賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

救われる=天の国に入る?

2019-06-28 22:07:12 | 天国への道

   今日、わたしは道を説く時、大災難がもうすぐ起こると言い、兄弟姉妹たちに積極的に集会に参加し、もっと多く聖書を読み、現実生活の中で主の道を行い、目を覚まして主の到来を待つように要求しました。わたしは一部の兄弟姉妹が依然として力を持たず、自分が天の国の中に携え上げられることができるかどうかを疑うのを見て、こう言いました。「兄弟姉妹たち、聖書にこう書かれています。『実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです』(ロマ10:10)。主イエスを信じたわたしたちは心で信じ、口で公に言い表したため、永遠に救われました。主が再来される時、わたしたちはきっと天の国の中に携え上げられることができます!」。兄弟姉妹たちはこの言葉を聞いた後、うれしくなり、また力を持つようになりました。この時、同労者山田さんは立ち上がって言いました。「わたしはそうとは限らないと思います。主イエスは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』(マタ7:21)と言われました。これはわたしたちに、神の御心を行う者だけが天の国に入ることができるとはっきり教えています。今わたしたちは救われましたが、依然として昼間に罪を犯し、夜に罪を告白します。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではありません。わたしはわたしたちが天の国に入ることができないと思います!」。

   兄弟姉妹はさっき少しうれしくなったが、同労者山田さんの一言で彼らの顔から笑顔が消えました。わたしはみなさんを見回して少し考えた後、その言葉を引き取って言いました。「兄弟姉妹たち、パウロ兄弟はガラテヤの信徒への手紙第3章26節で『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』と言いました。これは、わたしたちはイエスを信じることによって神の子となったことを証明します。わたしたちは神の子ですから、必ず神の国に入ることができます!」。

   同労者山田さんはわたしの言葉を引き取って話しました。「佐藤兄弟、わたしはあなたの言葉に賛成しません! ペテロの手紙一第1章16節で『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあります。へブライ人への手紙第12章14節で『聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』と書いてあります。聖書のこの二箇所の言葉から、わたしたちは神のきよい性質をはっきり見られます。わたしたちは救われましたけれど、いつも罪を犯し、罪を告白し、まだきよくなっていません。このようなわたしたちは全然主に会う資格がありません。これではどうして天の国に入ることができるでしょうか」。

   この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

   同労者山田さんは断固として言いました。「兄弟姉妹たち、聖書には、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないと書かれているし、主イエスも天の父の御心を行う人だけが天の国に入ることができると言われました。これは、わたしたちがきよくなってこそ神の国に入ることができることを証明します。わたしたちは主の言葉を守らなければなりません!」。

   すると、わたしは大声で言いました。「同労者のみなさん、救われるという問題については、パウロはこう言いました。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です』(エフェ2:8)。『もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります』(ロマ11:6)。パウロの言葉はどんなにはっきりしているのだろう。主の救いは価なしにわたしたちに与えられました。彼は人の行いを問題にしません。もし彼が人の行いを問題にすれば、それは主の恵みだと言えるでしょうか。今日、わたしたちが主の恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます!」。

   佐々木兄弟は手を揚げて言いました。「佐藤兄弟の言うとおりです! パウロはまたテモテへの手紙二でこう言いました。『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ』(二テサ1:9)。主イエスを信じるわたしたちは恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます。行いによって救われることができる者はだれもいません!」。

   同労者山田さんは感情が少し高ぶって立ち上がって言いました。「兄弟姉妹たち、神を信じるわたしたちが天の国に入ることができるかどうかを決めるのは主イエスですか、それともパウロですか。主イエスの言葉に権威がありますか、それともパウロの言葉に権威がありますか。わたしたちは主イエスが真理、道、命であることを認めますか」。この言葉を聞いた後、みんなは互いに顔を見合せて、「もちろん認めます!」と言いました。

   同労者山田さんのこの言葉はわたしを悟らせました。「そうですね。わたしたちは神を信じる上で主の言葉を基準とすべきです。なぜわたしはいつもパウロの言葉に言及するのですか」とわたしは考えていました。ここまで考えた時、わたしは心を落ち着かせて、続けて山田兄弟の言葉を聞きました。



   同労者山田さんは続けて言いました。「わたしたちは主イエスが真理、道、命だと認めますが、でも今パウロの言葉は主イエスの言葉と矛盾し、対立しています。これは、パウロの言葉が混じり気のあるもの、人の意志によって出たものであって、真理ではないことを証明します。わたしは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』という主イエスの言葉を信じます。これこそ、天の国に入るための唯一の基準です!」。

   この時、高橋兄弟も興奮して立ち上がって言いました。「わたしたちは神を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。なぜなら、主イエスだけが天の国の主であり、彼の言葉にこそ真理、権威があります。主イエスの言葉に権威があるということは、主イエスが決定権を持っているということです! パウロが天の国の主ではないから、彼の言葉に権威がなく、彼の言葉が有効ではありません! パウロはただの使徒であり、しかも腐敗した人です。彼自身も神の救いを必要としていました。人が天の国に入ることができるかどうかは、主イエスによって決められるのです。彼はほかの人が天の国に入ることができるかどうかを決める資格があるでしょうか」。

   皆さんがうなずいて賛成するのを見て、わたしは「山田兄弟、あなたの言うとおりです。わたしたちは主を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。しかし、わたしは救われることと天の国に入ることについてよく分かりません。この面についてあなたはどう考えていますか」と言いました。

   この時、同労者山田さんは落ち着いて言いました。「この面については、ここ数日わたしは聖書を繰り返して調べました。わたしはこの面についてこう思っています。救われるとは、律法の罪定めから解放されること、罪の赦しを得ることです。しかし救われる人は常に罪を犯し、神に逆らい、神に背き、まだきよくなっておらず、まだサタンの権威の下に生きています。天の国に入ることのできる人は天の父の御心を行い、神の言葉を実行する人、神を知り、神に従い、神に味方する人でなければなりません。だから、救われることと天の国に入ることは異なります。主イエスが言われたように、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』(マタ22:14)。これは、主を信じて救われる人が多いが、最終的に天の国に入る人が少ないことを証明します。これも神の義なる性質を明らかにしました」。

   この言葉を聞いて、高橋兄弟はこう言いました。「わたしは山田兄弟の観点に賛成します! 主イエスは『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている』(マタ11:12)と言われました。主の言葉から分かるように、天の国に入るのには基準があるのです。それはわたしたちが想像しているように簡単ではありません。恵みに頼って救われるとしたら天の国に入ることができる、というのではありません。わたしたちは努めて主の道を行わなければなりません。それでこそ天の国に入ることができます」。

   彼らの言っていることはもっともですが、わたしの心の中にやはり疑問があります。そこで、わたしはこう聞きました。「天の国に入るのに、天の父の御心を行わなければなりません。これは間違いのないことです。だが、わたしたちはずっとパウロに倣ってすべてを捨てて主のために働くのではありませんか。多くの兄弟姉妹は自分の一生を主にささげ、一生娶ったり嫁いたりせず、主のために山々を越えて福音を宣べ伝えます。すべてのクリスチャンが天の国に入るために少なからぬ苦しみを受け、多くの代価を払ったと言ってもいい。これは天の父の御心を行うのではありませんか。わたしはわたしたちがずっとこのように実行すれば、きっと天の国に入ることができると信じています!」。

   同労者山田さんは手の中の聖書を下に置いて言いました。「兄弟姉妹たち、わたしたちはまじめに聖書を調べましょう。主イエスは、人がすべてを捨てて、主のために労苦し、働くなら天の国に入ることができると言ったことがありません! 主イエスはただ『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』と言われました。わたしはこう思います。本当に天の父の御心を行う人たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する人です。彼らが働き、苦しみを受けるのは、自分の利益と前途のためではなく、完全に神を愛し、神の愛に報いるためです。彼らは何事にも神の願いを顧みることができ、どんなことがあっても罪を犯したり神に逆らったりしません。彼らが神を信じるのは、完全に罪悪を逃れ、自分をきよくするためです。このような、主のために働く人こそが天の国に入る資格があります!」。

   この時、沈思している高橋兄弟はこう言いました。「山田兄弟の言うとおりです! 聖書に『義を行う者は、御子と同じように、正しい人です』と書かれています。ここの『正しい人』は信仰によって義と『された』人ではなく、義を行う人、もはや罪を犯さない人を指します。わたしたちは今、すべてを捨てて主のために働きますが、やはりいつも罪を犯します。わたしたちは真の義人ではなく、神の国に入る資格がありません!」。

   わたしは異議があって反駁しました。「パウロはこう言ったのではなりませんか。『わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。……』(二テモ4:7-8)と。わたしたちが主のために福音を宣べ伝え、労苦し、働き、主の道を守るのは、天の父の御心を行うのではありませんか」。

   同労者山田さんは冷静に言いました。「佐藤兄弟、あなたの観点によれば、海と陸を行き巡って至る所で福音を宣べ伝え、多くの苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っているパリサイ人も天の父の御心を行ったのではありませんか。わたしたちが知っているように、パリサイ人は外側で神のために苦しみを受け、代価を払いましたが、神に逆らい、主イエスを十字架につけました。これで分かりますが、人が外側で苦しみを受け、代価を払い、外側のよい行為を持つことは、人が天の父の御心を行い、神を認識し、神に従うことの証明ではありません! 同様に、わたしたちは今日主のために働き、苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っていますが、やはりいつも罪を犯し、神に逆らいます。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではなく、天の国に入る資格がありません!」。

   これらの言葉を聞いた後、わたしは言うべき言葉がなくなりました。考えてみれば、わたしたちが罪の中に生きていることは事実であり、わたしたちが主のために費やす時、主と取引するという意図、観点、祝福を得ようという欲望があることも事実です。

   この話題について、皆さんはそれぞれ自分の見方と認識を積極的に話しました。集会がもうすぐ終わる時、わたしは皆さんに喜んで言いました。「兄弟姉妹たち、神に感謝します。今日の弁論会によって、わたしたちは救われることは天の国に入れることを意味しないと分かりました。しかも、このような弁論によって、恵みに頼れば救われることができるというわたしの間違った観点も是正されました。以上から分かるように、わたしたちが外側でどのように神を信じても、どのように主のために労苦し、働いても、わたしたちの中の罪が解決されず、わたしたちが本当に神の御心を行うことができないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、神の国に入ることもできません。この点から、神がきよくて正しい神であるのを知ることができます。だから、わたしたちはいつも自分の観念と想像によって神を信じるわけにはいかず、神がわたしたちに要求する、天の国に入るための基準によって追い求めるべきです。そうしてこそ、神の心を満足させ、神の称賛を得ることができます」。これらの言葉を聞いて、兄弟姉妹たちはみなうなずいて賛成しました……。

 

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