賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た(オーディオブック)

2020-10-11 22:50:05 | 天の国の福音

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た(オーディオブック)

    数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

    「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はエマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

    終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。


主の導きがあるので、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではない

2020-10-10 22:58:33 | 信仰生活

   生活の中で、きっと大小さまざまな困難にぶつかります。困難にぶつかる時、わたしたちはいつも困難から逃れ、神の設けた盛りだくさんな宴席を避けます。しかし、もしわたしたちが正しい態度をもって困難に直面し、神に依り頼むなら、きっと思いがけない収穫を得られます。……

 

 

   困難に直面する時、わたしはいつも困難から逃れて、「わたしはだめだ」と言う

   ある日の午後、わたしは先日作った歌のデモテープを同僚に検査してもらいました。同僚はデモテープを聞いた後、まゆねをしかめて話しました。「あなたの歌の調子がとても低い。あなたの歌い方もぎくしゃくだ。歌を聞く時、わたしは何の感動もない。もう一度録音したほうがいいではないか」と。彼女の言葉を聞いた後、わたしはショックを受け、「会社のパーティーのプログラムのために、わたしは二日間歌を録音して、この数曲の歌のデモテープを作った。明日は作品を提出する日だ。もし今もう一度録音するなら、デモテープは時間どおりに作り上げることができるだろうか。もともとわたしの専攻は音楽ではない。このデモテープを作るのに、わたしはもう全力を尽くした。高音で歌うなんて、わたしが死んでも達成できない」と思いました。そこで、わたしは考えもせずに言いました。「これがわたしにできるせいいっぱいのところだ。わたしはもうベストを尽くした。これでだめなら、わたしはお手あげだ。今度だめならそれまでだ」と。

   思いがけず同僚がわたしの困難を思いやらず、わたしにこう言いました。「雅文さん、このような態度で仕事をしてはだめだよ。何事もいいかげんにするなら、成功を収めることができるだろうか。若者は地道に働き、根気よくことを行い、全力を出してベストを尽くすべきだ。そうしてこそ本当の能力を身につけることができる。このような作品は提出されても、上司の気に入られない。このことはどうしたものか、あなたよく考えてみなさい」。

   同僚が離れた後、わたしの気持ちが長いこと静まらなかった。同僚の一言一言はわたしを不愉快にさせ、わたしの痛いところをついたが、理にかなっていたのです。思い返してみれば、この数年間、わたしは仕事の中で少し困難にぶつかると、「わたしはだめだ」と言い、そして仕事を他人にやらせました。そういうわけで、今になってもしっかりした技量を身につけておらず、どんなことにも精通していません。全く同僚の言うとおりですね。わたしは確かに全然向上心がありません。だが、わたしの今のレベルでは、こんなに短い間に本当にもっとよい効果を収められません。「ああ、どうすればいいでしょう」と、途方に暮れたわたしはぽかんと椅子に座っていました。

   経験することによって、わたしは主に依り頼むなら、難しいことは何一つないと悟った。

   時計の針がカチカチと音をたてて動いているのを見る時、わたしは一層焦れていて、「このように時間をむだにするのでは何にもならない。どうであろうと、試してみなければならない」と思いました。そこで、わたしは録音設備を調整して、試しに歌いました。だが、二回歌うと、わたしは「なぜか依然としてもとのままだ。わたしはだめだな」と気を落としました。この時、わたしは空気の抜けたゴムまりみたいで、非常にがっかりし、もう録音したくなくなりました。わたしはあきらめたい時、自分がクリスチャンであることを突然思い出し、「わたしの主は全能ではないか。わたしは主に依り頼むべきだ!」と思いました。だが、考え直してみると、「確かに主は全能だ。でも、主はわたしに発声練習の仕方や、歌の調子を高める方法を教えるはずがない」とがっかりしました。そこで、悩んでいるわたしはまた椅子に座りました。途方に暮れた時、わたしは次のような聖書の物語を突然思い出しました。主イエスの弟子ペテロは主イエスが海の上を歩いているのを見た時、主に「わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼みました。だが、彼は信仰が小さかったので、強い風を見た時、自分が沈むことを心配して、「主よ、助けてください」と叫びました。すると、主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました(マタ14:28-31を参照)。以前この物語を読んだ時、わたしはペテロの信仰がとても小さいと考えていました。だが、事実を前にして、わたしは哀れなほど小さい自分の信仰を思い知りました。わたしはそれくらいの困難にぶつかった時、神はわたしが歌を録音するのを助けるだろうかと疑い、神の全能と支配を信じませんでした。主イエスはこう言ったことがあります。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタ19:26)。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタ17:20)。そうですね。主の力は非凡であって、すべてを超越できます。天地万物を造った主はどんなことができないでしょうか。人の考えるような不可能なことは、主にとって容易なことです。この時、わたしはまた次のことを思い出しました。モーセはイスラエル人をエジプトから導き出した後、神に対する信仰によって紅海を二つに分け、そうすることによってイスラエルの民が海の中の乾いた所を通ることができるようにしました。幼いダビデは信仰によって、背が高く体が大きいペリシテ人を打ち負かしました。……これらの驚くべきことは、神の全能を表現しているのではありませんか。神がわたしの後ろ盾なので、わたしは神に対する信仰を持たなければならず、自分が真心をもって神に依り頼むなら、当面のこの小さな困難に打ちのめされることはないと信じなければなりません。そこで、わたしは敬虔に主に祈り求めました。「慈愛深い主イエスよ、わたしは困難にぶつかりました。わたしは全力を尽くして会社から与えられた任務を果たしたいですが、わたしのレベルが非常に低いので、どうしても基準を満たすことができません。しかし、わたしはこう信じています。どのことも主の許可のもとで発生するのだ、主がわたしを困らせることはない、と。だから、わたしはわたしの主に対する疑いを捨てて主に依り頼みたいです。主がわたしを助け、わたしに信仰を加えてくださるようにお願いします。……」。

   祈った後、わたしはかつてない心の自由を得、信仰に満ちているようになり、「真心をもって主に依り頼みさえすれば、主がきっとわたしを助ける」と信じました。それで、わたしはもう一度録音することにしました。録音する前に、わたしはまず技巧があるかどうかを考え、もう続けて力まかせにやろうとしませんでした。この時、わたしは突然、以前読んだ発声練習の教材を思い出しました。それで、わたしは曙光を見たかのように、教材に書いてある技巧によって発声練習をし始めました。そして、不思議なことが起こりました。以前、わたしが死んでも高音を出せなかったが、今回は楽々と高音を出し、しかも全然疲れませんでした。わたしは「鉄は熱いうちに打て」と思って、以前録音した数曲の歌をもう一度録音しました。思いがけず録音が一気呵成にやり遂げられ、短い間に完成しました。

   録音した後、わたしは喜んでデモテープを同僚のところに持っていきました。同僚はそれを聞いた後、「ああいい感じだ。今回の効果はとてもいいよ。……」と言いました。同僚の言葉を聞くと、わたしは主に依り頼むと効果は大いに違ってくるとつくづく思いました。自分の努力に頼った時、二日間録音してもよい効果を収めませんでした。だが、主の助けに頼った後、一日の午後を使うと録音をやり遂げ、しかもかなりよい効果を収めました。そのため、わたしは「ハレルヤ、主を賛美します!」と心の中で歓呼し、叫びました。

   夜、家に帰った後、わたしは昼間に起こったことについて繰り返して考えました。思い返してみれば、わたしは生活の中でほとんど主に依り頼みませんでした。だから、わたしはいつも、自分がだめだと断定し、何事においても試みをしたり、困難を乗り越える勇気がなく、次第に自分に失望しました。だが、今日の出来事によって、わたしは多くの収穫を得ました。神の知恵は霊妙で限りがないのです。神の恵みは豊かで無限です。だから、生活の中でいつも神に依り頼めば、すべての困難はすらすらと解決されます。なぜなら、聡明さ、知恵は神から来るのだから。わたしは今度、主から与えられたインスピレーションによって成功を収めました。今度のことのゆえに、わたしは技能が向上しただけでなく、また神の全能がいたるところにあると認識して、神に対する信仰を強められました。今後の生活の中で、わたしはあらゆることで努めて主に依り頼むべきであり、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではありません。なぜなら、神はわたしの後ろ盾であって、乗り越えられない困難がないからです。わたしは一定期間このように実行した後、多くのことはわたしが想像しているほど難しくないと気づきました。いろいろな困難に直面する時、神の導きのゆえに、知らず知らずのうちに突破口を見いだしました。しかも神の導きのゆえに、わたしの業績が絶えず伸びています。わたしの生活は、主の知恵と全能のおがけで多彩になりました。……


だれがわたしの仕事に対する態度を変えるのに決定的な役割を果たしたのか

2020-10-09 22:49:55 | 職場の人間関係

   おととい、わたしは一篇の文章を読みました。その文章の小見出しの一つは「わたしのボスは神である」です。この言葉は深くわたしの心を打ちました。その文章の中の主人公は記者です。主を信じる前に、彼の仕事に対する態度はよくなかったのです。出勤簿には、彼が取材に行ったと書いてありますが、実際には彼は自分の副業を行ったり、或いは家に帰って寝たりしました。主を信じて洗礼を受けた後、彼は「うそを言ってはならない」という神の言葉を見て、クリスチャンが誠実であるべきだと認識しました。そこで、彼は神に祈って、誠実な人になろうという志を立てました。神に祈っていた時、彼は自分が仕事の中でうそを言ったと認識しました。そして、勇気を出してチーフと以前の会社の社長に謝りました。それ以後、彼はずっと神の言葉にしたがって、誠実な人になるための実行をしています。神の言葉によって、彼の仕事に対する態度は完全に変わりました。そのため、彼は光栄にも初めての皆勤賞をもらいました。それ以来、彼は家で原稿を書くのに、上司の監督と催促を必要としなくなっていました。家では、タイムカードを押す制度がないけれど、彼はいつも朝早く起きて仕事をしました。彼は、彼が仕事をする上で神に対して責任を負い、神が彼のボスだと言いました。今でも、彼はこのような態度で自分の仕事を扱うのです。

   神の言葉は実に貴重なものです。神のこの一言は人の仕事に対する態度、人の人生観と価値観を変えることができ、人がもはやサタンから出たうそを言わず、公明正大にふるまい、義理堅くふるまうようにすることもできます。今、わたしはわたしも神に向かって仕事をし、神を自分のボスだと見なさなければならないと、ひそかに志を立てました。なぜなら、わたしもクリスチャンですから。

   ある日の午後、同僚Vikiさんはメールで彼女の作った文案をわたしに送って、その文案をチェックしてくれと頼みました。わたしはよくないところをすべて直した後、タイトルが適切ではないのを見ました。わたしはいいタイトルを考え出そうと、しばらく思案したが、インスピレーションがわきませんでした。そこで、わたしはVikiさんに、タイトルを替えるようにと勧めました。そして、自分の手元の仕事をやり始めました。しばらくしてから、Vikiさんは新しいタイトルをメールでわたしに送りました。わたしはそのタイトルも適切ではないのを見て、また考えてみなさいと返事をし、しかも彼女に、わたしたちが以前作った文案から考え方の方向を探すようにと勧めました。しばらくすると、彼女はメールでわたしに二つのタイトルを送りました。わたしはその二つのタイトルがやはりよくないと思って、また考えてみなさいと返事をしました。そのため、彼女は困ってしまい、わたしに彼女と一緒に考えるようにと頼みました。当時、わたしは口から出任せに承諾しました。でも、わたしはただ儀礼的に彼女に返事しただけであり、彼女がいいタイトルを探すのを助けるつもりがなかったのです。

   夜、Vikiさんは寝る時間になっても、いいタイトルを考え出せませんでした。そのため、その文案ができ上がらず、仕事の進度が影響されました。このような時、わたしは良心のとがめを受け、不安を感じました。わたしはVikiさんに、彼女を助けていいタイトルを探すと約束したが、そうしなったからです。そこで、わたしは神の前に出て、こう祈りました。「神よ、Vikiさんはわたしにいいタイトルを探してほしいと頼みました。わたしは承諾したが、そうしませんでした。神よ、わたしは不誠実で、うそをつきました。今、わたしは誠実な人になりたく、また、悔い改めて、Vikiさんを助けていいタイトルを探したいと思います」。祈った後、わたしは「うそを言ってはならない」という神の言葉を思い出し、また「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。そして、わたしは自分の言動を反省し始めました。Vikiさんが助けてくれと頼んだ時、わたしはしぶしぶ承諾し、「これはあなたの文案だから、わたしがいいタイトルを考え出したら、あなただけが業績を収める。やはりわたし自身の仕事をした方がいい」と考えました。当時、わたしの内に利己的で狡猾な性質があるから、うそをつき、わたしが利益に支配されているため、彼女を助けたくなかったのです。あの時、わたしはVikiさんがわたしの仲間だと考えませんでした。Vikiさんがわたしに彼女の文案をチェックしてくれと頼んだ以上、わたしはその文案に責任を持ち、それを神からの任務、委託として扱うべきでした。わたしは神の監視を受けながら、神に向かってその文案をチェックするべきであり、わたしの文案と彼女の文案をはっきり区分する必要がなかったのです。そこまで考えて、わたしはVikiさんを助けて、いいタイトルを探したくなりました。

   翌朝、目が覚めた後、わたしはまず「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。この言葉によって、わたしの心は喜びに満たされるようになりました。オフィスに入った後、わたしはまず神に祈りました。そして、Vikiさんのためにいいタイトルを探し始めました。わたしは資料を参考にしたり、身の回りの同僚に尋ねたりすることによって、いくつかのタイトルを考え出しました。そして、その中から最もいいタイトルを選んで、メールでVikiさんに送りました。Vikiさんはそのタイトルを一目で気に入りました。その後、わたしはそのタイトルに基づいて文案の結尾を少し直しました。こうして、この文案はとうとう出来上がりました。この労働の成果を見る時、わたしは内心浮き浮きしていました。栄光を神に帰します。

   その日、わたしはずっと「わたしのボスは神だ」という信念をもって仕事を扱っていました。その結果、わたしは各部門の同僚といいパートナーになりました。その日、わたしたちは仕事について話し合ったり、試案、考え方の方向を検討したりしました。わたしたちが交流することによって、仕事上の多くの困難、残されてきた多くの問題は解決されました。こうして、仕事の効率と質が向上しただけではなく、わたしと同僚の関係も親しくなりました。神の言葉のゆえに、わたしは仕事に対して正しい態度を持つようになり、また生きる価値と意義を見つけました。神に感謝します!

   主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われました。神の言葉は、わたしたちの生存の基本であり、わたしたちがことを行う上での指針です。わたしたちが神の言葉にしたがってことを行い、神に向かってすべてのことをし、すべての仕事に責任を持つなら、神はわたしたちと共にあり、わたしたちに実行の道を指し示し、わたしたちを楽しく生きさせ、わたしたちを義理堅い人にしてくさだいます!


ゴスペルソング「神の現れが持つ意義」

2020-10-08 23:35:03 | 福音映画

 

「神の現れが持つ意義」ゴスペルソング
神の現れとは業のため神降ること
神の方法で身分も性質も保ちながら
時代を始めまた幕引くため神は降る
神の現れはしるしや絵画ではなく
奇跡でも大いなる幻でもない
ましてや宗教的な儀式でもない
それは実際に見て触れることのできる事実である
神の現れは
業の手順踏むためや早く終わらせるためではない
それはむしろ神の救いの計画の一つなのだ

神の現れには必ず何かの意味があり
救いの計画にいつも繋がりを持っている
それは人を導いたり説き悟らせるものではない
神の現れは
その時代それぞれで偉業を働くためである
それはどの時代とも異なっていて
人には経験も想像もできない  想像さえも
神の現れは新しい時代の幕を開けまた幕を引くため
新しい、一歩進んだ、人類を救う働き
人を新しい時代へと導いてゆく
これが神の現れの意義
これが神の現れの意義
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


噂は噂、どうやって見破るでしょうか

2020-10-07 23:25:31 | 信仰生活

噂を軽々しく信じることの結果

   かつてこのような物語を見ました。ある侠客はもっぱら富者の財貨を奪って貧者に施し、暴虐を取り除き良民を安んじました。それらの悪者は利益が損なわれた後、侠客を陥れようと、悪徳官吏と対策を相談しました。彼らはあちこちで人を殺したり、放火したり、平民の女性を強姦したりし、しかも他人にこれらは侠客のしたことだと知らせようと、印を残しました。そのため、侠客は官衙に追跡されました。侠客は仕方がなくて山林に隠居しました。ある日、侠客は奥深い山中で、悪者に追跡されているあるお嬢様とその女中に出会いました。付き合って半年、お嬢様とその女中はみな侠客に好感を持つようになりました。お嬢様は侠客と結婚しようとして、彼に告白しました。侠客は聞いた後、非常に喜び、空を仰いで、長いため息をつくときに自分の名前を言いました。お嬢様はそれを聞いたとき、これは官衛に指名手配されている者ではないかと、噂を聞いていたので、あまりの怖さに顔をそむけ、すぐに走り去りました。彼女は走っている時、うっかりして崖から落ちて、死んでしまいました。しかし女中はもし侠客が本当にあんなに悪いなら、彼女たちはすでに殺されたのではないか、どうして今日まで生きられるだろうかと。女中はそれで帰ってきました。それ以後、侠客と幸せな生活を送るようになりました。

   この物語はわたしたちに一つの情報を伝えてくれました。女中は事実を調べることを重んじるので、侠客と幸せな生活を送ることができました。このことから、わたしたちは噂は結局は立つことができないと分かりました。しかしお嬢様は噂を弁別しなくて、噂を軽々しく信じ、その結果命を失ってしまいました。これは本当に愚かなこと、悲しいことです!

噂はどのように生じるか

   物語の中のお嬢様は愚かでしたが、でも現実生活の中でこのお嬢様の役割を演じる人はやはりたくさんいます。このお嬢様が愚かだなと、わたしたちはため息をつきます。わたしたちはまた噂をでっち上げ、まき散らすそれらの人を憎みます。彼らの私欲と悪辣さは直接お嬢様を殺したのだと言ってもいい。では、なぜこれらの人は噂をでっち上げるでしょうか。噂の背後の真相は何でしょうか。わたしたちはパリサイ人が主イエスが働く時にでっち上げた噂を例にして根源を追究し、彼らが噂を狂おしくまき散らして主イエスを陥れる原因を探しましょう。

   主イエスが受肉して人の間で言葉を言い、働かれることは、ユダヤ国全体を沸き立たせました。一部の民は主イエスの説かれる道を聞いて、次々と主イエスにつき従いました。しかし当時の祭司長、律法学者、パリサイ人は民衆が主イエスに立ち返ったのを見た時、これでは民衆の支持を得られなくなって、民衆の神へのいけにえを享受できなくなるのではないかと心配していました。こういうわけで、彼らは自分の地位、生活の道を守るために、主イエスに関する噂をでっち上げ始めました。聖書にこう書かれています。「エルサレムから下ってきた律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」(マコ3:22)。イエスは働く時、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出すのだ、イエスはメシヤではない、などと彼らは噂をでっち上げました。それだけでなく、彼らは主イエスが死人から復活した後、依然として主イエスに罪を告白し悔い改めることをせず、もう一度うそで人を惑わそうと企てました。聖書にこう書かれています。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、われわれの寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」(マタ28:12-13)。このことから分かりますが、これらの祭司長、律法学者は自分の地位、生活の道のために主イエスに関するさまざまな噂をでっち上げて人を欺きました。その結果、これらの噂は今日でもイスラエル人を惑わし、縛っています。これらの噂のゆえに、多くの人は主イエスの働きを調べる勇気がなくなり、そしてパリサイ人のまき散らす噂に盲従して主イエスを罪定めしました。そのため、彼らはこの上なく大きな罪を犯してしまい、また神に救われる機会を失ってしまいました。これは彼らの支配者が彼らにもたらす苦い結果であり、また彼らが噂を信じることの結果です!

   上の小さな物語も歴史の事実も、わたしたちにこういうことを分からせました。一般的に、噂は一部の人が人に言えない自分の目的を達成するためにでっち上げるものです。それは完全に、人を罪に陥れて、ありもしないことをねつ造するものです。わたしたちはまた噂をでっち上げる者の心がどんなに悪辣なのかを見ました。もしわたしたちが噂を見破ることができなければ、噂に害されて、取り返しのつかない悪い結果を招くでしょう!

あなたに噂を見破る3つの方法を教えよう

   では、わたしたちはどうすれば噂を見破ることができるでしょうか。

   第一に、神の働きという事実から調べる

   パリサイ人は主イエスに関する噂をたくさんでっち上げましたが、でも主イエスの救いを受け入れ、また主イエスの委託を受け、万国、万民に福音を宣べ伝える人はやはりたくさんいます。なぜこれらの人は噂に惑わされなかったのですか。それは彼らが事実の真相を調べることを重んじていたからです。主イエスは働いている間に、多くのしるしと奇跡を行なわれました。彼は目の見えない人が見えるようにし、足の不自由な人が歩けるようにし、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させ、風と海をしかりつけられただけではなく、また死人を復活させるというようなしるしと奇跡を行なわれました。主イエスにつき従うそれらの人は主イエスの働きによって、主イエスが来たるべきメシヤだと分かり、主イエスの言うことなすことはいかなる被造物や非被造物も彼の代わりに言い、行なうことができないと見ました。これで分かりますが、事実はつまるところ事実で、いかなる噂も事実の真相を覆い隠すことができません。それは「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタ10:26)と主イエスが弟子たちに言われたこの言葉のとおりです。真相が明らかになる日がきっと来ます。だから、噂を見破るためには、まず事実の真相を調べなければなりません。他人の言ったことを受け売りし、軽々しく噂を信じてはなりません。

   第二に、神の声、言葉から調べる

   主イエスは働いている間に、多くの言葉を発表されました。これらの言葉には、天のの奥義を啓示するような主イエスのたとえ、主イエスがパリサイ人をしかる時のような、人の腐敗をさらけ出す言葉、そして人に対する慰め、励まし、人の隠れた秘密をさらけ出す言葉が含まれています。また聖書の多くの箇所に、主イエスが人にとりついている悪霊をしかると、悪霊が出ていくと記されています。これらの言葉はみな神の身分を表現します。これらの言葉を通して、人は主イエスの言葉が権威に満ちていること、主イエスがまさに人に現れた造物主であることを見ました。多くの人は主イエスの言葉を聞いて弁別することによって、主イエスが旧約に預言されている来たるべきメシヤ、受肉して人の子となって人に現れた神だと分かりました。そのため、彼らは神の働きの歩調についていけました。彼らは賢い乙女のように神の声を聞き分けるので、主イエスの言葉、声はまさに神の声だと分かりました。だから、外界の噂がどんなに凶暴であっても、彼らはその影響を受けず、主イエスがメシヤだと信じていました。このことも分かるように、神の声を聞き分ける人は神の声、言葉を通して神を知ることができます。そういうわけで、彼らは弁別力、噂に対する抵抗力を持つことができました。

   第三に、神の働きの効果から調べる

   律法の時代の末期、人はサタンに腐敗させられて、律法を守られなくなり、罪の中に生きるようになって自力では抜け出せず、そのため律法に罪定めされて死刑にされるという危険に直面していました。わたしたち腐敗した人類の必要と、神の人類を救う経営計画に基づいて、神は初めて受肉して人の世に来て、主イエスの御名によって律法の時代の仕事を終わらせ、天の国の福音と悔い改めの道を宣べ伝え始め、恵みの時代の贖いの仕事を展開されました。わたしたちが主イエスを贖い主として受け入れ、主に祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、赦しを得ることができます。そうなれば、わたしたちは律法を守れなくて罪に定められることはなくなります。そのうえ、主イエスは人が歩むべき道がない時に、人に多くの新しい実行の道を与えられました。例えば、ペテロが主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタ18:22)と聞いた時、主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタ18:22)と言われました。彼はまた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)と言われました。主のこれらの言葉は人に新しい時代の歩むべき方向を与えました。人が主の言葉にしたがって行なうと、聖霊は彼と同在し、彼も平安、喜びを得られます。人が主の言葉に背くと、暗やみの中に生きるようになります。当時、主イエスにつき従うそれらの弟子は主の言葉を実行するため、自由を得て、聖霊の働きの流れの中に生きるようになり、神に良しと認められました。わたしたちは主イエスの働きを経験することによってもたらされる効果によっても、噂を弁別することができます。事実は雄弁にまさるからです!

   考えてみましょう。わたしたちが主イエスが働いた年代に生まれて、パリサイ人のでっちあげた、天地を覆うほど多くの主イエスに関する噂に直面するなら、わたしたちは主イエスにつき従う弟子のように、噂を理性的に分析し、扱い、神の働き、言葉を調べることを重んじるでしょうか、それとも愚かなユダヤの民のように、探究し、調べることもせずに盲目的に噂を信じ、まき散らすでしょうか。わたしたちが噂を見破る原則を把握できなければ、いとも容易に噂によって混乱させられます。噂を見破り、真理の道を調べる原則を把握してこそ、すべての噂の中で立つことができます。こうして、わたしたちは真理を理解することによって、噂をわきまえる弁別力を持つようになります。