神は他の新たな御名をお使いになるとヨハネの黙示録には預言されていた
ヤン兄弟は続けてこう言いました:「神は私たちをサタンの束縛から完全に救い出して神の御国に導くことを望んでおられます。しかし、主イエス様が恵みの時代になされた贖いの働きはただ私たちの罪を許すためだけのものでした。私たちの罪深い本質は依然として私たちの内に深く根を張っているため、私たちは未だに主に逆らい、抵抗する自分を抑制できずにいます。私たちは罪を犯してはそれを告白するという悪循環の中を生きていて、まだ天国に入るにはふさわしくないのです。これを理由に、終わりの日の全能神は私たちの堕落した性質を変え、清めるために、主イエス様の働きを土台にして新たな裁きの段階の働きをされたのです。これは、私たちが罪の束縛を完全に脱却し、心から神に従い、神を愛する人となり、そして神の御国に入って永遠に神と共に生きるにふさわしい人になることを可能にしてくれます。姉妹、神は律法の時代にはヤ―ウェ、そして恵みの時代にはイエスという御名をお使いになりました。神は異なる時代に異なる御名をお使いになるのです。神は終わりの日に再臨される時もイエスという御名で新しい働きを象徴されると思いますか?」
彼の質問を聞いて、私は思わず「されないと思います」、と言いました。
ヤン兄弟は笑顔でこう言いました:「その通りです。新しい時代には新しい働きが行われるので、神はその時代を象徴する御名をお使いになります。神は神の御名をもって時代を象徴し、時代を変えられるのです。ヨハネの黙示録3:12を読んでみましょう。」
私は急いで聖書を開いてこの節を読みました、「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」
ヤン兄弟は言いました、「この節は、神が終わりの日に新たな御名をお持ちになると明確に記しています。新しい御名なのだから、イエスではないはずです。そうしたら、再臨なさる時の主の新しい御名は何になるのでしょう?ヨハネの黙示録1:8を読んでみましょう、『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』
これを聞いて私は突然こう気が付きました、「凄いわ、神の新しい御名、’全能神’ が本当にここに書かれているわ。聖書はたくさん読んできたけど、この節には気が付かなかったわ。私は自分が敬虔な信者だと思っていたけど、実際は何も知らなかったんだわ!」
神が終わりの日に「全能神」という御名をお使いになる意味
ファンさんはこう言いました:「ヨハネの黙示録より、終わりの日の神の新たな御名は全能、すなわち、全能神であることが分かります。神が終わりの日に全能神という御名をお使いになる理由は何でしょう?この御名は何を意味しているのでしょうか?全能神の御言葉の節を幾つか読んでみましょう。」ファンさんはこう言って、全能神の御言葉が書かれた書籍を開いて読みました、「神の経営のすべてにおよぶ神の働きはきわめて明白である。恵みの時代は恵みの時代で、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代に神はその時代を表す働きをするため、時代には明確な違いがある。終わりの日の働きがなされるためには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。……したがって、律法の時代ではヤーウェが神の名であり、恵みの時代ではイエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。」(『神の働きのビジョン(3)』より)。「わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。……わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)。
ファンさんは続けて交流しました:「私たち人間はサタンにとても深く堕落させられています。私たちは、傲慢さと独善性、不正直さと欺き行為、身勝手さと卑劣さ、そして悪と欲といった堕落した性質で満ち溢れています。私たちは事あるごとに神に逆らい、抵抗します。神は私たちの堕落した性質を変えて私たちをサタンの支配から完全に救い出す目的で、終わりの日に全能神という御名の下で神の国の時代の裁きの働きを開始されたのです。神は義、威厳、そして怒りの性質を表しながら私たちの前に現われ、御言葉を仰せられながらサタンによる堕落の真理を暴露され、それと同時に私たちが自分の性質を変えるための道を指し示してくださりました。私たちは神の裁きと刑罰を受けることで、自分たちの本性と本質を知り、自分たちがサタンによってどれだけ深刻に堕落させられているか、そして自分たちには人間らしさが全くないということを認識できます。私たちはまた、人間の過ちを一切容認されない神の義なる性質を少しは理解して、神の真の、生きる性質を知ることもできます。私たちが弱気で否定的であると、神の御言葉は私たちを慰め、支えてくださります。私たちが反抗的で神に抵抗すると、神の御言葉は私たちを裁かれ、神は私たちを刈り込み、取り扱うための状況、人々、出来事、そして物事を用意されます。私たちは神の裁きと刑罰を複数回受ければ、自分たちの堕落した性質を正確に理解することができるようになります。私たちは自らを嫌い、心の中で自責の念を感じ、神を恐れる心を持ち、肉に背いて神の御言葉を実践する意思を持つようになります。すると、私たちの堕落した性質は次第に清められていきます。最後に、神は人類を創造し、律法を発布して地上で人類の生活を導き、十字架に釘付けにされて私たちの罪を贖うだけでなく、神は御言葉を話して私たちの罪を清め、私たちをサタンの邪悪の力から完全に救い出すこともできるということを私たちが認識するのを望んでおられます。これ故に、神が終わりの日に全能神という御名をお使いになるということには大きな意味があるのです!実際、神の御名がどう変化しようとも、神の本質は変わりませんし、神の身分と地位も変わりません。天と地において、神はこの1つの比類なき、真の神しか存在しないのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れるということは、主イエス様に背くということではなく、むしろ子羊の足跡を辿っているということです。しかし、私たちは神の働きを認識していなければ、神が時代によって御名を変えられることの意味を理解してもいないので、自分たちの観念に頼って「終わりの日に再臨される神の御名がイエスでなければ、その者は神ではない、そして終わりの日の全能神の働きを受け入れることは主イエス様に背くことだ」と信じ込んでいるのです。これは非常に愚かで、不合理な理解です。これは主イエス様の御心には全く即していません。この観念にこだわるということを続けていたら、私たちは既に再臨されておられる主イエス様に対して心を閉ざし、主が来られるのを切望しながら主に抵抗し、背く人になってしまうのです!」
ファンさんの交流はまるで剣のように私の心に突き刺さりました。神は全能で、賢明な神であるにもかかわらず、取るに足らない小さな創造物である私は神の御名に対して観念を抱いていたのです。私はなんて傲慢だったのでしょう!しかし、私は神の御言葉を読み、兄弟姉妹たちの交流を聞いたことで全能神という御名の意味合いを認識できたことを神に感謝しました。これにより、私は神に関して更なる理解を得ることもできました。新しい時代を始め、時代の幕を閉じる、人類のために罪の捧げものとなる、そして人間の堕落した性質を裁き、清めるといったことは全て、神が異なる時代に異なる御名の下で持たれた御旨なのです。これは、私たちが神をより包括的に、かつ正確に理解し得る唯一の方法なのです。
それから2週間、私は『小羊が開いた巻物』、と題された書籍をむさぼるように読みました。私は全能神の御言葉を読んで、ヤ―ウェ神は律法の時代に人類の地上での生活を導かれ、主イエス様は恵みの時代に私たちの罪を贖うために十字架に釘付けにされ、終わりの日の全能神は私たちの堕落した性質を清めるために裁きと刑罰の御言葉を話され、私たちがやっと自分たちの堕落を完全に脱却して、神のものになれるようにしてくださったことを知りました。神の新しい段階の働きは、それぞれが前回の段階の働きを土台としており、3段階の各働きは漸進的に高められ、時代と神の御名は異なっても、それは最初から最後まで1つの神によってなされているのです。私は私たちを救おうとされる神の御心を理解し、神の御名の意味を知ったことで、神の新しい御名を受け入れることは神に背いているということではなく、むしろ神の再臨をお迎えしているということであると理解しました。私はしばらく探求し、調査したことで、終わりの日の全能神の働きを受け入れて、子羊の足跡を辿ることができました。神のお導きに感謝します!