賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主の導きがあるので、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではない

2020-10-10 22:58:33 | 信仰生活

   生活の中で、きっと大小さまざまな困難にぶつかります。困難にぶつかる時、わたしたちはいつも困難から逃れ、神の設けた盛りだくさんな宴席を避けます。しかし、もしわたしたちが正しい態度をもって困難に直面し、神に依り頼むなら、きっと思いがけない収穫を得られます。……

 

 

   困難に直面する時、わたしはいつも困難から逃れて、「わたしはだめだ」と言う

   ある日の午後、わたしは先日作った歌のデモテープを同僚に検査してもらいました。同僚はデモテープを聞いた後、まゆねをしかめて話しました。「あなたの歌の調子がとても低い。あなたの歌い方もぎくしゃくだ。歌を聞く時、わたしは何の感動もない。もう一度録音したほうがいいではないか」と。彼女の言葉を聞いた後、わたしはショックを受け、「会社のパーティーのプログラムのために、わたしは二日間歌を録音して、この数曲の歌のデモテープを作った。明日は作品を提出する日だ。もし今もう一度録音するなら、デモテープは時間どおりに作り上げることができるだろうか。もともとわたしの専攻は音楽ではない。このデモテープを作るのに、わたしはもう全力を尽くした。高音で歌うなんて、わたしが死んでも達成できない」と思いました。そこで、わたしは考えもせずに言いました。「これがわたしにできるせいいっぱいのところだ。わたしはもうベストを尽くした。これでだめなら、わたしはお手あげだ。今度だめならそれまでだ」と。

   思いがけず同僚がわたしの困難を思いやらず、わたしにこう言いました。「雅文さん、このような態度で仕事をしてはだめだよ。何事もいいかげんにするなら、成功を収めることができるだろうか。若者は地道に働き、根気よくことを行い、全力を出してベストを尽くすべきだ。そうしてこそ本当の能力を身につけることができる。このような作品は提出されても、上司の気に入られない。このことはどうしたものか、あなたよく考えてみなさい」。

   同僚が離れた後、わたしの気持ちが長いこと静まらなかった。同僚の一言一言はわたしを不愉快にさせ、わたしの痛いところをついたが、理にかなっていたのです。思い返してみれば、この数年間、わたしは仕事の中で少し困難にぶつかると、「わたしはだめだ」と言い、そして仕事を他人にやらせました。そういうわけで、今になってもしっかりした技量を身につけておらず、どんなことにも精通していません。全く同僚の言うとおりですね。わたしは確かに全然向上心がありません。だが、わたしの今のレベルでは、こんなに短い間に本当にもっとよい効果を収められません。「ああ、どうすればいいでしょう」と、途方に暮れたわたしはぽかんと椅子に座っていました。

   経験することによって、わたしは主に依り頼むなら、難しいことは何一つないと悟った。

   時計の針がカチカチと音をたてて動いているのを見る時、わたしは一層焦れていて、「このように時間をむだにするのでは何にもならない。どうであろうと、試してみなければならない」と思いました。そこで、わたしは録音設備を調整して、試しに歌いました。だが、二回歌うと、わたしは「なぜか依然としてもとのままだ。わたしはだめだな」と気を落としました。この時、わたしは空気の抜けたゴムまりみたいで、非常にがっかりし、もう録音したくなくなりました。わたしはあきらめたい時、自分がクリスチャンであることを突然思い出し、「わたしの主は全能ではないか。わたしは主に依り頼むべきだ!」と思いました。だが、考え直してみると、「確かに主は全能だ。でも、主はわたしに発声練習の仕方や、歌の調子を高める方法を教えるはずがない」とがっかりしました。そこで、悩んでいるわたしはまた椅子に座りました。途方に暮れた時、わたしは次のような聖書の物語を突然思い出しました。主イエスの弟子ペテロは主イエスが海の上を歩いているのを見た時、主に「わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼みました。だが、彼は信仰が小さかったので、強い風を見た時、自分が沈むことを心配して、「主よ、助けてください」と叫びました。すると、主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました(マタ14:28-31を参照)。以前この物語を読んだ時、わたしはペテロの信仰がとても小さいと考えていました。だが、事実を前にして、わたしは哀れなほど小さい自分の信仰を思い知りました。わたしはそれくらいの困難にぶつかった時、神はわたしが歌を録音するのを助けるだろうかと疑い、神の全能と支配を信じませんでした。主イエスはこう言ったことがあります。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタ19:26)。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタ17:20)。そうですね。主の力は非凡であって、すべてを超越できます。天地万物を造った主はどんなことができないでしょうか。人の考えるような不可能なことは、主にとって容易なことです。この時、わたしはまた次のことを思い出しました。モーセはイスラエル人をエジプトから導き出した後、神に対する信仰によって紅海を二つに分け、そうすることによってイスラエルの民が海の中の乾いた所を通ることができるようにしました。幼いダビデは信仰によって、背が高く体が大きいペリシテ人を打ち負かしました。……これらの驚くべきことは、神の全能を表現しているのではありませんか。神がわたしの後ろ盾なので、わたしは神に対する信仰を持たなければならず、自分が真心をもって神に依り頼むなら、当面のこの小さな困難に打ちのめされることはないと信じなければなりません。そこで、わたしは敬虔に主に祈り求めました。「慈愛深い主イエスよ、わたしは困難にぶつかりました。わたしは全力を尽くして会社から与えられた任務を果たしたいですが、わたしのレベルが非常に低いので、どうしても基準を満たすことができません。しかし、わたしはこう信じています。どのことも主の許可のもとで発生するのだ、主がわたしを困らせることはない、と。だから、わたしはわたしの主に対する疑いを捨てて主に依り頼みたいです。主がわたしを助け、わたしに信仰を加えてくださるようにお願いします。……」。

   祈った後、わたしはかつてない心の自由を得、信仰に満ちているようになり、「真心をもって主に依り頼みさえすれば、主がきっとわたしを助ける」と信じました。それで、わたしはもう一度録音することにしました。録音する前に、わたしはまず技巧があるかどうかを考え、もう続けて力まかせにやろうとしませんでした。この時、わたしは突然、以前読んだ発声練習の教材を思い出しました。それで、わたしは曙光を見たかのように、教材に書いてある技巧によって発声練習をし始めました。そして、不思議なことが起こりました。以前、わたしが死んでも高音を出せなかったが、今回は楽々と高音を出し、しかも全然疲れませんでした。わたしは「鉄は熱いうちに打て」と思って、以前録音した数曲の歌をもう一度録音しました。思いがけず録音が一気呵成にやり遂げられ、短い間に完成しました。

   録音した後、わたしは喜んでデモテープを同僚のところに持っていきました。同僚はそれを聞いた後、「ああいい感じだ。今回の効果はとてもいいよ。……」と言いました。同僚の言葉を聞くと、わたしは主に依り頼むと効果は大いに違ってくるとつくづく思いました。自分の努力に頼った時、二日間録音してもよい効果を収めませんでした。だが、主の助けに頼った後、一日の午後を使うと録音をやり遂げ、しかもかなりよい効果を収めました。そのため、わたしは「ハレルヤ、主を賛美します!」と心の中で歓呼し、叫びました。

   夜、家に帰った後、わたしは昼間に起こったことについて繰り返して考えました。思い返してみれば、わたしは生活の中でほとんど主に依り頼みませんでした。だから、わたしはいつも、自分がだめだと断定し、何事においても試みをしたり、困難を乗り越える勇気がなく、次第に自分に失望しました。だが、今日の出来事によって、わたしは多くの収穫を得ました。神の知恵は霊妙で限りがないのです。神の恵みは豊かで無限です。だから、生活の中でいつも神に依り頼めば、すべての困難はすらすらと解決されます。なぜなら、聡明さ、知恵は神から来るのだから。わたしは今度、主から与えられたインスピレーションによって成功を収めました。今度のことのゆえに、わたしは技能が向上しただけでなく、また神の全能がいたるところにあると認識して、神に対する信仰を強められました。今後の生活の中で、わたしはあらゆることで努めて主に依り頼むべきであり、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではありません。なぜなら、神はわたしの後ろ盾であって、乗り越えられない困難がないからです。わたしは一定期間このように実行した後、多くのことはわたしが想像しているほど難しくないと気づきました。いろいろな困難に直面する時、神の導きのゆえに、知らず知らずのうちに突破口を見いだしました。しかも神の導きのゆえに、わたしの業績が絶えず伸びています。わたしの生活は、主の知恵と全能のおがけで多彩になりました。……


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