、こないだまでやったのに…って(笑)
(岡本さん)どうやって思うんかな。
(宥厳先生)今日、あの、今手元にお配りしたのは先月、これをお渡ししましたよね。この…渡してない?
(幸子先生)渡してないよ。
(宥厳先生)渡してない!?ほな、あとであげるわね。あの~中西康郎(なかにしやすお)さんって言って上の座敷に私の若い時の美男のひげ面の顔を書いてあるじゃないですか。あれを描いた絵描きさんですね。随分、古い付き合いだったんですね。この方が2009年のお正月に、年賀状が毎年来るのが来なかったもんだから、それで、おかしいなと思って、電話しても出ないし、その内に娘のメールアドレスをなくしてると思ったんですけど、それがうまくパソコンの中で見出すことができたもんだから、それで問い合わせのメールを送ったら7月に死んだ、という返事だったんですね。
だから、友達が死んだのに半年以上も知らなかったということですね。そんなことがあったもんだからショックを受けまして、中西康郎さんって言う方は結構人望…人望と言うのか善人でね。とても善人で、友達も多くて、だから、誰かがその内に追悼会みたいなのやるだろうと思っていたんですけど、誰も声を上げないので、それで、今こうお渡ししたここに書いてるような成行きになってきたんです。これを例によってここの朗読の名手に読んでいただこうと思います(笑)。お願いします、ちょっと。
[早坂さんの美声で]
編集後記にかえて
2009 年の春、毎年きちんと届く年賀状が来ていなかったのが、不審のはじまりだったが、中西康郎さんは2008 年の7月30日に黄泉へと旅立っていた。しばらく疎遠になっていた娘の聡子さんにメールしてそのことを知らされたのだったが、かなりたってから駅前で写真屋を経営している兄の俊郎氏から通知の挨拶状を送ってくださった。中西康郎さんの追悼会などが、そのうちに開かれるのではないかと思っていたが、だれからもそうした動きがなかったので、それは私の役割ではなかったかと康郎さんに済まなかった思いで、遅まきながら追悼の遺作展を思い立った次第であった。何度か彼が個展を開催した上本町ギャラリーが快諾し協賛してくれたので、案内状に記載したように、この企画のためのカンパをお願いしたところ、大勢の方から寄せられて、この本も出版できることとなった。ご協力いただいた、中西康郎さんの縁のみなさんに深く感謝する次第です。表紙の写真は松田弘の未亡人、松田蓉子さんが提供してくれました。
今回の遺作展の作品在庫を確認のために、聡子さんに案内されてアトリエを訪問した際に、几帳面な彼の性格のまま、書棚も作品も、画材もきちんと生前のまま整頓されてあり、主の活動をいまも待っていた。
「フランス・スペイン・シンガポール旅日記」というこの日記帳は、この本の表紙に使っている中西康郎さんの手描きのデザインのカバーがかけられて、彼が半世紀以上も毎日書き綴ってきた何十冊もの日記帳のなかの一冊としてしまわれていた。そのほかの日記帳は、毎日1ページづつ書いていく一年間ごとの博文館などの日記帳だったが、この旅日記はA5判のスプリング閉じのノートで、表紙も変色して黄色くなり、背文字のところはことに焼けていたが、彼の特徴ある筆跡が目について真っ先に取り出してみたのであった。松田弘さんとふたりで、198 0 年6月27 日から8月11日まで行った旅行記であった。私は松田弘さんとも長いおつきあいがあって、中西康郎さんとは50 年にもわたる交友だったが、二人のこの旅行のことは記憶に残っていない。斜めに拾い読みしてみて、この日記帳を出版しようとその場で聡子さんと即決した。
二十歳ごろ、南のトリスバーへ詩の仲間と行ったとき、中西康郎さんは鳥打帽をかぶってカウンターで一人飲んでいた。詩の仲間がそのとき紹介してくれたことから私との付き合いがはじまった。
その後、意気投合して付き合ってきたが、天王寺の慶沢園で詩と写真展を開いたとき、彼は私の詩をパネルに十数点、詩の雰囲気に合ったレタリングで書いてくれたり、のちにその一連の詩を「雨季」という詩集に編んだとき、装丁と挿画を引き受けてくれて、自由美術の仲間の濱田弘康さんにも挿画を依頼してくれたりした。彼の結婚式には披露宴の司会も頼まれたりした。
彼はいつも胸のなかに住んでいる大事な友人であったが、若いころのように、一緒に飲み歩くということもしなくなって、たまに安否を尋ねる電話で体調を話し合うというような齢になってきたが、しばらく途切れていた電話の向こうには、受話器をとりあげるひとはいなくなっていた。
山 内 宥 厳
どうもありがとう。こんなあとがきですが、先ほど電話がかかってたのはこの本を何冊刷りますか、という印刷屋からの電話だったんですね。こういう表紙の、手書きのね、これは折り込み広告の白い紙の裏にマジックで文字を書いて、それで、カバーを掛けてあったんです、ノートに。
こういうノートの日記帳ですね。ところがそれが30年の間に焼けて、黄色い色になっちゃったっていう。セピア色になったんですね。それで、これは…中にはこういうパリのどっかの、明日歩くという地図をね、略図を描いて、ここへ行こうってことでしょうね。
こういうのが最初の方のページに入ってたりして、これで、これが、ここは無地なんですけどこちらが真ん中にこう背文字を手書きで書いてあってね、なんかすごい背文字の所がこんなに焼けて、黒くなってるんですけど、この感じのまま印刷しようと思って。それで、ここに写真を入れたんです。それで、松田蓉子さんが貸してくれた写真がこれなんですね。
昨日、10月8日に、中西康郎さんのアトリエに家内と琴美ちゃんも一緒に行って、アトリエの2階にキャンバスのまましまわれていた絵を下におろしてきて、庭の納屋みたいなところにしまってあった額ぶちを引っ張り出して、現役の額ぶち屋をやっている弟に無理をいって来てもらって、2時間くらいでやり終わって昨日の内にもう画廊へ運んじゃったんですね。ちょうど画廊が置いてくれる場所があったもんですから。それで、20日の日に飾り付けに行く予定してるんです。
晩年の中西康郎さん 上本町ギャラリーにて
下の旅のスナップは場所は分らないんですけど、46歳の中西康郎さんですね。
こちらの写真はラマンチャの村のスケッチ。これも松田蓉子さんが写真帳からはがして送ってくれたものです。ちいさな写真でしたが、スキャンしてみると割ときれいなのでね。細かいところまでよく出ています。それで、時間的にアトリエから探すのでは間に合わないから、もうこれで行こうということにしたんです。
昨日アトリエに行って、6Fの割と大きなスケッチブックなんですけど、それが10冊以上かな、書棚にあって、引っ張り出してみたらスペインのスケッチがいっぱい出てきました。昨日ね。だけど、もうそれをこの本に使うだけの時間的なゆとりがないので、それでもうこの写真が割ときれいなので、このまま使おうと思って、ちょっと回して見て下さい。
この人はとても整理がきちんとできている人で、まあ飲んべえでね、割と破滅型みたいなところも、なくもないんですけれども、お酒が好きで、しかし、晩年はちょっと喉か、顎かにガンができたりして、少しものが言いにくくなったりして、それで、電話にもあんまり出たがらなくなってたんですね。だけどぼくはまだ死なないだろうと思ってて、最後に電話した時はだいぶ声も通りやすくなって、ああ、だいぶ回復してきたんだなあと安心しとったんですけど、死んで半年以上も知らなかったっていうのはかなりショッキングなことだったんです。
昨日、額ぶちを取り付けるために行ってみたら、ちょうど手ごろな家庭でちょっと使いたいような、4Fとか6Fくらいのサイズの絵が全然なくて、8F以上ですね、ちょっと大きなサイズの絵ばっかり残ってたんです。ちいちゃな絵は多分、売ってしまったか、そういう絵を販売している画商みたいな関係にもかなり預けてあって、そのままになっているんだろうと思いますね。
それで、この日記帳をひろい読みしてみたらなかなかね、旅で書いて行ったにしては割ときちっとこう、旅の全容がわかるような書き方になっていて、中にはちょっと吹き出すような面白いシーンもあったりするので、78ページくらいになると思うんですけど、今印刷に取りかかっています。
それで、この日記をタイプしてくれたのが堀江真美のおばさんで、ここへ毎週来られる高峰靖子さんが三日間くらいでタイプしてくれたんですね。かなり長い文章ですね。ま、そういうことで日記を本にできたんですけど。この中のちょっと面白いシーンがあるのでそこを読んでいただこうと思います。
(早坂さん)面白く読めるかどうか…
(宥厳先生)ふふ、ちょっと読んでみて下さい。
フランス・スペイン・シンガポール旅日記1980~中西康郎
7月26日 晴
土曜だし、金もなくなったので、グラナダ・セントロにあったBANCO でトラベラーズ・チェック200 ドルペセタに替えたが、少しドルが安くなっている。先週の土曜にアランフェスでも替えたが、そちらの方が率がよかった。それにしても、1 週間で200 ドル消えたのは、少し注意しないといかん。帰れなくなる。
町中を散歩して、ツーリスモに寄り、パンフとポスターもらおうと思ったが、ポスターはなし。スペインの各地に、それぞれちゃんとツーリスモがあるのは立派。ガイドブックによると国あげての観光政策の現れであるらしい。BAR で、パンとバターをぬったパンを食い、ホテルに荷物を預けてサクロモンテか、アルバイシンをスケッチに行くべく、ホテルに頼むとOK。さればと金の精算をしたところ、昨夜のフラメンコの代金1,200pts がぬけておる。松田氏は早速シメタというわけで、悪く言えば逃げようということになった。
ホテルに荷をあずけていたのでは、伝票見て、付け落ちの金額はすぐ発見される。いま、預けたばかりの荷を、駅にもっていくと言って二人はホテルを出た。この辺りが実は不自然なのである。二人は何故か急ぎ足で、細い道をかけるように歩いてタクシーを探した。しかし、悪いことは出来ぬもの、タクシー乗り場でホテルの番頭さんにつかまって、フラメンコの代金を請求されたのである。マンガである。
ともかく駅までタクシーをとばし、駅の荷物預り所でと思ったら、かつて預かった荷物の爆発事件があって、一切預からんという。今さら重たい荷をかついでスケッチに行く気力もなくなっている。今夜夜行の寝台をキャンセルして、グラナダ14 時55 分発の急行で帰ることにした。少し時間あったので昼メシ用のパン、水、シェリー酒を買い、車中でのみ食いして、ウトウト仮眠しながら……。松田氏と席を離されたので、それしかない。22 時15 分にアトーチャにつき、どん底で夕食。ハリコンで日本酒を久し振りのむ。
約6 勺くらい、24pts 。ウイスキーも、スペインに来て一滴ものまないが、(高いので)日本酒もべらぼうに高い。どん底のおやじさんにたのんで、4 合ビン1 本、特に600pts でわけてもらい、持ち帰った。それでも1 合450 円である。気分よく酔ったものの、疲れがひどく、重い荷物を投げ捨ててやろうと思うくらいである。夜の12 時半ごろに、宿に帰る。
松田氏は、下の、のみ屋、マローノさん(店の名前はパリース)へ、アトリエの部屋の一件で相談に行った。オレは2,3洗濯して干す。お茶わかしてのむ。今日は日本茶が一番うまい。二泊三日でグラナダへ行きながら、泊まったホテルから、ながめるビブランビラ広場を一枚描いたのみ。悔いが残るが、体力がついて来なかった。しかし何といっても、ホテルのフラメンコの料金を忘れたのをいいことに、逃げようという悪い考えが、わざわいした。素直に支払って、ホテルに荷物を預けていれば4 ~ 5 枚のスケッチは出来たであろう。人間は正直でないといかん。今週は一晩だけ帰ったものの、深夜の2 日酔、5 日間出っぱなしは少しコタえた。そろそろ帰路につく日が近づいてきたが、荷物のことを考えると、全く頭が痛い。
☆ 余談・ホテルの追いかけて来た人、いや、田舎者が多分、ここへ来るだろうと「待っていた人」は善良そうな人だった。なんか後味の悪い気分である。
この旅行記を読んでいると松田弘と弥次喜多道中してるのがよくわかるんですね。松田弘という人はすぐこの近所に住んでたんです。亡くなって15年以上になるかと思うんですけど,この近所に住んでいた絵描きさんです。ここの駅前、皆さん来るときに天然酵母パンっていうサンチェリーっていう店の前を通ると思うんですけど、あそこのサンチェリーの奥さんに天然酵母パン教えてやってくれって私のとこへ連れて来たのがその松田弘さんっていう絵描きさんなんですね。
彼はスペインにアトリエを持ってまして、絶えずスペインに行って絵を描いていたんですね。ぼくは松田さんとも中西さんともずっと一緒に交流があって、松田さんのお宅で野草のてんぷらのパーティーをやったりしたことがあるんですね。昨日は中西さんの娘の聡子(あきこ)さんというお嬢さんと一緒に行ったんですけど、色々話してたら、松田さんの家で野草の天ぷらパーティをやったとき、聡子さんも来ていて、私、家内、それから、私を私を額縁屋にした河野芳夫さんという絵描きさんがいるんですけど、聡子さんはその時に松田さんが飼っている犬に飼い主の本人が腕を噛まれてね(笑)大きな犬でしたけど、そのことを子供だった聡子さんがよく覚えてて、ああ、そんなことがあったね、なんて、あの時がそうだったんだとか言うような話を昨日、してましたけどね。まあ、そういう友達関係だった。
松田弘さんはどういう病気で死んだのかちょっと病名までは覚えてないんですけども、奥さんの蓉子さんから、ある日電話がかかってきて、亭主が、松田が死んだんですけど、宥厳さんお願いがあるんですって言うから、僕はもうお寺にここにいましたからね、多分葬式でもやってくれって言うのかと思ったら、無宗教で葬式したいので司会をやってくれんかって話でね(一同笑い)。どうも坊主に無宗教の式の司会を頼みに来るか、と思って(一同大爆笑)。参ったなあと思ったんですけど(笑)。
まあ、この「編集後記にかえて」の所にも、中西康郎さんの結婚式の司会をしたって終わりの方に書いてありますけれども、結構、私にはそういう司会を、山内くんに司会を任せておくとパーティがだらけない、テキパキと進むというようなことで、よく司会を仰せつかったんですね。今まで3,4人の結婚披露宴の司会をしてるんです。
まあ、そんなこともあって松田弘さんのお葬式のとき、葬儀屋さんはね、これをやりましょうって言って、水車がくるくる回ったりね、何か哀れそうな声でもの言ったりして(笑)、音楽を流したり、あれがもう奥さんはかなわんのですよね。それで、ああいうのは一切やりたくないというので、宥厳さん司会やってくれって、葬儀屋さんが主張していることは宥厳さん断ってくれって、それでもうそんなことしなくていいって、こっちは俺がやるからもうほっておいてくれ、葬儀屋はちょっと最初にやっただけであとはもうこっちの思うよう進行するというようなことで、奥さんには喜ばれたんですけどね。まあ、だから真言宗のお坊さんでも無宗教の葬式を取り仕切らなあかんときもあるわけです。まあ、そんなこともありました。
この中西康郎さんについては、亡くなられて半年以上も気がつかなかったもんですから、この展覧会を、遺作展をやろうと決めて初めてアトリエに行った時に、昨日、琴美ちゃんも行ってくれたんですけど、二階の隅の床の間にかなりひどい疲れた顔の写真が拡大して額に入れてあったんです。お兄さんが写真屋さんなもんですから、ところが、雑誌か新聞かなんかに載った写真しか、まあ見当たらなかったんでしょうね。探す間もなかったのかもしれない。それで、ひどい顔をした、何かほんとにこの世の終わりのその日の夜明けみたいな顔して。
(岡本さん)際の際やな(一同笑い)
(宥厳先生)そんな顔の写真が昨日もありました。琴美ちゃんも見られたでしょう?それでまあ痛ましい気の毒やな、と思ったんです。それで、こうやって遺作展を僕がやろうというので、それで僕の友達で、僕が電話をかけたら少々は電話交渉くらいしてくれそうな田靡新さんに、小説を書いている男ですけど、それと二人でね、この仕事やり始めたんです(笑)。
こちらの風景の写真は前に中西さんが個展やったときに、ちょっと長めの案内葉書、よく個展の案内で使われてる80円払わないと送れない葉書があるんですけど、あれを僕が作ってあげたんですが、その時の写真なんですね、これ。それがパソコンに残ってたもんですから、そんな経緯でこの日記が来週の、あ、再来週だ!再来週の火曜日くらいにできてきます。だから、みなさんにもね、300ほど刷りますので、一冊ずつもらっておきますから、後で読んでいただけたらと思います。
(ちあき)[ブログに]書いてもいいですか(笑)
(宥厳先生)いいです、いいです(笑)。ちょろまかしておきますから。まあ、私が事務局長でね、これお金集めから何から全部やってそれでカンパを…そう言えばカンパを頂いてありがとうございました。
(梅田さん)そんな…ちょっとちょっと。
(宥厳先生)案内状に振り込み用紙付けてとりあえず送ったんですね。行けそうな範囲の人にね。それで、東光寺の関係では10人ほど送っただけですね。それで、中西さんの年賀状とかから住所を掘り起こして、それで170人くらいだったかな、まあそんな感じでお送りさせていただいたんです。
あ、そうか私ところは60名ありました。大阪とかの関係で。まあ、それで、梅田さんが、
(梅田さん)少し…
(宥厳先生)寄付して頂いて。いえいえ、そんな多い方です。ありがとうございました、本当に。まあ、あのそんなことでこの本が出せて、それで展覧会の会場費も何とか捻出できたわけですね。大阪で22日からですので、27日までね。金曜日から水曜日までですね。もし、時間が、大阪にこの時間におられたら、是非見てほしいと思います。20日の日に展示に行きます。
この中西康郎さんって言う人は、ここにも書いてますけど、その慶沢園(けいたくえん)って言うところで、家内も若くて美しい年頃でしたけれどもね、その頃に展覧会をやったんです。「詩と写真展」っていって写真家が二人とね詩人が二人。で、詩人はもう一人、私と中村光行と言う人と、写真家の名前ちょっと今…藤田さんと言ったかな、知られな写真家なんですけどね。抽象写真やってる人で。そういう人と展覧会をやったんですけど、この私の詩についてはかなり大きなこのテーブルのような大きさのパネルに中西さんが一つ一つその内容に合わして活字のようなレタリングとか崩し字のようなレタリングで、詩の雰囲気に合ったものをね、十数点も書いてくれたりしたんですね。
それで、詩集「雨季」と言う詩集をその後に編んだんですけど、それの時にも中西康郎さんは挿絵をたくさん描いてくれましてね。それで、まあ何か今から思ったらこっぱずかしいような詩集なんですけど、まあ懐かしい仕事をね、いとわずにきちっとやってくれた人です。その後、彼は結婚して聡子さんと言う娘ができて、奥さんはだいたいまあどちらかと言うとサラリーマンかなんかの安定した収入のある家庭に、結婚すれば似合うような人だったんでしょうか、貧乏絵描きと結婚したもんだから、やがて亭主に愛想を尽かしたのか、長続きしないで別れちゃったみたいですね。
このたび、中西康郎をしのぶ会で、遺作展をやりましたら、まあ彼の魂が、魂魄この世に留まっておればね、きっと喜んでくれるだろうとは思うんですけど、さらにこの旅行記が見つかったものですから、刊行できるというのは僕にとってもとても嬉しいことです。
旅行記だけでなくて、この人はね、毎日1ページの365日の日付の入った日記帳があるじゃないですか、よく。1冊、こんな分厚いの、1年1冊のやつね。あれをね、とにかく50年くらい、続けて書いてるんですよ。すごい分量なんです。それで、たぶん、あの文章を掘り起こしていくとね、この日記見てもわかるんですけど、きちっとこう書いておるのでね、貴重な記録文献だろうとは思うんですけれども、ま、彼がもっと世界的に有名になるような絵描きさんだったら、あの日記もねそれなりの注目、研究する人も出てくるかもしれないんだけれども、これまで営々とあそこに突っ込んできた彼の時間がね、どういう風に扱われるかということです。まあ、とりあえず、この旅日記だけは300部ですけど、一応単行本の形になるので、友達としてはそれ以上の作業までは、なかなか何年もかけてそんな研究するわけにもいきませんからね。まあ、そんなことで。今、最後の追い込み中です。