プチコミ情報局

生活に直結した新鮮で興味ある情報を発信します。
皆様からも面白く参考になる情報(正しい情報)をお寄せ下さい。

江戸城最古の石垣発掘、内外の人々に公開すべし (再掲)

2024-07-13 | Weblog

江戸城最古の石垣発掘、内外の人々に公開すべし (再掲)
 江戸城趾の1 部である東御苑に開設されている三の丸尚蔵館が2019年から拡張工事を行っているところ、2020年11月に「現存する最古とみられる江戸城の石垣」が発掘された。石垣は、同館の建て替え工事実施に伴い、江戸城趾が所在する東京都千代田区が必要な発掘調査を行ったところ発見されたもので、2021年4月13日なって公表された。
 石垣は、地下約7メートルから7段程度積まれており、高さ約4メートル、幅約16メートルのもので、江戸時代初期の1610~1620年ごろに築かれた堀の石垣と推定とすいていされている。石組みは粗く石と石の間に河原石がそのまま使われているなど、荒い作りとなっている。
 千代田区は、関係当局とも協議の上、積み方が弱く、くずれる危険性もあることなどから埋め戻すこととしている。
 1、折角の貴重な歴史的遺跡、展示する方法を検討すべし
 東御苑尚蔵館は、皇室が国に寄贈した美術品などを展示するために1992年(平成4年)9月に建設されたもので、石垣はその拡張工事に伴い発見された。ここは、現在東御苑とよばれているが、江戸城趾の中心部の1角の「3の丸」があった付近である。東御苑のある一帯には、嘗て江戸城の天守閣があり、将軍の居所であり、接見等の場所である本丸のほか、大奥や二の丸、三の丸があったところである。本丸は江戸初期に火災で焼失し、それとは別の二の丸のあった場所に建設され、その後拡張と焼失を繰り返しながら区画を移動した。従って、東御苑として公開されている区画は、江戸城の中心部に当たり、焼失毎に埋め立て、別の区画を拡張するなどを繰り返しているので、地下に貴重な遺跡が残っている可能性が高い。
 宮内庁は、尚蔵館が手狭になったことから新館の建設を提案したが、文化庁(宮田亮平文化庁長官当時)が反対し、立て替え拡張されることになった。幸いなことに、工事前に遺跡の有無の調査が行われ、江戸城最古とみられる石垣が発見されたものだ。
 今回発掘された石垣は、江戸初期のもので当時の情景を残す数少ない遺跡であり、その後の城内の変化発展している様子を見て取ることができるので、適切な防護、安全措置を執り、公開されるべきであろう。折角の貴重な遺跡を埋め戻してしまえば、国民の目に触れることなく、歴史を埋めることになるので適切でない。
 逆に、江戸城にはなじみのない現代の建物である尚蔵館の拡張工事のために、江戸城の最古の石垣を埋め戻すというチグハグさ、歴史的遺跡への過小評価に違和感をおぼえる。
 2、江戸城趾東御苑などの再発掘の良い機会
 今回尚蔵館の拡張工事に際し、発掘調査が行われ、‘たまたま’石垣が見つかったことは幸いであったと言えよう。ということは、少なくても江戸城三の丸周辺では十分な発掘調査が行われていなかったことを物語っている。
 三の丸のある東御苑には、江戸城天守閣をはじめ、本丸や大奥、二の丸、三の丸など、1603年から1868年までの江戸幕府の中枢部分があった歴史的にも文化的にも非常に興味ある遺構である。現在は、天守閣の石垣や二の丸庭園の一部があるのみで、三の丸の尚蔵館など新たに建てられた建物を除き、更地の庭園となっている。公開はされているが、江戸城の面影は天守閣の石垣や二の丸庭園を除き何もない。265年続いた歴代将軍の生活の痕跡がない。江戸城は、内戦を避け英仏列強の介入を避けるため歴史的な無血開城が行われ、第2次世界大戦での米国による直接の爆撃が避けられ、大手門を失っただけであるので、明治維新には、お堀周辺の石垣や門などだけでなく、東御苑となった場所にも歴史的な建物が存在したはずである。
 本丸や大奥、二の丸、三の丸などの建物は、江戸初期から何回も火事に遭い、本丸、二の丸、三の丸へと移動しながら再建、拡張を繰り返し、使われてきたものである。従って、地上にあった建物等が倒壊されたとしても、地下には江戸時代に焼けた建物の一部や土台、礎石、及び生活用具類等の一部がが残っている可能性がある。
 今回、三の丸尚蔵館拡張工事のため、周辺の発掘調査が行われ、予期していなかった江戸城最古の石垣が「たまたま」発見されたことは、これまで三の丸を含め東御苑等の発掘が十分に行われていなかったことを示している。
 江戸城が無血開城された後、明治維新となり明治政府が江戸城の一部を残しで倒壊したが、担当太政官と写真師内田九一が江戸城内を写真撮影し、また内田九一は自らも当時の映像を残している。その写真師内田丸一については、「内田九一の江戸城新発見写真」 展覧会が2020年3月上旬にお茶の水シェイクスピア・ギャラリーで開催されたようだが、コロナウイルス騒ぎの真っ最中であったこともあり、一部の通信社が伝えているのみで余り話題にならなかったようだ。内田丸一は宮内省御用掛の写真師となったが、32歳の若さで亡くなったこともあり、江戸城の写真はほとんど世に出ることはなかった。
 江戸265年の歴史は、庶民文化や商業主義や家内工業的な匠の技術を含む経済・社会が急速に発展し、地方と江戸との各種の交流等を促進させ、良きにつけ悪しきにつけ、多くの分野で今日の日本、そして将来の日本のルーツの1つになっている。因みに、各藩の藩主に江戸詰めを求めた参勤交代は、謀反を起こさせないための制度とか各藩を疲弊させるためのものとかと批判されることが多いが、その面だけで無く、地方と江戸との交流促進や交通通信制度の基礎となった面がある。歴史研究においても江戸城趾の発掘が進めば、多くのことを学ぶことが出来、また内外の人たちの観光資源となることが期待される。
 3、両国の片隅に立つ「江戸博物館」
 両国にある国技館の裏手に「江戸博物館」がある。展示物等に目を見張る物は少なく、下町の庶民生活の様子は暗く狭苦しい。人影もまばらなことが多い。
 江戸城趾の広大な敷地の中に江戸を伝える博物館や展示場は1つもない。江戸の歴史が消されているような印象を受ける。明治以降の治世は第2次世界大戦後、現行憲法の制定をもって終わっている。もはや江戸の歴史を埋める必要はないのではないだろうか。江戸城趾は全国民の、そして恐らく世界の多くの観光客を引きつける歴史的遺跡となろう。(2021.5.14.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)

2024-07-13 | Weblog

‘皇居’を京都御所に戻すべきこれだけの理由!! (再掲)
 2019年4月30日に平成天皇が退位、5月1日の新天皇が即位され、同年10月22日に新天皇の即位を内外に表明する「即位の礼」が実施される。
 新天皇のご即位をお祝いする。しかし戦後の新憲法の下でのあり方には違和感もある。即位の礼についても、詳細は明らかにされていないが、式典に使用される「高御座(たかみくら)」が保管されている京都御所で解体させたうえ東京に輸送された。それだけに掛かる費用が、総重量8トンの解体・輸送経費などで9億円と言われているが、平成天皇同様、新天皇の即位の礼が東京で行われ、江戸城址内にある‘皇居’に住まわれ続けるのであろうか。
 即位の礼は、伝統に基づき、明治天皇はもとより、大正天皇、昭和天皇も京都御所で行われている。天皇は、明治維新後、江戸幕府が無血開城した江戸城内に‘皇居’を新設し、京都御所からそこに移り住まわれている。それは徳川将軍派の再起を封じ込める意味と米欧列強の介入を抑止する上で必要であったと思われる。第2次世界大戦後も、昭和天皇は江戸城址内の皇居に留まった。これは、米国を中心とする連合軍が進駐し、皇居のある江戸城跡内に連合指令本部が置かれることを防ぐためにも止むを得ない措置であったと考えられる。
 昭和天皇崩御後、平成天皇はそれを継承したが、現在は米軍の進駐はもとより考えられず、また国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に留まっている必要はなくなっているのではないだろうか。即位の礼が東京で行われたのは、平成天皇が歴史上唯一の例外となっている。
 むしろ新憲法の下の新時代においては、伝統に沿って天皇は京都御所に復帰され、江戸城址は国民に開放すべきであり、その理由は次の通りである。
 1、歴史上最も平安な現在、天皇が江戸城址に留まる必要はなくなった
 明治維新となり天皇は京都御所から江戸城内に移り住んだが、上記の通り、明治維新直後や戦後直後と異なり、今日国内情勢は歴史上最も安定していると共に、憲法上の天皇の地位は国民に広く認識されているので、もはや天皇が江戸城址内の‘皇居’に陣取っている必要はなくなっていると言えよう。「帝国憲法」が廃止され新憲法となった居る今日でも、江戸城址内に宮内庁が占拠しているのも適切でない。
 新天皇は、歴史に則って京都御所に復帰することが望ましい。天皇が国民統合の象徴であることは認識されているので、京都におられても問題はない。それ以上に関西及び西日本の人々にとっては喜ばしく、誇りにもなることであろう。無論、京都御所には必要な改修等を行った上である。
 天皇のご公務については、憲法上国事行為として10項目掲載されているが、必要な時には東京等、必要な場所に赴くことは交通事情が飛躍的に向上している今日では問題ない。また東京に滞在し、或いは一定の期日東京での公務が必要な時は、赤坂の迎賓館(赤坂離宮)を所定の改築をし、そこで執務、宿泊されればよい。現在赤坂の迎賓館は、年数回しか使用されておらず、著しい無駄になっており、その活用を真剣に考える時期であろう。日本は、少子超高齢化の本格化を迎え、税負担人口が減少する一方、国民総所得の2倍に当たる1,000兆円を超える公的債務を抱え、これが年金支給額の実質削減と並んで国民の将来不安の大きな原因になっている。国家や地方公共団地が無駄な施設や土地を抱えている余裕はなく、無駄を無くしていくことが不可欠になっている。

 2、旧帝国憲法の下での’皇居’の存在は現行憲法の下では時代錯誤
 戦後日本においては、旧帝国憲法に代わり、新憲法が制定され、主権は国民にあり、いわば大政は国民に奉還されているので、国民の偉大な歴史的、文化的遺産である江戸城跡に‘皇居’を置いておく必要性はもはやなく、江戸城址を国民に奉
 3、日本や世界にとっての偉大な歴史遺産、江戸城址は国民に開放すべき
 江戸城を中心とする江戸の人口は、幕府が発足した17世紀初頭には15万人程度と言われているが、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
人口はロンドン(1801年約 86万人)、パリ(同約 54万人)と比較しても世界一の大都市であったと推定されている。文化的にも、参勤交代により地方の文化も持ち込まれ還することが望ましい。それ以上に明治維新は過去のものとなり、天皇専制は終わり新憲法になっても江戸城址を‘皇居’により封じ込めて置くことは不適当とも言える。‘皇居’、‘皇居’と言われ、そのような先入観があるようだが、江戸城址なのである。
 そのようにすることが、日本の歴史に沿うことになると共に、東西の文化的、社会的なバランスが回復し、東西のバランスある発展が望めるのではなかろうか。
、多様性があり、また版画や日本画、歌舞伎、相撲そして魚市場など、欧州でも評価される高い文化が華を開いた。
 その中心が江戸城であり、江戸文化は東京だけの歴史、文化遺産ではなく、日本の、そして世界の文化遺産と言えるので、それを再評価し、人々に開放し、可能な範囲で復元、保存して行くことが望まれる。江戸城址は世界有数の観光資源となるであろう。またそれに関連する城外の江戸時代の遺跡を加えると更に豊かな歴史文化遺産となろう。

 4、首都圏直下地震等の大規模災害等に備え、天皇の京都御所復帰が望ましい
 首都圏直下地震等の大規模災害の発生は現実のものとなりつつあり、各種の、緊急対策が検討されているが、それでも自然災害や何らかの不測の事態が想定の範囲を超える可能性も念頭に入れて置く必要があろう。そのような首都圏緊急事態への対応の一環として、伝統に則り天皇の居所を京都御所に戻しておくことが望ましい。そのような緊急事態の際、立法、行政、司法の政府機能が打撃を受けるが、象徴たる天皇をも巻き込むことを避けるため、皇居の京都御所復帰を真剣に検討すべきであろう。天皇が京都御所に復帰される場合の対応については、上記1.の通りであり、十分対応可能であると共に、江戸城址の国民への開放や赤坂御所の有効活用などの可能性が広がり、有益であろう。
 江戸城址が開放されれば、国民の憩いの場、歴史研究の場や格好の観光スポットとして活用できる以上に、大規模災害時の都民の避難場所となると共に、緊急時総合対策センターとして活用できるように整備して置けば、都心の360度対応可能な緊急センターとして活用も出来る。
東京への一極集中を是正し、地方都市の活性化を図るため、従来型の地方への助成金などでは限界的な効果しか期待できず、もっと抜本的なシステムの転換を図らなければ達成できないことは明らかだ。戦後の歴代政権の施策では地方の活性化を実現出来なかったばかりか、逆に東京への集中を招き、地方の人口減や限界集落の増加が加速していることからも明がだ。抜本的な転換が望まれる。
(2019.5.1.改定、同7.4.補足)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

衆院総選挙もさせてもらえなかった福田総理辞任の「変」―(再掲)

2024-07-13 | Weblog
<はじめに>

 2008年9月1日、福田康夫首相(当時)が、緊急記者会見を開き「新しい布陣の下で政策の実現を図って行かなくてはない」旨述べ、辞任を表明した。後期高齢者医療保険の反発など反発など、内閣支持率の低迷に加え、衆院選の時期をめぐり公明党との亀裂が生じ、参議院で多数を占める民主党が対決姿勢を強める中で、与党内での信頼も失い、手詰まり状態となり、自ら解散、総選挙すら打てずに退陣となった。

 現在国会は衆参とも自公両党が多数を占めているが、旧統一教会に多数の自民党議員が関係し、また政治パーテイ裏金問題で自民党の主要派閥が関与し世論から厳しい批判を浴び、国会運営が円滑に進まず、また岸田内閣への信頼が無くなり支持率が下がり続けている。現在与党自民党は、現内閣の下で総選挙を打っても勝算はないとする意見が強く、早くも9月の自民党総裁選挙に向けて候補者選びに入っている。現内閣はずるずると9月までポストにしがみつき、9月には、総理総裁の座から外され、自らは総選挙などを打てなくなるが可能性が高く、2008年の福田内閣と状況が非常に似ている。

 首相は、安部元首相の3回忌において、「阿倍政治を継承し、次代に引き継ぐ」旨表明したと伝えられている。しかし阿倍政治自体が、7年半もの一本調子の経済金融政策による深刻な弊害、もりかけ問題での担当唐突な配転と証拠隠し、桜を見る会の不正な経理処理と証拠の破壊、更に旧統一教会の擁護や裏金の温床派閥となっていたことなど、法令遵守に反する政治運営をしていたことが明らかになって来たている。それを継承し「懸案を処理し、結果を出す」と言うのであれば、解散、総選挙を行い、自らの信念、主張を国民に問うべきではないだろうか。このような観点から、本稿を再掲する。

 

シリーズ平成の「変」-衆院総選挙もさせてもらえなかった福田総理辞任の「変」―(再掲)
 2008年9月1日、福田総理は辞任の意向を表明した。
 記者会見で述べていた通り、安倍前総理だけではなく、長期に亘る自民党政権で積み上げられた「負の遺産」を引き継ぎ、また参議院が民主党など野党に多数を占めている中で、大変苦労をされた。「負の遺産」は、福祉失政であり、経済失政、経済無策であり、行政のメタボ体質や公務員の綱紀の乱れ、そして閣僚の失言と不明瞭な政治資金など、根は深い。その中で、道路特定財源の一般財源化や消費者庁の設置などに先鞭を付け、一定の功績を残したと言える。ご苦労様でしたと言いたい。
 しかし、「自前の」内閣改造、党役員の入れ替えを行って1ヶ月にもならない中での辞任である。「変」である。今回の内閣改造、党役員人事の裏には森元総理が居ることで知られている。
 内閣改造をしても支持率は上がらず、党内では改革外しや反改革抵抗勢力の巻き返しの中で、これでは選挙が出来ないと「福田おろし」が吹き荒れていた。石油の他、諸物価高騰の中での景気後退により、景気対策が声高に叫ばれ、赤字国債の発行による大型の財政出動論が飛び出し、その先には消費税増税論が見え隠れする。路線の転換圧力である。「改革」による成長の恩恵は、反改革路線で消えた。経済失政とも言える。それをまた大型の公共事業や財政出動で浮揚させようというわけだ。バブル崩壊後、その積み重ねで800兆円以上の公的債務が積み上げられた。当時頻繁に公共投資を売り込んでいたリチャード・クー氏(野村総研主任研究員)がまた顔を出し始めている。800兆円の国の借金はどう処理するのかと問いたい。更に公債を積み上げてどうする積もりなのだろうか。
「変」である。路線転換の「変」である。
 不思議なことに、安倍前総理が政権運営に行き詰まり辞任したのは麻生太郎自民幹事長の時である。今回も、党役員人事で返り咲いた同幹事長の下での福田総理辞任である。同幹事長は2つの政権を党として支えられなかったという結果となっている。党内の路線の不一致から、党として政権運営を支えられなくなって来ているのであろう。
 これから新しい自民党の総裁が選ばれ、国会で首班指名が行われることになろう。衆議院では指名が得られても、参議院では否決される。民意を問うべき時期であろう。 (Copy Right Reserved.)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本沿岸の中国漁船は政府公認の密漁船団だ!

2024-07-13 | Weblog

<はじめに> 7月5日、中国海洋調査船「向陽紅22」が沖ノ鳥島北方の海域にブイを設置した旨公表。この海域は日本の排他的経済水域で囲まれた海域で公海ではあるが、海洋法上日本の大陸棚として認められている海域。中国側は「津波観測用で日本が大陸棚に対して有する主権的権利を侵害はしない」としている。しかし、1)この海域は公海上ではあるが、中国はここを日本の大陸棚の上であることを承知していながら、事前に日本側に了解を求めることなく、かなり大きなブイを設置したことは認められない。2)また、ここは公海上であり、ブイの設置は自由で安全な公海を妨害するので、撤去を求めるべきであろう。中国側はこのブイを「津波観測用」としているが、西の沿岸は日本であり、東はハワイ、米国であるので、中国大陸とは関係のない第3国に影響する情報観測を目的とした敷設物であるので、敵対的なものと見做されるので撤去を求めるべきであろう。

 またこのような不正な行為を、国際機関である海洋法裁判所(本部ハンブルグ)や国際司法裁判所(本部ハーグ)に即時撤去を求めて提訴すべきであろう。同時に、安全確保の観点から、航路標識を兼ねて日本としても中国側ブイの周辺に複数のブイを構築するなどの迅速な対応が望まれる。

 このような観点から、本稿を再掲する。

シリーズ平成の本音―日本沿岸の中国漁船は政府公認の密漁船団だ!

2014-11-10
 2014年11月4日、海上保安庁は太平洋岸の小笠原諸島から伊豆諸島にかけての海域で中国漁船を205隻(3日現在)確認したと発表した。小笠原諸島は東京から南南東約1,000キロの太平洋側の海域にあり、周辺に103隻(内領海内に約59隻)、更に近海の伊豆諸島の鳥島(東京の南方約580キロ)の南に102隻(領海内1隻)が集結していたとされる。これらの船は、全て領海から200海里(約370キロ)の排他的経済水域(EEZ)内にいたが、中国では古くから珍重され極めて高価な赤珊瑚を密漁する目的と見られているが、外国人漁業規制法やEEZ漁業法は、領海での外国人の操業や、EEZでの無許可操業を禁じている。これは国際的に認められている海洋法規である。
 その上、これらの中国密漁船は、海底300~400mの赤珊瑚を根こそぎ採取する原始的な漁法を用いており、1年に1mm程度しか成長しない赤珊瑚の生息地域の著しい環境破壊に繋がると危惧されている。なお、中国自体が自然保護の観点から赤珊瑚自体の捕獲を禁じているので、赤珊瑚の保護に必要性を知った上での日本海域内での無法行為ということになり、このような中国の密漁、無法行為を世界に訴えるべきところだ。
1. 大型台風20号接近で中国密漁船、無申請で島領海内へ
このような中で、勢力の強い台風20号が北上し、6日前後に中国密漁船が集
結している伊豆諸島周辺に向かうことが予想されていたが、中国密漁船が周辺の諸島に避難し、場合により船員が上陸することを島民が恐れていた。
 所管の国交省(海上保安庁)は取締を強化するとしており、また一部の島には警察が増派されている。このような中で、太田国交相は、4日の閣議後、‘中国漁船に同海域から退避するように発信している。・・・(島などに)上陸しないように厳重な指導を基本方針にして臨む’と表明していたが、翌6日、人道上、島への上陸は認めないが、領海内の緊急避難的な停泊は認めるとした。
中国密漁船は、台風が近づいている6日、ほとんどが南東方面に退避したようだが、13隻が島の領海内に漂泊していた。領海内への避難申請などは行われていない。
 しかし、もし日本側が島領海内への避難を認めない場合、中国側は日本への非難を強める可能性が強く、になる可能性がある。
 日本としては、日中間の非難の応酬などを避けるためにも、事前の同海域からの退避を警告する一方、人道上の観点から台風被害から逃れるための島領海内への緊急避難を容認したことはやむを得ない事であろう。
 しかし、島の領海内に無申請、無許可で入った中国船については、容認するとしても、申請を行うよう注意喚起するべきであろう。また万一中国船の船員が島に上陸等した場合には、赤珊瑚の密漁の可能性を日本当局が検査し、その疑いがある者は日本のEEZ内での不法な密漁として船員を逮捕等するよう措置すべきであろう。
 このような中国船による日本のEEZでの密漁や資源の乱獲等は無法、不法な行為であり、また申請もなく領海内に侵入し停泊等することは初歩的な国際規範の侵害であるので、中国政府に対し強く注意を喚起、警告するべきであろう。
このような国際規範を守らない中国の無法な姿勢は西沙諸島や南沙諸島を巡り、ベェトナムやフィリピン等との関係においても見られおり、国際社会への懸念要因となっている。
2. 中国政府は安倍政権の足元を見透かしているのか?
2012年12月、安倍首相が2回目の政権に就いて以来、尾を引いていた尖閣列島問題に加え、靖国神社参拝や歴史認識、対抗的な安全保障姿勢等を巡り中国との緊張が激化し、習近平中国主席と国際会議における儀礼的な握手程度を除き首脳会談が実現しない状態が続いている。
 11月10、11日に北京で太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開催されるので、日本側としてはその際に日中首脳会談を実現したいところだが、6日現在決定していない。米中首脳会談は決定していることが明らかになっており、国際会議主催国が多くの国と2国間の首脳会談を行うのが慣例だ。
 連立与党内にも日韓に加え、日中首脳会談が行えない状態が政権発足後2年近く続いていることに懸念を示している。緊張を高めるばかりで、安全保障環境にも有害だ。もっともそれが日本の防衛力強化や集団的自衛権議論を含む日米同盟強化に追い風になっていることは皮肉でもある。
 今回、会談形式等は別として、北京で日中間の首脳会談は実現するであろう。国際会議の主催国が参加国首脳から会談要請があれば、会談するのが儀礼であろう。
また福田元首相が7月と10月末に訪中の際、2度に亘り習主席と会談している。異例だ。7月の訪中は、中国で開催された非政府の国際会議に日本側理事長として出席したものだが、習主席との会談の際、安倍首相よりの親書が手渡された模様だ。首脳会談への呼び掛けであろう。それを受けて、福田元首相は再度訪中し、10月29日に習主席と会談している。恐らく7月の会談結果を受けて、首脳会談開催に向けての日本側の考え方を伝え、首脳会談実現を促したのであろう。それでも7日現在、会談は決まらず、谷内内閣官房国家安全保障局長が訪中した。首脳会談の形式的、事務的な詰であろう。
福田元首相が2度に亘り直接習主席に首脳会談を促しているので、まさか中国側も同元首相の顔を潰すような首脳会談拒否はしないであろう。
しかし日本側が首脳会談実現に執着していることは中国側にも見え見えであろう。中国の密猟漁船問題でも、日本側が中国を刺激するような行動はしないと足元を見られていても不思議はない。(2014.11.07.)(All Rights Reserved.)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする