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李襲譽 字茂實
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学識があり、隋末に冠軍府司兵となった。
長安は代王が京師留守となり、陰世師が補佐をしていた。
襲譽は盗賊対策を世師に献策したが用いられず、山西への募兵だけを認められ漢中に出た。
李淵が長安を取るとそれに付いた。
武德元年~二年
太府少卿.封安康郡公となり、兄襲志とともに皇族籍となった。
武德三年
世充を攻めて潞州總管となった。
突厥と世充の通交を遮断し、東都攻撃用の軍糧を転運した。
貞觀初
蒲/浦?州刺史
貞觀七年?
光祿卿
八年~十三年
揚州大都督府長史江南道巡察大使として人事登用を行った。
揚州の利水、築城、溉田に力をそそいだ。
十三/十四年
太府卿
性嚴整で威肅があり、俸祿を宗親に散じて余財をもたななななかった。
十五年
涼州都督
十七年
金紫光祿大夫行同州刺史
涼州番禾縣丞劉武を杖殺したことを弾劾され、除名流泉州
無幾卒
李襲譽 字茂實
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学識があり、隋末に冠軍府司兵となった。
長安は代王が京師留守となり、陰世師が補佐をしていた。
襲譽は盗賊対策を世師に献策したが用いられず、山西への募兵だけを認められ漢中に出た。
李淵が長安を取るとそれに付いた。
武德元年~二年
太府少卿.封安康郡公となり、兄襲志とともに皇族籍となった。
武德三年
世充を攻めて潞州總管となった。
突厥と世充の通交を遮断し、東都攻撃用の軍糧を転運した。
貞觀初
蒲/浦?州刺史
貞觀七年?
光祿卿
八年~十三年
揚州大都督府長史江南道巡察大使として人事登用を行った。
揚州の利水、築城、溉田に力をそそいだ。
十三/十四年
太府卿
性嚴整で威肅があり、俸祿を宗親に散じて余財をもたななななかった。
十五年
涼州都督
十七年
金紫光祿大夫行同州刺史
涼州番禾縣丞劉武を杖殺したことを弾劾され、除名流泉州
無幾卒