清き心の未知なるものの為に㉟・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より
ずっと以前に死んでしまった人たちについて語った文章を、私はいま読んでいる。こっそり
と、ほかの人たちの名前がその文中に忍びこんでくる。そしていまや、ここに語られているの
はわれわれのこと、われわれが過去の人となりおおせてからのわれわれのことなのである。
そのうち、おおよそは跡方もなく消え失せてしまった。かつては灼けつくほど熱気を帯びてい
た問題が、いまでは冷やかな抽象物のようにペ-ジからペ-ジへとひらたく広がっている。
簡単な問題だったのである。ところが、われわれはそれを解きほぐすことができなかった。
われわれははどうやら愚鈍な操り人形であって、個人的利益で夢中になり、だれもり目にも
くっきり見える糸に引かれて踊らされているのである。しかも、その糸がときおり解れてしま
うのである。
私が歴史の探求という、この歪んで映る鏡のなかに認めるものは、なにも戯画などといった
ものではない。たんに、それらすべては空であったということの証明にすぎない。
ともあれ、彼は自分のなかにこういうものがあるのを知っていたる-------どの人間にもある
もの、すなわち、卑俗・貪欲・傲慢・羨望------そして、あこがれ。
あこがれ-----なかんずく、十字架への。
人生とはそんなにも情けないものなのか。むしろ、おまえの手のほうが小さすぎ、おまえの
目のほうが濁っているのではないか。おまえこそ、成長しなければならなぬ。
われわれは、自己の運命の輪郭を選ぶことはできぬが、それに内容を与えることならできる。
冒険を求める者はそれに出会うであろう。------自己の勇気に応じて、犠牲たらんと欲する者は
犠牲にせられるであろう-------自己の純粋さに応じて。
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