「顏を上げると、さっきは気づかなかった黒松林の蝉しぐれが、耳を聾(ろう)するばかりに
助左衛門をつつんで来た。蝉の声は、子供のころ住んだ矢場町や街のはずれの雑木林を思い
出させた。助左衛門は林の中をゆっくりと馬をすすめ、砂丘の出口に来たところで、一度馬
をとめた。前方に、時刻が映っても少しも衰えない日射しと灼ける野が見えた。助左衛門は
笠の紐をきつく結び直した」 (蝉しぐれ)より
「文四郎は、またにじり寄るように前に出た。すると、はじめて興津も前に出て来た。
討ち合う意志を示したのである。見ずに浮かぶ水すましのように、興津はすいと前に出て、
その動きはなめらかだった。(蝉しぐれ)
肴は鱒(ます)の焼き肴に「はたはた」のの湯上げ、茸はしめじで、風呂吹き大根との取り
合わせが絶妙だった。それに小皿に無造作に盛った茗荷(みょうが)の梅酢漬け。
「赤蕪(あかかぶ)もうまいが、この茗荷もうまいな」
と町奉行の佐伯が言った。佐伯の鬢(びん)の毛が、いつの間にかかなり白くなっている。
町奉行という職は心労が多いのだろう。
白髪がふえ、酔いに顏を染めている佐伯熊太を見ているうちに、清左衛門は酒がうまいわ
けがもうひとつあったことに気づく。気のおけない古い友人と飲む酒ほど、うまいものはな
い。
「今夜の酒はうまい」
清左衛門が言うと、佐伯は湯上げはたはたにのばしていた箸を置いて、無器用に銚子を
つかむと清左衛門に酒ほついだ」 (三屋清左衛門残日録)
「