賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主を迎えているあなたは主を見たのか

2019-06-25 22:26:29 | 礼拝説教

   最近、一部の信徒はFacebookで書き込みをして、「今はもう世の終わりです。主が戻ることに関する預言がほとんど実現しましたが、なぜ主を迎えているわたしたちは主を見ていないのですか。わたしたちの主を待つ方法に問題がありますか」と聞きました。実は、多数の兄弟姉妹はこの問題が分かりません。この問題については、わたしは少しの浅薄な認識があります。ここで、皆さんとわたしの認識を分かち合いたいです。

   主イエスはわたしたちにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。……」(ヨハ14:3)。「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタ24:30)。二千年来、多くの信徒はこれらの預言を根拠にしていて、主が天の雲に乗って戻って来られると思っています。それゆえ、主にある多数の兄弟姉妹はこの観点を固持し、目を覚まして主の再来を待っています。

 

   預言と言うと、わたしは当時のパリサイ人がメシアの到来を迎えることで犯した間違いを思い出します。あの時、ユダヤ教のパリサイ人はメシアに対する想像に満ちていました。彼らは聖書の中で次のような預言を見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:5-6)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:1)。聖書のこれらの預言、および長年来の、メシアの到来に対するさまざまな想像と推理のゆえに、パリサイ人は主が来られた時、きっとメシアと呼ばれ、きっと富貴の家に生まれ、しかもダビデ王のように彼らを導いてローマ政府の支配を覆すと断定しました。でも、主は彼らの観念と想像にしたがって行われませんでした。そのため、パリサイ人は主イエスを訴える口実をいつも探して、主イエスを罪定めし、冒涜しました。当時、主イエスが多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、神の権威と力を完全に明らかにしたにもかかわらず。パリサイ人は主イエスの説いた道がどんなに優れているか、主イエスの権威がどんなに大きいかを無視し、主イエスの仕事が彼らの観念、想像にかなわず、主イエスが富貴の家に生まれず、りっぱな容貌を持たず、メシアと呼ばれないという理由で、主イエスを罪定めし、主イエスに逆らいました。最終的に、彼らは真理を恨むという本性のゆえに、真理を発表し、贖いの仕事をする主イエスを無残にも十字架につけました。パリサイ人の痛ましい失敗の教訓によって、わたしたちは預言は絶対に自分の考えによって解説してはならないと分かりました。預言が実現してはじめて、わたしたちはその真意を理解できます。だから、わたしたちは預言に対して正しい態度を取るべきです。

   わたしたちが知っているように、聖書の中で、主が戻ることに関する預言が他にまだ多くあり、「雲に乗って来る」という種類の預言だけがあるのではありません。わたしたちは主の次のような言葉を見ましょう。「見よ、わたしは盗人のように来る。……」(黙16:15)。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタ24:36)。多くの人はいつもこれらの言葉を読みますが、次の点を見落としました。「盗人のように来る」という言葉の言外の意味は、ひそかに来るということです。だから、聖書に記されている預言は、主の戻り方が二つあり、一つはひそかに来ることで、もう一つは公に来ることだということを示しています。主が戻ることに関しては、二種の異なった預言があるが、もしわたしたちがただ雲に乗って来る主イエスを待つだけで、「ひそかに来る」主イエスを無視するなら、わたしたちは主の救いを失うかもしれません。

   主イエスが来て働かれた時、次のようなことが起こりました。それは聖書にこう記されています。「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった」(マタ9:29-30)。また、ペテロが聖霊の啓示を得て、主イエスがキリスト、生ける神の子だと言い出した時、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと、弟子たちに命じられました(マコ8:29-30、マタ17:9を参照)。これらの事実から分かるように、主の最初の仕事はひそかに行われるのでした。主イエスは十字架につけられて、全人類を贖う仕事を成し遂げ、三日目に死人の中から復活して弟子たちに現れました。この時、主は公に現れ始めました。それ以後、恵みの時代の福音は正式に異邦へ拡大しました。これで分かるように、主イエスの仕事はまずひそかに行われ、それから公に行われるのです。だから、世の終わりに主が戻ることに関する預言の中には、「『盗人』のようにひそかに来る」方式と「雲に乗って来る」方式という二つの方式があることは事実と完全に一致し、この二つの方式は全然矛盾しません。

   あの時のパリサイ人はメシアを待っていたが、主イエスに逆らいました。彼らの失敗の教訓は痛ましいのです。今はもう世の終わりです。わたしたちはどのように主の到来を迎えるべきですか。主イエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタ7:7)。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。今、わたしたちはこのことを知りました。主が戻ることに関するすべての預言は必ず実現します。そのため、わたしたちは自分の観念を捨てて、主がひそかに働く時、すなわち主が盗人のようにに来る時、彼を認識するべきです。そうすれば、主を迎えているわたしたちは主を見ることができます。わたしたちが主の出現を切望し、求めさえすれば、神はきっとわたしたちに啓き、わたしたちを導いて、わたしたちが彼の足跡を見つけられ、神の働きの歩みについて行けるようにされます。

 

あなたのためにキリストの再臨に関するより多くの文章を推薦します


誠実な人になることを熱望するあなたへの贈り物――四つの実行のしかた

2019-06-24 10:36:43 | 礼拝説教

   今、兄弟姉妹たちはどうすれば誠実な人になれるかという問題に最も関心を持っています。わたしたちが知っているように、主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)と言われました。神の言葉はわたしたちに次のことをはっきりと教えています。誠実な人こそが神の心にかなう人です。わたしたちが子供らしさを持っている誠実な人になってこそ、神に良しとされて、神の国に入ることができます。では、わたしたちがどうすれば誠実な人になれますか。



第一に、まず祈る上で、誠実な人になるための実行をしなければならない。これは誠実な人になる始まりである。

   クリスチャンにとって、祈りは神を礼拝するのに欠かせないものです。考えてみれば、わたしたちは「主よ、わたしは心の中であなたを愛しています! 主よ、あなたの言葉はわたしの足のともしび、わたしの通り道の光です」といつも祈りますが、実際には、多くの時、主の言葉を実行できません。わたしたちが労苦して働くのは将来の冠のためです。わたしたちは自分の前途、運命、結末、最終的な落ち着き先を大事にしていて、全然神を愛さず、祈る時に神を賛美し、たたえますが、試練を受ける時、不平ばかり言い、さらには神を否定し、裁き、冒涜することさえします。ある時、わたしたちは祈りの中で何を言うべきかを知らないので、言葉をむりに探し求めてから、心にもない無意味な言葉を言い、或いは神を賛美する聖書の言葉を暗唱します。しかし、これらの言葉は心からの言葉ではないので、言い終わった後、なんら享受、感動を持ちません。わたしたちは主に、病気にかかった家の者をいやすことを求める時、「主よ、あなたは全能の偉大な医者です。家の者の病気がいやされたら、わたしはあなたにわたしの全存在をささげます」と、聞こえのよい言葉ばかり言いますが、家の者の病気が治った後、自分を神にささげませんでした。

   聖書にこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23)。この節から分かるように、神はわたしたちが霊と真理をもって彼を礼拝することを望んでおられます。そのため、わたしたちは祈る時には、神に心を打ち明け、真心をもって神を求め、神に依り頼むべきです。祈る時、言葉数が多いか少ないかは重要ではありません。わたしたちは祈りの中で、心からの言葉を神に話し、心に思っていることをそのまま言うべきであり、隠しだてしたり、偽りを言ったり、美辞麗句を連ねたり、口先だけの賛美をしたり、或いは空約束をして神を欺いたりしてはなりません。神の本質は信実です。わたしたちに対する神の愛は本当のものであり、偽りのものではありません。神は今までずっと彼の信実、真心をもってわたしたちを扱い、わたしたちに率直におっしゃるのです。そういうわけで、神はわたしたちの偽りの祈り、わたしたちの己を偽る祈りを最も嫌います。このような祈りを、神は聞き入れません。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、まず祈ることから着手しなければなりません。神に祈る時、心に思っていることをそのまま言うべきであり、困難があり、或いは罪を犯したなら、神の前に出て悔い改め、罪を告白するべきです。そうすれば、神の前で裏表のない人になります。これは、誠実な人になる始まりです。

第二に、誠実な人になるには、本当のことを言い、うそを捨てなければならない。これは最も基本的な日常の訓練である。

   箴言の書でこう書かれています。「うそをつく唇を主はいとわれる。忠実を尽くす人を主は喜び迎えられる」(箴12:22)。主イエスもわたしたちにこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)。これらの言葉から分かるように、主はうそを言い、神を欺く人を嫌います。でも、わたしたちは多くの時、日常生活の中で知らず知らずのうちに、自制できずにうそを言いました。例えば、わたしたちは兄弟姉妹と一緒にいる時、自分の直接的な利益と関係のない小さなことだけ話し、自分の犯した大きな罪をなるべく話さず、それを話したら、兄弟姉妹たちに貶され、ばかにされるのではないかと心配します。他人とつき合う過程の中で、わたしたちはある時はメンツや虚栄のためにうそを言い、ある時は自分の肉体の利益のためにうそを言い、またある時は自分の目的を達成するためにうそを言いました。……わたしたちが本当のことを言うことさえできないので、誠実な言葉で言うことなど問題外です。

   では、どうすればうそを解決できますか。わたしたちは事実に基づいて話しをすることを、まず訓練すべきです。言葉を言う上で、自分がうそを言ったかどうかを厳しく検査しなければなりません。どの言葉も事実に基づいて話さなけれならず、絶対に良心に逆らって話してはなりません。わたしたちは厳しくかつ真面目にこのように訓練しなければなりません。こういうわけで、わたしたちは言葉を言う時、自分が間違った意図があるかどうか、自分が自分の利益を守るために話しているかどうか、自分の言葉に混じりけがあるかどうかを反省する必要があります。自分が無意味な言葉、尾ひれの付いた言葉、正確でない言葉を言ったことに気づいたら、厳粛な態度で自分の言葉を扱うべきであり、本当のことを言うことを、訓練し、事実に基づいて話すべきです。もしわたしたちが自分のうそが相手を欺いたと気づいたら、勇敢に事実に直面し、自分の間違いを認めなければならず、神の言葉にしたがって真面目に実行しなければなりません。わたしたちがこのように真面目に自分の言葉、自分のすることを扱うなら、きっと、もはや偽りを言わなくなります。こうして、わたしたちは誠実な人になるという目標に向かって、さらに一歩進めました。聖書にあるように、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」(ペテ一3:10)。

第三に、神に忠誠を尽くすべきであり、働く上で精一杯責務を果たすべきである。これは誠実な人の達成すべきことである。

   主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」(マタ22:37-38)。これは、神がわたしたちに要求する基準、すなわち、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして自分の責任を果たし、神からの委託を真剣に遂行することです。わたしたちは自分は主に忠実な人、主を愛する人だと思い、主のために労苦して働くことに疲れも苦しみも恐れない自分は神の目には、良いしもべだと思っています。だが、わたしたちは自分の次のような言動に気づいていません。わたしたちはうわべでは、主のために働いていますが、心の中でどうすれば仕事をうまくやることができるかを考えず、ただ自分の職務のゆえに、形式的にやらざるを得ません。兄弟姉妹たちが困難にぶつかって、わたしたちに助けてもらう時、わたしたちは聖書の字句によって彼らを励ましたり、教理を説いたりしていいかげんにごまかしてしまい、彼らに実際の道を指し示すことができません。しかも、わたしたちは主のために働く時、責任感がありません。牧師や長老がわたしたちに任務を委ねるなら、わたしたちは人を喜ばせようと働き、どのように神の心を思いやるかを考えません。……わたしたちがこのように働くことは、心を尽くし、思いを尽くして神に仕えることではありません。

   聖書にこう書かれています。「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロ3:22-23)。わたしたちが知っているように、働くのはだれかを喜ばせるためではなく、被造物としての義務、責任を果たすためです。だから、わたしたちは主のために働く時、主に向かって働き、主の言葉にしたがって働くべきで、形式的なことをやってはならず、主のために忠実に仕事をするべきです。そうすれば、主が思っているような誠実な人になれます。わたしたちはそれぞれ自分の得意とするところがあります。例えば、一部の兄弟姉妹は福音を伝えて、多くの実を結ぶことができ、ある人は道を説くことができ、ある人はいつも教会堂を清掃し、集会の時に秩序をを保ちます。……だが、わたしたちが何をしても神の要求に従わなければなりません。神に仕える中で、間違いや欠けたところがあるとしても、勇敢に事実に直面し、他人の助け、指摘を受けるべきです。もし罪を犯したなら、隠しだてしたり、己を装ったり、事実を歪曲して他人に罪をなすりつけたりしてはならず、神に祈って悔い改めるべきです。わたしたちはまた自分の一言一行を厳しくかつ真面目に扱うべきであり、ことを行う時、ごまかしてはならず、少しでも偽りがあってはならならず、神の霊の監視を受けるべきです。……そうすれば、自分が誠実な人になれるという自信が強くなり、しかも自分の奉仕がますます神の心にかないます。

第四に、誠実な人になるには、真に心を神に渡さなければならない。これは最も肝心なことである。

   主イエスはこう言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタ15:8)。主の言葉はわたしたちにこう忠告しています。聞こえのよい言葉ばかり言って、心の中に神を持たないのはいけない、最も重要なのは、神に心を打ち明け、真心をもって神を礼拝し、愛することだ、と。よく考えてみれば、わたしたちが神を信じるのは自分の利益を得るためであり、心を神に渡して、神に支配させることはしませんでした。例えば、神に従えと叫びますが、何か起こった時、神のみこころを求めず、自分の意志によって行います。神を愛している、主のために働きたい、一生を主にささげたいと口では言っているが、心の中で神と取り引きしており、もっと大きな褒賞、天の国の祝福を得ようと企んでいます。……わたしたちは依然として自分の意志によって、神を信じる道を歩み、全然心を神に渡しませんでした。

   周知のように、ヨブは神の目には義人であり、彼は心を完全に神に渡し、自分のために考えず、神に何かを求めたことがありませんでした。彼は巨万の家産が奪われ、子女が災いを受けた時でさえ、神を怨まず、かえって「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。彼は心を神に渡し、神に無条件に従うため、神に良しとされました。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、心を神に渡すことを、訓練しなければなりません。心を神に渡すには、次のように実行すべきます。第一に、神を信じる以上、何もかも神に決めてもらい、神のなすがままにゆだね、神に按配されるに任せるべきです。わたしたちは神のすべての按配に従い、何でも神の言うとおりに行うべきであり、絶対に自分で決めてはならず、完全に神に従うべきです。第二に、心を神に渡すというのは、神への奉仕に関することを神に渡して神に管理させるだけではなく、しかも将来の歩むべき道、追い求めるべき目標、および婚姻、家庭についての選択、生活様式を神に管理させ、すなわち人生の中のこれらの重大事を神に渡して神に支配させ、たとえ神の許しがあっても、神のみこころと要求にしたがって選び、絶対に世界の潮流に従わず、また自分の意志に従わず、神を満足させ、神の心にかなうことをすることを原則とする、ということです。第三に、心を神に渡すというのは、あらゆることで神のみこころを求め、何事も神の言葉にしたがって行うということです。それは唯一の実行の原則です。これこそが、完全に神に自分を支配させることです。つまり、何事も真理にしたがって行うべきであり、大きなことであろうと、小さなことであろうと、神の言葉にしたがって扱うべきです。神の言葉だけが真理です。神の言葉だけがわたしたちの命になれます。あらゆることで神の言葉にしたがって実行してこそ、聖霊の働きを得て、神に救われることができます。以上の三つの原則にしたがって実行すれば、心を神に渡すことができます。心を神に渡すことこそが、本当に自分を神にささげることです。これは、誠実な人になるための、最も根本的な実行であり、また聖霊の働きを得る方法です。

   上に述べた四つの実行のしかたは、誠実な人になるには分からなければならないものです。あなたがこの四つの面で努力し、探究し、実行すれば、あなたは神に喜ばれる誠実な人になる機会があります。


神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

2019-06-23 21:52:16 | 礼拝説教

   神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである。

   わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

   神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである。

   わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである。

   生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

   神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。

 

あなたのためにキリストの再臨に関するより多くの文章を推薦します


神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

2019-06-23 21:52:16 | 礼拝説教

   神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである。

   わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

   神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである。

   わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである。

   生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

   神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。

 

あなたのためにキリストの再臨に関するより多くの文章を推薦します


4つの原則を把握したら、あなたは誠実な人になれる

2019-06-21 22:13:18 | 礼拝説教

   午後の日光が窓を通して斜めに差しこんでいます。わたしは机の前に座り、暖かい日光を浴びていて、とても気持ちがよいです。今、わたしは心ゆくまでブログを書いて、皆さんとわたしのこの間の豊かな収穫を分かち合いたいです。

   主を信じたばかりの時、わたしは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)という主イエスの言葉を読みました。主イエスのこの言葉は天の国に入るための基準を明らかにしました。それによって、わたしは単純で愛らしい誠実な人だけが主に良しとされることができ、天の国に入る資格を持つと分かりました。主の御心を理解した後、わたしは現実生活の中でいつも自分の舌を戒めて、自分がうそを言わないようにし、神の考えるような誠実な人になるための実行に励みます。だが、わたしはいつも失敗します。そのため、わたしは誠実な人になることを追い求める上で次第に自信を失っていきました。幸いなことに、わたしはこの間、福音論壇で一人の兄弟に出会いました。皆さんがどうすれば誠実な人になれるかについて交流する時、この兄弟は多くの独特な見解を述べました。それによって、わたしはうそを言わなければ誠実な人になれるという自分の見方があまりに一面的だと認識し、またどう実行すれば誠実な人になれるか分かりました。そして、わたしは意識的に、その兄弟の言うとおりに誠実な人になるための訓練をしました。そうすることによって、大きな収穫を得ました。ここで、それを皆さんと分かち合いたいです。




1.自分の心を神に渡して、神に自分の心を支配させなければならず、どんな事をする時も真理にしたがって行動し、神の監視、神の検査を受け、光の中に生きなければなりません。

   神は「心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである。……」(エレ17:10)と言われました。箴言書に「主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る」(箴20:27)と書かれています。これらの言葉から分かるように、神は全知全能で、すべてを監視し、わたしたちの思いや考え、一挙一動も神に監視されています。だから、わたしたちが誠実な人になりたいなら、まず自分の心を神に渡して、神に自分の心を支配させ、あらゆることで神の監視を受け入れなければならず、また神に心を打ち明け、神の前で、自分の本当の霊的状態が真理にかなうかどうか、神の心にかなうかどうかを反省しなければなりません。真理にかなうことなら、わたしたちは大胆にすればいい。だが、自分のしたいことが真理にかなわなければ、すぐ祈って自分のよくない意図を裏切り、自分が罪に左右されず、支配されないようにし、神の要求にしたがって実行すべきです。そうすれば、胸中がさっぱりしているようになり、しかもいつでも光の中に生きることができます。例えば、神を信じない親戚や友達に金を儲けないかと誘われれば、わたしたちは心が動き、どうしたらよいか迷います。こういう時、わたしたちは神に祈り、それが真理にかなうかどうかを考えなければなりません。それは真理にかなわなければ、あきらめるべきです。主イエスがこう言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6:24)。主のこの言葉は、わたしたちに次のことをはっきり教えています。神に仕えると同時に金を儲けることは神の心にかないません。なぜなら、金儲けは人に神の救いを得させることができず、人が神につき従い、神に仕えてこそ、神に救われることができます。これこそが神の御心です。神の御心を理解したら、わたしたちは神に仕えることを、わたしたちの人生の中の最も重要なことと見なし、衣食に困らない生活に満足し、神に仕えて正しい人生の道を歩むべきです。そうすれば、神に顧みられ、守られることができ、また真の人生を得られます。

   わたしたちは祈る時、神の監視を受け入れるべきです。聖書を読んだり、主のために働いたりする前、或いは集会が始まる前に、わたしたちは祈るべきです。聖書を読んだり、主のために働いたりする時、或いは集会にいる時、わたしたちは神の監視を受け入れるべきです。そうすることは、肉体に背き、真理を実行するのに有利です。それは誠実な人になるための実行の一つです。わたしたちが神の監視を受け入れるなら、肉体に背き、真理を実行する力を持つようになり、たとえ肉体的な苦しみを受けても、真理を実行して神を満足させようとします。わたしたちが神の監視を受け入れるなら、わたしたちは大胆に自分の意志でことを行い、自分の欲するままにことを行うことがなく、むしろ神の御心を求めて、神の要求にしたがってことを行います。こうして、わたしたちは次第に神に変えられ、きよめられました。わたしたちが狡猾なことをし、欺こうとする時に神の監視を受け入れるなら、「神は全能で、すべてを監視しておられる。人のすることなすこと、人の思い、考えを、神ははっきり見ることができる。だから、自分の意志で行い、自分の利益を守るなら、耳をおおって鈴を盗むようなことをし、神を欺くことになる。そうすれば、きっと神に嫌われ、ひどい場合は神の性質を犯すこともある」と意識するはずです。こうして、わたしたちは肉体に背いて真理を実行し、神を満足させる力を持つようになり、また誠実な人になるための実行をして、サタンを辱めることができます。例を一つ挙げます。わたしたちが神への奉仕で疲れていて、肉体に迎合し、怠けようとする時、わたしたちが神の監視を受け入れて、神の前で生きているなら、いいかげんにごまかし、力の出し惜しみをすることが神を欺く行為であり、神を欺くことが神の性質を犯すことだと意識するはずです。そうなれば、わたしたちは知らず知らずのうちに、神を畏れる心を持つようになり、自分の意志にしたがって神を欺き、神を怒らせるようなことをする度胸もなくなり、また主の言葉を実行して、誠実な人になることを追い求め、光の中に生きるようになります。

2.祈る時に真に神と交わって、神に打ち明け話をしなければならず、神との正常な関係を保ち、守らなければなりません。

   主イエスがわたしたちにこう教えられました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。この言葉から分かるように、神はわたしたちが誠実な心をもって彼を礼拝することを望んでおられます。だから、祈る時、わたしたちは単純で心を打ち明けて神に本音を語るべきです。これも誠実な人になるための実行の一つです。

   では、具体的にどのように実行しますか。わたしたちはまず神に祈って、誓うべきです。祈る時、わたしたちはこう誓いましょう。「神よ、わたしは罪の中に生きている人であり、いつもうそを言います。今後二度とうそを言わないことを、ここに誓います。わたしがまたうそを言ったら、どうかわたしを懲らしめ、懲罰してください。わたしは真人間に生まれ変わり、あなたの心にかなう誠実な人になろうと志を立てました。これからは、本当にあなたに依り頼み、あなたを礼拝します!」と。神に誓った後、わたしたちは祈りの中で本当の話、本音を言うことを、実行し、訓練すべきです。祈る時、心に思っていることをそのまま言うべきであり、どんな困難があっても神に話し、真心をもって神の助けを祈り求めるべきです。このような祈りはとても自然であり、生活と同じほど実際であり、決して見せかけではありません。

   主イエスはかつてこのようにわたしたちに忠告されました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタ6:7-8)。主イエスの言葉から分かるように、祈る時に繰り言を言い、無意味な言葉を言う人たちは主イエスの気に入らない人であり、主イエスに異邦人だと言われました。祈る時、言いたい言葉がそんなに多くないなら、言葉を無理に探し求めてはなりません。神に祈ることは文章を作ることではありません。神はわたしたちの言葉数の多少を気にせず、わたしたちの言葉は誠実かどうか、心から出た言葉かどうかを重んじます。偽りの祈り、見せかけの祈り、神を欺く祈りは、神に最も嫌われます。心から出るのではない言葉はみな嘘、偽りの言葉、神を欺く言葉です。祈る上で神をごまかし、欺く者はみな狡猾な人です。だから、祈る時、わたしたちは心から出た言葉、誠実な言葉を言わなければなりません。そうすれば、わたしたちの祈りが神に聞き入れられることができ、わたしたちも神との正常な関係を保つことができます。

3.言葉の中にうそ、混じりけがなく、心の中に不実さや欺きがないことを保証し、単純で心を打ち明けるべきであり、また正常な人間関係を築くべきです。

   主イエスはこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)。神の本質は信実、きよさです。だから、わたしたちは事実に基づいて言葉を言い、ありのままを言うべきで、良心に逆らって言葉を言ってはなりません。

   うそを言うという問題を解決したいなら、まず自分のよくない意図を解決しなければなりません。口は心の扉です。多くの時、わたしたちは心の中のよくない意図のゆえにうそを言ったのです。わたしたちがうそを言うのは、メンツや、名利や、地位や、自分の利益などを守るためです。言葉を言う時、わたしたちの意図、目的が正当であれば、わたしたちは神の監視を受け入れて誠実な言葉、心からの言葉を言うことができます。例えば、もし自分が仕事に忙しくて福音を伝えなかったなら、兄弟姉妹たちにこの間福音を伝えて人を得たかと聞かれる時、自分が本当のことを言ったら、兄弟姉妹たちに負担を持たない者だと言われるのではないか、そうなったら面目を失ったのではないかと心配し、兄弟姉妹たちに馬鹿にされないために、良心に逆らって、「福音を伝えたが、ただ人を得ていない」と言います。この場合、わたしたちは神の前に出て、このように神に祈るべきです。「神よ、わたしはサタンに深く腐敗させられました。いつも自分のメンツを守るためにうそを言います。だが、うそを言った後、心が平安でなくなり、兄弟姉妹たちが根掘り葉掘り聞くことを心配し、また、うそがばれて、兄弟姉妹たちに責められ、対処されることを心配します。神よ、わたしに信仰と力を与えて、わたしが自分の肉体に背き、真理を実行し、あなたの願いを顧みることができるようにしてください。兄弟姉妹たちがわたしのことをどう思っても、わたしは自分のメンツを守らず、誠実な人になることを追い求めてあなたを満足させます」と。こう祈ったら、誠実な言葉を言うのに必要な信仰を持つようになります。たとえ、ある時メンツにかかわって本当のことを口に出せないとしても、神に祈り、誠実な人になるための訓練をしさえすれば、神はきっとわたしたちを導いて、わたしたちが真理を実行できるようにさせます。わたしたちがいつもこのようにすれば、正常な人間関係を築くことができます。

4.原則、真理にかなうことをし、公明正大に行動しなければならず、公明正大な人にならなければなりません。

   わたしたちが誠実な人になりたいなら、ことを行うのに原則を持つべきであり、自分の意志にしたがってことを行い、サタン的哲学やサタン的性質によって生きてはならず、何をする時も神の言葉に従うべきであり、あらゆることで真理を実行し、教会の利益を守るべきです。教会の利益を損ねること、兄弟姉妹たちの命のためにならないことは、わたしたちは絶対にしてはなりません。わたしたちは公明正大な人にならなければならず、どんなことをしても神の監視を受け入れるべきです。

   例えば、もし兄弟姉妹たちがわたしたちの利益を損ねるようなことをすれば、わたしたちは「歯には歯を、目には目を」というサタン的哲学のゆえに相手を攻撃しようとします。こういう時、わたしたちは神の前で心を静め、神に祈り、どうすれば正常な人間関係を築くことができるかについての真理に思いを巡らすべきです。では、どうすれば正常な人間関係を築くことができるかについて、神はどう言われましたか。神はわたしたちが互いに愛し合い、隣人を自分のように愛し、神に対する愛をもって兄弟姉妹を扱うことを要求されました。わたしたちが神の御心を理解したら、肉体に背き、神の言葉にしたがって実行すべきです。そうしたら、心が落ち着き、すっきりしました。また例えば、わたしたちが教会の中の同労者たちが互いにねたみ、紛争し、いけにえを盗み食いし、教会の利益を損ねるようなことをするのを見たなら、わたしたちは見て見ぬふりをし、それを自分にかかわりのないことだと思ってはならず、また地位や権勢に束縛されてはならず、断固として神の側に立ち、教会の利益を守るべきです。それでこそ、わたしたちがことを行うのに原則を持つ誠実な人だと言えます。

   以上の四つの原則によって実行すれば、単純で愛らしい誠実な人になれます。こうして、天の国に入ることができます。

   この四つの原則は主がわたしに与えられた特別なプレゼントです。わたしは毎日このように実行し、訓練することによって、とてもよい効果を収めました。今、わたしのうそが以前より少なくなります。そのため、大きな心の安らぎを得ました。神に感謝します!