「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

英国に留学して放射線研究に取り組む日本人医師ブログ

研究者と社会の関わり

2017-08-07 | 2017年イベント
最近、個人的に大変打ちのめされるような出来事がありました。
とてつもない幸運に恵まれたかもしれないと思っていたものの、やはりというべきか、最終的には駄目になってしまいました。天国から地獄へ急降下したような感じです。正直、なかなか立ち直れずにいます。しかし、この辛さもまた、人生ってやつでしょうか。
渡英後、はっきり苦戦を強いられています。「留学さえすれば前途が容易に開けていく」という夢みたいなことはなくて、苦しい状況をどうにかしたいと思っているのですが、助けてくれる救世主がいるわけもなく。ずっと、苦しいままです。ただ、流れは自分で持ってくるしかないと判ってはいます。
「こういう展開でこそ、オレは燃える奴だったはずだ」と。
いま必死に、自分で自分に言い聞かせているところです。

さて、先週から生命科学研究の業界を揺るがすニュースが続いています。
一つは日本発、東京大学分子細胞生物学研究所の捏造問題です。
NatureやScienceなどのトップジャーナルでも既に報じられており、日本にとって大変不名誉なニュースが世界中に届けられてしまいました。同研究所ではかつて加藤研究室で行われた捏造問題(加藤茂明元教授はじめ研究室スタッフらに懲戒免職相当処分)が発覚し、適切な対応が図られていたはずにもかかわらず、今回、染色体研究で知られる渡邊研究室において捏造問題が明らかになりました。はっきり言って、失態というべきでしょう。

「シュゴシン」の発見で世界的に高名な渡邊嘉典教授の進退も気になりますが、不問とされた東大医学部からの論文に対する疑義も個人的にはとても気になっています。
昨夏に公開された告発文にも目を通しましたが、医学部発の論文が抱える幾つかの問題点について、今回の東大調査委員会の回答が果たして適当といえるのかどうか。
STAP細胞の騒動が記憶に新しい中、東大が今後、このような研究不正に対してどのように対応していくのか。

多額の研究費が投じられてきた成果が及ぼす影響を鑑みて、とくに生命科学研究の成果は医療応用などの観点からも期待されるところが大きいわけですから、研究者の倫理観は社会にとって重要であるということが今回の一件から改めて考えさせられました。実際、英国はじめ欧米各国では研究者の倫理教育にはそれなりに力を入れている様子であり、日本は少し遅れていたのかもしれませんね。我が国のアカデミアはこれまであまりにも閉鎖的過ぎたのではないかとも感じます。
私も、自分自身がそのような過ちを犯さないようにするのはもちろんですが、例えば周囲に研究不正が存在した場合にどのように対処すべきか等、色々と思うところがありました。

もう一つは、既に各方面で話題に挙がっているようですが、先週、Natureにオンライン掲載された下記論文です。
Ma, H. et al. Nature http://dx.doi.org/10.1038/nature23305 (2017).
簡単に言うと、「ゲノム編集技術を用いて受精卵に存在する異常遺伝子を正常遺伝子に置き換えた」という内容です。とんでもなく凄いことです。良い意味でも、悪い意味でも。ついに私たちはヒトの受精卵で遺伝子を実際に操作するレベルに来てしまったのです。もちろん、いつかこういう日が来るとは予想出来ていたとはいえ、「ついに来てしまったのか」というのが率直な印象です。
今回、アメリカの研究チームがこのような試みを成功させたということは、我々は今まさに「ヒトの遺伝子を自由に編集してしまっていいのか」という倫理的な課題を突き付けられたわけです。言うまでもなく、これは研究者だけが悩めばいい問題ではありません。現代社会を構成する私たち全員で考えなければなりません。

いったん新しい技術が生み出されると、研究者たるものはその新技術を利用して、これまでの限界に挑戦しようとします。
それは好奇心によるものであったり、必要に駆られてのものであったり、きっかけは様々でしょう。例えば、遺伝病に苦しむ子どもを懸命に育てている両親が「次は出来れば健康な子供を」と望むことがあるかもしれません。望んでしまうことがあるかもしれません。そう思ってしまう「弱さ」については賛否両論あるかもしれませんが、私はそう思ってもいいのではないかと感じています。その時に、医療従事者として何とかしてあげたい。ゲノム編集技術で何とかできるかもしれないならば、それに望みをかけたい。そういう思惑が働くことがあるとしても、私とて十分に、その機微を理解できます。
しかし、もちろん、どこかで歯止めたりえる「ルール」が必要でしょう。そして、そのルールはどのようにして決められるべきなのか。
個人的には、一研究者としてはむやみに研究を制限されるのは避けたいという思いもあり、線引きには慎重な姿勢を求めたいと考えています。

研究者あるいは医療従事者はヒト遺伝子を変えていいのでしょうか?
もし変えても良い場合があるならば、どこまで変えていいのでしょうか?

私の答えはあえてここには書きません。
是非、皆さんも考えてみて下さい。

今回も拙ブログ記事を読んで頂きまして、ありがとうございました。