110/13 3:00「かえるのこととか」
今回は欠席する人がありましたので、早坂さんに急きょ、ご無理をお願いして東京から来て頂きました。どうもありがとうございました。
(一同)よろしくお願いしま~す。
今ここにヨーガマットを敷いたのは、楽健法をするときに畳の上で布団が左右にずれると踏みぬくいので、スリップしないように敷いてみました。
ぼやっとしてると…すぐ一カ月がたってしまいます。昨日から石段の途中にあった枯れた桃の木を切ったり、作務をしているんですが、切りだしたついでにもっと切りたくなって(笑)。本堂から三輪山の方を眺めた時に、色んな木が育ちすぎて向こうが見通せなくなったのと、ユリノキがもっと大きく育てたいので、ユリノキの周りは割と気をつけてツタが上に這い上がっていかなように回りの雑木を切ったりしてたんですけど、だんだん整理したい範囲がひろがって、数メートルを越える太い木が3本ばかり生えていて、それにツタがいっぱい絡まって、視野を遮ってるもんですから、その木も切ってしまおうと思って、それでまあいつも森林係の平松さんと。
(琴美ちゃん)木こり、木こり!
(宥厳先生)平松さんは名前がもともと、「森」だそうですね。それと三保君と琴美ちゃんとで伐採してたんです。伐採してて、大きな木…斜面がきついもんですかっら、命綱をこう持って、それでブッシュを刈ってそれを踏みしだいては下に降りて行って、それで太い木を切ってたんです。最後の一本を切ったときに、木が倒れたんですが、まだちょっと切り残した所があったので、それを切ってしまおうとのこぎり入れた途端に、バーンと切り倒した木が跳ねてノコギリがこの指にパチーンと。
(一同)え~~~
(宥厳先生)それで、指先がなくなったかなと思ったくらい血が出たんですよ。だけど、ここの皮…厚皮がべロッとめくれて、かなりの出血だったんです。
で、まあ世間の人にはそんなこと言ったら恥ずかしいので、家内が噛んだって言って(一同笑い)。真に受けてる人が実際おって。やりそうだな、と(一同笑い)。ま、そんな感じの夫婦関係であります(一同笑い)。家内はこんな中途半端にしないって。噛みちぎっちゃうっていってます。(笑)まあそんなことがあって、昨夜はズキンズキン。朝方までズキンズキンしてたんですけど、今朝になったら怪我のことはもうすっかり忘れて、で、またちょっとお昼前に護摩で焚く木がなくなったもんですから、護摩に使う木を切っていたんです。
ここに1本持ってきましたけど、まあ、この程度の太さの樫の木。これよりももっと細いのもいっぱい切ったんですけど、これだとこう4つくらいに割るとね、即、護摩木ができるので、こういう木を切っていたわけです。この木で何年くらいだと思いますか?この太さになるまで。下からまっすぐ伸びてきた木の途中くらいですけどね。途中も上もまあ、一緒なんですけど。何年ぐらい経ってると思います?この木が生まれてから。
(受講生)10年?
(宥厳先生)ええ勘やね。この木は年輪数えたら9年やね。
(一同)へ~
(宥厳先生)さっきちょっと数えてみたんですけど。こんな木があっちこっちに生えてくるんですね。
木と言うのは一本で立ってたら、色んなところから枝が出てくるんですけど、群生してる森の中だと枝をはらないでシューっと上にまっすぐ伸びて天辺に葉を茂らせるのですね。そのまっすぐ伸びてる木が割りやすいので、三保君に三月分くらいの護摩木を作ってもらったりしたんです。三保君どうもありがとうございました。
ま、そんなことで、木と言うのは色々面白いもんです。私は子供の時からずっと木と付き合って生きてきたんです。家具を作ってましたから、北海道のナラ材とかシオジとか色んな木が入ってくるんですけど、そういう木が私が10代のときは、北海道も木がいっぱいあって、いい材料がどんどん大阪あたりにも入って来て、そういう木材で家具を作ってたわけです。で、たくさんの木を家具にしてきました。随分本当に長年の間に、どれくらいの木を家具にしたかわからないんですけど、長い間、木を相手に生きてきました。
家具に使った木は、たぶんまあ20種類くらいかな、色んな木を使ってきたと思います。
机の引き出しの前に使う木と、横に使う木と、底に使う木と、ま、底にはたいてい何十年か前からベニヤ板を使うんですけど、昔は底板もベニヤでなく、丸板でやってたんですね。僕が家具を作った頃は、引き出しの底板を丸板で作ったって経験は一度くらいしかないです。ほとんど、ベニヤ板になってました。大量のベニヤ板が作られるのは、南洋材のラワンって言う木です。ラワンベニヤといいますが、安物の家具や建築にも使われます。ちょっと高級な家具には、シナの木があるんですけど、それは北海道辺りで取れる材木なんですね。北海道辺りの材木は使いやすいです。寒い所の材木は非常にナイーブで、素直で、細工しやすい大木が取れるんですね。
北海道のナラ材、ここにテーブルがありますが、あれも北海道材ですね。僕には木を見たら大体どこの産地かわかるんです。大体ですよ。詳しいことは分らないんですけれども。それで、北海道で取れた材木は、本当に素直で綺麗で、仕事もしやすくて、と言うようないい料材が、良材が入っていました。今も北海道の山の中では、やっぱり家具用のナラガシ、ナラ材なんかは、伐採されてね、材木として作られているんですけど、今はもう日本の国内にはそれはほとんど回って来ない。ヨーロッパに輸出されるんですね。で、「F1」なんていう名前がついててね。F1ってどう、「ファイン1」かもしれないんですけど、F1なんて言ってます。それで、そういう材料はほとんど外国へ売られて…もう大阪なんかでは北海道の良いナラ材なんてまわってこない。
業者に聞くと、東京くらいまでは入ってくるそうです。だからいいものを作りたければ東京の木場に行って買わないとね。もう大阪の材木屋どこ回ったっていい材料なんか入って来ないですね。ま、そういうようなことがあるんです。
私がそうやって子供の時から家具を作りながら、色んな木を触って来て、それである時あることにふっと気がついたんです。長野県に毒沢温泉・神の湯っていう温泉がありましてね。毒沢温泉って言うのは、温泉に使ってる湯、それは沸かし湯なんですけれども温泉の宿の横に谷川が流れてて、その谷川の水がね、舐めると舌がしびれるような味がします。
(受講生)冷泉ですよね、あそこ。
(宥厳先生)そう、それで、その水は日本で薬として販売が認められている唯一の水なんです。売薬として売られています。そこの温泉に入ると、そうですね、お湯の中に頭突っ込んで目をパチパチっとすると本当に目がパチっとしてくるし、薬湯としても優れたお湯だと思います。で、昔、プロ野球に国鉄って言うチームがあった時代に、金田正一っていう名ピッチャーがおりましたけれども、彼はいつもあそこに行ってたそうです。金田正一の隠し湯だったとか言われてるような、ま、そういうお湯なんです。ぼくの話は温泉のことには直接、関係はないんですが、そこの温泉に何度か行ったんですが、あるとき温泉の経営者の小口さんって言う人がまあひょうきんな人で、その人と丸山博先生なんかも知っていられる、有害食品研究会の会員にもなっていられた方で、親しくしてたもんです。あるときそこの温泉に行ったときに宿のまん前に大きな木があるんです。それで、その大木を見上げたんだけど、僕には何の木かわからない。それで、小口さんに、「小口さんこれは何の木ですか」て言ったら、「アデランス!」って言うんですよ。「アデランス!」分りましたか?何の木か。それで、アデランスの木だって言うから、えっと思って。ところが僕は、製材にしたアデランスの木はすぐにわかるんです。ところが生えてる木を見た時にそれが桂の木だと言うことが分からない、と言うことにね、僕は大変ショックを受けたのですね。あ、今わかった?(一同笑い)
だからね、杉の木とか松の木とか檜とか〜生えてるのを見たら何の木か当てられます。柳も当てられるでしょう。柿の木も当てられる。柿の木なんかは逆に製材したら、「これ何の木ですか」って言われたらわからない人のほうが多い、僕は柿の木は良く知ってますから、分りますけれども、柿の木なんていうたら黒檀か柿の木か素人にはわからないね。そういう職業的な知識っていうのはだから、製材したら何の木かわかるのに、生えてる木見たらそれが何か分からないというのは、何と言うことだろうと、ま、自分で思ったことがあって、そういうことを詩に書いたことがあります。何か非常に悲しいことのような気がするんですね。そういうことって。
こんな詩です。
引用詩
*** 初 秋 ***
樹立を眼にするといつも心をよぎるかなしみのようなものがある。
あれら鬱蒼と繁った落葉樹の樹々が、何という樹なのか、その一本
一本について、私はその名を知らない。
樹木の自然の形ではなく、根元から切り倒され製材されて材木と
なったならば、私はそれが何という樹であるのか、正確にいいあて
ることができる。指物師である私は、その時、その樹の有つあらゆ
る性質をすら、人の心を読みとるより確かに見抜くだろう。
それは強いられて、いつしか私の身にそなわった過誤の如きものな
のかも知れない。
名人気質の指物師だった父は、日毎酔いどれて酒くさい息をはき
ながら、少年だった私に、指物細工のきびしさを、時には容赦のな
い拳骨でもって教えたが、思案をとおして人生を凝視め始めた私は、
いつも遠い声に耳を傾け、瞳を光らせて、必ずや他に在るであろう
自己の未来を窺ってやまなかった。併し二十年にちかい刻の流れも
私の星は私をして異なった世界へと導きはしなかった。
いまは病床にあって、月に二三度病院を訪ずれる以外には、絶え
て外出したことのない父が、母が居なくなった独りきりの留守居に
堪えなくてか、いま不意に郊外の工房へやって来て、言葉すくなく、
私の材木を扱う仕事を見遣りながら、何事かに想いを馳せている。
今日台風がおとずれるというニュースがあって、涼しい風が、ちい
さな私の工房を吹きぬけてゆく。それは、いま淋しい眼差しで、私
の手つきをながめている父の心のなかをも吹き抜けているように私
には思われるのだった。
だから、山に暮らしてる人は、この木は何の木っていうこと良く知ってるかもしれないけれど、製材した木を見せたらよう当てないだろうと思う、多分ね。まあ、人はそれぞれに立場立場によってね、違うもんだと思うんですね。それで、北海道のそういう柔らかい素晴らしい木を、私が仕事をしていた頃は、まだトラックもそう多くなかったですから、大阪の街を馬車引きが馬車に一杯材木積んでね、工場まで運搬してくる。運送屋さんが馬で運送してるような時代だったですけどね。
そういう時代にたくさんの木を切って使って家具を作って生きて来たわけですね。それが、木が入らなくなってくるにつれて、いわゆるデコラだとか、新建材としてそんなドアに使っているようなね、デコラのものが増えてくるようになって、それで段々張りぼての家具を作るのが嫌になって来て、それで、まあ額縁屋に転向してしまったと言うような経緯があるわけです。
昨日指を怪我した時の木は名前を知らないですね。割と大きな葉がついてて、山によく自然に生えてるんですけどとても柔らかい木で、太くても鋸でシャーっと切れる、草みたいな感じですね。ラワンの木はあんなじゃないかなと思うんですよ。今は南洋でもラワン材と言うものがもうほとんど枯渇してきて、この頃はあんまりラワンのベニヤ板に昔使っていたような柔らかい材質の木はなくなって来ましたね。産地によって硬さが違いますね。
日本人が東南アジアの木を買いあさって、ジャングルをダメにしてしまったというようなこともあるんですけど、その陰で日本の材木はお金にならなくて植林した山は放置されて荒廃してきてます。戦争が終わって日本には材木がなくて、建築もしないといけないし、その頃は山もかなり切られて、荒廃してましたからね。それで、植林をどんどん進めたわけですね。その植林を進めた時代は、山の、自然の灌木とかね、照葉樹林って言う風にいうんですけど。照葉樹林ってわかりますか?照葉樹っていうのは椿とか、葉っぱが落ちないで一年中葉がキラキラと輝くような木。で、こういうところに住んだらわかるんだけど、皆さんは秋になると木の歯がfallしてね、落ち葉が落ちて木が裸になるでしょ?ああいう木は落葉樹っていうんです。
だけど、冬になっても全然葉を落とさない木が色々あるんですね。そういうのが大体照葉樹に含まれるわけです。それで、例えばこの楠。この横に生えてる大きな木ですね。あれは葉っぱを落としてクヌギのように裸にはなりません。一年中葉っぱがついてるんですが、ところが葉っぱを落とす時期があるんですね。それが春なんですよね。5月とか。それで、その頃になると葉っぱがこの黒樫もそうなんですけど、葉っぱがついたままで大量の葉っぱを落としてその時にはもう次の葉っぱが出てるわけですね。だから、葉っぱそのものが全部落ちて枝になってしまうと言うことがないんです。
だけど、裏山のクヌギとかコナラとか、そういう木は全部葉っぱを落としてですね、それで裸になって冬になったら寒々と立ってるわけです。ま、そういうような山の姿一つ見ててもね、非常に面白いです。それで、この裏山も十数年前に地主さんがねホダギをとるとかいって裸にしました。僕がここへ来た時に、この裏山の林の感じがとてもいいですねっていったら、じゃ、切らないことにしますっていってたのに切ったんです。無残な姿になって回復まで10年かかりましたね。
木が大きくなると山や森はバランスが取れてきますね。要するにある程度木が大きくなってくると、そうすると一定のバランスがとれて、他のものがいっぱい生えてきたりしないで、こうバランスがとれて来る時期があるんですね。それで、山の木でもそうなんですけど、例えばブナの原生林なんて言って有名でしょ。日本にも何箇所かあるんですけれども、このブナの原生林なんかもね、ずっと最初の頃はそのブナが原生して、それが安定した林の層を作るまでには色んな樹木の戦いがあるわけです。
だから、山を裸にすると最初に大体生えてくる木はをパイオニアって言うんですけど、これは赤松なんかが多いんですね。だから、赤松が生えて、それで、赤松が生えてくるとその下にちいちゃな木が色々生えてきて、それが少しずつ育ちながら、成長してくるのを待つんですね。そういう木が生存競争をして、それで生存競争に打ち勝って大きくなったらまた、その下には次はそれを狙って倒そうと思って育ってくる木があるわけですね。で、そういうことを繰り返して行って最終的に勝ち残って、もうこれ以上森の姿が変わりませんと言う風な形になったのを極相林と言う風に言うんですけども、それがブナの林なんですね。
だいたい極相林ができるまで一万五千年くらいかかると言われています。ところがそういう極相林を国有林…国が持ってて、ブナの原生林を切って、道路を作るとか、その木を売ってしまうとかするもんだから、自然を守ろうとする人たちの反対運動が起こるわけですね。だから、自然と言うのは非常に時間をかけて作られる。ところが、そういうことを何か考えもしないで平気で木を切る人間が多いんです。で、まあそうやって木を切っていると怪我もするというような(一同笑い)。仕返しを受けるんじゃないかと思ったりするんですね(笑)。
僕は子供の頃からたくさんの木の恩恵を受けてきて、飯の種にしてきたわけですけれども、木の扱われ方を見ていても大変面白いことに気づきますね。昭和20年代に日本中に行政が植林を進めて、競って木を植えたのが、今頃かなり大きくなってきてるわけですけれども、植林のやり方として、国の方針として皆伐をして植林することをさせた。つまり山のてっぺんまで丸裸にして木を植えたら補助金を出すと言うことをやったんですね。七合目から上は残しておいて、下に植林するとかって言うようなことをすれば、そんなに山は荒れないんでしょうが、皆伐しないと金は出さないっていう行政をやったもんだから、皆伐して木を植えたわけです。そうすると要するに杉とか桧って言うのは、あの根の浅い木ですので、それで雨が降った時に保水能力がない。それで大雨が降ると山が崩れて行く。それで、この紀伊半島だけでなく日本中で山がよく崩れるのはそういう政策で皆伐してきた影響も大きいんですね。
人間と言うのは自然の成り立ちを考えないで、均衡を崩してきたわけですね。林業を維持していこうと思ったら、京都の北山の杉とか桧とか吉野杉だとかそういうところは、畑として木を植えて何百年も丁寧に常時手入れしながらやってきたわけです。だから、やみくもに皆伐をして飢えて補助金もらったらもう後はほったらかし、と言うようなことをするのは本当の林業家ではなかったんですね。補助金が欲しいからというような林業では山は守れないです。
紀伊半島は70%が植林されてます。台風で十津川だとか色んなところで山が崩れたりしたのは皆伐の植林のせいかも知れないですね。自然の山の極相林のままほっとけば、そんなに山が崩れたりしないわけです。それを、補助金欲しさに皆伐して、植林してそれで木が生えて、最初は密植、ある程度密植しますからね、ある程度大きくなって来たらそれを間の木を刈って大きな木に育てるように森の育て方があるわけですけれども、そういう手入れもしない。だから、龍神村なんかでは昔は村の人が山を持っていて、で自分の山に木を植えて皆伐をやったものの、あとの山仕事の手間賃も出ないし、それで、龍神村の人なんかはほとんど都会の人に山を安い値段で売ってしまって、それで、逆にその買ってくれた、山を買ってくれた人に雇われて、それで山仕事するというようなことをやったりしてると聞いたことがあります。
桜井の周辺もこの国道筋、八木の辺りに行く間、この国道筋は全部木場でした、昔は。よくここ昭和40年ごろ、車でしょっちゅう走ってたんですけど、ほとんど木場て言って山から切り出してきて、で、そこで木のオークションやったりね、材木を積み上げて取引する場所だったんです。今はもうそういう木場がほとんどなくなってしまってる。
例えば今、楽健法の講習会をやってる奈良イオンハウスなんていう酵素風呂にも影響してるわけです。と、言うのは酵素風呂はオガクズを発酵させてやるんだけれども、酵素風呂のおがくずがない。製材所が減って手に入らないんですね。あそこの酵素風呂をそっくり入れ替えようと思ったら、袋が500いるんだそうですね。けれども、持って帰ったオガクズは製材のオガクズばっかりじゃないんですよ。プレナーで削った鉋くずも入ってる。
昨日、イオンハウスで、ちょっと袋が破れとったから、オガクズをすこし引っ張り出してみてみたら、チップみたいなものがいっぱい入っててオガクズとはいえない、そういうものまでも持って帰らなければならない。全部引き取ると言う風にしてるからでしょうね。それを全部ふるいにかけて、それでちょうどいいオガクズを取りだして、そうすると500袋持って帰っても半分以下に減っちゃうそうです。だから、なかなかね、酵素風呂をやって行くのも大変なんですね。そういうことも見えてきます。
僕らは車で田舎へ行って山を眺めて、自然はいいなとか思ったりしてても、いろいろな問題が隠れているんですね。紀伊半島を走ってね、僕はああいい自然だななんて思ったことはないです。何と暗いところだと思って、「黒い森」なんて言うて有名なのはドイツの「黒い森」なんて有名ですね。植林がされていても、人為的なことで、酸性雨を降らせたりして、環境を破壊している。人間が自然を破壊してそういう風にしてしまったのですね。
ネパールへ10回くらい行ってますけど、ネパールは細長い国土で長い方が2400km、幅が200kmくらいの土地なんですね。だけど、ヒマラヤが山系が幅があって、平野は少ない、タライって言うインドに接しているところは平原、ジャングルになってるんですね。
ネパールは世界で一番森林の破壊が激しいと言われてる国なんですね。それで、ある時期から森林破壊は一切だめと言うので、木を切ってはいけないという法律ができたんです。実際。それで、木を切らないようにしてて、薪も町ではほとんど売ってませんけどね。僕らが最初行き出した頃は、まだ薪もいっぱい売ってました。それで、ご飯炊いたりしてしてたんですね。ところが、そのタライのジャングルを走ったときに、ある場所に通りかかると、ジャングルに木が生えてるんですけど、密集してるんじゃなくて、切り株がたくさんあって、間隔を大きくとって生えてるところがありました。木を切った人たちは適当に残して切ったつもりなんだろうと思うんですよ。これくらい残しておけば、多分ジャングルは維持できると思ってやったんだろうと思うんです。ところが木を間引いて切ってしまって、葉っぱに隙間ができると太陽が落ちてくる、そうしたら、地面の水分が蒸発して、ジャングルの水分が保持できなくなって、残した木が皆枯れてしまってる。人間と言うのは浅知恵でものをするとそういうことになる。
健康管理も一緒ですね。そういうの見てるとね、本当に賢く、賢明な生活をすることがいかに難しいかと言うことを痛感します。そういうところを通ってタクシーを雇って、お釈迦様が生まれたルンビニまで何度も行きました。
今回は行きませんでしたけれども、車でまあ7,8時間かかるような道です。タライのジャングルを横切る何十キロか続いてる国道をタクシーで走ってると、地元の人はカトマンドゥかどっかへ行くんでしょうね。肩に荷物を背負って、背の高い男がさっささっさと歩いてるのとすれ違う、バスにも乗らずに都会まで歩いて行くんだなとこう見送って思いながら僕はルンビニに行くわけですよね。で、ルンビニで何時間か過ごして、それでまた夕方にその道を戻ってくると、その男が相変わらず歩いてるんです。行きしなと帰りに、行きしなはすれ違って、帰りは追い越していく。ああ、あれからここまで歩いてきたんかって、何キロ歩いたか分りませんけどね。ま、そういうことも経験しました。だから、まあ歩くと言うのは大変なことだけれども、この間管直人が四国八十八か所歩いたみたいですけど。ニュースにもならないね。元首相がお遍路に行ってるのに。
(受講生)首相辞めてから行ったからね。
(宥厳先生)四国八十八か所を車でお参りしようと持ったら1週間ですむんです。それで、車で何も考えずに走ってる人はね、何か歩いて回ってる人がバカみたいに見えるだろうと思うんですよ。ある意味。ところが実際は一番贅沢なのはああやって歩いてることでしょうね。たぶんね。悔しかったら歩いてみろって言うんだ(笑)。悔しかったらベンツに乗ってみろって思ってるかもしれないですけどね。
まあ、そういうことね。それでまあ、こういうやまをそうやって森林を破壊すると、この暗い杉やら桧の森は木の実もなりませんし、日差しも悪いし、それで、昆虫があまりいないから小鳥もほとんどいない。そういう山の間を谷川が流れてますけどね、昆虫がいないもんですから、川にも虫が減って、それで魚もあまり暮らせなくなるような環境になって来るんですね。
何かを変えるていうことは大変なことなんですね。僕らがたまに車で走って、緑がいっぱいあってと思うかもしれないけど、あんな山は自然ではないんですね。
龍神村ていうところの林業組合に講演を頼まれて話をしに行ったことがあるんですね。1980年代のことですけどね。それで、何故頼まれたかと言うと、東京の農大を出た青年がいて、で、その人は龍神村の生まれで、お父さんは製材所をやったり林業をやってたんです。彼は農大で勉強して林業にアイデアがあった。杉やら桧だけうえとって、手入れしたとしてもそれが金になるのは40年、50年先のことです。太く木を育てないけませんからね。そうすると木が育つまでの間食うすべがないわけじゃないですか。
それで彼が考えたのが立体果樹園って言う構想なんですね。山を立体果樹園にする。で、下の方に梅の木を植える。山椒を植える。それから銀杏を植える。銀杏を植えたら「ぎんなん」が取れますからね。そうやってこうずっと山の上まで色んな木を計画的に植林していけば、そうすると立体果樹園として毎年お金も取れるじゃないか。これを何とか実現したい、といって親やら、色んな人に話をするんだけど、そんな考えにだれも見向きもしてくれない。それで、宥厳先生応援してくれって言うわけですね。私はその頃ユリノキに関心があって育てていました。東光寺にもいま一本ユリノキがあります。桜井の駅前の街路樹もユリノキです。
当時楽健法の本を出版してくれたアボック社というのが鎌倉にあったんですけど、そこに本を出す過程でよく打ち合わせに鎌倉に行ってたんです。そのアボック者の社長のお父さん毛藤勤治さんが農学博士で、ユリノキの研究家だったんですね。日本にユリノキがいっぱい街路樹にまで使えるようになったのはその毛藤勤治先生のおかげなんです。
ユリノキというのは明治の始めごろに北米から150本かのユリノキの苗木を日本に持って来たそうです。で、それをあちらこちらに植えてみたんですけれども、ほとんど根付かなかった。ところが、新宿御苑に三角形に3本のユリノキを植えたのが大きく育ってそれが花をつけ、種を落とすと言う風になって行ったそうなんですね。先生の話ではユリノキの種って言うのは600粒に1粒くらいしか発芽しないというような傾向があるらしいですね。
種があっても必ず発芽するとは限らないと言う話なんですね。まあ、僕が1掴み植えておいたら鉢の中で発芽したことがありましたけどね(笑)。なかなか発芽しない種の育て方を毛藤勤治先生が研究して沢山の苗木がとれるようになり、あちらこちらに少しずつユリノキが増えていったんです。ユリノキは絶対に挿し木ができない。それから移植が難しい。移植すると大抵枯れてしまうそうです。
ユリノキの苗木の床
年末ごろに風が吹くと舟のかたちをしたちっちゃな種がバラバラバラバラといっぱい道路に落ちてくるんですね。それを学生たちと一緒にたくさんかきあつめて苗床に分厚く敷き詰めるそうです。そこに土をかぶせてほっとくとそっからボコボコボコボコと苗が何年間にもわたって出てくると言うことが分かったそうですね。そういう栽培方法がわかってから、ユリノキがたくさんあちらこちらで栽培されるようになったので、それで全国にユリノキが広がったわけです。ユリノキって言うのはチューチップそっくりの形をした花をつけて、それにたくさんの美味しい蜜ができるんです。この間ここで、まだちょっと残ってると思いますけど、ユリノキの蜜って言うのを、買うことができました。蜂蜜屋さんが皇居の周りで、蜜蜂を持って行ってユリノキの蜜を集めて、それをビンに詰めてある。とても美味しい蜜です。で、アメリカでもユリノキの蜜はもう予約した人にしか配れないほどわずかしか手に入らないような蜜だそうですけど。先日買ったのは1キロもありませんが1本6,000円くらいしました。ちっちゃなビンで。
龍神村に、ユリノキを植えてそれで、そのユリノキとモクゲンジ、それから、ハナキササゲと言う木が、これは毛藤先生の受け売りなんですが。僕はハナキササゲて言う木は詳しく知らない。モクゲンジもどんな木かはっきりわからないんですけど。そういう木をこう植えて行くことによって、花が時期がずれてうまく開くので、長期にわたってそれらの蜜が採集できるそうです。
そういう木を植えて、蜜が取れるようになったら龍神村で養蜂業ができるではないか(笑)。そういうことで叱咤激励しにいったんです、はっぱかけに行った。で、そういう講演をしたんです。その青年に頼まれましてね。そしたら、その年にね、どっかから1,500本ほどユリノキの苗木を買って試験植樹したそうなんですけど、その結果は見にいってないんです。龍神村のどこかでで1,500本くらいユリノキが育ってるだろうと思うんですけど。
それで、そういう木を育てたらユリノキと言うのは、イエローポプラって言う名前があるくらいで、その黄色い紅葉がものすごく美しいんですね。こんな空気の悪い所ではそんな綺麗な色にならないかもしれないけれども、とってもその黄葉がきれい。そうするとその龍神村の美しい黄葉を見に行こうという観光の名所にもなるではないか。で、杉やら森のね、あんな常緑樹見たって何にも楽しくありませんからね。ま、そういうようなことを言って、色々鼓吹して来たわけです。
しかし、やっぱり立体果樹園は実現しないままでしたね。その内にその青年もだんだん大人になって、理想が消えてった、年とって。この間、家内と一緒に龍神村に行ったときに、彼がおるかなっと思って家に寄ってみたら、ちょうど留守でした。もうそういう理想に燃えた青年ではなくなっちゃったのかな。理想を追いかけるんだったらね、一生追っかけて行かないと嘘ですね。途中でやめてしまって、ただの人になってしまったらどうするんだと思うんですけど。
若い時の夢を実現したいと思って、それをやり続けてそうなっていくのは大変難しいことですね、と思うんです。私はだから何かこうずっとそういうどっかで夢を追い続けているので天然酵母パンとか楽健法を色んな人に伝える仕事がずっと継続していけるわけです。だから、人間は自分が見つめた星に向かってずーっといつも死ぬまで歩いて行かないといかんと思うんです。
自分を導いてくれる星があるということを忘れてしまったらダメですね。
だけど大抵の人はそういうこと忘れて行く。そうすると、まあ仏教で悟りを開くなんて言いますけど、じゃあ悟りを開くって何かと言ったらやっぱりこう自分が、これ!と思ったことをずーっと追及して行って、そして、生涯を他人にとってusefulな人間としてね。有用な人間として人生を全うするということであってほしい。
そういうことができる人が僕は人間と呼ぶにふさわしい生き方ではないかと思うんですね。
人間になると言うのは哲学的な宗教的な意味で言うととても難しいことで、簡単に人間にはなれないんですね。 学校を出て、就職して、それで、稼いで結婚して子供生まれて、で定年退職になって子供はどっか行ってしまって、それでやがて老夫婦二人、老々介護もできなくなって、専門の介護に自分の体を任せていく、それが普通みたいに思って、車いすに乗ったり、寝たきりなって生涯を終わって行く。そういう生き方をする人たち。僕は、まあそれは一度も人間にならない内に死んでいくように思えるんですね。そういうことであってはいけない。ただし、人間であるということがどういうことか、そういう何か自分自身に対する、何か課題みたいなものを持ち続けてそれをやっぱり、どこまででもやっていこうと言うような意欲を持っていたら、病気する暇もないし病気の方も向こうからやって来ないんじゃないか、と言うように思うんですね。
で、ぼくはそれでここの山に、東光寺山で暮らすようになって、まあこういう木と…木を切って怪我をすることもあるけれども、ムカデに刺されたりもしますけれども、ま、そういう中で生活しながら、猫と20年以上も一緒に暮らせたり、それから庭の火鉢池にやってきたカエルと仲良しになったりね。
あのカエルがいなくなって多分クロサギに食われたのだろうか、と心にそれがひっかっかっとったら、どういうわけか昨日、僕がパソコンやってたら目の前にカエルがピョンと(一同笑い)。大きなカエルが。今フェイスブックにアップしていますが。入って来られるはずがないんです、座敷にカエルなんか。ところが多分僕が指を怪我したことと、それとあのカエルを心配してたことと。それとマニスが僕を慰めようと思ってあのカエルをよこしたんじゃないかな、と思うんですよね。マニスはよくそういうことするんです。一度はマニスが死んで1週間目に、マニスの墓に、いつもうちに来ている高峰靖子さんとペテロ・バーケルマン神父さんがやって来て、マニスの墓の前で般若心経を上げたんですよね。
お経をあげている間、高峰さんはマニスを思い出して涙を流したりして、部屋に入ったんです。居間のとなりにあまり開けない二畳の部屋があるんですが、その2畳の部屋で何かバタバタって音がするんです。おかしいなと思って、ふすま開けたら小鳥が飛び出してきたの、バーっと。小鳥が飛びだしてきて、それでパソコンを僕がいつもやってる部屋に飛びこんで、台所の隅から本堂の入り口の廊下の所まで鳥がピューっと飛んで行って、またピューっと戻ってくる。マニスがよく、僕が帰ると喜んで座敷を行ったり来たりすることがあったのですが、それとおんなじことを小鳥がするんですよ。さらに今度はパソコン部屋に入っていったた、トイレの前を通って。それで、パソコン部屋の中をくるくる回ってるんです。
小鳥を三人で追いかけていったんです、そうしたらいつもマニスがパソコン部屋で座ってた椅子の上のスタンドの上にポンっと止まったんですね。よく見たらそれウグイスなんです。
(一同)え~~~~
それで、これはもう、逃がしてやらなあかんと思って窓を開けて、まあ出て行ってもらったんですけどね。これってね、もうマニスの霊魂がね、乗り移ってやったとしか思えないようなことですね。
僕が本堂の三輪山のほうの障子を開けて掃除してたら、白いモンシロチョウが入って来て、マニスが走ってたように護摩壇の周りをくるくるくると何回か回ってから僕の頭にぴょんと止まるんです。そんなことって蝶々はまずしないですよね普通。
昨夜は座敷にカエルが出てきて座ってるんですよ。はじめはちょっと目がピントが合わないもんだから何かな、と思って。ネズミが歩いているにしてはおかしいぞと思って、眼鏡を換えて見たらこんな大きなトノサマガエルがノソノソ。何度か火鉢池で眺めていたカエルですね。冬眠する前に、宥厳さんはクロサキに食われたと思ってるかもしれないが私は元気よ、という姿を見せに来たように思うんですね。
それで、琴美ちゃんに電話をかけて大事件が起きたから来てくれって言って(笑)。それで、保護してもらって火鉢池に入れたんです。まあ、それも写真撮ってみましたけどね。すぐ飛びだしてどっかへ行きましたけどね。まあ、もうすぐ冬眠ですからね。やっぱり何か通じるものがあってカエルさんもやって来たんかなっと思ったりするんですね。だから、まあカエルでもそのくらい心が通じるんですから、人間はね、お互いに何か、関係のある人をやっぱり思いやって気にかけて何かしてあげてたら、心のまっとくない人も、まっとくなったりしますから、皆さんも楽健法を多くの人に役立てられるように、頑張って行ってほしいと思います。
楽健法は非常に自然な療法だと思うんですね。楽健法なんていうのはね。60歳を過ぎたらガンになりやすいといってた人がいたけど、厚生省のデータ見てたりして、40代半ばから50の坂をこえるのが人間とっても難しいと言うことが、死亡した人の数で分ります。他の年代よりも3倍くらい死ぬひとが多いんですね。他の年代が1年間1万数千人しか死んでないとしても、50代60代になったら四万人も五万人も死んでるんですよ。で、そこだけが数字が多い。それでまたそれ超えたらまた一万数千件に落ちて行くんですね。その年代が死亡者数が突出してる。
それで、50歳前後で何故突出するのか。それはそれまでの食生活、食習慣とかが結構乱暴でそれで自分の体にドンドンダメージ与えて行ってるのに気がつかないで、それでも何十年かは人間と言うのは元気で働けるんだと思うんですね。それがその年代になって発病した時にもう体の中にほとんど自然治癒力が残されていないからだと推測がつきます。病気になって治癒力がなくても、そこで気がついて玄米菜食をして楽健法しっかりやれば蘇るかもしれないんだけれど、そういうこともしないで、医者に行って色んな治療をしてもダメになってしまうということではないかなと推測できるんですね。統計の数字からそう思うわけです。
長生きするって言うのは、健康になる原因を積み重ねているひとと、病気になる原因を積み重ねてる人との差ですね。人間は毎日ね、昨日も生きとったから今日も生きとるわけで、で、明日のことはもちろん分らないわけですけれども、多分明日も生きてるだろうと思って、生きられるわけですけれどもね。年月の経過につれて体が悪くなってくる、ボロボロになって言うこときかなくて、もう足は言うこときかないし、あちらも痛いし、こちらも悪いしって言うような状況になってきて、それで医療を受けて、健康保険の金を使い、人の世話になりながら生きて行くと言うのは大変辛いことです。
日々良い原因を積み重ねることが長生き健康の最短距離の秘訣です。
楽健法(23)
Dinner
●むかごごはん●にもの三種(こんにゃく、ごぼう、いも)●なすとししとうのいためもの新生姜添え●きのこ、わかめ、とうふ、おあげの吸い物●自家製ふりかけ●えだまめ
東光寺の阿修羅姫
暗い本堂でいったい何が…!? →ここをクリック
楽健法(1)
今回は欠席する人がありましたので、早坂さんに急きょ、ご無理をお願いして東京から来て頂きました。どうもありがとうございました。
(一同)よろしくお願いしま~す。
今ここにヨーガマットを敷いたのは、楽健法をするときに畳の上で布団が左右にずれると踏みぬくいので、スリップしないように敷いてみました。
ぼやっとしてると…すぐ一カ月がたってしまいます。昨日から石段の途中にあった枯れた桃の木を切ったり、作務をしているんですが、切りだしたついでにもっと切りたくなって(笑)。本堂から三輪山の方を眺めた時に、色んな木が育ちすぎて向こうが見通せなくなったのと、ユリノキがもっと大きく育てたいので、ユリノキの周りは割と気をつけてツタが上に這い上がっていかなように回りの雑木を切ったりしてたんですけど、だんだん整理したい範囲がひろがって、数メートルを越える太い木が3本ばかり生えていて、それにツタがいっぱい絡まって、視野を遮ってるもんですから、その木も切ってしまおうと思って、それでまあいつも森林係の平松さんと。
(琴美ちゃん)木こり、木こり!
(宥厳先生)平松さんは名前がもともと、「森」だそうですね。それと三保君と琴美ちゃんとで伐採してたんです。伐採してて、大きな木…斜面がきついもんですかっら、命綱をこう持って、それでブッシュを刈ってそれを踏みしだいては下に降りて行って、それで太い木を切ってたんです。最後の一本を切ったときに、木が倒れたんですが、まだちょっと切り残した所があったので、それを切ってしまおうとのこぎり入れた途端に、バーンと切り倒した木が跳ねてノコギリがこの指にパチーンと。
(一同)え~~~
(宥厳先生)それで、指先がなくなったかなと思ったくらい血が出たんですよ。だけど、ここの皮…厚皮がべロッとめくれて、かなりの出血だったんです。
で、まあ世間の人にはそんなこと言ったら恥ずかしいので、家内が噛んだって言って(一同笑い)。真に受けてる人が実際おって。やりそうだな、と(一同笑い)。ま、そんな感じの夫婦関係であります(一同笑い)。家内はこんな中途半端にしないって。噛みちぎっちゃうっていってます。(笑)まあそんなことがあって、昨夜はズキンズキン。朝方までズキンズキンしてたんですけど、今朝になったら怪我のことはもうすっかり忘れて、で、またちょっとお昼前に護摩で焚く木がなくなったもんですから、護摩に使う木を切っていたんです。
ここに1本持ってきましたけど、まあ、この程度の太さの樫の木。これよりももっと細いのもいっぱい切ったんですけど、これだとこう4つくらいに割るとね、即、護摩木ができるので、こういう木を切っていたわけです。この木で何年くらいだと思いますか?この太さになるまで。下からまっすぐ伸びてきた木の途中くらいですけどね。途中も上もまあ、一緒なんですけど。何年ぐらい経ってると思います?この木が生まれてから。
(受講生)10年?
(宥厳先生)ええ勘やね。この木は年輪数えたら9年やね。
(一同)へ~
(宥厳先生)さっきちょっと数えてみたんですけど。こんな木があっちこっちに生えてくるんですね。
木と言うのは一本で立ってたら、色んなところから枝が出てくるんですけど、群生してる森の中だと枝をはらないでシューっと上にまっすぐ伸びて天辺に葉を茂らせるのですね。そのまっすぐ伸びてる木が割りやすいので、三保君に三月分くらいの護摩木を作ってもらったりしたんです。三保君どうもありがとうございました。
ま、そんなことで、木と言うのは色々面白いもんです。私は子供の時からずっと木と付き合って生きてきたんです。家具を作ってましたから、北海道のナラ材とかシオジとか色んな木が入ってくるんですけど、そういう木が私が10代のときは、北海道も木がいっぱいあって、いい材料がどんどん大阪あたりにも入って来て、そういう木材で家具を作ってたわけです。で、たくさんの木を家具にしてきました。随分本当に長年の間に、どれくらいの木を家具にしたかわからないんですけど、長い間、木を相手に生きてきました。
家具に使った木は、たぶんまあ20種類くらいかな、色んな木を使ってきたと思います。
机の引き出しの前に使う木と、横に使う木と、底に使う木と、ま、底にはたいてい何十年か前からベニヤ板を使うんですけど、昔は底板もベニヤでなく、丸板でやってたんですね。僕が家具を作った頃は、引き出しの底板を丸板で作ったって経験は一度くらいしかないです。ほとんど、ベニヤ板になってました。大量のベニヤ板が作られるのは、南洋材のラワンって言う木です。ラワンベニヤといいますが、安物の家具や建築にも使われます。ちょっと高級な家具には、シナの木があるんですけど、それは北海道辺りで取れる材木なんですね。北海道辺りの材木は使いやすいです。寒い所の材木は非常にナイーブで、素直で、細工しやすい大木が取れるんですね。
北海道のナラ材、ここにテーブルがありますが、あれも北海道材ですね。僕には木を見たら大体どこの産地かわかるんです。大体ですよ。詳しいことは分らないんですけれども。それで、北海道で取れた材木は、本当に素直で綺麗で、仕事もしやすくて、と言うようないい料材が、良材が入っていました。今も北海道の山の中では、やっぱり家具用のナラガシ、ナラ材なんかは、伐採されてね、材木として作られているんですけど、今はもう日本の国内にはそれはほとんど回って来ない。ヨーロッパに輸出されるんですね。で、「F1」なんていう名前がついててね。F1ってどう、「ファイン1」かもしれないんですけど、F1なんて言ってます。それで、そういう材料はほとんど外国へ売られて…もう大阪なんかでは北海道の良いナラ材なんてまわってこない。
業者に聞くと、東京くらいまでは入ってくるそうです。だからいいものを作りたければ東京の木場に行って買わないとね。もう大阪の材木屋どこ回ったっていい材料なんか入って来ないですね。ま、そういうようなことがあるんです。
私がそうやって子供の時から家具を作りながら、色んな木を触って来て、それである時あることにふっと気がついたんです。長野県に毒沢温泉・神の湯っていう温泉がありましてね。毒沢温泉って言うのは、温泉に使ってる湯、それは沸かし湯なんですけれども温泉の宿の横に谷川が流れてて、その谷川の水がね、舐めると舌がしびれるような味がします。
(受講生)冷泉ですよね、あそこ。
(宥厳先生)そう、それで、その水は日本で薬として販売が認められている唯一の水なんです。売薬として売られています。そこの温泉に入ると、そうですね、お湯の中に頭突っ込んで目をパチパチっとすると本当に目がパチっとしてくるし、薬湯としても優れたお湯だと思います。で、昔、プロ野球に国鉄って言うチームがあった時代に、金田正一っていう名ピッチャーがおりましたけれども、彼はいつもあそこに行ってたそうです。金田正一の隠し湯だったとか言われてるような、ま、そういうお湯なんです。ぼくの話は温泉のことには直接、関係はないんですが、そこの温泉に何度か行ったんですが、あるとき温泉の経営者の小口さんって言う人がまあひょうきんな人で、その人と丸山博先生なんかも知っていられる、有害食品研究会の会員にもなっていられた方で、親しくしてたもんです。あるときそこの温泉に行ったときに宿のまん前に大きな木があるんです。それで、その大木を見上げたんだけど、僕には何の木かわからない。それで、小口さんに、「小口さんこれは何の木ですか」て言ったら、「アデランス!」って言うんですよ。「アデランス!」分りましたか?何の木か。それで、アデランスの木だって言うから、えっと思って。ところが僕は、製材にしたアデランスの木はすぐにわかるんです。ところが生えてる木を見た時にそれが桂の木だと言うことが分からない、と言うことにね、僕は大変ショックを受けたのですね。あ、今わかった?(一同笑い)
だからね、杉の木とか松の木とか檜とか〜生えてるのを見たら何の木か当てられます。柳も当てられるでしょう。柿の木も当てられる。柿の木なんかは逆に製材したら、「これ何の木ですか」って言われたらわからない人のほうが多い、僕は柿の木は良く知ってますから、分りますけれども、柿の木なんていうたら黒檀か柿の木か素人にはわからないね。そういう職業的な知識っていうのはだから、製材したら何の木かわかるのに、生えてる木見たらそれが何か分からないというのは、何と言うことだろうと、ま、自分で思ったことがあって、そういうことを詩に書いたことがあります。何か非常に悲しいことのような気がするんですね。そういうことって。
こんな詩です。
引用詩
*** 初 秋 ***
樹立を眼にするといつも心をよぎるかなしみのようなものがある。
あれら鬱蒼と繁った落葉樹の樹々が、何という樹なのか、その一本
一本について、私はその名を知らない。
樹木の自然の形ではなく、根元から切り倒され製材されて材木と
なったならば、私はそれが何という樹であるのか、正確にいいあて
ることができる。指物師である私は、その時、その樹の有つあらゆ
る性質をすら、人の心を読みとるより確かに見抜くだろう。
それは強いられて、いつしか私の身にそなわった過誤の如きものな
のかも知れない。
名人気質の指物師だった父は、日毎酔いどれて酒くさい息をはき
ながら、少年だった私に、指物細工のきびしさを、時には容赦のな
い拳骨でもって教えたが、思案をとおして人生を凝視め始めた私は、
いつも遠い声に耳を傾け、瞳を光らせて、必ずや他に在るであろう
自己の未来を窺ってやまなかった。併し二十年にちかい刻の流れも
私の星は私をして異なった世界へと導きはしなかった。
いまは病床にあって、月に二三度病院を訪ずれる以外には、絶え
て外出したことのない父が、母が居なくなった独りきりの留守居に
堪えなくてか、いま不意に郊外の工房へやって来て、言葉すくなく、
私の材木を扱う仕事を見遣りながら、何事かに想いを馳せている。
今日台風がおとずれるというニュースがあって、涼しい風が、ちい
さな私の工房を吹きぬけてゆく。それは、いま淋しい眼差しで、私
の手つきをながめている父の心のなかをも吹き抜けているように私
には思われるのだった。
だから、山に暮らしてる人は、この木は何の木っていうこと良く知ってるかもしれないけれど、製材した木を見せたらよう当てないだろうと思う、多分ね。まあ、人はそれぞれに立場立場によってね、違うもんだと思うんですね。それで、北海道のそういう柔らかい素晴らしい木を、私が仕事をしていた頃は、まだトラックもそう多くなかったですから、大阪の街を馬車引きが馬車に一杯材木積んでね、工場まで運搬してくる。運送屋さんが馬で運送してるような時代だったですけどね。
そういう時代にたくさんの木を切って使って家具を作って生きて来たわけですね。それが、木が入らなくなってくるにつれて、いわゆるデコラだとか、新建材としてそんなドアに使っているようなね、デコラのものが増えてくるようになって、それで段々張りぼての家具を作るのが嫌になって来て、それで、まあ額縁屋に転向してしまったと言うような経緯があるわけです。
昨日指を怪我した時の木は名前を知らないですね。割と大きな葉がついてて、山によく自然に生えてるんですけどとても柔らかい木で、太くても鋸でシャーっと切れる、草みたいな感じですね。ラワンの木はあんなじゃないかなと思うんですよ。今は南洋でもラワン材と言うものがもうほとんど枯渇してきて、この頃はあんまりラワンのベニヤ板に昔使っていたような柔らかい材質の木はなくなって来ましたね。産地によって硬さが違いますね。
日本人が東南アジアの木を買いあさって、ジャングルをダメにしてしまったというようなこともあるんですけど、その陰で日本の材木はお金にならなくて植林した山は放置されて荒廃してきてます。戦争が終わって日本には材木がなくて、建築もしないといけないし、その頃は山もかなり切られて、荒廃してましたからね。それで、植林をどんどん進めたわけですね。その植林を進めた時代は、山の、自然の灌木とかね、照葉樹林って言う風にいうんですけど。照葉樹林ってわかりますか?照葉樹っていうのは椿とか、葉っぱが落ちないで一年中葉がキラキラと輝くような木。で、こういうところに住んだらわかるんだけど、皆さんは秋になると木の歯がfallしてね、落ち葉が落ちて木が裸になるでしょ?ああいう木は落葉樹っていうんです。
だけど、冬になっても全然葉を落とさない木が色々あるんですね。そういうのが大体照葉樹に含まれるわけです。それで、例えばこの楠。この横に生えてる大きな木ですね。あれは葉っぱを落としてクヌギのように裸にはなりません。一年中葉っぱがついてるんですが、ところが葉っぱを落とす時期があるんですね。それが春なんですよね。5月とか。それで、その頃になると葉っぱがこの黒樫もそうなんですけど、葉っぱがついたままで大量の葉っぱを落としてその時にはもう次の葉っぱが出てるわけですね。だから、葉っぱそのものが全部落ちて枝になってしまうと言うことがないんです。
だけど、裏山のクヌギとかコナラとか、そういう木は全部葉っぱを落としてですね、それで裸になって冬になったら寒々と立ってるわけです。ま、そういうような山の姿一つ見ててもね、非常に面白いです。それで、この裏山も十数年前に地主さんがねホダギをとるとかいって裸にしました。僕がここへ来た時に、この裏山の林の感じがとてもいいですねっていったら、じゃ、切らないことにしますっていってたのに切ったんです。無残な姿になって回復まで10年かかりましたね。
木が大きくなると山や森はバランスが取れてきますね。要するにある程度木が大きくなってくると、そうすると一定のバランスがとれて、他のものがいっぱい生えてきたりしないで、こうバランスがとれて来る時期があるんですね。それで、山の木でもそうなんですけど、例えばブナの原生林なんて言って有名でしょ。日本にも何箇所かあるんですけれども、このブナの原生林なんかもね、ずっと最初の頃はそのブナが原生して、それが安定した林の層を作るまでには色んな樹木の戦いがあるわけです。
だから、山を裸にすると最初に大体生えてくる木はをパイオニアって言うんですけど、これは赤松なんかが多いんですね。だから、赤松が生えて、それで、赤松が生えてくるとその下にちいちゃな木が色々生えてきて、それが少しずつ育ちながら、成長してくるのを待つんですね。そういう木が生存競争をして、それで生存競争に打ち勝って大きくなったらまた、その下には次はそれを狙って倒そうと思って育ってくる木があるわけですね。で、そういうことを繰り返して行って最終的に勝ち残って、もうこれ以上森の姿が変わりませんと言う風な形になったのを極相林と言う風に言うんですけども、それがブナの林なんですね。
だいたい極相林ができるまで一万五千年くらいかかると言われています。ところがそういう極相林を国有林…国が持ってて、ブナの原生林を切って、道路を作るとか、その木を売ってしまうとかするもんだから、自然を守ろうとする人たちの反対運動が起こるわけですね。だから、自然と言うのは非常に時間をかけて作られる。ところが、そういうことを何か考えもしないで平気で木を切る人間が多いんです。で、まあそうやって木を切っていると怪我もするというような(一同笑い)。仕返しを受けるんじゃないかと思ったりするんですね(笑)。
僕は子供の頃からたくさんの木の恩恵を受けてきて、飯の種にしてきたわけですけれども、木の扱われ方を見ていても大変面白いことに気づきますね。昭和20年代に日本中に行政が植林を進めて、競って木を植えたのが、今頃かなり大きくなってきてるわけですけれども、植林のやり方として、国の方針として皆伐をして植林することをさせた。つまり山のてっぺんまで丸裸にして木を植えたら補助金を出すと言うことをやったんですね。七合目から上は残しておいて、下に植林するとかって言うようなことをすれば、そんなに山は荒れないんでしょうが、皆伐しないと金は出さないっていう行政をやったもんだから、皆伐して木を植えたわけです。そうすると要するに杉とか桧って言うのは、あの根の浅い木ですので、それで雨が降った時に保水能力がない。それで大雨が降ると山が崩れて行く。それで、この紀伊半島だけでなく日本中で山がよく崩れるのはそういう政策で皆伐してきた影響も大きいんですね。
人間と言うのは自然の成り立ちを考えないで、均衡を崩してきたわけですね。林業を維持していこうと思ったら、京都の北山の杉とか桧とか吉野杉だとかそういうところは、畑として木を植えて何百年も丁寧に常時手入れしながらやってきたわけです。だから、やみくもに皆伐をして飢えて補助金もらったらもう後はほったらかし、と言うようなことをするのは本当の林業家ではなかったんですね。補助金が欲しいからというような林業では山は守れないです。
紀伊半島は70%が植林されてます。台風で十津川だとか色んなところで山が崩れたりしたのは皆伐の植林のせいかも知れないですね。自然の山の極相林のままほっとけば、そんなに山が崩れたりしないわけです。それを、補助金欲しさに皆伐して、植林してそれで木が生えて、最初は密植、ある程度密植しますからね、ある程度大きくなって来たらそれを間の木を刈って大きな木に育てるように森の育て方があるわけですけれども、そういう手入れもしない。だから、龍神村なんかでは昔は村の人が山を持っていて、で自分の山に木を植えて皆伐をやったものの、あとの山仕事の手間賃も出ないし、それで、龍神村の人なんかはほとんど都会の人に山を安い値段で売ってしまって、それで、逆にその買ってくれた、山を買ってくれた人に雇われて、それで山仕事するというようなことをやったりしてると聞いたことがあります。
桜井の周辺もこの国道筋、八木の辺りに行く間、この国道筋は全部木場でした、昔は。よくここ昭和40年ごろ、車でしょっちゅう走ってたんですけど、ほとんど木場て言って山から切り出してきて、で、そこで木のオークションやったりね、材木を積み上げて取引する場所だったんです。今はもうそういう木場がほとんどなくなってしまってる。
例えば今、楽健法の講習会をやってる奈良イオンハウスなんていう酵素風呂にも影響してるわけです。と、言うのは酵素風呂はオガクズを発酵させてやるんだけれども、酵素風呂のおがくずがない。製材所が減って手に入らないんですね。あそこの酵素風呂をそっくり入れ替えようと思ったら、袋が500いるんだそうですね。けれども、持って帰ったオガクズは製材のオガクズばっかりじゃないんですよ。プレナーで削った鉋くずも入ってる。
昨日、イオンハウスで、ちょっと袋が破れとったから、オガクズをすこし引っ張り出してみてみたら、チップみたいなものがいっぱい入っててオガクズとはいえない、そういうものまでも持って帰らなければならない。全部引き取ると言う風にしてるからでしょうね。それを全部ふるいにかけて、それでちょうどいいオガクズを取りだして、そうすると500袋持って帰っても半分以下に減っちゃうそうです。だから、なかなかね、酵素風呂をやって行くのも大変なんですね。そういうことも見えてきます。
僕らは車で田舎へ行って山を眺めて、自然はいいなとか思ったりしてても、いろいろな問題が隠れているんですね。紀伊半島を走ってね、僕はああいい自然だななんて思ったことはないです。何と暗いところだと思って、「黒い森」なんて言うて有名なのはドイツの「黒い森」なんて有名ですね。植林がされていても、人為的なことで、酸性雨を降らせたりして、環境を破壊している。人間が自然を破壊してそういう風にしてしまったのですね。
ネパールへ10回くらい行ってますけど、ネパールは細長い国土で長い方が2400km、幅が200kmくらいの土地なんですね。だけど、ヒマラヤが山系が幅があって、平野は少ない、タライって言うインドに接しているところは平原、ジャングルになってるんですね。
ネパールは世界で一番森林の破壊が激しいと言われてる国なんですね。それで、ある時期から森林破壊は一切だめと言うので、木を切ってはいけないという法律ができたんです。実際。それで、木を切らないようにしてて、薪も町ではほとんど売ってませんけどね。僕らが最初行き出した頃は、まだ薪もいっぱい売ってました。それで、ご飯炊いたりしてしてたんですね。ところが、そのタライのジャングルを走ったときに、ある場所に通りかかると、ジャングルに木が生えてるんですけど、密集してるんじゃなくて、切り株がたくさんあって、間隔を大きくとって生えてるところがありました。木を切った人たちは適当に残して切ったつもりなんだろうと思うんですよ。これくらい残しておけば、多分ジャングルは維持できると思ってやったんだろうと思うんです。ところが木を間引いて切ってしまって、葉っぱに隙間ができると太陽が落ちてくる、そうしたら、地面の水分が蒸発して、ジャングルの水分が保持できなくなって、残した木が皆枯れてしまってる。人間と言うのは浅知恵でものをするとそういうことになる。
健康管理も一緒ですね。そういうの見てるとね、本当に賢く、賢明な生活をすることがいかに難しいかと言うことを痛感します。そういうところを通ってタクシーを雇って、お釈迦様が生まれたルンビニまで何度も行きました。
今回は行きませんでしたけれども、車でまあ7,8時間かかるような道です。タライのジャングルを横切る何十キロか続いてる国道をタクシーで走ってると、地元の人はカトマンドゥかどっかへ行くんでしょうね。肩に荷物を背負って、背の高い男がさっささっさと歩いてるのとすれ違う、バスにも乗らずに都会まで歩いて行くんだなとこう見送って思いながら僕はルンビニに行くわけですよね。で、ルンビニで何時間か過ごして、それでまた夕方にその道を戻ってくると、その男が相変わらず歩いてるんです。行きしなと帰りに、行きしなはすれ違って、帰りは追い越していく。ああ、あれからここまで歩いてきたんかって、何キロ歩いたか分りませんけどね。ま、そういうことも経験しました。だから、まあ歩くと言うのは大変なことだけれども、この間管直人が四国八十八か所歩いたみたいですけど。ニュースにもならないね。元首相がお遍路に行ってるのに。
(受講生)首相辞めてから行ったからね。
(宥厳先生)四国八十八か所を車でお参りしようと持ったら1週間ですむんです。それで、車で何も考えずに走ってる人はね、何か歩いて回ってる人がバカみたいに見えるだろうと思うんですよ。ある意味。ところが実際は一番贅沢なのはああやって歩いてることでしょうね。たぶんね。悔しかったら歩いてみろって言うんだ(笑)。悔しかったらベンツに乗ってみろって思ってるかもしれないですけどね。
まあ、そういうことね。それでまあ、こういうやまをそうやって森林を破壊すると、この暗い杉やら桧の森は木の実もなりませんし、日差しも悪いし、それで、昆虫があまりいないから小鳥もほとんどいない。そういう山の間を谷川が流れてますけどね、昆虫がいないもんですから、川にも虫が減って、それで魚もあまり暮らせなくなるような環境になって来るんですね。
何かを変えるていうことは大変なことなんですね。僕らがたまに車で走って、緑がいっぱいあってと思うかもしれないけど、あんな山は自然ではないんですね。
龍神村ていうところの林業組合に講演を頼まれて話をしに行ったことがあるんですね。1980年代のことですけどね。それで、何故頼まれたかと言うと、東京の農大を出た青年がいて、で、その人は龍神村の生まれで、お父さんは製材所をやったり林業をやってたんです。彼は農大で勉強して林業にアイデアがあった。杉やら桧だけうえとって、手入れしたとしてもそれが金になるのは40年、50年先のことです。太く木を育てないけませんからね。そうすると木が育つまでの間食うすべがないわけじゃないですか。
それで彼が考えたのが立体果樹園って言う構想なんですね。山を立体果樹園にする。で、下の方に梅の木を植える。山椒を植える。それから銀杏を植える。銀杏を植えたら「ぎんなん」が取れますからね。そうやってこうずっと山の上まで色んな木を計画的に植林していけば、そうすると立体果樹園として毎年お金も取れるじゃないか。これを何とか実現したい、といって親やら、色んな人に話をするんだけど、そんな考えにだれも見向きもしてくれない。それで、宥厳先生応援してくれって言うわけですね。私はその頃ユリノキに関心があって育てていました。東光寺にもいま一本ユリノキがあります。桜井の駅前の街路樹もユリノキです。
当時楽健法の本を出版してくれたアボック社というのが鎌倉にあったんですけど、そこに本を出す過程でよく打ち合わせに鎌倉に行ってたんです。そのアボック者の社長のお父さん毛藤勤治さんが農学博士で、ユリノキの研究家だったんですね。日本にユリノキがいっぱい街路樹にまで使えるようになったのはその毛藤勤治先生のおかげなんです。
ユリノキというのは明治の始めごろに北米から150本かのユリノキの苗木を日本に持って来たそうです。で、それをあちらこちらに植えてみたんですけれども、ほとんど根付かなかった。ところが、新宿御苑に三角形に3本のユリノキを植えたのが大きく育ってそれが花をつけ、種を落とすと言う風になって行ったそうなんですね。先生の話ではユリノキの種って言うのは600粒に1粒くらいしか発芽しないというような傾向があるらしいですね。
種があっても必ず発芽するとは限らないと言う話なんですね。まあ、僕が1掴み植えておいたら鉢の中で発芽したことがありましたけどね(笑)。なかなか発芽しない種の育て方を毛藤勤治先生が研究して沢山の苗木がとれるようになり、あちらこちらに少しずつユリノキが増えていったんです。ユリノキは絶対に挿し木ができない。それから移植が難しい。移植すると大抵枯れてしまうそうです。
ユリノキの苗木の床
年末ごろに風が吹くと舟のかたちをしたちっちゃな種がバラバラバラバラといっぱい道路に落ちてくるんですね。それを学生たちと一緒にたくさんかきあつめて苗床に分厚く敷き詰めるそうです。そこに土をかぶせてほっとくとそっからボコボコボコボコと苗が何年間にもわたって出てくると言うことが分かったそうですね。そういう栽培方法がわかってから、ユリノキがたくさんあちらこちらで栽培されるようになったので、それで全国にユリノキが広がったわけです。ユリノキって言うのはチューチップそっくりの形をした花をつけて、それにたくさんの美味しい蜜ができるんです。この間ここで、まだちょっと残ってると思いますけど、ユリノキの蜜って言うのを、買うことができました。蜂蜜屋さんが皇居の周りで、蜜蜂を持って行ってユリノキの蜜を集めて、それをビンに詰めてある。とても美味しい蜜です。で、アメリカでもユリノキの蜜はもう予約した人にしか配れないほどわずかしか手に入らないような蜜だそうですけど。先日買ったのは1キロもありませんが1本6,000円くらいしました。ちっちゃなビンで。
龍神村に、ユリノキを植えてそれで、そのユリノキとモクゲンジ、それから、ハナキササゲと言う木が、これは毛藤先生の受け売りなんですが。僕はハナキササゲて言う木は詳しく知らない。モクゲンジもどんな木かはっきりわからないんですけど。そういう木をこう植えて行くことによって、花が時期がずれてうまく開くので、長期にわたってそれらの蜜が採集できるそうです。
そういう木を植えて、蜜が取れるようになったら龍神村で養蜂業ができるではないか(笑)。そういうことで叱咤激励しにいったんです、はっぱかけに行った。で、そういう講演をしたんです。その青年に頼まれましてね。そしたら、その年にね、どっかから1,500本ほどユリノキの苗木を買って試験植樹したそうなんですけど、その結果は見にいってないんです。龍神村のどこかでで1,500本くらいユリノキが育ってるだろうと思うんですけど。
それで、そういう木を育てたらユリノキと言うのは、イエローポプラって言う名前があるくらいで、その黄色い紅葉がものすごく美しいんですね。こんな空気の悪い所ではそんな綺麗な色にならないかもしれないけれども、とってもその黄葉がきれい。そうするとその龍神村の美しい黄葉を見に行こうという観光の名所にもなるではないか。で、杉やら森のね、あんな常緑樹見たって何にも楽しくありませんからね。ま、そういうようなことを言って、色々鼓吹して来たわけです。
しかし、やっぱり立体果樹園は実現しないままでしたね。その内にその青年もだんだん大人になって、理想が消えてった、年とって。この間、家内と一緒に龍神村に行ったときに、彼がおるかなっと思って家に寄ってみたら、ちょうど留守でした。もうそういう理想に燃えた青年ではなくなっちゃったのかな。理想を追いかけるんだったらね、一生追っかけて行かないと嘘ですね。途中でやめてしまって、ただの人になってしまったらどうするんだと思うんですけど。
若い時の夢を実現したいと思って、それをやり続けてそうなっていくのは大変難しいことですね、と思うんです。私はだから何かこうずっとそういうどっかで夢を追い続けているので天然酵母パンとか楽健法を色んな人に伝える仕事がずっと継続していけるわけです。だから、人間は自分が見つめた星に向かってずーっといつも死ぬまで歩いて行かないといかんと思うんです。
自分を導いてくれる星があるということを忘れてしまったらダメですね。
だけど大抵の人はそういうこと忘れて行く。そうすると、まあ仏教で悟りを開くなんて言いますけど、じゃあ悟りを開くって何かと言ったらやっぱりこう自分が、これ!と思ったことをずーっと追及して行って、そして、生涯を他人にとってusefulな人間としてね。有用な人間として人生を全うするということであってほしい。
そういうことができる人が僕は人間と呼ぶにふさわしい生き方ではないかと思うんですね。
人間になると言うのは哲学的な宗教的な意味で言うととても難しいことで、簡単に人間にはなれないんですね。 学校を出て、就職して、それで、稼いで結婚して子供生まれて、で定年退職になって子供はどっか行ってしまって、それでやがて老夫婦二人、老々介護もできなくなって、専門の介護に自分の体を任せていく、それが普通みたいに思って、車いすに乗ったり、寝たきりなって生涯を終わって行く。そういう生き方をする人たち。僕は、まあそれは一度も人間にならない内に死んでいくように思えるんですね。そういうことであってはいけない。ただし、人間であるということがどういうことか、そういう何か自分自身に対する、何か課題みたいなものを持ち続けてそれをやっぱり、どこまででもやっていこうと言うような意欲を持っていたら、病気する暇もないし病気の方も向こうからやって来ないんじゃないか、と言うように思うんですね。
で、ぼくはそれでここの山に、東光寺山で暮らすようになって、まあこういう木と…木を切って怪我をすることもあるけれども、ムカデに刺されたりもしますけれども、ま、そういう中で生活しながら、猫と20年以上も一緒に暮らせたり、それから庭の火鉢池にやってきたカエルと仲良しになったりね。
あのカエルがいなくなって多分クロサギに食われたのだろうか、と心にそれがひっかっかっとったら、どういうわけか昨日、僕がパソコンやってたら目の前にカエルがピョンと(一同笑い)。大きなカエルが。今フェイスブックにアップしていますが。入って来られるはずがないんです、座敷にカエルなんか。ところが多分僕が指を怪我したことと、それとあのカエルを心配してたことと。それとマニスが僕を慰めようと思ってあのカエルをよこしたんじゃないかな、と思うんですよね。マニスはよくそういうことするんです。一度はマニスが死んで1週間目に、マニスの墓に、いつもうちに来ている高峰靖子さんとペテロ・バーケルマン神父さんがやって来て、マニスの墓の前で般若心経を上げたんですよね。
お経をあげている間、高峰さんはマニスを思い出して涙を流したりして、部屋に入ったんです。居間のとなりにあまり開けない二畳の部屋があるんですが、その2畳の部屋で何かバタバタって音がするんです。おかしいなと思って、ふすま開けたら小鳥が飛び出してきたの、バーっと。小鳥が飛びだしてきて、それでパソコンを僕がいつもやってる部屋に飛びこんで、台所の隅から本堂の入り口の廊下の所まで鳥がピューっと飛んで行って、またピューっと戻ってくる。マニスがよく、僕が帰ると喜んで座敷を行ったり来たりすることがあったのですが、それとおんなじことを小鳥がするんですよ。さらに今度はパソコン部屋に入っていったた、トイレの前を通って。それで、パソコン部屋の中をくるくる回ってるんです。
小鳥を三人で追いかけていったんです、そうしたらいつもマニスがパソコン部屋で座ってた椅子の上のスタンドの上にポンっと止まったんですね。よく見たらそれウグイスなんです。
(一同)え~~~~
それで、これはもう、逃がしてやらなあかんと思って窓を開けて、まあ出て行ってもらったんですけどね。これってね、もうマニスの霊魂がね、乗り移ってやったとしか思えないようなことですね。
僕が本堂の三輪山のほうの障子を開けて掃除してたら、白いモンシロチョウが入って来て、マニスが走ってたように護摩壇の周りをくるくるくると何回か回ってから僕の頭にぴょんと止まるんです。そんなことって蝶々はまずしないですよね普通。
昨夜は座敷にカエルが出てきて座ってるんですよ。はじめはちょっと目がピントが合わないもんだから何かな、と思って。ネズミが歩いているにしてはおかしいぞと思って、眼鏡を換えて見たらこんな大きなトノサマガエルがノソノソ。何度か火鉢池で眺めていたカエルですね。冬眠する前に、宥厳さんはクロサキに食われたと思ってるかもしれないが私は元気よ、という姿を見せに来たように思うんですね。
それで、琴美ちゃんに電話をかけて大事件が起きたから来てくれって言って(笑)。それで、保護してもらって火鉢池に入れたんです。まあ、それも写真撮ってみましたけどね。すぐ飛びだしてどっかへ行きましたけどね。まあ、もうすぐ冬眠ですからね。やっぱり何か通じるものがあってカエルさんもやって来たんかなっと思ったりするんですね。だから、まあカエルでもそのくらい心が通じるんですから、人間はね、お互いに何か、関係のある人をやっぱり思いやって気にかけて何かしてあげてたら、心のまっとくない人も、まっとくなったりしますから、皆さんも楽健法を多くの人に役立てられるように、頑張って行ってほしいと思います。
楽健法は非常に自然な療法だと思うんですね。楽健法なんていうのはね。60歳を過ぎたらガンになりやすいといってた人がいたけど、厚生省のデータ見てたりして、40代半ばから50の坂をこえるのが人間とっても難しいと言うことが、死亡した人の数で分ります。他の年代よりも3倍くらい死ぬひとが多いんですね。他の年代が1年間1万数千人しか死んでないとしても、50代60代になったら四万人も五万人も死んでるんですよ。で、そこだけが数字が多い。それでまたそれ超えたらまた一万数千件に落ちて行くんですね。その年代が死亡者数が突出してる。
それで、50歳前後で何故突出するのか。それはそれまでの食生活、食習慣とかが結構乱暴でそれで自分の体にドンドンダメージ与えて行ってるのに気がつかないで、それでも何十年かは人間と言うのは元気で働けるんだと思うんですね。それがその年代になって発病した時にもう体の中にほとんど自然治癒力が残されていないからだと推測がつきます。病気になって治癒力がなくても、そこで気がついて玄米菜食をして楽健法しっかりやれば蘇るかもしれないんだけれど、そういうこともしないで、医者に行って色んな治療をしてもダメになってしまうということではないかなと推測できるんですね。統計の数字からそう思うわけです。
長生きするって言うのは、健康になる原因を積み重ねているひとと、病気になる原因を積み重ねてる人との差ですね。人間は毎日ね、昨日も生きとったから今日も生きとるわけで、で、明日のことはもちろん分らないわけですけれども、多分明日も生きてるだろうと思って、生きられるわけですけれどもね。年月の経過につれて体が悪くなってくる、ボロボロになって言うこときかなくて、もう足は言うこときかないし、あちらも痛いし、こちらも悪いしって言うような状況になってきて、それで医療を受けて、健康保険の金を使い、人の世話になりながら生きて行くと言うのは大変辛いことです。
日々良い原因を積み重ねることが長生き健康の最短距離の秘訣です。
楽健法(23)
Dinner
●むかごごはん●にもの三種(こんにゃく、ごぼう、いも)●なすとししとうのいためもの新生姜添え●きのこ、わかめ、とうふ、おあげの吸い物●自家製ふりかけ●えだまめ
東光寺の阿修羅姫
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楽健法(1)