賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャン結婚:結婚生活を救う“秘密”(その2)

2020-10-06 22:24:28 | 信仰生活

——全能の神が私の結婚を救いました

リー・クアン

   私が子供の頃、父と母はいつも口論し、母は父からの暴力や虐待に苦しむことがよくありました。母は心の中にあまりにも多くの憎しみを抱いていたため、かなり若くして亡くなりました。その後、私は、「私が大きくなり、自分の家族を持つようになったら、妻には優しくし、幸せで平和な家庭を築こう。両親の結婚の失敗は繰り返すまい。」と決意しました。

   1995年、私はレストランに機器の取り付けを行なうエンジニア部の部長として働いていました。当初、私は起業家となりお金を稼ぎ、賢く優しい妻を見つけ共に幸せになれば、それだけで十分だろうとだけ考えていました。しかし、しばらくして、他部の部長と一緒に、レストランやフットスパ、カラオケバー、ホテルを始めとする他のエンターテイメント施設を訪れることが多くなりました。この頃、彼らは、「妻と愛人を持て!」「一度も愛することがないよりは、人を愛し、愛に破れる方が良い」「人生は90年しかない。若いうちに精一杯生きろ」「これぞ男の生き方だ。食べて、飲んで、結婚したくない奴などいるものか」「我が国は経済の急成長を約束しており、あらゆるエンターテイメントビジネスを躍進させている。そのため、私達は熱意を持ってこれに応えるべきだ。中国人である私達は、ナイトライフでもやるべきことをしなければ、中国政府をがっかりさせるぞ!」とよく言っていました。彼らの影響を受け、時間と共に、彼らに従いナイトライフの快楽に参加するようになり、それが楽しいことだと考えるようになりました。

 

 

   2000年後半に、私は結婚しました。当初、私と妻の間には深い感情的なつながりはありませんでしたが、仲良く、互いに理解しながら暮らしていました。しかし、私の仕事のために、ソーシャルイベントや複雑な個人的関係を保つ必要があり、独身時代のようにパーティに参加し続けていました。私は快楽的な生活を送り、毎晩、夜遅くによろめきながら帰宅していました。このような生活が2年続き、妻はついに、私の帰宅時間が遅いのは一生懸命仕事していたからではなく、どんちゃん騒ぎしていたためであることを突き止めました。それ以降、妻は私に対して冷たくなりました。私達は自分のことを別々に行ない、話すことはなく、互いに理解や配慮を見せることは全くありませんでした。私達は互いから気持ちが離れてしまいました。私達の関係がひどくぎこちないものになったことを目の当たりにし、結婚が破綻してしまったのではないかと、私は不安になり、眠れなくなりました。この行き詰まり状態を克服したいと思い、私は友人に助けを求めました。ある友人は、「あなたの男友達は、手足同様、あなたの一部です。しかし、女性はファッション以上のものではありません。あんまり心配する必要はありません。彼女を押さえ込んでいれば、上手くいくでしょう。」と言いました。聞いているうちに、この友人の話は尤もだと思い、「妻にレッスンを学ばせてやる必要がある。妻に自分の権威を認めさせ、自分に服従させる必要があり、これにより、私のやり方に嫌な顔を2度とすることはなくなるだろう。」と考えました。そこで、友人が言ったとおりに実行しました。帰宅すると一切妻を手伝わず、奴隷のように自分に仕えさせました。妻が作った食事を給仕させ、それを私が食べてから、別の用件を言いつけるために怒鳴り散らしました。可能な限り尊大かつ強い自分を演じました。月の生活費も細かく記録させ、私がそれを確認するまで、1銭たりとも妻に渡すことを拒否しました。しばらくして、自分の権威が確立できなかったばかりか、私達の関係がさらに冷え込んだことに気が付きました。この方法が功を奏さなかったのを見て、妻と心を割って話し合おうとしました。しかし、私が2言話す前に、私はどんちゃん騒ぎをするばかりで、家にお金も入れないなど、長年の恨みを晴らそうと、私を非難し始めました。そして、私達は口論し始め、険悪な状態でその場を離れました。口論した後、私は毎回、辛さと悲しさでぐったりしました。夫婦が共通言語を話さないなら、一緒の家族でいることは敵と暮らすようなものです。何かを言おうとすると、口論になるのです!この頃はやり過ごすのが大変でした。この状態を継続し、苦痛を長引かせるぐらいなら、離婚した方が良いように思えました。いずれにしても、この恥を表に晒したくなかったので、自分自身の自尊心と、子供達のため、…しかし、何よりも、私が常に抱いてきた幸せな家族を持つという夢を捨てきれなかったため、悲惨な結婚生活を継続していました。しかも、そもそも悪かったのは私です。ですから、修復する必要があるのも私でなければなりません。

   友人は私がとても惨めな気分でいるのを見て、私が妻や子供達と精神的なつながりが持てるよう、感情や結婚に関する本を読むことを勧めてくれました。そこで、私は妻と2人の子供を連れて本屋、動物園、モールなどへ連れて行き、彼女の実家の家族に何かを買ってあげるようお金を渡し始めました。友人と外出する回数は徐々に少なくしていきました…このようにすることが破綻した結婚生活を救う方法だと考えました。しかし、妻はそれでも不満げで、私に冷たい態度を取っており、これについて私には何もできることがありませんでした。親しい友人の1人に、妻と話して、解決して欲しいと頼みましたが、その友人は、「こう言うことは時間がかかるものです。」と困惑顔で言いました。

   それから間もなくして、機器取付会社を設立し、仕事のコツを学ばせるために、義理の弟を招きました。私は、「自分は、ステータスも稼ぎもある男だ。これで妻の虚栄心を満たすのには十分なはずだ。その上、妻の弟の世話までしている。これで私達の関係は修復するに違いない。」と考えました。しかし、それでも、私の予想に反して、私達は頻繁に喧嘩し続けていました。妻は従業員の前で私がきちんと家族の面倒を見ていないと言って、私の欠点をあげつらいました…。この口論をそれ以上聞いていることはできなかったので、いくらかのお金を置いて、別の建設現場に向かうことにしました。離れることを妻に伝えるために、彼女の前に来ると、彼女はうろたえており、私はひどい気持ちになりました。私には全く理解できませんでした。夫婦は過去の問題を思い悩んではならないとよく言いますが、なぜ、私達の間はこんなにひどく対立してしまったのでしょうか。なぜ、私達は顔を見る度に、口論し合い、互いに冷たい態度を取り合ってしまうのでしょうか。どうして、私達は互いにとって辛い状態を招き、私達の家をこのような混乱した状態にしたのでしょうか。私達はこの状態で、4、5年暮らしてきました。私達の関係を修復するために本当に何もできなかったのでしょうか。夫婦としての私達の関係は日ごとに悪くなっており、私の仕事でのプレッシャーは蓄積していき、私は食べることも寝ることもできなくなりました。私は、疲労困憊してしまいました。額には深いシワが刻まれ、かつてはがっしりしていた体格も、65kgにまでしぼんでしまいました。物事が危機に陥ると、この苦しい人生から解放されるために死を願うことさえありました…。しかし、その時には、可愛い2人の子供達のことを思い浮かべ、すべてを投げ出すことはできないと思い返しまいました。そして、終わりがないことが確実な苦しい人生の中にとどまっていました。

   人々が限界に達すると、神が現れます!2008年3月、全能の神の終わりの日の働きを受け入れる幸運に恵まれました。全能の神の教会に行ってから、神の言葉を頻繁に読み、教会の生活に積極的に参加するようになりました。兄弟姉妹が話す真理や、彼らの経験話に耳を傾けることにより、無意識のうちに、家族や結婚に関するいくつかの真理について理解するようになり、人類の運命について、新たな理解をするようになりました。私の心に重くのしかかっていた不安やストレスは大幅に軽減されました。それまで感じたことのない幸せを経験し始め、全身がよりリラックスし、くつろいだ状態になりました。ある集会の時、ここ数年の辛さと困惑について心を開いて話すと、兄弟姉妹は神の次の聖句を私に読んでくれました。「この世界の創造以来、わたしは人々からなるこの群れを予め定め、選ぶことを始めた。すなわちそれは、今日のあなたがたである。あなたがたの気質、器、外観、背丈、あなたがたが生まれた家族、あなたの職業、結婚、すなわちあなたの全て、あなたの髪や肌の色、あなたが生まれた時間に至るまで、すべてはわたしの手により定められたものである。今日、あなたをわたしの前に来させたのも実際、わたしの定めによることは言うまでも無く、あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。自分を混乱させてはならない。冷静に進みなさい。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)神の言葉を通して、私は、「私の人生の道や軌跡は神が事前に定めていた。私の家族、結婚、妻、そして子供達は神の采配により私に授けられたものであり、創造物として、神が支配する計画を受け入れ、それに服従する必要がある。さらに、私の結婚で今日まで歩んできた道は、私自身の行動によるものだったが、家族や結婚の痛みを離婚や自殺により逃げようとしていた。これは、人類の問題解決方法を適用し、神が支配する計画から逃げようとしていただけではないのか。私はとても愚かだった。最終的に私の結婚がどうなるかは神の手中にあり、家族に関連するすべての事項について神を頼り、計画の責任を神に委ねる必要がある。」ということを理解しました。神の心を理解すると、とても安心し、心にあった痛みが大きく軽減されました。

   ある日、次のような神の言葉を目にしました。「ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、人はサタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。」(『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より)全能の神の言葉は、人類の苦しみの原因を暴露し、私のすべての苦しみの原因はサタンの堕落によるものであることを明らかにしました。私はサタンの支配下にあり、邪悪な社会的トレンドの影響を受けていました。私は、「妻と愛人を持て」と言う邪悪なサタンの見方で暮らしていました。快楽を楽しむ中で、私はサタンの罠にはまり、本物の人間らしく全く見えないほどに堕落していました。ソーシャルライフを送ることを装い、邪悪な社会的トレンドに最初に心が惹かれた時、そして、私の放蕩やどんちゃん騒ぎが、私達の間に終わることのない対立をもたらし、互いの心が離れた関係にさせたかを思い出しました。その後、私と妻の関係を改善するために、「あなたの男友達は、手足同様、あなたの一部です。しかし、女性はファッション以上のものではありません。彼女を押さえ込んでいれば、大丈夫です。」と言う友人の“親切な助言”を求めました。彼の「彼女を押さえ込め」と言う言葉は、偏執的優越心を衝撃的な形で表現したものに過ぎませんでした。それは、効果がなかったばかりか、それにより状況は悪化しました。私は、これらのサタンの見方により物事を解決しようとしたため、家族生活はバラバラになる瀬戸際で、私は肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまいました。私は言い尽くせないほど辛い状態にあり、自殺さえ考えるようになりました。しかし、今の私にははっきりと分かります。サタンはこれらの方法で私を罠にかけ、堕落させ、私の結婚と家族を破綻させ、私に邪悪で悲惨な人生を送らせていました。サタンの邪悪な目的は私を食い尽くすことでした。サタンは本当に欺瞞と悪意の塊です!

   一度サタンの策略を見破ると、邪悪なサタンの考えを完全に断ち、神の言葉に従って行動することを決意しました。また、妻も神の救済を受けられるよう、できるだけ早く妻に福音を伝えたいとも思いました。


宗教的な奉仕は一掃されなければならない

2020-10-05 22:18:17 | デボーション

   全宇宙における神の働きが始まって以来、神は多くの人々を神に仕えるように運命づけてきた。そこにはあらゆる社会的地位の人々が含まれている。神の目的は、神の心を満たすことと、神の地上での働きが、必ずとどこおりなく成就するようにすることである。これが神に仕える人々を神が選ぶ目的である。神に仕える人は誰もがこの神の旨を理解しなければならない。この神の働きを通して人々は、神の知恵、神の全能性、また神の地上における働きの原則をよりよく見て取ることができる。神が実際に働きを行なうために地上に来て人々と接触するのは、人々が神の業をより明確に知ることができるようにである。今日、あなたがたのこの集団は幸運にも実践の神に仕えている。これはあなたがたにとって計り知れない祝福である。実のところ、これは神が人を引き上げているのである。神に仕える人の選択において、神は必ず神自身の原則をもっている。神に仕えることは、人々が想像するように、ただ熱心さの問題ではないことは絶対である。今日あなたがたは、神の前で神に仕える人は誰であれ、それは彼らに神の導きと聖霊の働きがあるから、また、彼らは真理を追究する人々であるから、そうしているのを見ている。これらは、神に仕えるすべての人に要求される最低限の必要事項である。

 


   神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。これは人間の経験から来る教訓である。人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話しにでる偽キリストと詐欺師は、この種の人から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。人は古いものに固執することを好む。過去の観念、過去からの物事に固執する。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、それらがあなたの全生涯を圧迫するであろう。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦を背負っても、また神への奉仕において殉教したとしても、神は少しもあなたを褒めることはない。それどころか逆であり、神はあなたを邪悪な行いをする者だと言うであろう。

   宗教的な観念をもたず、古い自分自身を脇へやる覚悟ができており、純朴に神に従う人々を、神は今日から正式に完全にし、また神の言葉を待ち望む人々を神は完全にする。このような人々は立ち上がり、神に仕えるべきである。神には終わることのない豊かさと無限の知恵がある。神の驚くべき働きと貴い言葉は、それらを享受するさらに多くの人々を待っている。現状では、宗教的な観念をもつ人、経歴の長さゆえに尊大に振る舞う人、自分自身を脇へやることができない人は、これらの新しい物事を受け入れるのに困難を覚える。このような人々を聖霊が完全にする見込みはない。もし人が服従の決心をせず、神の言葉を渇望していないのならば、新しい物事を受け取ることはできない。そのような人々はますます反抗的に、ますます狡猾になり、最終的には悪い軌道に乗ってしまう。神は現在その働きを行ないながら、神を真に愛し、新しい光を受け入れることのできるさらに多くの人々を引き上げる。そして自分の経歴の長さゆえに尊大に振る舞う宗教官僚たちを、神は完全に切り捨てる。変化を頑固に拒む人々も、神は一人として欲しない。このような人になりたいのか。あなたは自分の好みに従って神に仕えるのか。それとも神が求めることを行なうのか。これはあなたが自分自身で知っておくべきことである。あなたは宗教官僚の一人なのか。それとも神に完全にされる生まれたばかりの赤子なのか。あなたの奉仕のどれほどが聖霊に褒められるのか。神がわざわざ記憶するほどでもないものがどれほどあるのか。長年の奉仕の後、いのちのどれほどが変化したのか。あなたはこれらのことをよくわかっているのか。もし真の信仰があるのなら、以前からの古い宗教的観念を脇へやって、新しいやり方で神にさらによく仕えるであろう。今、立ち上がるのは遅すぎない。古い宗教的観念は、人のいのちを抑えつけてしまう。人が得る経験は、人を神から遠ざけ、独自のやり方で物事を行なうようにしてしまう。もしそれらを捨てないのならば、それはいのちの成長のつまずきの石となる。神に仕える人々を神は常に完全にしてきた。神はそのような人々を軽々しく追放することはない。もし神の言葉による裁きと刑罰を真に受け入れるならば、もし古い宗教的実践と規則を脇へやることができ、古い宗教的観念を今日の神の言葉を判断する基準として用いるのをやめるならば、そのとき初めてあなたには未来がある。しかし、もし古い物事に執着し、いまだにそれらを大切にするならば、救われることはない。神はこのような人々には一切気を留めない。もし本当に完全にされたいと望んでいるのならば、以前からのあらゆるものを完全に捨て去る決心をしなければならない。たとえ以前になされたことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きであったとしても、それを脇へやり、それに執着することをやめることができなければならない。たとえそれが明らかに聖霊の働きであり、聖霊により直接に行なわれたことであったとしても、今日はそれを脇へやらなくてはならない。それにしがみついてはならない。これが神が要求することである。すべては刷新されなければならない。神の働きと神の言葉において、神は以前にあった古い事柄に言及することはなく、神は昔の歴史を追究することはない。神は常に新しく、決して古いことがない神である。神は過去の神自身の言葉にさえ執着することはなく、このことから、神はいかなる規則にも従わないことが明らかである。この場合、もし、人間であるがゆえに、あなたが常に過去の物事にしがみつき、捨て去ることを拒否し、それらを形式的なやり方で堅苦しく適用するものの、神はもはや以前のやり方では働いていないのであれば、あなたの言動は破壊的ではないであろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないであろうか。あなたはそれらの古い物事のせいで自分の全生涯を破滅させてしまうつもりなのか。それらの古い物事のために、あなたは神の働きを妨害する人となる。あなたがなりたいのは、このような人なのか。こうなるのを本当に望まないのであれば、今していることを直ちに止めて、向きを変えなさい。そして、初めからやり直しなさい。神はあなたの過去の奉仕を覚えていることはない。


キリストと融和する道を探せ

2020-10-04 23:55:23 | デボーション

   わたしは人々の間で多くの働きをしてきた。わたしがその間に発した言葉は数多くある。これらの言葉は人間の救済のためで、人間がわたしと融和するようにと発したものである。しかし、わたしと融和する者は、地上ではほんの数名しか得ていない。だから、人間はわたしの言葉を重んじないとわたしは言う。人間はわたしと融和しないのだから。このように、わたしのしている働きは単に人間がわたしを崇めるようにするためだけではなく、もっと重要なことには、人間がわたしと融和するようにである。堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」句をみつけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと融和する方法を知らず、わたしに敵対するということが何を意味するかを知らず、単に闇雲に聖句を読んでいるだけである。彼らは見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を聖書の中に閉じ込めて、暇な時に取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

 


   では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。わたしは人間の間に生きているが、人間はわたしの存在を知らない。わたしが人間に光を照らしても、人間はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人間の上に放つと、人間はますます強くわたしの存在を否定する。人間は言葉、聖書との融和は求めるが、真理と融和しようとわたしの前に来る者はただの一人もいない。人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。

   わたしに敵対する人々は、わたしと融和しない。真理を愛さない人々も同じである。また、わたしに反抗する人々は、いっそうわたしに敵対し、わたしとは融和不可能である。わたしと融和しない人々をみな、わたしは邪悪な者の手に引き渡す。そうした人々を邪悪な者による堕落に任せ、自分たちの有害さを自由にあらわにさせ、最後には、邪悪な者に手渡し、食い尽くされるに任す。どれだけの人がわたしを崇めるかは気にしない。つまり、どれだけの人がわたしを信じているかは気にしないということである。わたしが問題にするのは、どれだけの人がわたしと融和するかということである。それは、わたしと融和しない人々はみな、わたしを裏切る邪悪な者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を自分の家に「納め」はしない。わたしの味方である人々は永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの罰を受けて苦しむ。聖書の言葉だけを大事にする人々、真理やわたしの足跡を求めることに関心のない人々、そうした人々はわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対して、この上ない冒瀆行為をするからである。そうした人々がどうしてわたしの前に来ることができるであろうか。その人たちはわたしの行い、わたしの心、真理に耳を傾けず、言葉、殺す言葉に執着している。どうして、そうした人たちがわたしと融和できるであろうか。

   わたしは実に多くの言葉を発した。また、わたしの心と性質を明らかにしてきた。それなのに、人々はまだわたしを知り、わたしを信じることができずにいる。あるいは、人々はまだわたしに従えずにいると言える。聖書の中に生きる人々、律法に囲まれて生きる人々、十字架上で生きる人々、教義に従って生きる人々、わたしが今日している働きの中で生きている人々──この中の誰がわたしと融和しているであろうか。あなたたちは、祝福とねぎらいを受け取ることだけを考え、どうしたらわたしと融和できるか、どうしたらわたしの敵になることがないかということを少しも考えようとしたことがない。わたしは、ほんとうにあなたたちに失望した。わたしは実に多くをあなたたちに与えてきたのに、ほとんど何もあなたたちから受けていないのだから。あなたたちの欺き、あなたたちの傲慢、あなたたちの貪欲、あなたたちの途方もない欲求、あなたたちの裏切り、あなたたちの不服従──このどれにわたしが気づかずにいるのか。あなたたちはわたしをごまかし、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを欺き、わたしに要求し、わたしに犠牲を強要する──そうした悪行がどうしてわたしの罰を免れることができようか。あなたたちの邪悪な行為は、わたしへの敵意の証拠、あなたたちがわたしと融和しない証拠である。あなたたちの一人一人が、自分はわたしの心にかなうと信じているが、もしそうなら、誰にその反論できない証拠が適用されるのか。あなたたちは、自分はわたしにこのうえなく誠実で忠実だと信じている。あなたたちは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたたちは、自分はわたしに十分奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに引き比べてみたことがあるだろうか。わたしに言わせれば、あなたたちはひどく傲慢で、ひどく貪欲でひどくいい加減だ。あなたたちがわたしをばかにする手口は、とても狡猾で、愚かな意図や愚かしい手段をいろいろもっている。あなたたちの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたたちの誠意はあまりに薄く、あなたたちの良心は、さらに乏しい。あなたたちの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もあなたたちの悪意から逃れられない。わたしでさえ。あなたたちは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にする代わりに、あなたたちは自分の家族、子供、地位、将来、自分の欲求充足を気にかけている。あなたたちは、話し行動しながらわたしのことを考えたことがいつあったであろうか。寒いとき、あなたたちは自分の子供、夫、妻、あるいは親のことを思う。暑いときもまた、わたしはあなたたちの思いの内に入っていない。務めを果たしている時、あなたは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたがわたしのために何をしたことがあるというのか。あなたは、いつ、わたしのことを考えたのか。あなたは、わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったであろうか。あなたがわたしの味方である証拠はどこにあるのか。あなたのわたしへの忠誠はどこに実在しているのか。あなたのわたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったであろうか。あなたたちはわたしをだまし、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の本質を裏切る。あなたたちはわたしに敵対している。それでは、あなたたちの未来には何が待っているのか。あなたたちはただ、漠然とした神の心にかなおうとして、単に漠然とした信仰を追究しているが、あなたたちはキリストと融和しない。あなたたちの悪事は、邪悪な者たちが当然受けるものと同じ報復を受けるのではないか。その時、あなたたちは、キリストと融和しない者で、怒りの日を免れることのできる者はいないことに気づくであろう。あなたたちはまた、キリストに敵対する者にどのような報復が行われるかを知ることになるであろう。その日が来れば、神への信仰によって祝福され、天に入るというあなたたちの夢は、すべて砕かれるであろう。しかしながら、キリストと融和する者は別である。その人たちは、まことに多くを失い、多くの苦難を経てきたが、わたしが人間に与える嗣業をみな受けるであろう。あなたたちは最後には、わたしだけが義なる神であり、わたしだけが人間を美しい終着点に導けるということを理解するであろう。


落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう

2020-10-03 23:42:28 | デボーション

   あなた方は皆、わたしがあなた方の間で行った働きを自ら見、わたしが語った言葉を自ら聞き、あなた方に対するわたしの態度も知っている。それ故に、わたしがこの働きをあなた方の内に行っている理由を知っているはずだ。あなた方に真実を話そう─あなた方は、終わりの日におけるわたしの征服の働きの道具に過ぎない。あなた方は、異邦人の国々にわたしの働きを広げるための手段である。わたしの名が異邦人の国々、つまりイスラエル以外のあらゆる国々に広まるよう、わたしの働きを広めるために、わたしはあなた方の不義、汚れ、抵抗と反抗を通じて語るのである。それは、わたしの名、わたしの行い、わたしの声が異邦人の国々全体に広まり、それによりイスラエルではないそれらの国々すべてがわたしにより征服され、わたしを崇拝し、イスラエルとエジプトの地の他にもわたしの聖地となるためである。わたしの働きを広げるのは、実際はわたしの征服の働きを広げ、わたしの聖地を広げ、わたしの地盤を広げることである。あなた方は、わたしが征服する異邦人の国々にある単なる被造物に過ぎないことをよく知っておくべきである。あなた方は、元来何の身分も持たず、用いられる価値も持たず、全く無用であった。ひとえにわたしが糞の山から蛆虫を引き上げ、わたしの全土征服のための見本とし、わたしの全土征服のための唯一の「参考物」としたおかげで、あなた方は幸運にもわたしに接し、今わたしと共に集ってきたのである。あなた方の身分の低さゆえに、わたしの征服の働きの見本、ひな形となるようわたしはあなた方を選んだ。わたしが働き、あなた方の間にあって語り、わたしが生きてあなた方と留まるのは、それのみが理由である。わたしがあなた方の間にあって語っているのは、糞の山の蛆虫であるあなた方に対するわたしの経営であり、わたしのあなた方に対する憤るほどの極度の嫌悪ゆえのみであることを、あなた方は知るべきである。わたしがあなた方の間にあって働いているのは、ヤーウェがイスラエルで働いているのとは全く違い、イエスがユダヤで働いているのとは殊更に違う。わたしは非常な忍耐を持って語りかつ働き、裁きと共に怒りをもってこうした堕落した者どもを征服する。それはヤーウェがイスラエルでその民を導くのとは全く違う。イスラエルにおけるヤーウェの働きは、食べ物と生ける水を授けるためであり、ヤーウェはその民に施すに当たり、民への憐みと愛に満ちていた。今日の働きは選ばれていない、呪われた国において為される。食べ物は豊富になく、渇きを鎮めるための生ける水もない。さらに、物質的な品物も十分にない。裁き、呪い、刑罰の供給が十分にあるだけである。そうした糞の山の蛆虫は、わたしがイスラエルに与えたような牛や羊のいる丘や巨大な富、国中で最も美しい子供らを得られるだけの価値は全くない。現代のイスラエルは、わたしが与える牛や羊、そして金銀の品を、律法の下でヤーウェにより定められた十分の一よりも多く祭壇に捧げる。そこでわたしは彼らにさらに多く、律法の下でイスラエルが得る百倍以上を与えた。わたしがイスラエルを養うための物は、アブラハムやイサクが得た物を超える。わたしはイスラエルの家族を豊穣にして増やし、わたしのイスラエルの民を全世界に広げる。わたしが祝福し労る者は、未だにイスラエルの選ばれし民、つまり、わたしにすべてを捧げ、わたしからすべてを得る民である。それは、彼らがわたしを心に留め、わたしが戻ってくることを心待ちにしてわたしの聖なる祭壇に生まれたての子牛と子羊を生贄として捧げ、わたしの前に持てる物すべて、生まれたての長男でさえをも捧げるからである。しかし、あなた方はどうであろうか。あなた方はわたしの怒りを呼び起こし、わたしに対して要求し、わたしに捧げものをする人々の生贄を盗んでいるにもかかわらず、わたしを怒らせていることを知らない。ゆえに、あなた方が得るのは暗黒の中での嘆きであり刑罰である。あなた方は何回もわたしの怒りを呼び起こし、わたしは燃え盛る火を降らせたので、多くの者が悲劇的な結末を迎え、その幸福な家庭は荒れ果てた墓となった。そうした蛆虫に対し、わたしは終わりのない怒りしか持たず、祝福を与える気は全くない。わたしが例外としてあなた方を引き上げ、あなた方の間で働くという大いなる屈辱に耐えてきたのは、わたしの働きのためだけである。もし父の旨のためでなかったならば、どうして糞の山の中で転げまわる蛆虫と同じ家で生きられたであろうか。わたしはあなた方のあらゆる行いや言葉に対し極めて嫌悪を感じるが、いずれにせよあなた方の汚れと反抗にいくらかの「関心」があるため、それはわたしの言葉の偉大なコレクションとなった。さもなければ、わたしは決してあなた方の間にかくも長い間留まらなかったであろう。そこで、あなた方に対するわたしの態度は同情と憐みに過ぎず、全く愛のない、忍耐だけであることをあなた方は知るべきである。なぜなら、わたしはそれをわたしの働きのためだけに行っているからである。そして、あなた方にわたしの行いが見えたのは、わたしが汚れと反抗を「原材料」として選んだために過ぎない。さもなければ、そうした蛆虫にわたしの行いを見せることは決してない。わたしは嫌々ながらあなた方の間で働いているだけであり、わたしが喜び進んでイスラエルで働いたのとは全く違うのである。わたしは怒りをこらえて、嫌々あなた方の間で語っているのである。わたしのより大きな働きのためでなかったら、そうした蛆虫を見続けることにどうして耐えられようか。わたしの名のためでなければ、とうの昔に最高の高みに昇り、そうした蛆虫と糞の山を完全に焼き尽くしていたであろう。わたしの栄光のためでなければ、そうした邪悪な悪魔がわたしの前で頭を揺らしながらわたしに公然と反抗するのを、どうして許せたであろうか。わたしの働きが何の障害もなくスムーズに実行されるためでなかったら、そうした蛆虫のような者らが気の向くままにわたしを虐待するのを、どうして許せたであろうか。もしイスラエルで百人の村人らがそのように立ち上がり、わたしに反抗したならば、例え彼らがわたしに生贄を捧げていようと、彼らを地の割れ目の下へと消し去り、他の都市の人々がそれ以上抵抗することのないようにしていたことであろう。わたしは燃えつくす火であり、侮辱に耐えることはしない。人間はすべてわたしから作られたのであるから、わたしのすべての言葉や行いに人々は従わなければならず、抵抗してはならない。人々はわたしの働きに干渉する権利はなく、特にわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格はない。わたしは創造の神であり、被造物はわたしに対し畏敬の念を持って、わたしが求めるすべての事を成し遂げるべきである。また、わたしに対し理を説くべきでもないし、抵抗はなおさらするべきではない。わたしは自らの権威をもって我が民を統べ、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日あなた方はわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなた方を教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らないが、わたしはただあなた方の反抗に耐えているだけである。取るに足らない蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは怒りを爆発させてわたしの働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、わたしが言葉を発し終えてわたしの最後が来るまで、忌み嫌うものすべてが存在し続けるのに耐える。だが、心配することはない。わたしは名もない蛆虫と同じ程度に成り下がることはできず、あなたと技を比べ合うこともない。わたしはあなたを心から嫌うが、耐えることができる。あなたはわたしに従わないが、父がわたしに約束したあなたへの刑罰の日を逃れることはできない。創造された蛆虫は、万物を創造した神と比べ得るであろうか。秋には、落ち葉は土に還り、あなたは「父」の家に帰り、わたしは父の傍らに戻る。わたしは父の優しい愛と共にあり、あなたは父に踏みにじられる。わたしは父の栄光を手にし、あなたは父の辱めを受ける。わたしはあなたに向けるのをずっと控えてきた刑罰を用い、あなたは既に何万年も腐敗し続けている悪臭を放つ肉体をもってわたしの刑罰を受け止める。わたしはあなたの内にあって忍耐を伴ったわたしの言葉の働きを終え、あなたはわたしの言葉により苦悩の災いを受ける役割を果たし始める。わたしはイスラエルにあって大いに喜び、働くが、あなたは悲嘆にくれて歯噛みをし、泥の中に生きて死ぬ。わたしは元の姿を取り始め、もはやあなたと共に汚れの中に留まることはないが、あなたは元の醜い姿のままであり、糞の山の中でうごめき続ける。わたしの働きと言葉が完了する時、わたしには喜びの日が訪れる。あなたの抵抗と反抗が終わる時、あなたには悲嘆の日が訪れる。わたしはあなたに同情することはなく、あなたがわたしを見ることは二度とないであろう。わたしはもはやあなたと言葉を交わすことはなく、あなたはもはやわたしに出会うことはないであろう。わたしはあなたの反抗を憎み、あなたはわたしの愛を懐かしむであろう。わたしはあなたを打ち、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしは喜んであなたから離れ、あなたはわたしに対する負い目に気付くであろう。わたしはあなたに二度と会うことはないが、あなたは常にわたしを待ち望むであろう。あなたが今わたしに抵抗するので、わたしはあなたを憎むであろうが、わたしが今あなたに刑罰を与えるので、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしはあなたと共に生きるのに気が進まないが、あなたはわたしにしたすべての事を悔やむので、わたしがあなたと共に生きるのを激しく切望し、永遠に悲嘆にくれるであろう。あなたは自分の抵抗と反抗を後悔し、後悔のあまりその顔を地に伏せ、わたしの前に身を投げ出して、これ以上わたしに逆らわないと誓うであろう。しかし、あなたは心の内でわたしを愛するだけで、わたしの声を二度と聞くことはできない。なぜなら、わたしはあなたを辱めるからである。

 


   今、わたしを欺くあなたの束縛のない肉体を見るに当たり、あなたに対してはささやかな警告しかない。わたしは決してあなたに「仕える」ために刑罰を通じて行動を起こすのではない。あなたはわたしの働きにおける自分の役割を知っているべきである。そうすれば、わたしは満足するであろう。さらに、あなたがわたしに抵抗しわたしの金銭を費やし、わたし、ヤーウェの生贄を食べるのであれば、蛆虫であるあなた方は互いに噛みつき合ったり、犬のような被造物であるあなた方の間には対立や暴行が起こったりする─しかし、わたしはそのような事には一切関心を持たない。あなた方は、ただ自分がどのような者であるのか知ればよい。それでわたしは満足するであろう。こうした事を別として、あなた方が剣や槍でお互いを突いたり、言葉によって争い合ったりするのは構わない。わたしはそうした事に一切干渉したくないし、人間の事に一切関わりはしない。あなた方の間の対立を気に掛けないわけではないが、わたしはあなた方とは同じではなく、それ故にあなた方の間の事には加わらないのである。わたし自身は被造物ではなく、この世界の者ではない。そこで、わたしは人々の騒々しい生活と人々の厄介で不適切な関係を心から嫌うのである。わたしは特に騒々しい群衆を心から嫌う。しかし、わたしはそれぞれの被造物の心の内にある不純を深く知っており、あなた方を創造する前に、人間の心の内に深く存在する不義を既に知っており、偽りと不正も全て知っていた。それ故に、人々が不義を行う時にその痕跡が全くなくとも、あなた方の心の内に秘められた不義はわたしが創造したすべての物の豊かさを超えることを知っているのである。あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。臭く取るに足らない虫であるあなた方は、わたし、ヤーウェの祭壇から生贄を盗む。そうする中で、堕落し、衰えている自らの名を回復して、イスラエルの選民になることができようか。あなた方は恥知らずの哀れな存在である。祭壇の生贄は人々がわたしにささげた物であり、わたしを恐れる人々の情け深さを表している。それらはわたしが支配するためのものであり、わたしが用いるためのものであるのに、人々が捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができようか。あなたはユダになることを恐れないのであろうか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのであろうか。恥知らずな者よ。あなたは、人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためだけの物であると思っているのか。わたしがあなたに与えた物は、わたしが喜んで与えた物である。わたしがあなたに与えなかった物はわたしが好きなようにできるのであって、あなたがわたしへの捧げ物をただ盗むことはできない。働く者はわたし、ヤーウェ─創造の神であり、人々が生贄を捧げるのは、わたしのためである。あなたは、それがあくせくしているあなたへの報酬であると思うのか。あなたは本当に恥知らずである。あなたがあくせくするのは、誰のためであるか。自分のためではないか。なぜわたしの生贄を盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはユダ・イスカリオテの息子ではないか。わたし、ヤーウェの生贄は、祭司が享受するものである。あなたは祭司であるのか。あなたは、うぬぼれてわたしの生贄を食べ、食卓に並べさえするのか。あなたには何の価値もない。あなたは何の価値もない、哀れな存在である。わたし、ヤーウェの火は、あなたを燃えつくすであろう。


適切な牧者が備えておくべきもの

2020-10-02 19:36:06 | デボーション

   あなたは、聖霊が人々に働きかける時に人々が置かれる多くの状況を理解しなければならない。特に、協調して神に仕える者たちは、聖霊が人々に働きかけることによってもたらされる様々な状況をよりしっかりと把握していなければならない。あなたが語るのが、単に多くの経験と成長する手段についてであるならば、その経験はあまりにも一方的である。自分の真の状態を知らず、あるいは真理の原則を把握していないならば、性質の変化を成し遂げることはできない。聖霊の働きの原則を知らず、あるいはそこから生まれる果実を理解していないならば、悪霊の業を見分けることは難しい。あなたは悪霊の業と人々の観念を明らかにし、単刀直入に問題の核心に触れなければならない。あなたは神を信じる上での、人々の実践における様々な逸脱や問題を指摘し、彼らがそれを認識できるようにしなければならない。少なくともあなたは、彼らに否定的で消極的な感情を持たせてはならない。しかし、あなたは大半の人々に客観的に存在する困難を理解する必要があり、あなたは不合理になってはならないし、「豚に歌を教えようと」してはならない。それは愚かな行為である。人々の様々な困難を解決するには、あなたは聖霊の働きの原動力を理解し、聖霊が様々な人にどのように働きかけるのかを理解し、人々の困難や欠点を理解し、その問題の重要課題を見抜き、問題の原因に触れなければならず、逸脱や誤りがあってはならない。このような人間こそ、神に仕えるための調整役となる資格がある。

 


   あなたに重要課題が把握でき、様々な物事をはっきり見ることができるかどうかはあなたの個人的な経験次第である。あなたがどう経験したかは、他の人々をどのように導くかに影響を及ぼす。あなたが書簡や競技を理解できれば、他の人々が書簡や教義を理解できるように導くことができる。あなたは自分が神の言葉の現実性を経験したように、他の人々が神の言葉の現実性において成長するよう導く。もしあなたに多くの真理を理解することができ、神の言葉にある様々な物事をはっきり見ることができるなら、あなたは様々な真理を理解するように他の人々を導くことができ、あなたが導いた人々はビジョンを明確に理解できるだろう。もしあなたが超自然的な感覚を把握することに重点をおくなら、あなたの導く人もまた、超自然的な感覚に重点を置くだろう。もしあなたが実践を怠り、語ることを重視するなら、あなたが導く人もまた、実践や性質の変化もなく、話すことに重点を置くだろう。そして真理の実践もないまま外側にばかり熱心になるだろう。他の人々に提供できるものは全て、自分自身が持っているものである。どのような人であるかによって、他人をどう導くかが決まり、どのようなタイプの人々を導くかが決まる。神に用いられる者として真に相応しい者となるには、強い願望だけではなく、神からの多くの啓き、神の言葉による導き、神による取り扱い、そして神の言葉による精錬が必要である。それを土台として、あなた方の普段の見解、考え、思案、結論、吸収または排除に注意を払うべきである。それらは全てあなた方が現実において成長する為の道であり、そのどれ一つとして欠かすことはできない-神はこのように業を行なう。もしあなたが、神が業を行うこの方法において成長するならば、あなたには日々神によって完全にされる機会が与えられるのである。そしてどんな時であろうと、厳しい環境であるか好ましい環境であるか、試練にあっているか誘惑を受けているのか、働きをしているかしていないのか、個人で生活しているか集団で生活しているのかを問わず、あなたは常に神によって完全にされる機会をひとつも逃さず見出すであろう。あなたはその機会全てを見出すことができ、またこのようにして神の言葉を体験する極意を見出すであろう。