唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

景福二年(893年.寛平五年)

2006-12-18 17:56:30 | Weblog
三月幽州では有能だが淫虐な節度使李威が逐われ、無能な弟籌が嗣いだ。
四月朱全忠は徐州を陥し、節度使時溥は自殺した。
同じく四月王建は陳敬瑄・田令孜兄弟を殺した。
弱体な唐は、九月近隣の鳳翔節度使李茂貞を伐つがかえって敗北し、京師はその制圧下に置かれた。
そのため宰相杜譲能は茂貞により殺された。
福建地方では五月王潮[閩の祖]が福州を取り勢力を固めていった。
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景福元年(892年.寛平四年)

2006-12-17 09:31:48 | Weblog
六月楊行密はついに揚州を陥し、孫儒を殺した。
これにより淮南地方は行密の支配下に入った。
鳳翔節度使李茂貞は、楊復恭を勝手に討伐し山西節度使を制圧した。
朱全忠は天平・泰寧・武寧軍を攻撃し山東地方を制圧しようとしていた。
李克用の將李存孝が邢州を以って反し、全忠に附いた。
克用は勇将ではあるが、將にたいする掌握力は弱く、配下はよく背いた。
京師周辺では邠寧節度使王行瑜が勢力を拡大していった。
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大順二年(891年.寛平三年)

2006-12-16 09:02:15 | Weblog
正月宰相孔緯・張濬は李克用討伐失敗の責めを負って解任された。
淮南では揚行密はしばしば孫儒を破って優勢になった。
七月李克用は吐谷渾を破り雲州を取り北辺を安泰にした。
八月王建は成都を降し、陳敬瑄を捕らえて西川地方を平定した。これにより唐は完全に四川地方を失った。
朱全忠は河南地方の平定に努めた。
十月昭宗は宦官楊復恭を逐い、復恭は一族と共に興元に奔った。
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大順元年(890年.寛平二年)

2006-12-14 18:03:25 | Weblog
西川では蛮族を味方につけた王建は次々と属州を陥落させ、陳敬瑄は追いつめられていった。
宣武朱全忠は、河東李克用の横暴を指摘しこれを包囲攻撃することを提唱した。
朝廷では方針が分裂したが、全忠派の宰相張濬が主将となり、五月克用討伐が始まった。
初戦は克用支配下の潞州で反乱が起き回収され、東部邢州も帰服し、幽州・雲州軍が北部で侵攻するなど形勢はよかったが、
主方面の朝廷軍は七月簡単に潰滅し、全忠軍もあまり動かず破綻することになっ。
淮南・浙江地方の争いは依然として激しく、各州の取り合いが続いた。
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龍紀元年(889年.寛平元年)

2006-12-13 17:35:48 | Weblog
二月秦宗權が誅殺され黄巣の乱は終了したが、唐は既にその支配権を失っていた。
六~八月河東李克用は東方へ勢力を拡張させ邢州を降した。
朱全忠は徐州の時溥を攻撃していた。
淮南・浙江地方では孫儒・楊行密・錢鏐の三つどもえの争いが続いていた。
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光啓四年・文徳元年(888年.仁和四年)

2006-12-12 14:30:46 | Weblog
正月朱全忠は秦宗權追討に向かった。
このころより浙江地方では呉越の祖である錢鏐が力を増していった。
三月無能で無気力な傀儡皇帝僖宗が亡くなり、弟壽王が昭宗として即位した。
昭宗は唐の復権を志したが、混乱が続いた。
四月孫儒が淮南に入り、楊行密と争うことになった。
六月より西川で王建[前蜀の祖]が田令孜党の陳敬?を攻撃し動乱が生じた。
十一月形勢不利となった秦宗權陣営で反乱がおき、宗權は捕らえられた。
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光啓三年(887年.仁和三年)

2006-12-11 18:00:10 | Weblog
三月嗣襄王の擁立に関係した宰相蕭遘・裴達が誅殺された。
僖宗は京師に帰れず鳳翔府に滞在していた。
同じく三月浙西で周寶が逐われ、四月淮南で高駢が幽囚されて、朝廷より任用された武将は次々と失脚し、自立系の武将が主導権を握るようになっていった。
五月朱全忠等は孝村で秦宗權を大破し、宗權は東都や河陽・鄭州など占領地を放棄して蔡州へ逃げ帰った。
六月鳳翔で神策軍と地元節度使李昌符が争い、七月昌符は敗死した。その後には李茂貞[後の岐王]が任用された。
宣武朱全忠は、天平朱瑄や兗海朱瑾を攻めて勢力を拡大していった。
十一月廬州刺史楊行密[後の呉王]が淮南を落とした。
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光啓二年(886年.仁和二年)

2006-12-10 08:58:04 | Weblog
李克用・王重榮は朝廷に対する徹底的な反乱をする気はなく、自領に戻ったが、邠寧節度使朱玫は田令孜の支配に失望し自立した。
僖宗は興元に奔りこれに対抗したが、令孜の不人気があり形勢は不利であった。
四月令孜は西川に去り、宦官楊復恭が実権を握ることになった。
しかし十月玫は嗣襄王を皇帝に擁立した。
この政権を承認する藩鎭が多かったが、克用・重榮等は僖宗政権を支持した。
復恭は玫の配下王行瑜を裏切らせ、十二月玫を殺させてやっと京師を回復した。
しかし唐の支配は京師周辺にしか及ばなくなった。
秦宗權はますます勢力を拡大し、十一月鄭州、十二月河陽を陥した。
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中和五年・光啓元年(885年.仁和元年)

2006-12-09 09:10:35 | Weblog
秦宗權の勢力は強大となりは四月山東節度使、六月東都を陥し、宣武節度使朱全忠を攻撃した。
京師に戻った僖宗[田令孜の傀儡]は再建した神策軍を維持する費用がなく、京師回復の功臣である河中節度使王重榮の塩池の権利を奪おうとした。追いつめられた重榮は河東李克用と結び対抗した。
十二月克用等は邠寧節度使朱玫に率いられた神策軍を沙苑で大破し、京師を侵した。
僖宗は田令孜に擁せられ再び鳳翔へ逃げた。
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中和四年(884年.元慶八年)

2006-12-08 17:28:16 | Weblog
七月僖宗を擁した西川節度使陳敬瑄[宦官田令孜の兄]は東川楊師立を攻め落とし剣南を併合した。
朱全忠・李克用は黄巣を次々と破り、七月黄巣は殺された。
全忠は克用を謀殺しようとして失敗し、両者は犬猿の仲となった。
しかし残党秦宗權の力は強く戦乱は続いた。
京師を回復した都統であった義成節度使王鐸は義昌[滄州]へ転任させられたが、途上に前任楊全玫の依頼を受けた樂従訓[魏博樂彦禎の子]の襲撃を受けて殺された。
朝廷はこれに対してなにもできなかった。
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中和三年(883年.元慶七年)

2006-12-07 21:37:41 | Weblog
正月弱体の諸軍では困難とみて、沙陀の李克用が京師回復を命ぜられた。
二月魏博節度使韓簡は殺され、牙軍により樂彦禎が擁立された。
三月李克用は南下して黄巣を破り、四月京師を回復した。
黄巣は河南に奔ったがなお大軍を擁しており、蔡州秦宗權を降した。
帰順した朱全忠は宣武軍節度使となり、巣と対峙することになった。
李克用は功績により河東節度使に任命された。
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中和二年(882年.元慶六年)

2006-12-06 17:51:02 | Weblog
正月動かない高駢を都統から解任し、宰相王鐸が再び都統となり京師回復を図ることになった。
正月から八月にかけて多くの將が征討軍の都統に任命されたが京師周辺で騒ぐだけであった。
包囲された形の黄巣軍は食糧が欠乏し、京師の住民や包囲軍の官軍が捕らえた庶民を買い取って食糧としていた。
九月巣將朱温[賜名され全忠、後梁の太祖]が同州を以って降った。
魏博節度使韓簡は勢力拡大を図り、河陽を取り、十月天平節度使曹全晸を敗死させたが、河陽節度使諸葛爽の反撃にあった敗走した。
南部諸州でも群盗や諸将が蜂起し自立が続いていたが対処の方法はなく、追認するだけであった。
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中和元年(881年.元慶五年)

2006-12-05 17:41:33 | Weblog
正月僖宗はさらに成都[剣南西川節度使、四川]へ逃れた。
二月淮南節度使高駢を都統に任命し京師回復を図ったが、老耄した駢は逡巡して動かなかった。
元宰相で鳳翔節度使鄭畋は、京師近辺に残った諸軍を結集し京師回復を図った。
四月諸軍は京師に乱入し、油断していた黄巣を逐った。しかし巣は大軍で反攻し、朔方唐弘夫や原程宗楚などが戦死した。
これにより京師近辺の諸軍は潰滅してしまった。
北邊で逼塞していた李克用は赦され、六月には忻代二州を占拠した。
九月諸軍は再び京師回復を図ったが敗北した。
十月鳳翔で軍乱が起き節度使鄭畋が逐われ、さらに状況は悪化した。
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廣明元年(880年.元慶四年)

2006-12-04 18:28:23 | Weblog
正月荒廃した荊州で軍乱が起こった。これ以降荊州はつどつどの戦乱により崩壊していく。
引き続く河東節度使の内乱を抑えるため宰相鄭従讜が赴任した。これ以降河東軍は沈静化した。
淮南節度使高駢の將張潾は大軍を率いて黄巣を追いつめたが、四月信州で敗死し、形勢は一転した。
七月幽州節度使李可擧は李克用を破った。克用は北邊に逃れた。
黄巣は江南から北上を開始し十一月汝州と東都を落とした。
それを防禦していた諸軍は、忠武軍や感化軍で反乱が起き節度使が逐われたことにより自壊してしまっていた。
十二月黄巣はさらに進み、宦官田令孜が防禦のために出撃したが、腐敗した神策軍は実態がなく、京師は陥落した。
高級官僚や皇族を虐殺された。
僖宗は興元[山西節度使、京師南西の山間]に逃れた。
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乾符六年(879年.元慶三年)

2006-12-03 08:39:54 | Weblog
二月李克用討伐の前線、河東軍が乱れ節度使崔季康が殺された。
河東軍はこれ以降頻繁に軍乱を起こし動揺を続けた。
四月宰相王鐸は自ら黄巣討伐を志願し、荊南節度使。諸軍都統として赴任した。
黄巣は九月廣州を陥したが、暑熱のため疾病にかかるものが多く、急遽北上を始めた。
十月討伐軍の前衛湖南の潭州を陥し、潰滅させた。
無能な節度使李係[晟の曾孫]は逃げた。
さらに荊南に迫り、王鐸もまた逃げ、巣は荊南を潰滅させた。
十一月黄巣はさらに北上し山東節度使に迫ったが、劉巨容・曹全晸などに迎撃され大敗し江南へ奔った。巨容らは追撃しなかった。
これは賊がいなくなると、將の功績が認められなくなると感じていたためである。

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