唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳43 李襲譽

2024-06-16 10:01:19 | Weblog
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李襲譽 字茂實
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学識があり、隋末に冠軍府司兵となった。

長安は代王が京師留守となり、陰世師が補佐をしていた。
襲譽は盗賊対策を世師に献策したが用いられず、山西への募兵だけを認められ漢中に出た。

李淵が長安を取るとそれに付いた。
武德元年~二年
太府少卿.封安康郡公となり、兄襲志とともに皇族籍となった。

武德三年
世充を攻めて潞州總管となった。
突厥と世充の通交を遮断し、東都攻撃用の軍糧を転運した。

貞觀初
蒲/浦?州刺史

貞觀七年?
光祿卿

八年~十三年
揚州大都督府長史江南道巡察大使として人事登用を行った。
揚州の利水、築城、溉田に力をそそいだ。

十三/十四年
太府卿

性嚴整で威肅があり、俸祿を宗親に散じて余財をもたななななかった。

十五年
涼州都督

十七年
金紫光祿大夫行同州刺史

涼州番禾縣丞劉武を杖殺したことを弾劾され、除名流泉州

無幾卒
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唐初功臣傳42 李襲志

2024-06-15 10:09:58 | Weblog
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李襲志 字重光
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父は隋台州刺史安康郡公敬猷。

襲志は隋始安郡丞[桂州]となった。

大業末
群盗が各地で蜂起し、襲志は私財を散じて兵三千人を召募し、郡城を守った。

蕭銑、林士弘、曹武徹等が相継いで攻撃してきたが、隋臣として耐えていた。

しかし煬帝が弑逆されると、郡人は襲志に自立を勧めた。
襲志は「私はあくまで隋臣でいる、自立はしない」と宣言した。

しかし固守すること二年で蕭銑に屈服した。銑は襲志を工部尚書檢校桂州總管とした。

武德初
唐高祖は襲志の子玄嗣を派遣し帰服を勧めた。そこで襲志は密かに嶺南首領永平郡守李光度とともに唐に附いた。

武德四年十/十一月~五年
蕭銑が平定され、江南道大使趙郡王孝恭は来降した襲志を桂州總管とした。

武德五年
入朝し、柱國封始安郡公江州都督となった。

輔公祏の反乱を水軍總管として討った。

武德七年~貞觀中
桂州都督に転じた。

襲志は前後28年間桂州を統治し、嶺外を安撫した。

後入朝を請い、右光祿大夫行汾州刺史致仕となった。

?年卒した
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唐初功臣傳41 王長諧

2024-06-14 10:09:06 | Weblog
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王長諧
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瓜州刺史直の子。隋鷹揚郎將

義寧元年六月
李淵[高祖]反乱時、統軍

八月
劉弘基・陳演壽・史大柰と黄河辺で隋將屈突通と対峙した。

九月
屈突通將桑顯和と戦う。

劉文靜麾下で永豐倉に屯し、潼關を守る。

屈突通將軍劉綱を潼關に破り斬り、潼関城を守り抜いた。

光禄大夫

武德九年~貞觀元年
會州都督として収賄し弾劾されたが、太宗は赦した。

左武衛大將軍

貞觀初
秦州都督.封平原郡公

陪葬獻陵。
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唐初功臣傳40 張儉

2024-06-13 10:05:04 | Weblog
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張儉 字師約
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父植は隋車騎將軍.連城縣公。

儉は李淵[高祖]の從甥。

右衛郎將となった。

貞觀元年~四年
軍功をもって朔州刺史にいたった。

時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。

儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。

四年
檢校勝州都督となり母憂で職を去った。

突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。

儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。

四年
檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。

十四年~永徽四年
營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。

十五年十一月
しかし白衣[無官位]假營州都督として契丹、奚、靺鞨諸蕃を率いて高麗を大破した。
そして營州都督兼護東夷校尉に復した。

十六年十一月
高麗東部大人泉蓋蘇文が王武を弑殺したと奏した。

十八年七月
太宗が遼東を征した時、蕃兵を率いて先行した。

十一月
儉軍は遼水の氾濫のため、逗留したと疑われて召還されたが、実情を報告し献策し、太宗は喜んで
行軍總管兼領諸蕃騎卒として六軍前鋒とした。当時博臨縣男であった。

十九年四月
高麗莫離支が自ら遼東に来ると聞き、儉は新城より迎撃に出たが、莫離支とは遭わず、遼水を渡って
建安城に高麗軍を大破した。功により封皖城郡公。

その後,東夷校尉より東夷都護となった。

二十年六月
執失思力・契苾何力・薛萬徹等と薛延陀を討った。

永徽初
加金紫光祿大夫。

四年
卒 60歳。謚曰密
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唐初功臣傳39 李孟嘗/孟常

2024-06-12 10:03:48 | Weblog
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李孟嘗/孟常 字待賓
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貧民の出身であり盗となり24歳で王君廓麾下となった。

武德元年
君廓に従い唐に帰属し開府儀同三司となった。

八月
世民[太宗]に従い薛擧・仁果征討に従軍した。

三年
劉武周征討に従い、軍功があり上柱国となった。

四年五月
王世充・竇建徳征討に従った。

六年五月
李勣に従い徐圓朗を討った。

九年六月
玄武門の変[建成暗殺]に参加、右監門副率となった。

七月
右監門中郎将、封武水縣公に進んだ。

十月
食實封四百戸

貞觀三年~四年
李勣に従い突厥征討に功績があり、漢東郡公に進んだ。

貞觀十四年
右驍衛将軍

貞觀十八年
右屯衛将軍

貞觀二十年/永徽元年
黔州刺史/都督  良政あり

永徽元年十二月
反した琰州獠を謝萬歳等と討った。

永徽六年
右監門将軍/大将軍

龍朔二年五月
右威衛大將軍仍奉敕検校太子右典戎衞率に進んだ。

高宗東都行幸時、李寬とともに京師留守。

乾封元年五月
卒.74歳。赠荊州都督 諡曰襄 陪葬昭陵。
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唐初功臣傳38 許世緒/緒

2024-06-11 10:02:25 | Weblog
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許世緒/緒 字玄嗣
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洛仁の兄。

益州司馬から大業末,隋鷹揚府司馬であり、
李淵[唐高祖]と親しくしばしば「今は蜂起するべき時期だ。そうしないと他の出し抜かれますよ」と唆した。

反乱が起きると右一府司馬

左/右武侯/驍衛長史

左散騎常侍

大府卿/少卿

司農卿

武德中
封真定郡公

鄂州刺史

武德七年/八年
瓜州刺史/都督

銀靑光禄大夫豫州刺史

貞觀中
在任卒 63歳
贈靈州都督
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唐初功臣傳37 李思行

2024-06-10 10:01:13 | Weblog
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李思行
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仇を避けて太原に逃げていた。

李淵[高祖]反乱後、長安に偵察に派遣され動靜を窺った。

左三統軍となる。

隋將宋老生を破った。

長安陥落後.驃騎将軍

齊王元吉護軍となった。

玄武門の変後、磁州で捕らえられるが魏徴がとりなして赦される。

貞觀~永徽
嘉州刺史.封樂安郡公。

永徽初
卒,贈洪州都督,謚曰襄。
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唐初功臣傳36 張崇/平高

2024-06-09 10:09:44 | Weblog
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張崇 字平高 
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隋末鷹揚府校尉として太原に屯し李淵[高祖]と知り合い反乱を議した。

反乱後軍頭となった。

長安陥落後、驃騎將軍となった。

左領軍將軍封蕭國公にいたった。

武德九年十月
食實封三百戸

貞觀初
丹州刺史

坐事免職され、右光祿大夫として致仕



後改封羅國公。

永徽中,追贈潭州都督。
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唐初功臣傳35 趙文恪

2024-06-08 10:07:56 | Weblog
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趙文恪
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隋末に鷹揚府司馬として太原李淵の麾下であった。

大業十三年
反乱に参加し右三統軍。

武德二年
都水監.封新興郡公。

并州で突厥からの軍馬購入に努力した。

武徳二年三月
劉武周將宋金剛が太原に来寇し、浩州を守る李仲文を救援に赴いた。
しかし太原も齊王元吉が逃げて陥落し、文恪も城を棄てて敗走したため獄死した。
齊王元吉はなにも罪に問われなかった。
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唐初功臣傳34 樊興/世興

2024-06-07 10:56:38 | Weblog
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樊興/樊世興 字積慶
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武陵の蠻族出身。父の罪で李淵[高祖]家の奴隷となっていた。

反乱後軍に従い、通議大夫から金紫光禄大夫。

長安平定後に左光禄大夫となった。

また世民[太宗]に従い薛舉を攻める。

武德四年
父方の謀反の罪で連座削官された。

王世充、竇建德と戦い戦功を積み封營國公。

七年
劉黒闥征討の功績で右監門將軍となった。

八年
天節将軍となった。

九年十月
食實封四百戸。

坐事削爵。

貞觀六年
陵州獠の反を討ち、左驍衛將軍。

李靖に従い赤水道行軍總管として吐谷渾を討つが、逗留し期限に遅れて敗北し免官。

久しくして左監門大將軍封襄城郡公。

太宗の遼東遠征時、忠勤をかわれて京師留守房玄齡の副となる。

檢校右武候將軍。

永徽元年
卒,63歳。贈左武候大將軍、洪州都督,陪葬獻陵。
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唐初功臣傳33 公孫武達

2024-06-06 09:55:00 | Weblog
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公孫武達
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腕力に優れ豪俠と称していた。隋驍果軍士卒となっていた。

武德初
李淵[高祖]に長春宮で謁し麾下となった。

二年十一月
世民[太宗]麾下となり、劉武周征討に従い軍功をたてた。

また王世充、竇建德征討に従い秦王府右三軍驃騎.封清水縣公となった。

九年六月
玄武門の変[建成暗殺]に参加した。

十月
食實封四百戸を与えられた。

貞觀初
檢校右監門將軍

貞觀三年
肅州刺史

十一月
甘州刺史成仁重と突厥の来寇を大破し、左監門將軍。

鹽州の突厥が反乱し、武達は靈州へ赴き突厥軍を破った。

進封東萊郡公。

永徽中
右武衛大將軍

卒,贈荊州都督,陪葬昭陵,謚曰壯。
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唐初功臣傳32 夏侯端

2024-06-05 10:15:04 | Weblog
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夏侯端
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梁左僕射詳の孫。

隋大理司直となり李淵[高祖]と親交があった。

大業中
李淵が河東の討賊をしたときには、端が副であった。
そして煬帝の乱政を批判し淵に決起を勧めた。

反乱が起こったとき端は河東郡にいて,淵との関係を疑われて捕らえられ長安の獄に囚された。

淵が長安を陥すと、秘書監に任ぜられた。

武德二年四月
大將軍を加えられ持節河南道招慰使として關東の地を招諭に派遣された。

十月
黎陽から澶水黄河を渡り海に至まで二十余州を招撫送款させた。
しかし亳州刺史丁叔則や汴州刺史王要漢が王世充についたため、中間を遮断された。

端は衆心を得ており所從が二千人もいたが、孤立したため逃走し大半を失った。
やっと杞州李公逸にたどりついたが、世充勢力に包囲され、世充は淮南郡公吏部尚書として招いた。

しかし端は降らず、間道を抜け艱難辛苦して数人だけが帰り着いた。

高祖はただ秘書監に復しただけであった。

武德末~貞觀元年
梓州刺史

俸給は私有せずみな孤児寡婦に施していた。

貞觀元年
卒した
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唐初功臣傳31 羅士信

2024-06-04 10:13:32 | Weblog
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羅士信
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大業十年
長白山賊王簿、左才相、孟讓が齊郡に来寇した。
通守張須陀が迎撃、士信は14歳で参加を申し出て勇戦し、須陀の激賞を得た。

そして須陀の副となり奮戦し、煬帝も認めるほどになった。

義寧元年四月
須陀が李密との戦いで戦死すると、士信は裴仁基に従い密に仕えて總管となった。

李密に従い王世充と奮戦するが敗れて捕らえられた。

世充はその驍勇を知っていたので厚遇した。

武徳二年七月
その後世充は李密の叛将邴元真等を起用したため、士信は同列となるを恥じ、所部千余人とともに谷州に奔り唐に帰した

十月
高祖は士信を陝州道行軍總管とし世充を攻撃させた。
士信は青城堡を陥した。

三年四月
慈澗を囲み、世充太子玄應を破った。

十月
千金堡を抜いた。

四年
世充平定後、授絳州總管封剡/郯國公となった。

ついで世民[太宗]に従い劉黑闥を討った。

五年二月
洺水城を防守していた王君廓に代わり、死地となることを覚悟で入城し守った。
落城し捕らえられ黑闥に誘われたが拒否し殺された。まだ28歳であった。

士信は賞賜獲物をすべて部下に散じ、命令厳正で、依怙贔屓がなかった。

謚曰勇。
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唐初功臣傳30 李安遠

2024-06-03 10:22:10 | Weblog
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李安遠
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隋上柱国雲州刺史徹の子。

家が富んでいたため無頼で博徒と通じていた。

しかし成長すると讀書を好み友を選んだ。父の爵を継ぎ城陽公となった。

王珪と親しく、大業初に珪が処罰され配流になった時に庇った。

正平縣令となり、絳郡通守陳叔達とともに李淵の反乱軍に抗したが落城して捕まった。む
しかし淵と旧交があったため赦されて右翊衛統軍封正平縣公となった。

武德元年
屈突通を破り上柱國右武衛大將軍に進んだ。

世民[太宗]に従い軍功があって廣德郡公に進んだ。

また吐谷渾に使いして,渾主伏允を慰撫して互市を開始した。

太子建成が安遠を誘ったが同ぜず、世民の党派にいた。

貞觀初
京師を巡察して治安を守った。
潞州都督

五年~七年
懷州刺史 いずれも有能であったが厳格すぎた。

貞觀七年
卒 追贈涼州都督,謚曰密。

十三年
追封遂安郡公
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唐初功臣傳29 丘行恭

2024-06-02 10:20:38 | Weblog
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丘行恭
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騎射に優れ勇敢絕倫であり、大業末に兄の師利とともに岐、雍間で群盗となっていた。
故郿城を本拠とし自立できていた。

義寧元年九月
原州奴賊數萬人を従え唐軍に参加し、光祿大夫となる。

長安平定後、薛舉、劉武周、王世充、竇建德と戦い戦功があって、左一府驃騎となった。

武德四年
世充との戦いでは落馬した秦王を助け奮戦した。

太子建成の殺害に参加し、左衛將軍となった。

武德末
冀州刺史

貞觀
陝州刺史。

貞觀中
嫡兄と生母葬儀で争い、弾劾され除名。しかしすぐ復官。

侯君集の高昌遠征に従い,封天水郡公,右武候將軍となった。

高宗嗣位
右武侯大將軍.譚國公.

老齢により致仕,拜光祿大夫。

性嚴酷で同僚から敬遠されていた。

麟德二年
卒、八十歳。贈荊州都督/刺史,謚曰襄,陪葬昭陵。
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