わたしは「借金」という短い物語を読みました。物語の内容は次のとおりです。一人の乞食はある通行人に千円を求めました。その通行人は彼に「今日は800円しか持ち合わせていない」と言い、そしてそのお金を彼に渡しました。だが、乞食はそのお金を財布に入れた後、お礼を言わず、かえって胸を張って「それなら、あなたはまだわたしに200円の借りがあるね」と言いました。その通行人はその言葉を聞いてたいへん驚きました。
この物語を読んだ後、わたしはこの乞食のずうずうしさには閉口し、この乞食があまりにも理知に欠けていると思います。通行人が親切心から乞食を助けたので、乞食はお礼を言うべきでした。けれど、乞食は通行人が彼にお金を与えるべきだと思っていました。通行人が彼の要求を満たすことができなかったら、通行人は彼に借りがあるということにさえなってしまったのです。乞食はあろうことか自分を恩人の債権者だと思ってしまいました。この乞食は本当に理不尽です!
だが、ある日わたしは突然あることに気づきました。現実生活の中で、人々は無意識のうちに乞食の役をつとめているということに、です。ある人は健康だが、神から与えられた容貌があまり美しくないと文句を言います。ある人は生まれながらの美人だが、神が自分によい出身を与えなかったと文句を言います。ある人は衣食に困らないのだが、神が自分に栄耀栄華を得させなかったと文句を言います。ある人は自分の配偶者がまじめで有能だが、神が自分に理想的な伴侶を与えなかったと文句を言います。……わたしたちは、神が不公平だと文句を言い、神がわたしたちに大きな借りがあると思っています。しかも、わたしたちは神が無条件にわたしたちに祝福を与え、あらゆることでわたしたちを満足させるべきだといつも思っています。わたしたちは生まれつき神の債権者、神から借金を取り立てる者であるかのようです。神がわたしたちに祝福を与えられましたが、わたしたちは神の祝福が足りず、あまりよくないと思っています。今、わたしたちの貪欲な心はすでに、わたしたちの神のご恩に感謝する心に取って代わりました。
わたしはいつもこのことを見ます。教会の集会で、皆さんは主に恵み、祝福を求めるし、また自分の子女が仕事、婚姻の面で主の恵みを得たり、家の病人が主にいやされたりするために、牧師に代祷をしてもらいます。もちろん、わたしも自分を神の最大の債権者と見なし、神がわたしの求めるすべてのものを無条件にわたしに与えるべきだと思います。大学入試を受ける前に、わたしは理想の大学に合格するように教会に行って主イエスに祈り、それからわたしの友達のためにも祈り求めました。だが、大学入試の成績が発表された後、期待とは裏腹にわたしは重点大学に落ちました。そのため、わたしはこう考えていました。「ふだんわたしより成績が悪いクラスメートは、今回の試験ではわたしよりよい成績を収めた。彼らを採用する学校もわたしを採用する学校よりよい。これはなぜだろう。主はあらゆることで人の願いをかなえてくださるのではないか。なぜ主がわたしに祝福を与えなかったのか」と。そして、わたしの心の中は疑問、不服、主に対する不平不満でいっぱいになりました。
ある日、お隣さんはわたしが大学に合格したことを祝って、わたしに贈り物を送った時、「このような大学に受かるのも悪くないね。多数の人がこのような大学に合格できない」と言いました。わたしも今の大学に受かるのは他人からうらやましがられていること、ありがたいことだと知っています。だけど、わたしは主のご恩に感謝せず、かえって、主がわたしの欲望を満たさなかった、主がわたしに聡明さ、知恵とインスピレーションを与えなかったので、わたしが能力を十分に発揮して、もっとよい大学に合格することができなかったと、文句を言いました。このことのゆえに、わたしと主の間にわだかまりができました。
ある日、わたしはヨブ記を読みました。それで、ヨブが神に何かを求めたことがなく、常に主にいけにえをささげて、神から与えられたすべてに感謝するのを見ました。あの時、神がヨブを試して、彼のすべての財産、彼の子女を奪いましたけれども、ヨブは地にひれ伏して神を賛美し、しかも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。ヨブは、彼が世に来た時は何も持っていなかったこと、また、彼が持っているすべてのものは神の特別の褒賞であることを知っていました。神が彼に何を与えても、どのくらい与えても、たとえ彼のすべてを奪っても、彼は不平不満がなく、依然として神の支配、神の知恵あるみわざを賛美しました。ヨブはどんな時でも神を造物主として扱います。神はヨブの真心を見た時、ヨブを大いに祝福し、彼の財産を二倍にされました。
ヨブの理知、善良さ、従順さには、わたしは非常に感心します。自分が求めたり、思ったりすることを思い返してみると、わたしは恥じ入ります。すると、わたしの心の中の不平不満、誤解はすぐに消え失せました。その後、神に大きな負い目を感じています。今、わたしはこのことを知りました。人はただ神が塵で造ったものにすぎず、もともと何も持っていませんでした。人がどんな条件を持っても、人のめぐり合わせがどんなによくても、それは神の特別の恵みです。だから、人はあらゆることで神のご恩に感謝すべきです。聖書に書いてあるように、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。……」(一テサ5:16-18)。ヨブのように神を畏れ悪を避けるために、ヨブのような理知を持つために、また神の支配に従うために、わたしはちゃんと真理を追い求めようという志を立てました。そうすれば、わたしは神を満足させ、神から与えられたすべてに感謝して、「乞食」のような生活に別れを告げることができます。