賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

人間関係に疲れた時、クリスチャンが持つべき4つの原則

2019-12-27 23:04:01 | 礼拝説教

   対人関係の問題は多くの人々にとって頭痛の種となります。そして対人関係は、クリスチャンが人生を通じてしばしば直面する問題でもあります。主イエスは、私たちが互いに調和し、自分と同じように他の人を愛することを求めておられます。そして多くのクリスチャンが、その主の教えを実践しようとします。けれども現実的には、私たちの人間関係には多くのぶつかり合いや誤解が生まれ、互いの関係がぎこちなくなり、崩れてしまいます。これは誰にとっても辛いことです。では、互いに調和できない原因は何でしょうか。主の意図に沿った人間関係を、私たちクリスチャンはどう築けば良いでしょうか。これは私自身もこれまで困難を覚えてきた問題です。私を神様が導いて下さったことに感謝します。その後、私はある本の中に解決を見出すことができました。その経験と私が理解したことをここでご紹介します。

1.誰に対しても公平・公正でなくてはならない。感情や好みで対応してはならない。

   イエスは言われました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48)この主の言葉から、クリスチャンは人生において、神様の言葉に沿った接し方をするよう求めておられます。自らの感情により、好んでそうしなければなりません。 私たちがどう周囲の人たちと接するかを考えてみると、自分たちに利益になったり助けになったりする場合は、相手に対して嬉しかったり感謝したりします。ところが、相手に傷つけられた場合、不愉快になってその後無視したりします。自分が好む相手であれば、その人に近づき、誘い込んだりします。好まない相手であれば、無視して近づきません。相手が高い地位にある人であれば、こびへつらい、ご機嫌を取ろうとします。地位も権力もない相手であれば、拒んで軽んじます。自分が好感を抱いている相手が自分の欠点を指摘した場合は受け入れることができます。けれども、そうでない相手が同様のことをしたならば、受け入れることができず、自分を義とし、言われたことに憤慨さえして相手に敵対し、攻撃したりします。これらはどれも、自分の感情や好みで接しており、公平に接していないことの例です。これはまた、未信者の接し方でもあります。クリスチャンがこのように接したならば、未信者と同じ道を歩んでいるのであり、主を信じる者と言われる価値はなく、そのような者は神様の意図に沿った行動ではありません。主を信じる者として、私たちは主の教えを実践しなくてはなりません。自分を愛するように、他の人たちも愛さなくてはなりません。優れた人間性を持ち合わせていれば、神様を純粋に信じ、真理を愛し、自分の好みに合うかどうか、気性、性格に合うかどうか、普通の兄弟姉妹か教会のリーダーであるかどうかに関係なく、心から、分け隔てなく接するべきです。相手に寛容と愛を示すべきです。欺いたり差別したりしてはなりません。このようなことを守って初めて、神様の意図と一致するのです。

2.相手の欠点を正しく指摘し、腐敗した部分を明らかにする。気まぐれに決めつけたり裁いたりしてはならない。

   イエスは次のように言われました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書 7:1-2)このイエスの教えにより、私たちはみなサタンに堕落させられた者だと理解することが出来ました。私たちの堕落した性質はみな同じなのです。周りの人々が傲慢さやうぬぼれ、利己主義や卑しむべきサタンの性質を現わしたならば、私たちも同様の性質を現わしかねないということです。私たちも周りの人たちと同じような欠点を持っているのです。周りの人たちより優れている訳ではないのです。もし欠点や腐敗によって相手を裁いたり決めつけたりするならば、私たちは真に傲慢で自分を知らなすぎるということなのです。ですから、周りの人たちがどのように堕落しているか、どのような罪を現わすかにかかわらず、私たちは正しい接し方をし、勝手に裁いたりその人をどのような人か決めつけたりしてはいけないのです。イエスが罪人に対してどのように接したか、聖書に書かれていることを思い出してみてください。「パリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。…イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネによる福音書 8:3-11参照)この句から、サタンによって堕落させられ、罪に生きる人々の痛みと無力さを、イエスが理解していたことが分かります。イエスは人間の弱さに哀れみを感じられたのです。私たちの堕落が露わになったり、罪を犯したりした時に心から悔い改めるなら、神様は悔い改めて私たちが変わる時間を下さいます。我達もイエスに倣い、他の人の欠点や堕落した部分を正しく示さなければなりません。進歩という観点から、他の人たちを見なければなりません。これは、クリスチャンがその人生の中で、他の人たちに接する際の原則でもあります。もし私たちが他の人に厳しい姿勢を取り、あれこれと細かいことにこだわり、勝手に裁いたりするのであれば、そして、相手がどのような人間かを決めつけて、欠点を見てどうしようもない人間だと結論付けるのであれば、それは傲慢とうぬぼれによる腐敗した性質によって接していることになります。あなたがそのような事をするのであれば、神様の意図に沿ってはおらず、周りの人たちと正常な関係を持つことはまず出来ません。

   私の経験をいくつか紹介したいと思います。私たちの教会には、ご主人が未信者であるために集会に間に合うように来ることができない姉妹がいました。私はこの姉妹と何度も話しをしましたが、彼女は否定的な生き方をして信仰は弱いままでした。私はそのことに酷い怒りを感じ、彼女のことを、心から神様を信じることが出来ない人と決めつけました。もう彼女のことを助けることもサポートすることもしなくないと思いました。その後、聖書の中の次の言葉を読みました。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙 14:3-4)私はとても恥ずかしくなりました。私は自分が打ちのめされ、否定的で霊的に弱っていた時のことを考えました。神様は兄弟姉妹の気持ちに触れて、彼らが何度も私のところへ来て神様の言葉を読むようにされました。彼らは私と交わり、自分たちの経験を分かち合い、そうすることで私を助け、支えようとしました。神様の言葉による導きがなければ、私は揺るぎなく立っていることはできなかったのです。私自身に自慢できるものなどなかったのです。そしてこの姉妹はその時、ご主人の妨害により、集会に来ることが出来ませんでした。その姉妹を、愛の心をもって私は助けなければならなかったにも関わらず、彼女の生活に配慮してあげることができませんでした。私は彼女を避け、純粋に神様を愛してはいないと決めつけたのです。自分自身を考えた時、私は自分が非常に傲慢だと感じました。この姉妹のことに、愛と寛容を持って対応していませんでした。私のしたことで神様の意図に沿ったものは何一つありませんでした。それに気づいた私は、神様の前に罪を悔い改めて言いました。「私は喜んでこの姉妹を助け、支えようと思います。その後私は、愛の心で神様の言葉をこの姉妹に伝え、自分の経験と理解したことを伝えました。何度か彼女と交わりを持つうちに、彼女はご主人からの束縛から解放され、徐々にその状態は改善されていきました。この経験から、兄弟姉妹がどのような欠点や弱さを持っていても、そしてどのような堕落を示しても、心から神様を信じ、過ちを犯した時に悔い改めるなら、神様は変わる機会を与えて下さることを学びました。ですから、私たちも愛をもって他の人々を助け、赦し、神様の要求に沿って一人ひとりに接しなければならないのです。決して気まぐれに人を決めつけたり裁いたりしてはいけないのです。これが、公平に、そして神様の意図に沿って人に接するということです。

 


 

3.他の人たちを過大評価しても、過小評価してもいけない。他の人たちの長所から学び、それによって自分の弱さを改善しなさい。

   聖書は次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)神様は一人ひとりに違う力量、能力と長所を与えられました。それ故、他の兄弟姉妹に謙虚な心で接し、相手の長所も短所も、正しく見なければなりません。他の人を過大評価しても、過小評価してもいけません。他の人の長所を吸収し、自分の短所を補うべきです。もしも、自分の力や力量、能力が理由で他の人たちを見下し、どこまでも自分を過大評価し、その結果自己顕示したり、自慢したり、他人を裁いたり、軽んじて傷つけたりするならば、それは私たちの傲慢とうぬぼれで堕落した本性に支配されているということです。クリスチャンがそのように生きるべきではありません。例えば以前私は、一緒に働いている姉妹よりも自分の方が優れているといつも思っていました。そのために彼女を見下していました。私たちが一緒に働く時は、意識的であれ無意識であれ、私は自己顕示し、私の心はプライドに満ちていました。私の堕落した性質故に、神様が私を嫌うようになり、私から顔を隠すようになってしまったのです。私の魂は暗くなり、落ち込みました。私は働きの中で、自分では見つけることのできない明らかに問題といえることが多く発生するようになる一方で、その姉妹の働きは徐々に向上していきました。私はイエス様の次の言葉を思いました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)この時私は、自分がそれほど傲慢であるかを知りました。私は自分が分かっていませんでした。私の働きがある程度の結果を生み出していたことも、私が問題を見つけることが出来たことも、聖霊の働きだったというのが事実です。それでも私は、神様の栄誉を自分のものとし、非常に自己満足し、自分に感心していました。兄弟姉妹を見下していました。私にはまったく分別がなかったというのが実際のところです。同時に、私は心の中の執着を捨てる必要があることを分かっていました。姉妹の長所から得るものを吸収し、自分の短所を補うようにすべきでした。それができて初めて、神様は喜ばれ、私のいのちも成長を続けるのです。私はそれを実践し始めました。理解できない問題がある時は、その姉妹に助言を求めました。私が問題に直面したならば、彼女と話し合いました。そうする中で、私は彼女が、私にはない多くの長所があることに気づきました。私はとても恥じ入りました。そしてまた、私の短所を補うように、神様がこの姉妹と共に働くようにされたのだと分かりました。私たちに神様が託された働きを、協力して行うことを神様は望まれているのです。徐々に、私と姉妹の関係は改善され、私は再び聖霊の働きを受けることができました。

4.自分の考えに合致しない考えを他の人たちが持っていると気づいた時には、その人のことを見てばかりいてはならない。むしろ自分を意識して真理を実践しなければならない。

   イエスは言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書 7:3-5)私たちが他の人達と接する時、摩擦や偏見は避けられません。そのような時、相手が間違えているとむやみに考えて、いつも相手が間違えていると決めつけてはいけません。むしろ神様の前に出て、神様の言葉の中に真理を求め、自分の問題はどこにあるのかを見つけることができるようにすべきです。神様の意図が理解でき、自らの堕落した性質を理解できたならば、相手の立場に立って物事を見ることができるようになります。私たちは他の人たちを理解できるようになり、共感できるようになり、忍耐深くなります。そうするとき、自然に相手に対する偏見が激減するのです。

   この点に関して、私は意味深い経験をしました。一緒に働いたある姉妹が、教会の働きに対して、私が重荷を負っていないと何度も指摘したことを覚えています。けれども、私はそれを神様からのものと受け取ることができなかったばかりか、この姉妹が故意に私のあら探しをして私を生きづらくさせていると疑いました。私の中に彼女に対する偏見が膨らんでいき、もうこの姉妹と働きをしたくないと思うようになりました。私は神様の言葉を読み、神様の意図を探りました。そして、私は自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に支配されており、この姉妹の助言を受け入れることができなくなっていたことを知りました。そして彼女に対して疑い深くさえなっていました。それが原因で、彼女との正常な関係が持てなくなっていたのです。同時に、日々私が出会う人々や出来事、物事はすべて神様によって指示され、定められていることを知りました。神様が、これらのことを事細かに用意され、それによって私を変え、救おうとされたのであって、その姉妹が意図的に私にたいして面倒を起こそうとしていたのではなかったのです。私は神様に従い、自分の心の中の執着を捨て、彼女の正しい助言を受け入れることを学ぶ必要がありました。その後、私は神様の前に出て、自分を省みました。姉妹の助言を通して、確かに自分が教会の働きの重荷を担っていないことに気づきました。私はリーダーが用意した働きをし、自分が更に良い働きをしようと考えたことはありませんでした。神様の意図が理解できてからは、神様の要求に従って物事を進めました。私は前向きに、そして束縛されずに自分の堕落をこの姉妹の前で明らかにし、神様に対してもっと多くの責任を与えて下さるよう願いさえしました。何かあれば、どうしたらもっと教会の益となることができるかを考えるようになりました。このように実践することで、この姉妹との間のかつての誤解は解けていきました。私たちは霊的に繋がり、かつての調和を取り戻すことができました。

   実践に関する4つの原則は、私が自分の経験から学んだことです。私は、神様の言葉がクリスチャン生活の導きの光であることを真に経験しました。神様の言葉は私たちにとって羅針盤です。神様の言葉による導きがなければ、私たちは進む道はありません。私たちがすべきことは神様の教えを実践し、全ての人に対して公平であることです。そうして初めて、私たちは真の人間らしさを生きることができ、他の人達と強調することができ、他の人に益をもたらすことができ、神様に満足していただき、褒めていただくことができるのです。神様の導きに感謝します。全ての栄光は神様にあります!


一生懸命に働くことと神の定めに従うことは同じことではありません

2019-12-26 23:15:12 | 天国への道

   白谷美纪子は窓の前に立ちながら、最近彼女を当惑させている問題について深く考えこんでいました。主イエス様はこう仰せられました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)天なる父の定めに従う者だけが天国に入ることができます。さて、私は全てを捨てて、神のために労力を費やし、毎日一生懸命に働いていますが、私は天なる父の定めに従う人になれているのでしょうか?これが天なる父の定めに従っているということにならないとしたら、私は最後に神から捨てられ、排除されてしまうのでしょうか?

   集会の最中、白谷美纪子は自分の抱える困惑を提起しました。




   泓美衣はこう言いました。「白谷姉妹、私たちは福音を伝え、犠牲を払い、労力を費やしながら、熱心に主のために働いています。私たちは天なる父の定めを全うしていると思いませんか?主は来臨される時、間違いなく私たちを天国にお連れくださります。私たちはこのような確信を持たないといけないんですよ!」

   集会にいた他のクリスチャン2人もチンフアの意見に賛成しました。彼らは一生懸命に働くことが天国への道を開くと信じていました。

   彼らの意見を聞いた後、白谷美纪子はこう言いました。「私は幾つか分からないことがあります。でも、それが本当なら、イエス様はどうして主の名によって福音を伝え、悪霊を追い払い、多くの奇跡を起こした人々が邪悪な人々だと言われたのでしょうか?これには探求すべき真理があるはずです。私たちが思っているほど単純なはずがありません。」

   白谷美纪子と同じ考え方をしていた駒欣子は頷きながら白谷美纪子の見方に賛成しました。彼女はこう言いました。「この主題についてですけど、大切なことは神の定めに従うことがどんな意味を持つのかということだと思います。」

   駒欣子が話し終える前に、泓美衣が割り込んでこう言いました。「私はパウロ兄弟がこう言ったのを覚えています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

   駒欣子はこう言いました。「しかしですねえ、ヂェン姉妹、イエス様は一生懸命に働くことと神の定めに従うことが同じことだとは仰いませんでした。実際、それは逆だったんですよ。主は、一生懸命に働くけれども主の定めに従わない人々を邪悪な人々と定義されました。これはどう説明すれば良いのでしょう?パウロは義の冠が彼を待っていると言いました。しかし、これは単に彼の個人的な考えだったのです。聖書の中に彼の言葉を立証する証拠はありますか?イエス様は彼の言ったことが正しいと認めておられますか?パウロの言葉は人間の言葉であって、神の御言葉を表しているわけではないのです。私たちは、神の道に従うのであれば、神の御言葉を基準として捉える必要があるのです。」

   説教を聞いて戻ってきた谷後元はこう言いました。「クリスチャンの大多数が『熱心に働くことは神の定めに従うことと同じである』という観点を支持しています。私も、この観点が真理と神の御旨に沿っているのかどうかを頻繁に検討してみました。私はユダヤのパリサイ人たちが福音の伝道をするために陸と海を巡り歩き、頻繁に交差点で祈りを捧げ、断食までしていたことを思い出しました。人間の観点からすると、彼らはたくさん良い行いをし、とても敬虔でありました。しかし、その彼らが最終的には神に断罪され、呪われてしまったのはどうしてなのでしょう?神は人間の心の奥底までお調べになります。パリサイ人たちはたくさんの苦難に耐えたものの、彼らは宗教的儀式を行い、聖書の内容と理論について語っていただけだったのです。彼らは神の御言葉を全く実践していなかっただけでなく、神の戒めに従ってもいなかったのです。彼らが行ったことは全て、各々の地位と生活を維持するためだけでなく、祝福を受けて、報酬を手にすることだけを目的としていたのです。彼らの心は基本的に神を愛しておらず、彼らは神を畏れる心を全く持っていなかったのです。主は働きをしに来られた時、天国の福音を伝えられ、人々に告白して悔い改めるよう仰せられ、たくさんの奇跡を起こされました。イエス様の働きと御言葉には権威と力があったのです。こういったことを語り、行える人は他には存在しません。しかし、イエス様の働きを前にしても、パリサイ人たちは真理を求める心を持ちませんでした。彼らは狂信的にイエス様に抵抗し、罪に定め、ついにはイエス様を十字架に磔さえしてしまいました。これが真理を嫌う彼らの本性、および偽善的な本質を完全に暴露したのです。この事実は、一生懸命に働くことが神の定めに従うこととは根本的に違うということを私たちに知らせてくれています。神の御言葉を実践すること、そして神の戒めに従うことができていなければ、私たちは一生懸命に働いていたとしても、神の称賛を得ることはできないのです。

   「その後、私は神の定めに従うことの意味を理解しようとしました。神の定めに従うことはどのような形で表れ、それを貫くとはどういうことなのか?聖書を調べた時、私はイエス様が仰ったこの言葉を見つけました。『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。』(ヨハネによる福音書14:23–24)『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。』(ヨハネによる福音書8:31)『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。』(マタイによる福音書22:37-39)神の定めに従うということは、神の道と戒めに従い、神の要求通りに自分たちの本分を尽くすということなのです。主に仕える上で、主の御言葉に応じず、聖書に書かれた人間の言葉に応じていたら、それは天なる父の定めに従っていることにはならないのです。」

   駒欣子はこう言いました。「そうです、主の信仰を始めた後にたくさんの苦難に耐え、大きな犠牲を払い、患難を受けさえしても主から離れなかった人々は大勢います。しかし、彼らの行いは全て祝福を受けて、報酬を手にするためにしたことでした。彼らの目的は天国に入り、義の冠を手にすることだったのです。このように犠牲を払い労力を費やすことは神と取引をしているのと同じことです。それは欺きと個人的な動機および目的に満ちた行為なのです。このような人々は基本的に神を愛しておらず、神に服従してもいません。彼らを神の定めに従う人と呼べるはずがありません。横浜市にいる太田牧師が同じようなことをしています。彼が説教の最中に語ることと、自宅で行っていることは全く異なります。彼は兄弟姉妹たちに寛容な心と耐え忍ぶ心を持つように言いますが、家では妻に暴力を振るいます。神の御言葉を全く実践していません。宣教をする時も、彼はいつも主を讃えて主の証しをする代わりに自分自身の証しをしています。彼はいつも自分が犠牲を払い、主のために労力を費やし、神のために数足の靴をボロボロになるまで履いたなどと言っているのです。これは全て兄弟姉妹たちから崇拝され、尊敬されるためにやっていることなのです。主のために働き労力を費やしているふりをして、決して主を崇めず、主の証しもせず、代わりに他人から尊敬されようと全てにおいて自己顕示するような人が、神の定めに従っていると言えますか?このような懸命な働きは神の御心に沿っていますか?パリサイ人のように悪事を働き、神に抵抗しているのではないでしょうか?」

   チウ・ユーリンがこう言いました。「そう、その通りなんです。説教を聞き行っていた時にある書籍を見つけたんですけど、その内容が素晴らしいんです。その中から皆さんにこの一節を読んで差し上げます。『わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。』(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)この節より、神は私たちが神の定めに従っているかどうかによって私たちが善良であるか、邪悪であるかをお決めになることが分かります。神は私たちが真理の現実を生きているかどうかを基に私たちの終着点をお決めになります。こういったことは私たちの外面的な振る舞いによって決まるものではなく、私たちがどれだけ一生懸命に働くかによって決まるものでもありません。これより、神の義を知ることができます。」

   突然、白谷美纪子にとって全てがはっきりとしました。彼女は嬉しそうに言いました。「神に感謝します!私たちは神のために一生懸命働くことができるかもしれませんが、それは全て祝福を受けて、将来的には天国に入るために行っていることで、神への服従と愛を理由で行っているわけではないのです。なので、私たちがやっていることは紛れもなく神の定めに従うということに関連していないのです。外面的に前向きな行動を取っていても、心の中で神に服従せず、神を愛していなければ何の意味もないのです。私たちは神の御言葉に従うことに集中するべきで、神の要求通りに神を信じ、神に従うべきなのです。基本的なこととして、神の戒めに従い、神に背いてはならないということです。」

   駒欣子はこう言いました。「その通りです。私たちは神の道に従わずに、自分たちの想像と観点を頼りにしながら神を信仰しているのです。最終的に、私たちも神を信仰しながら神を知らなかったパリサイ人と全く同じになってしまうでしょう。私たちは主の道から逸脱し、主に抵抗するばかりです。私たちは外面的にたくさんの苦難を経験してはいますが、どれだけ一生懸命に働いても、神に抵抗する人々であるということに変わりはないのです。」

   白谷美纪子はこう言いました。「これで、一生懸命に働くことは神の定めに従うこととは違い、まして天国に入る条件ではないということが理解できました。神の定めに従うということは、神がどのような働きをされても、神が何を仰せられても、神の要求が何であろうとも、神に服従し、神の道に従うことができ、神を満足させて神の証しをするために労力を費やし、完全に神に尽くし、神と取引をしないということを意味しています。そして、このような人のみが天国に入ることができます。そのような人たちとはアブラハムやペテロのような人たちです。彼らは神から何を要求されても、神の御旨を探求し、神に従っていました。彼らは神の御言葉に従い、神を恐れ、悪を遠ざけて生きた人物たちでした。」


クリスチャンはどのように婚外恋愛の誘惑に打ち勝つのか(一)

2019-12-26 00:02:08 | 婚姻・家庭

   ある晩、ジンルは片付けをしていた。

   「プルルル⋯」電話が鳴った。電話に出ると、聞こえてきたのは、何となく聞き覚えのあるような声だった。「やあ、僕だ、ワン・ウェイだよ。帰って来てるのかい。」

   「ワン・ウェイ?」ジンルは驚いた。「何年も会っていないのに、なぜ突然電話してきたのだろう。」

   「ええ⋯帰ってるわ。何か?」ジンルは答えた。

   「久しぶりだな。ドライブしないか。今そっちに向かってて、もうすぐ着くんだ。外で待ってて。」そうワン・ウェイは言った。

   電話を切ったジンルの心臓は高鳴り、学生時代に引き戻された……

   ジンルは美しいだけでなく、成績も優秀で、ワン・ウェイ以外にも何人もの男子生徒が彼女のことを追いかけた。色々な手を使ってジンルの気を引き、近づこうとした。メッセージを送ったり、手紙を書いたり、贈り物をしたりした。だがジンルは従順で繊細な娘で、勉強に影響が出たり両親の期待を裏切ったりするようなことに心を動かされることは望まなかった。ワン・ウェイのしつこい誘いにもいつも無関心な態度をとっていた。だがワン・ウェイは冷たくされても諦めなかった。数年後、ワン・ウェイは相変わらずジンルを追いかけていた。ワン・ウェイの自分に対する変わらない態度に、ジンルの気持ちはほんの少しだけ動いた。その後、ワン・ウェイの周囲には一日中数人の女子がいるようになった。ジンルの静かな気持ちがざわつき始めた。ジンルは、その学期が終わるまで、ワン・ウェイを試そうと思った。彼についてまわる女子に心を奪われることなく自分を追いかけ続けるのであれば、ワン・ウェイの誘いに答えようと考えた……

 

 

   ブッブー。車の合図でジンルは我に返った。ワン・ウェイは外で待っていた。

   ジンルは車に乗り込み、久しぶりに、そして突然、ワン・ウェイと再会した。二人は黙ったままだった。

   特に当てもなくドライブしたが、何となくぎこちない空気が流れていた。

   かなり経ってからワン・ウェイが口を開いた。「で⋯元気にしてたのかい?」

   「ええ、元気よ。とっても。」ジンルは静かに答えた。

   「今までいったいどこにいたんだい?ちっとも見つからなかったよ。地球から消えちゃったのかと思ったよ。たまたま友達のケータイできみの番号を見つけて、それで電話したんだ。じゃなければもう一度会えるのかどうかも分からなかったよ。」運転しながら時折ジンルの方を見てワン・ウェイが言った。

   「隠れてた訳じゃないわ。忙しかったの、仕事が。友達と連絡取る時間もなかったのよ。」ジンルは落ち着いた口調で言った。車を道の脇に寄せると、ワン・ウェイは心の中の思いを話し始めた。その低い声は悲しみと後悔に溢れていた。「学生のころはいつもきみを追いかけていた。5年間も。でもきみはいつも僕に冷たかった。いったいどうその時期を過ごしたのか自分でも分からない。きみが学校を卒業してから、僕は士官学校に行った。でもきみのことばかり考えていた。卒業してから、僕はきみを探し回った。でも見つけられなかった。結局僕は、家族からのプレッシャーに負けて結婚した。それでも僕の心にはいつもきみがいたんだ。今でも、これからもずっとそうだ。偶然きみの電話番号を見つけた時には、後悔しかなかった。きみを待たずに結婚してしまったことを。もっと早くきみに再会できなかったことを……」

   ワン・ウェイの心の底からの告白に、ジンルは強い悲しみを感じた。昔から美しい顔立ちだが、成熟した立派な大人の顔になったワン・ウェイを見たジンルは、自分の心がワン・ウェイに惹かれることに自分でも驚いた……

   「君のことを追いかけ続け、冷たくあしらわれてきて、僕は暗闇の中にいた。そしてもう一年、君からの応答を待つことにした。だが結局⋯君は君のまま、僕は僕のままだ。なぜなんだ。なぜいつも僕を無視したんだ。僕のことをどう思ってたんだい?教えてくれないか。」傷ついたワン・ウェイは言った。

   ワン・ウェイの言葉を聞いて、ジンルもまた心が痛み、後悔した。「当時自分に思いやりがなかったためにワン・ウェイを傷つけたこと、そして自分が無関心だったためにワン・ウェイと共に過ごす機会を逃したことを。」ワン・ウェイを見ながら、何年もの間自分を思い続けてきたことにジンルはため息を漏らした。自分はもう若くはなく、未だに付き合っている人もいない。友人はみな結婚し、自分だけひとりでいることを思った。自分も誰かに愛され、強い絆で結ばれたい、そう思った。ワン・ウェイと一緒になることを思った時すらあったのだ。ワン・ウェイが自分を追いかけ続けていたことを思い出し、当時はそれを理解できなかったことを思った。そのワン・ウェイが今でも自分を忘れずにいる。ジンルはそんなワン・ウェイの気持ちに答えて一緒になりたいとさえ感じた。だが彼女の理性は、「ワン・ウェイは結婚しているのよ。クリスチャンとして、証しにならなければ。衝動にかられて自分の感情をそのまま伝えてはいけないわ。神様の要求に沿った行動を取らなければ、神様の御心には沿えないわ。」ジンルはそうは思ったものの、心の奥深くで、彼女の理性は方向を失い、苦しかった。

   ジンルは混乱した気持ちを整理し、何ともないように言った。「あのときは次の学期が終わるまであなたを試したかったのよ。もしそれであなたの気持ちが変わらなかったら、付き合ってもいいと思ったの。でもそれから両親の自分に対する期待を考えたわ……こうなることが運命だったのよ。」

   感情を抑えてそう言ったものの、ジンルの心は苦しかった。もし当時に戻れるなら、迷わずワン・ウェイと付き合う、そう思った。そうなっていればこんなことにはならなかったのに。だが今、必死に自分の気持ちを抑えようとするジンルの頬を、涙が伝い、ワン・ウェイに涙を見られないと窓の方を向いた。だがワン・ウェイはジンルの涙を察し、急いでティッシュを取ると、ジンルの涙を拭こうとした。

   ジンルは心の中で神を呼び求め、誘惑に陥らないように、クリスチャンの証しから外れることのないようにと助けを求めた。ティッシュを受け取り、ジンルは言った。「大丈夫よ。」すると、涙を拭いたジンルの手をワン・ウェイが握って自分の肩に引き寄せた。混乱したジンルは、ワン・ウェイの肩に慰められたかった。恍惚としたジンルが、ワン・ウェイの肩にもたれようとしたその瞬間、神の教えと警告がジンルの心に響いた。「悪を行うすべての人々(姦淫する者、あるいは汚れたお金を扱う者、男女の境界が不明瞭な者、わたしの経営を邪魔したり損なったりする者、霊が塞がれている者、あるいは悪霊に憑かれている者など―わたしの選びの民を除くすべての者たち)について言えば、誰ひとり放免されることも、赦されることもなく、全員がハデスに投げ込まれ、永遠に滅びるだろう。」(『キリストの初めの言葉』より)ジンルがそれは神からの裁きと非難であると感じた途端、彼女は我に返った。ジンルは神が聖なるお方であり、神の性質は義であり背くことができないもので、汚れた肉体関係といい加減な男女関係に関わる者は神が最も嫌われることを知っていた。もし自分が男性と過った関係に陥るなら、永遠に汚れ、罪に定められ、神に嫌われ、呪われることを知っており、クリスチャンとしての証しも神の救いも失うと知っていた。一歩でもワン・ウェイの方に傾けば、自分は完全にダメになると分かっていた。そんな状況の中、ジンルはそれまで感じたことのない恐怖と不安を感じた。ジンルは神の性質に背くことは出来ないと思うと同時に、ワン・ウェイの結婚生活を尊重しなければならないと感じた。もはやワン・ウェイは自分を追いかけていた学生ではなく、妻子ある一人の男性なのだ。ここでジンルが一歩誤れば、ワン・ウェイの家庭が崩壊し、自分は女性として恥ずべき人間になってしまう。神の言葉はジンルの中に、神を畏れる心を呼び起こした。持てる力を振り絞り、ジンルは冷たく言った。「もう手遅れよ。家に帰りたいわ。」

   「君はなぜこんなにいつまでも僕を拒否するんだい?君を慰めることもできないのかい?」不満そうにワン・ウェイが言った。

   「誤解よ。あなたを拒んでいる訳じゃないわ。敬意を表わしているのよ。あなたには家庭があるんだもの。家族をかんがえなきゃ。」ジンルは落ち着いてそう言った。

   「じゃあ僕が離婚したら?そうしたらチャンスはあるかな。口先だけで言ってるんじゃない。」ワン・ウェイはそう言ってジンルに迫った。

   その言葉を聞いたジンルの心は再び揺れ、どのような言葉を返せばよいか分からなかった。心の中でただこう祈った。「ああ神様!どうか私の心を守り、あなたのご性質に背くことから私をお守りください。」そう祈ったジンルの心に次の言葉が思い浮かんだ。「彼らの言葉はあなたの心を養い、あなたを虜にする。そうすることであなたが迷い、知らず知らずのうちに引き込まれ、進んで彼らに尽くすようになり、あなたは彼らのはけ口となり、しもべとなるようにする。あなたは不平ひとつ言わず、彼らの思うままになる―彼らにだまされているのだ。」(「あなた方の性格は卑しすぎる」より)神の言葉によってジンルはもう一度気づかされ、自分の心が揺れているのは邪悪な欲に陥りそうだからだと気づいた。これはサタンの狡猾な策略による誘惑であり、それによって罪の中を生きるようにさせ、クリスチャンとしての証しを失わせ、堕落の一途を辿って腐敗させようとしているのだ。だから自分がしっかりと見分け、サタンの巧みな策略を知らなければならない、そうジンルは理解できた。ワン・ウェイは既に結婚している。「それは事実だ」一時の甘い言葉に理性を失い、騙されてはならない、そうジンルは理解できた。もし道を誤って間違ったことを言えば、サタンに騙されてサタンに仕えることになり、恥ずべき女となってしまう。そうなれば、ワン・ウェイの家庭は崩壊し、ワン・ウェイの妻子はこの先ずっと苦痛を抱えていくことになり、ジンル自身も神の前に修復不可能な汚れを残すことになる──とんでもない結果になるのだ。

   その事に気づいたジンルは気持ちをしっかりと持ち直し、静かに答えた。「おかしなこと言わないで。たとえ離婚しても、私たちは友達でしかないわ。冗談でしょ。さあ家まで送ってくれない?」ジンルの決意が固いことを見取ったワン・ウェイは、それ以上何も言わなかった。

   ジンルの家の前に着いてジンルが車を降りようとした時、ワン・ウェイは再びジンルの手を取ろうとした。だがジンルは急いで車を降りて入り口の方へ向かった。家の中に入ったジンルはベッドに倒れ込んだ。今日起きたことを振り返って、なかなか心を静めることができなかった。色んな感情がこみ上げてきた。神の守りがなかったならば、恐らくワン・ウェイの告白と思いやり、慰めに引きずられずにはいなかっただろう。そして醜く不道徳なことをして相手の家庭を崩壊させただろう。そして更に深刻なことは、恐らく感情的誘惑に負けて神の性質に背き、クリスチャンとしての証しを失い、赦されない罪を一生後悔することになっただろう。神の言葉がどれほど大切かを、ジンルは痛感した。それによって神に守られただけでなく、誘惑の中にあっても冷静に、そして自分の言動に敏感でいることができ、正常な人間性を生きることができた。この経験は、ジンルに安らぎと喜びを与えた。ジンルは神に感謝と讃美を献げずにはいられなかった。サタンの誘惑に勝利して堅く立ってクリスチャンとして証しとなることが出来たのは、神の守りがあったからだ。ジンルは神の前に出て感謝の祈りを捧げ、眠りについた。


山上の垂訓の中の「心の貧しい人」とはどのような人を指しているのでしょうか

2019-12-24 23:48:02 | 信仰生活

   ある日のディボーション中に、次のような主イエスの御言葉が目に留まりました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)私は聖書を置くと、この言葉を思い巡らしました。「主は心の貧しい人を喜ばれ、祝福される。そして天国は彼らのもの。でも心の貧しい人ってどんな人のことなんだろう。外見は謙遜で柔和、周りの人に愛情深い人のこと?」私はしばらくこのことを考えていましたが、光を見つけることはできず、午後まで考え続けました。ちょうどその日は集会のある日だったので、そこで私はこの疑問を兄弟姉妹と話し合うことができました。

 

心の貧しい人とは外見は謙虚で柔和、愛情深い人のことか

   私はその集会で自分の疑問を投げかけました。私の話を聞いていたファン兄弟が言いました。「外見上は謙虚で柔和、愛ある人のようだという理由で、その人が心の貧しい人だと判断することはできません。むしろその人が神様にどのように対応し、真理に対してどのような態度を取るかを見なければなりません。それがこの問題を検討する正しい方法です。外見は謙遜で柔和、人に愛情深く見えても、心の中は傲慢で自己中心で、真理に従えない人もいます。そのような人は、神様の働きが自分の観念と一致しなければ、真理を求めることに興味を示さないばかりか、おごりから自分の考え方に固執して神様の働きを拒み、反発し、非難や反抗さえします。そのような人がどれほど謙虚であっても、心の貧しい人ではありません。彼らは当時のパリサイ人同様、よく庶民に向けて聖書の言葉を解釈し、シナゴーグや通りにわざとらしく立って長い祈りを朗誦したり、慈善活動をしたり、通りに立って立派な行いをしたり、外見的にはとても謙虚で柔和で愛ある人々のように見えます。しかし主イエスが来られた時、彼らは全く真理を探し求めようとはせず、それどころか自分達の観念や想像に頼り、主イエスがメシアと呼ばれなかったという理由でキリストではないと主張したのです。そして神様の働きを旧約聖書に限定し、主イエスの言葉と働きを旧約聖書を越えていると非難することで、主イエスの言葉と働きを否定したのです。そればかりか、パリサイ人は主イエスを神様の出現とは認識しませんでした。彼らは主イエスはただ普通の人でしかないと決めつけ、「この人は大工の子ではないか。母はマリヤ・・・ではないか」(マタイによる福音書13:55)などと言いました。パリサイ人は、主イエスの言葉に権威と力があり、主イエスが多くの奇跡や不思議を行なわれるのを見ましたが、それでも謙虚に求めることをせず、それどころか特に傲慢で真理に従うことができず、自らの観念に固執し、偽証するものとなり、噂話をでっち上げ、主イエスを激しく非難し冒瀆したのです。最後にはローマ政府と共謀し、憐れみ深い主イエスを十字架にかけ、筆舌に尽くしがたいほどの罪を犯し、神様に罰せられたのです。このことから、人が外見上どれほど謙虚で柔和、愛ある人のように見えても、もし神様と真理に本当に従順でないならば、その人は心の貧しい人などでは決してないことが分かります。そのような人は偽善者なのです。その人の謙虚さは偽りであり、他人への愛もまやかしなのです。全ては欺きであり嘘であり、皆に称賛され高く評価されようとして騙そうとするものなのです。そのような人は外見は謙虚で忍耐強く、愛あるように見えても、その心の中は偽りと悪意、邪悪に満ちており、彼らの本質は偽善者なのです」

   ファン兄弟の話を聞いて、人が謙虚で柔和に見えるかどうかでその人が心の貧しい人かどうかを決めつけるのは正しい事ではないこと、一番重要なのはその人の神様への対応の仕方や真理に対する姿勢なのだと言うことが分かりました。パリサイ人は謙虚で柔和のように映り、良い行いもしましたが、主イエスが来られて働かれた時には謙虚に求めるどころか自分の観念と想像に固執し、主イエスを激しく拒み非難し十字架にかけたのです。そのような人間がどうして心の貧しい人と呼ばれることがありえるでしょうか。彼らは明らかに傲慢で尊大であり、神様の敵だったのです。

心の貧しい人とは、心の貧しい人が現わすものとは何か

   ファン兄弟は続けました。「傲慢な性質を持っていながら真理に従うことができる人もいます。そのような人は神様の働きが自分の観念と一致しない場合、自分を二の次にして謙虚に求め、真理を理解するとすぐにそれを受け入れて従います。そのような人は真に心の貧しい人で、謙虚な人でもあります。ちょうどナタナエルについて聖書に書かれているようにです。ピリポが主イエスの事を彼に証言しようとした時、ナタナエルは自分の観念と想像に頼り「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と言いました。けれども主イエスが彼のことを、「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われた時、ナタナエルはイエス様に「どうしてわたしをご存知なのですか」と尋ねました。イエス様は答えて、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」と仰いました。ナタナエルは答えました。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネによる福音書1:45-49参照)。ナタナエルはメシアがナザレで生まれたはずはないと信じていたために、初めのうちは主イエス様について観念があったものの、自分の考えに執着することなく謙虚に求めて主イエスの言葉に注意深く耳を傾けたことが分かります。主イエスがいちじくの木の下にいる自分を見たと仰るのを聞いた時、ナタナエルは主イエスは全能であり全てをご存知で、自分の心と魂を調べることがおできになる方で、普通の人とは違うと感じました。そしてナタナエルは自分の観念を手放し、主イエスが預言されたメシアであると認識し、主イエスを受け入れ、主の救いを受けたのです」

   ヂャン兄弟はうなずいて言いました。「そうです。ナタナエルのように謙虚に求める態度で神様と神様の働きに対応し、主イエスの言葉を受け入れて従うことができる人は心の貧しい人です。主イエスの福音を受け入れたエチオピアの宦官のことも思い出します。聖書にはこうあります。『宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕』(使徒行伝8:34-37)エチオピアの宦官には権力と地位がありましたが、それらのものに全く影響を受けていませんでした。エルサレムで礼拝した後の帰路、宦官はピリポに会いました。彼は自分の地位や聖書の知識ゆえに自分が人より優れていると考えることもなく、傲慢でも尊大でもありませんでした。かえって謙虚な態度でつつましく求め、ピリポから主イエスの話を聞くと、その方がキリストだと信じ、喜んで主イエスを救い主として受け入れたのです。そのような人が心の貧しい人なのです」

   ファン兄とヂャン兄の話を聞いて、私もその通りだと思いました。私は言いました。「つまり、心の貧しい人は頑固な人ではありませんね。心の貧しい人は神様から出たものには、自分の観念に合うかどうかに関わらず謙虚な姿勢で向き合います。そしてひとたび真理を理解したなら、自分の観念を捨てて神様の働きを受け入れて従うことができます。そのような人は純粋で正直で、真理を切望する心を持っています。神様はそのような人を愛されます。主に感謝します!私は遂に心の貧しい人とは外見が謙遜で柔和な人ではないこと、そして最も重要なことに、神様を畏れる心を持ち、全てのことにおいて謙虚に求め、真理に従い、気まぐれに神様の働きを制限してしまわない人だということが分かりました」

   続けてヤン姉がこう言いました。

   「ええ、心の貧しい人は神様を畏れる心を持っています。そして神様の働きが自分の人間的な観念と一致するかどうかに関わらず、自分のことを二の次にして謙虚に求めることができます。これこそが心の貧しい人で、そのような人だけが天国に入る資格があります。外見は謙虚であってもその本質が傲慢で真理を受け入れない人は、ひとたび神様の働きが自分の観念と一致しないならば、裁き、反抗し、非難し始め、謙虚に求めたり探ったりすることが全くできず、最終的には神様に嫌われ憎まれるのです。そのような人は天国のほんの一部もあずかることはありません」

   兄弟姉妹の交わりを聞いた後、私は突然聖書の中のヤーウェの言葉を思い出しました。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、ヤーウェは心を見る」(サムエル上16:7)。そしてこう言いました。「私たちは人を見る時その人の外見だけを見ますが、神様は人の心と本質を見られます。以前の私は識別力に欠けていたため、誰かが善いことをしたり柔和で優しそうに見えると、その人は謙虚だと考えました。でも今こうして考えていると、この観念が愚かなことかが分かります」

   ファン兄は言いました。「アーメン!主の啓きと導きにより、今日このような理解を得ることができました。今、主イエスの『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』という言葉を読むと、更にはっきりと分かるようになりました。私たちはすでに終わりの日の最後の段階にいます。主の再臨を歓迎する重要な時です。私たちが心の貧しい人となり、全てのことにおいて謙虚に求め、真理を受け入れて真理に従うことはそれゆえにずっと重要なことで、それによって私たちは主に喜んでいただき、主の再臨を歓迎できるのです。主イエスの言葉を思い出してください。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。そしてヨハネの黙示録3章20節ではこう預言しています。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』。また、黙示録2章7節では、次のように預言しています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。これらの聖句から、終わりの日に主が戻られる時には、主はさらに語られ、全ての真理と奥義を私たちに語られることが分かります。どこかの教会が主が戻られて語られていると証言したり、誰かが主が戻られたと証言したりするのを聞いたならば、私たちは自分の観念を捨てて、これらの言葉が自分の霊的必要を満たし、実際の問題を解決し、実践の道を示してくれるかどうかを謙虚に求めるべきです。それが神様の声であり真理の表現だと確信したならば、私たちは真理を受け入れて神様の働きに従うべきです。このようにすることで、私たちは確かに主の再臨を歓迎することができるのです。そうせず、謙虚に求める姿勢をもたず、自分の観念に合わないものは一切求めることも探ることも拒むのであれば、神様に反抗するパリサイ人の道を歩む危険性があり、主の再臨を歓迎する機会を逃すことになります。これは大変な悲劇となるでしょう」

   私はうなずきながら言いました。

   「アーメン!私たちが心の貧しい者であり、謙虚に真理を求め、神様の声や真理の表現を聞いたと確信した時にそれを受け入れて従うならば、真に思慮深いのです。私は謙虚に求め、神様の声に耳を傾け、主の出現を歓迎する者でありたいです」

   「神様に感謝します!」

   「今日の交わりは素晴らしい!本当に聖霊の啓きと導きからのものです!」


聖書の言葉ーあなたは終わりの日の教会の荒廃の根源を知っているのか

2019-12-23 19:07:24 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   ヤーウェ神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」

アモス書8:11

 

   感得:この聖句は人が霊的飢え渇き、否定的となり弱くなっている状態の中で生き、教会の荒廃の根源の原因になることを言いました。重要なことは、人が神様の言葉と働きを尋ね求めず、さらに神様の言葉を聞かず、神様の言葉の供給を失い、飢饉の中に陥ったのです。当時律法の時代の末期の神殿が荒れ果てる時の光景みたいです。なぜなら、神様がすでに神殿から離れ、つまり主イエスが神殿の外で言葉を語り贖いの働きをなさい、神様の新しい働きが展開したら、聖霊は神殿の中で働かず、主イエスの働きを維持するのです。それら主イエスに付き従う人々は、いのちの生ける水の供給を得られ、霊に満たされ、聖霊の働きの平安と喜びを享受することができました。しかも、それは先祖代々神殿の中で神様に仕えた祭司、律法学者、パリサイ人、またそれらのユダヤ人は、彼らはただ律法に固執し、主イエスの言葉と働きを拒否し、いのちの供給を得られず、聖霊の働きを失って、飢饉の中に生き、神殿は強盗の巣になったのです。彼らは主イエスに従わないだけではなく、主イエスの働きに抵抗し、罪に定め、主イエスを冒涜し、最終的にローマ政府と結託して、贖いの働きをなさる主イエスを生きたまま十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯し、神様に呪われてしまったのです。

 

 

   今の宗教界を見てみましょう。ある牧師と長老、説教者は集会の時に、聖書の知識、神学理論を少し解説して、自己顕示し、自分を証し、人々に自分を崇拝させます。しかし、主の道を守らず、主の御言葉を言い伝えず、少しも主を証し、崇めることがなく、兄弟姉妹が聖書の働きと言葉を尋ね求めることをも導かないため、兄弟姉妹がいのちの生ける水の供給を得られなくなり、皆否定的となり弱くなっている状態の中に生き、信仰と愛が冷め、多くの人は世界の邪悪な流れに従い、金銭や名利、肉の享受を追い求め、罪のはかない歓楽にふけ、罪の中に生きていて抜け出すことができず、罪の深い淵に落ち、当時の神殿の荒廃の光景が再現しています。私たちは思わずこう考えます。今主の再来の預言はすでに実現され、主の再来を迎える肝心な時ですが、私たちは聖霊の働きを失って主の臨在がなくなり、これは本当に容易に主に見捨てられるでしょう。それでは、私たちはどのようにして主の足跡に付き従い、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の供給を得ることができるのでしょうか。主イエスの言葉を思い出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)主の言葉から私たちは、キリストは真理、道、いのちであり、神様の羊は神様の声を聞くことがわかりました。私たちは神様の足跡に付き従い、神様の出現を迎えたいなら、パリサイ人の信仰を失敗した教訓をくみ取り、終わりの日の主の再来の言葉と働きに対して、私たちは神様を畏れ敬う心を持って尋ね求め考察し、神様の声を心に留めれば、主の再来を迎える機会を得られ、いのちの生ける水の供給と注ぎを得られるのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」