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賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

バプテスマを受けて新たに生まれ変わりを表していますか

2019-04-18 08:07:15 | 神に帰す証

  【編集者メモ】多くのキリスト教徒は、洗礼とは主イエスによって罪が赦され、生まれ変わることであると信じています。しかし私たちの多くが困惑していることに、なぜ洗礼を受けた後でも罪という足かせを取り払うことができず、罪を犯す状態で生きることが多いのか、ということです。洗礼は生まれ変わりを意味するのでしょうか。

寄稿家:セドリック(カナダ)

  幼少期に父が洗礼について説明してくれました。父はこう言いました。「洗礼を受ける時は、全身を水に浸すのさ。これは主イエスと共に『死んだ』ことを意味するんだ。水から引き上げられると、その人は生まれ変わっており、過去の罪から完全に脱して新しい人生を始める。その人は死を迎えるまで主イエスのために生きるんだ。主イエスは、『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音16:16)と言われた。主イエスは罪のためのいけにえとして、人類のために十字架につけられた。人は洗礼を受けて初めて、主イエスによって罪が赦され、主イエスの御名の下に新たないのちを得ることになる。だから、キリスト教徒は洗礼を受けないといけないんだよ。」その時から、洗礼を通してキリスト教徒は完全に変わり、生まれ変わり、救われ、キリストと融和できると信じるようになりました。

バプテスマを受けて新たに生まれ変わりを表していますか

  しかし、私の周りの人たちは幼少期に洗礼を受けていますが、私が不思議に感じたことに、彼らは古いいのちを捨てずに未だに非信者のように生きていることに気づきました。たとえば、私の父はまだ赤ん坊だった頃にカトリック教会で受洗し、プロテスタントのキリスト教に転会したときに再び洗礼を受けたにもかかわらず、未だに罪の束縛を取り払うことができませんでした。たとえば、私の弟が決まった場所に物を置くのを忘れると、父は弟を叱ったものでした。家族が父の好まない行動を取れば、激怒しました。父は家庭の調和のためによく断食し夜更けまで祈っていましたが、怒りを抑えることができませんでした。新生した人のようには行動しませんでした。受洗後も罪の中に生きている人々を見て、「ほとんど罪を犯さない段階に達したら、その時こそ私は洗礼を受けよう」と思ったものです。

  何年もの歳月が流れましたが、私はまだよく罪を犯しました。実生活では、主の御言葉を忠実に守ることができませんでした。他人に小言を言うだけで、自らの行動を省みることなく、最大の問題は自分自身の中にあることが分かりませんでした。父が私に対して激しい怒りをあらわにしたとき、忍耐や寛容さを欠片も示すことなく、父に憎しみを覚え、口論を始めたものです。一番になりたかったために、他人と競うこともよくありました。自分より劣っている人々を見下し、自分より優れている人々を見れば嫉妬しました。さらに私は見栄っ張りで、自分を高く評価してもらいたがり、他人から褒められれば非常に高慢になったものです。集会中にキリスト教の映画を観たことを思い出しました。映画の中の牧師は、『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。』(マタイによる福音書23:12)という聖句をよく引用していました。主の御言葉に従って実践し、謙虚であることを学び、自分をひけらかしたり、高慢になったりしたくなかったので、この聖句を強く肝に銘じました。しかし実生活では未だにスケートボードで一番上手になりたいと思う気持ちが捨てられず、毎日8時間のトレーニングを積み、できるだけ早く一番になり、他人から尊敬されるようになろうとしました。教会のキャンプ中は神を称えるためではなく、名声のために舞台でパフォーマンスをしました。私の振る舞いは神の御心と相容れないことは知っていましたし、断食や祈りも試してみましたが、抑えきれずに罪を犯しました。

  その後、あるキリスト教の映画で次のような聖句を見かけました。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブライ人への手紙12:14)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」(ヘブライ人への手紙10:26)「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書8:34-35)これらの聖句についてじっくりと考え、神は聖なる存在であり、罪に生きている人々は天の御国に入ることができないことが分かるようになりました。私は自分の行動を反省し、他の人々と良い関係を築けていないことに気づきました。たとえば、些細なことで肉親とよく口論をしました。他の人々に傷つけられれば彼らに憎しみを覚え、主イエスに祈った後に表向きは彼らを赦しましたが、心の中では憎悪を募らせていました。また、二度の洗礼を受け、長年にわたって神を信じ、多くの集会を主催し、福音を説いたにもかかわらず、些細なことに怒りを示す父についても思いを巡らせました。父も自分は腹を立てるべきではないと分かっているし、心を入れ替えたいが、短気を抑えられないと真摯に私たちに話してくれたこともあります。実際に、父も私も主の要求を知っていましたが、どうしても罪を犯さずにはいられなかったのです。このことについて考え、私は途方に暮れていました。「神は聖なる存在であり、卑劣で堕落した人間は神を見るのに相応しくない。受洗しながら、それでもなお罪を犯し、神の御言葉を実践できない私たちが、主にお目にかかることができるのか。それにもかかわらず、聖書には『信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。』(マルコによる福音書16:16)と書いてある。それならどうして、洗礼を受け、新たないのちを得てもなお罪を犯すのか」と考えました。これらの問いかけへの答えを見つけることはできませんでした。

  ひょんなことから、私はインターネット上で主を信じる数人の兄弟姉妹と知り合いになりました。彼らは聖書に対して独自の識見をもち、私の混乱を解決する手助けもしてくれました。いくつかの福音のウェブサイトも勧めてくれました。あるとき、福音の映画で、次のような言葉を見ました。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望むとは、――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」

  この言葉を読んだ後、私は啓発されたように感じました。洗礼による新生は、贖われたことのみを意味することに気が付いたのです。告白や悔い改めるために主に祈る限り、主から恵みと祝福を享受し、私たちの罪は主によって赦され、それ以上律法で裁かれることはありません。これは、救われるだけです。しかし、それでもなお私たちは汚れていて堕落しています。表向きは自分を抑え、断食し、祈り、振る舞いを通して重大な罪を犯さなくても、罪深い本性は私たちに深く根ざしています。ですから私たちは罪を犯しては告白する状態で生きているのです。私たちは皆、このような存在ではありませんか。自分自身について言えば、誰かが私の利益を損なうことを口にしたら、私は腹を立て、ときには表面上は怒りを見せなくともに心の中ではその人を憎んでいたこともありました。家族やクラスメートと共に過ごしていたとき、いつも全員に話を聞いてもらい、高く評価してもらいたいと考えていました。自我を捨てて謙虚であろうと努めながらも、心の中ではやはり自分の方が優れていると思い、自分より劣っている人たちを見下すことさえありました。私は自分が罪を犯していると知りながら、また祈りや悔い改めのために主の御前に立ちながらも、その後は結局私は変わりませんでした。父や他の兄弟姉妹も皆似たようなものでした。私たちは昼に罪を犯し、夜には告白するという悪循環の中に生きていました。このような生活は私が本当の意味で新生し、救われたわけでも、新たないのちを手に入れたわけでもないことを示しました。私はかつて、洗礼によって新生し救われると思っていました。そのとき初めて、神への反抗と抵抗を排除して初めて、本当の意味で新たないのちを得て、新生することができると理解したのです。

  その後、聖書の勉強会で学んだいくつかの聖句を思い出しました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:29)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47-48)これらの聖句についてじっくりと考え、主は御言葉を話し、私たちが耳にしたことがない真理を伝え、私たちを裁き、清めるために終わりの日に再臨されると感じました。ペテロの第一の手紙の第四章十七節にはこのように記されています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これは、主が裁きと清めの働きを行なうために再臨されることを示しています。この働きを通して、私たちは堕落した性質を捨て去り、新たないのちを得て、本当の意味で新生することができるのです。

  このことについて考え、私は大喜びしました。主の啓発に感謝いたします。新たないのちを得て、本当の意味で新生することを望むなら、主に裁きの働きを遂行していただく必要があることが分かりました。そうして初めて、私たちは罪深い本性を手放し、新たに創られた人類となり、神の国に入ることができるのです。


カトリックの信仰:私はやっと神の御名の裏に隠された秘密が分かりました(II)

2019-04-17 08:38:19 | 神に帰す証

神は他の新たな御名をお使いになるとヨハネの黙示録には預言されていた

  ヤン兄弟は続けてこう言いました:「神は私たちをサタンの束縛から完全に救い出して神の御国に導くことを望んでおられます。しかし、主イエス様が恵みの時代になされた贖いの働きはただ私たちの罪を許すためだけのものでした。私たちの罪深い本質は依然として私たちの内に深く根を張っているため、私たちは未だに主に逆らい、抵抗する自分を抑制できずにいます。私たちは罪を犯してはそれを告白するという悪循環の中を生きていて、まだ天国に入るにはふさわしくないのです。これを理由に、終わりの日の全能神は私たちの堕落した性質を変え、清めるために、主イエス様の働きを土台にして新たな裁きの段階の働きをされたのです。これは、私たちが罪の束縛を完全に脱却し、心から神に従い、神を愛する人となり、そして神の御国に入って永遠に神と共に生きるにふさわしい人になることを可能にしてくれます。姉妹、神は律法の時代にはヤ―ウェ、そして恵みの時代にはイエスという御名をお使いになりました。神は異なる時代に異なる御名をお使いになるのです。神は終わりの日に再臨される時もイエスという御名で新しい働きを象徴されると思いますか?」

  彼の質問を聞いて、私は思わず「されないと思います」、と言いました。

  ヤン兄弟は笑顔でこう言いました:「その通りです。新しい時代には新しい働きが行われるので、神はその時代を象徴する御名をお使いになります。神は神の御名をもって時代を象徴し、時代を変えられるのです。ヨハネの黙示録3:12を読んでみましょう。」

  私は急いで聖書を開いてこの節を読みました、「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」

  ヤン兄弟は言いました、「この節は、神が終わりの日に新たな御名をお持ちになると明確に記しています。新しい御名なのだから、イエスではないはずです。そうしたら、再臨なさる時の主の新しい御名は何になるのでしょう?ヨハネの黙示録1:8を読んでみましょう、『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』

  これを聞いて私は突然こう気が付きました、「凄いわ、神の新しい御名、’全能神’ が本当にここに書かれているわ。聖書はたくさん読んできたけど、この節には気が付かなかったわ。私は自分が敬虔な信者だと思っていたけど、実際は何も知らなかったんだわ!」

カトリックの信仰,私はやっと神の御名の裏に隠された秘密が分かりました

神が終わりの日に「全能神」という御名をお使いになる意味

  ファンさんはこう言いました:「ヨハネの黙示録より、終わりの日の神の新たな御名は全能、すなわち、全能神であることが分かります。神が終わりの日に全能神という御名をお使いになる理由は何でしょう?この御名は何を意味しているのでしょうか?全能神の御言葉の節を幾つか読んでみましょう。」ファンさんはこう言って、全能神の御言葉が書かれた書籍を開いて読みました、「神の経営のすべてにおよぶ神の働きはきわめて明白である。恵みの時代は恵みの時代で、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代に神はその時代を表す働きをするため、時代には明確な違いがある。終わりの日の働きがなされるためには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。……したがって、律法の時代ではヤーウェが神の名であり、恵みの時代ではイエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。」(『神の働きのビジョン(3)』より)。「わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。……わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)。

  ファンさんは続けて交流しました:「私たち人間はサタンにとても深く堕落させられています。私たちは、傲慢さと独善性、不正直さと欺き行為、身勝手さと卑劣さ、そして悪と欲といった堕落した性質で満ち溢れています。私たちは事あるごとに神に逆らい、抵抗します。神は私たちの堕落した性質を変えて私たちをサタンの支配から完全に救い出す目的で、終わりの日に全能神という御名の下で神の国の時代の裁きの働きを開始されたのです。神は義、威厳、そして怒りの性質を表しながら私たちの前に現われ、御言葉を仰せられながらサタンによる堕落の真理を暴露され、それと同時に私たちが自分の性質を変えるための道を指し示してくださりました。私たちは神の裁きと刑罰を受けることで、自分たちの本性と本質を知り、自分たちがサタンによってどれだけ深刻に堕落させられているか、そして自分たちには人間らしさが全くないということを認識できます。私たちはまた、人間の過ちを一切容認されない神の義なる性質を少しは理解して、神の真の、生きる性質を知ることもできます。私たちが弱気で否定的であると、神の御言葉は私たちを慰め、支えてくださります。私たちが反抗的で神に抵抗すると、神の御言葉は私たちを裁かれ、神は私たちを刈り込み、取り扱うための状況、人々、出来事、そして物事を用意されます。私たちは神の裁きと刑罰を複数回受ければ、自分たちの堕落した性質を正確に理解することができるようになります。私たちは自らを嫌い、心の中で自責の念を感じ、神を恐れる心を持ち、肉に背いて神の御言葉を実践する意思を持つようになります。すると、私たちの堕落した性質は次第に清められていきます。最後に、神は人類を創造し、律法を発布して地上で人類の生活を導き、十字架に釘付けにされて私たちの罪を贖うだけでなく、神は御言葉を話して私たちの罪を清め、私たちをサタンの邪悪の力から完全に救い出すこともできるということを私たちが認識するのを望んでおられます。これ故に、神が終わりの日に全能神という御名をお使いになるということには大きな意味があるのです!実際、神の御名がどう変化しようとも、神の本質は変わりませんし、神の身分と地位も変わりません。天と地において、神はこの1つの比類なき、真の神しか存在しないのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れるということは、主イエス様に背くということではなく、むしろ子羊の足跡を辿っているということです。しかし、私たちは神の働きを認識していなければ、神が時代によって御名を変えられることの意味を理解してもいないので、自分たちの観念に頼って「終わりの日に再臨される神の御名がイエスでなければ、その者は神ではない、そして終わりの日の全能神の働きを受け入れることは主イエス様に背くことだ」と信じ込んでいるのです。これは非常に愚かで、不合理な理解です。これは主イエス様の御心には全く即していません。この観念にこだわるということを続けていたら、私たちは既に再臨されておられる主イエス様に対して心を閉ざし、主が来られるのを切望しながら主に抵抗し、背く人になってしまうのです!」

  ファンさんの交流はまるで剣のように私の心に突き刺さりました。神は全能で、賢明な神であるにもかかわらず、取るに足らない小さな創造物である私は神の御名に対して観念を抱いていたのです。私はなんて傲慢だったのでしょう!しかし、私は神の御言葉を読み、兄弟姉妹たちの交流を聞いたことで全能神という御名の意味合いを認識できたことを神に感謝しました。これにより、私は神に関して更なる理解を得ることもできました。新しい時代を始め、時代の幕を閉じる、人類のために罪の捧げものとなる、そして人間の堕落した性質を裁き、清めるといったことは全て、神が異なる時代に異なる御名の下で持たれた御旨なのです。これは、私たちが神をより包括的に、かつ正確に理解し得る唯一の方法なのです。

  それから2週間、私は『小羊が開いた巻物』、と題された書籍をむさぼるように読みました。私は全能神の御言葉を読んで、ヤ―ウェ神は律法の時代に人類の地上での生活を導かれ、主イエス様は恵みの時代に私たちの罪を贖うために十字架に釘付けにされ、終わりの日の全能神は私たちの堕落した性質を清めるために裁きと刑罰の御言葉を話され、私たちがやっと自分たちの堕落を完全に脱却して、神のものになれるようにしてくださったことを知りました。神の新しい段階の働きは、それぞれが前回の段階の働きを土台としており、3段階の各働きは漸進的に高められ、時代と神の御名は異なっても、それは最初から最後まで1つの神によってなされているのです。私は私たちを救おうとされる神の御心を理解し、神の御名の意味を知ったことで、神の新しい御名を受け入れることは神に背いているということではなく、むしろ神の再臨をお迎えしているということであると理解しました。私はしばらく探求し、調査したことで、終わりの日の全能神の働きを受け入れて、子羊の足跡を辿ることができました。神のお導きに感謝します!

 


カトリックの信仰:私はやっと神の御名の裏に隠された秘密が分かりました(I)

2019-04-16 09:32:59 | 神に帰す証

  神は律法の時代にヤ―ウェという御名を、恵みの時代にはイエスという御名を使われました。そしてヨハネの黙示録には、神がまた他の新たな御名をお使いになることが預言されています。神はどうして御名をお変えになるのでしょうか?私はこの真理を理解してなかったため、主イエス様が再臨されるとは殆ど思っていませんでした。しかし、私はしばらく探求と調査をした後、ついに神の御名の裏に隠された秘密を理解して、主イエス様の再臨をお迎えすることができたのです。

観念を抱き、神への心を閉ざしていました

  2017年9月、私の友人は説教をしていただくためにヤン兄弟を招待しました。その日、私は予定よりも早く指定の場所に行き、全員が挨拶をし終えた後、私たちは聖書の勉強会を始めました。

  ヤン兄弟は神が人類のためになさる救いの働きについて交流し、聖書の内容もまとめて話してくれました。彼は律法の時代にヤ―ウェ神がなされた働き、恵みの時代に主イエス様がなされた十字架の贖いの働き、そして終わりの日に神が巻物と7つの封印を開かれるというヨハネの黙示録に記された預言について話してくれました。ヨハネの黙示録には神が全ての教会に語りかけられ、耳のある者は誰もがそれを聞くということも預言されていました。クリスチャンであろうと、カトリックであろうと、東方正教会の信者であろうと、私たちは主イエス様の再臨をお迎えできるよう、賢い子女となり、神の御声に注意を払わなくてはなりません。ヤン兄弟の説教は理路整然としており、啓蒙に満ちていました。それは私にとって非常に有益な内容でした。私は何十年も神も信仰していますが、人類を救う神の働きをこれほど明確に説明する人の話は一度も聞いたことがありませんでした。私はとても幸せになり、ヤン兄弟の説教をずっと聞いていたいと思いました。

カトリックの信仰,私はやっと神の御名の裏に隠された秘密が分かりました

  昼食後、ヤン兄弟は笑顔で言いました、「聖書の中のペテロの第一の手紙4:17には、『さばきが神の家から始められる時がきた。……』と記述されています。これより、神は終わりの日に再臨される時、全人類をそれぞれの種類に従って分類するために裁きと清めの段階の働きをされ、最終的にサタンの性質を清められた人々は天国に入るということが明確に分かります。主イエス様は既にお戻りになり、裁きの働きを神の家から始められ、ヨハネの黙示録に預言された巻物は開かれているのです。姉妹、神が終わりの日に仰せられた御言葉を読んでみたいですか?」

  「え?主が再臨されておられる?巻物が開かれている?」私はヤン兄弟がそういったのを聞いてとても驚きました。両面に文字が書かれた伝説の羊皮紙の巻物が開かれたのかと思うと、私はとても興奮しました。ヤン兄弟は私にある書籍を手渡し、私はそれを受け取った時に、「これが神がお開きになった巻物ですか?」と聞きました。私は待ちきれずにこの書籍を開き、最後のページまでめくると、「全能神教会が出版する」 、と書いてあるのを見て唖然としました。私は「ヤン兄弟が全能神教会の信者なのかしら?」、と思いました。私はこれを少し不満に感じてこう思いました:「全能神教会の信者たちは全能神という神を信仰していると聞いたことがあるけど、私が待っているのはイエスという神よ。どうして全能神などと呼ばれているのかしら?いいや、これはもっと検討する必要があるわ。」そして私はこう言いました:「すみませんが、今晩は店番しないといけないから。今日はここまでにしましょう。」ヤン兄弟は私が立ち上がってその場を去ろうとしているのを見て、私にこう忠告してきました:「姉妹、私たちは神の仰せられる御言葉を注意して聞く必要があります。何か質問があったら、一緒に探求して祈りましょう。」彼は、神の羊は神の御声を聞くことができると言って、神の導きを得るためにもっと祈り、もっと探求するよう私に言いました。

戦いの真っただ中、神はまた御使を遣わして、ドアをノックされました

  その後の数日間、あの日聞いたヤン兄弟の交流について考える度に、私は心の中で絶えず葛藤しました。「ヤン兄弟の交流には本当に聖霊の啓蒙と導きがあったわ。全能神が本当に主イエス様の再臨であっても、私がそれに関する交流に耳を傾けないとしたら、それは神に対して心を閉ざしていることにならないかしら?でも、神の御名はイエスであるとはっきりしているのに、どうして全能神だなんて呼ばれているのかしら?」私はこれについて考えれば考えるほど、増々葛藤しました。私は探求し続けるべきかどうかが分かりませんでした。私はその後、律法の時代に人生を通して神に仕え、ヤ―ウェという御名を口に出して呼んでいた祭司長、律法学者、そしてパリサイ人たちは、主イエス様が働きをしに人類の中に来られた時にメシアという名の御方以外はいずれも神ではないという自分たちの観念を固執していたことについて考えました。それ故に、彼らは主イエス様に抵抗し、主イエス様を非難して十字架に釘付けにしてしまいました。私は過去に生きた人たちの苦い失敗経験から学ばなくてはなりません。私は彼らと同じ誤まった道を歩むわけにはいかないのです!

  その二日後、ヤン兄弟、ヂャン姉妹、そして私の教会の友達であるファンさんが私に会いに店まで来てくれました。ファンさんは、以前は反抗的で抵抗的であったけれども、その後に終わりの日の全能神の働きに対する確信を得たという体験を話してくれました。私はとても感動し、彼らと一緒に続けて主の再臨について話し合いたいと思いました。

  そして私は心を開いて自分の持つ困惑について話しました:「私は幼い頃から母と一緒に主を信仰してきました。人生の半分を通して主イエス様の御名に祈り、主からたくさんの祝福をいただきました。主の御名は明らかにイエスです、しかし、あなた方は主が全能神という御名の下で御言葉を仰せられていると言っています。これは一体どういうことなんでしょうか?全能神という御名を受け入れてしまったら、主イエス様に背いているということにならないでしょうか?」

  ヤン兄弟は落ち着いた口調でこう返答しました:「姉妹、主が全能神という御名で新たな働きをされていることを直ぐに受け入れられないというのは極めて普通のことです。これは神の御名に関する真理を明確に理解できていないことから生じています。これについて考えてみましょう。律法の時代、神の御名はヤ―ウェでした。しかし、恵みの時代になると、イエスに変わりました。イエスという御名を受け入れることはヤ―ウェ神に背くということでしょうか?」

  私はヤン兄弟の言葉に驚いて、すかさずこう言いました:「もちろん、違います。主イエス様とヤ―ウェは同じ神ですから。」

  ヤン兄弟は笑顔でこう言いました:「姉妹、ヤ―ウェとイエスが同じ神なら、どうしてヤ―ウェはその御名をイエスに変えたのでしょう?年十年も主に祈りを捧げてきた後、私たちは主がどうしてイエスと呼ばれているのかを知っているでしょうか?私たちは神の御名の裏に隠された秘密を知っているでしょうか?」

  私は何も言いませんでしたが、心の中で「どこに行けばこの秘密について知ることができるのかしら?」、と思いました。

  何も言わない私を見たヤン兄弟は携帯電話を取り出して、私のために全能神の御言葉を2節見つけてくれました。

ヤ―ウェとイエスという神の御名が持つ意味

  私は全能神のこの御言葉を読みました:「なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表されている。」 (『神の働きのビジョン(3)』より) 「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。……各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。」(「救い主は既に ‘白い雲’ に乗って戻られた」より)

  ヤン兄弟はこう言いました、「この全能神の御言葉より、各時代における神の御名は常に意味があるということが分かります。それらは神がその時代になされる働きと、表される性質を象徴しています。私たちは誰もが一番最初の人類は全てにおいて無知であったことを知っています。彼らは生き方、人との触れ合い方、神を礼拝する方法、そして神を崇める方法も知りませんでした。そして、神は律法の時代に、ヤ―ウェという御名によって、人類が必要としていたことに応じて働きを開始されました。神は慈悲、呪い、威厳、そして怒りの性質をお見せになられました。神はモーセを遣って神の律法と戒律を宣言され、その結果、人類は神が天と地と万物を創造されたこと、そしてどのようにして捧げものをして、神を礼拝するべきか、何が善良で何が悪であるか等を知りました。律法を違反した者たちは石打の刑で殺されるか、天から降る炎によって焼き滅ぼされましたが、その一方で律法に従った者たちは神の慈悲と祝福を受けました。神は彼らの行動を統一し、秩序と規則正しさのある生活を送るよう彼らを導かれました。律法の時代後期になると、人類はサタンにひどく堕落させられて、律法と戒律を守ることができなくなり、全人類が律法によって死刑に処される危険に直面しました。彼らは神が受肉して人間のために罪の捧げものとなり、人間の犯した罪を償われた時、初めて神の御前に行く資格を手にしました。従って、神はイエスという御名で人類の罪を贖う段階の働きをされ、慈悲と愛の性質を表され、悔い改める道をもたらしてくださり、寛大で寛容な心を持つこと、そして敵を愛すること等を教えられました。神はまた病人を癒され、悪霊を追い出され、人類に豊かな恵みをもたらしてくださりました。最終的に、主イエス様は十字架に釘付けにされて贖いの働きを成就されました。そして私たちは、主の贖いの働きを受け入れて、神の御名によって祈りを捧げてさえいれば、お許しいただいて、神から来る平安と喜びを受けることができるのです。神の過去2段階の働きから、神は異なる時代において、神の働きの必要性と堕落した人類が必要とすることに応じて異なる御名を使用されるということが分かります。こうして、私たちは神に関して更なる理解を得ることができると同時に、神の有するものと神そのものを制限しないでいられるのです。」

  全能神の御言葉とヤン兄弟の交流を聞いた後、私は突然こう気が付きました:「神がご使用になる御名は神の働きの必要性と私たち堕落した人類が必要とするものに基づいているんだわ!神がどの時代にどういった御名をお使いなっても、それは全てその時代における神の働きと性質を象徴していて、それら全てに意味があるのよ。私は長年に渡って主を信仰してきて、毎日主に祈りを捧げてきたのに、主の御名にこんな深い意味があったなんて全く知らなかったわ。しかも、私は以前、律法の時代のヤ―ウェの性質がどうしてあれほど威厳に満ちていたのか、それと律法違反を犯した人たちがどうして燃やされて、罪に定められていたのかを決して理解していなかったわ。しかし、主イエス様は人々に対して慈悲と愛で満ちておられ、何度でも許すよう仰せられているわ。それは当時の神の働きは内容が違ったし、神が表された性質も違うものだったからなのよ。これには人類を救おうという神の親切な御旨が含まれているのよ!」


キリスト教映画「福音の使者」

2019-04-15 09:34:22 | 神に帰す証

  キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。

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クリスチャンの証し-人生の新たな道を発見しました

2019-04-11 10:12:07 | 神に帰す証

寄稿家:ティエシン(マレーシア)

目標を立てて全力で取り組む

  貧乏だった私の家族はいつも人から馬鹿にされ、見下されていました。私の両親は私が幼かった頃から、「お前は競争心を持たなくてはだめだ。しっかりとした将来性があれば、誰からも見下されることはない」、と言って私を教育してきました。その当時、私は一生懸命に勉強して上に這いあがり、両親の期待に応えることだけを目標にしていました。

  小学生の時、私は一生懸命に勉強しました。もっと多くの言葉を覚えたかった私は、毎日宿題をした後、父に新聞を読みました。小学3年生の時以来、私は語学力を伸ばすために毎日マレーシア語、英語、そして北京語で日記を書いていました。沢山努力したおかげで、私は学校でいつも好成績を収めていました。成績を更に伸ばしたかった私は放課後の授業も受けたかったのですが、父はその授業料を払うことができませんでした。こうして私はその授業料を払うために終末はレストランで働きました。私は注文とテーブルの掃除の両方を担当していたので、素早く仕事をこなすことができませんでした。私がもたもた仕事をしていると、ボスは汚い言葉で私を怒鳴りつけました。私はこれが起きるたびに酷い扱いを受けている気分になり、いつも夜に泣いていました。私は、「授業料のことがなかったら、あんたの下でなんか絶対に働かないんだから」、と思いました。私はこのようにしてお金を稼ぎ、同時に勉強していたのです。必至に稼いだ授業料で私は気が狂ったように勉強しました。夜は12時が過ぎてからベッドに入り、毎朝5時に起きて授業の見直しをしました。さらに、試験勉強をしていた時は1週間ほとんど寝ることはありませんでした。眠気が襲ってくるとコーヒーを飲んで目を覚ましたり、休憩中に自分のデスクで軽く睡眠をとりました。長い間続けていると、これはとても耐えがたくなってきましたが、人との差をつけたかった私はどれだけ辛かったり、しんどくても諦めないという意思を持っていました。

彼女は勉強しています,人生の新たな道を発見しました

  高等学校に入学すると宿題の多さによる負担から好成績を上げるプレッシャーが増していきました。大学を目指していた私は1年目は勉強をしながらパートで働いて個人授業を受けて、次の2年間は一生懸命に勉強する決意をしていました。後に、私はコーヒーショップで仕事を見つけました。勤務時間が平日は夜の7時から夜中の12時まで、週末は夜の7時から朝の7時でした。その当時、私の仕事仲間は一緒によく外食してお酒を呑んでいました。私はお酒を呑まないでいると、彼らから非社交的だと言われました。私は職場で良い関係を維持するために嫌々ながらも参加しました。ある時、私は少し酔っぱらって午前1時に家に帰ったことがありました。顔を洗って歯を磨いていると、突然体中に力が入らなくなり、シンクの側で気を失ってしまったのです。運が良かったことに、私がバケツにぶつかる音を聞いた父が私をトイレから引きずり出してくれました。その後、父は私の個人授業の費用を払ってくれと約束してくれました。これで私はもうパートの仕事をする必要がなくなったのです。こうして、私は勉強に没頭しました。私は毎晩平均で4時間しか寝ませんでした。私は正午に学校から帰宅すると急いで昼食を食べ、学校の勉強の見直しをするために自分の部屋に閉じこもり、家族と話すことはほとんどありませんでした。私にとっては食事や家事をすることすら時間の無駄でした。この絶え間ない負担は耐え難いものでした。その後、私は不眠症に悩まされてしまいました。長い間コーヒーを飲み続けていた私はコーヒーの効果を感じなくなっていたのです。眠い時にどれだけコーヒーを飲んでも、もはや効果はありませんでした。

  2011年6月、私は高等学校から卒業しました。大学から合格通知を受けた時、私は成功がまるですぐそこまで来ているかのようにホッと安堵の長いため息をつきました。そして私は心の中でこう計画しました:「大学を卒業したら、数年間働いてまとまったお金を用意しよう。それで自分のビジネスを始めたら家とか車が買える。。。」私が自信ありげに明るい将来の計画を立てていたその時でした、悲痛な知らせが飛び込んできて、私はそれに一気に押し潰されてしまったのです。

母の他界

  大学の合格通知を受けてすぐ、私は母が長期的な過労と精神的な過度の負担により乳がんに罹っていたことを知り、言葉を絶するほどの悲痛に駆られました。私は母の病気は治らないのではないかと心配しました。母が死んでしまったら、私の成功など何の役にも立たない。その後、私は乳房切除術を受けに行く母を病院まで同行しました。耐え難い痛みと苦しみから開放されることを願った母は頻繁に自らの命を絶つことを望みました。それは私にとって心臓に鋭い痛みが走るほどつらいものでした。生まれて初めて、人間は病魔の前ではとても脆いものだと私は感じました。

  その1年後、母の状態が一時的に安定していたので、私は大学に戻って勉強を続けました。2013年8月のある日、父から電話がかかってきました。母は癌細胞が肺、肝臓、そして脊髄まで拡がり、癌の終末期に陥ったと父は言いました。私はこれを聞いて倒れそうになりました。急いで実家に帰って見ると、まだ40代後半であった母は60歳を超えているように見えました。足が弱くなっていた母は松葉づえを使ってしか歩けなくなっていました。癌に侵された肺のせいで呼吸が困難になっていた母は寝椅子に仰向けになって座ることを余儀なくされていました。その後、歩けなくなってしまった母は入院を余儀なくされ、私は病院で彼女の世話をしました。私は病棟の中で癌に苦しむ大勢の人たちと出会い、その中には意識不明のままの人、食べることができない人などがいました。私は心の中で言いようのない悲しみに駆られました。この時点で、私は既に、私たち人間はどれだけ有名で、どれだけ身分が高くても、病魔の前では本当にちっぽけな存在であることに気が付いていました。ある日、母は突然意識を失いました。私はパニックになり、必死に泣き叫びましたが母は帰らぬ人となってしまいました。母が去った瞬間、地位や、仕事や、車や、家など、全世界がもうどうでもよくなってしまいました。

これから歩んで行く道

  母が他界して以来、私はとても落ち込んでしまい、授業を受ける気分ではありませんでした。私は学校の勉強を何とか乗り切ってはいましたが、試験に向けて復習する気にはなりませんでした。私はまるで歩く死体になったようでした。1人でいると、こう考えずにはいられませんでした:「今までずっと、成功すること、尊敬されること、そして両親の期待に応えることを目指してやってこれた。それで大きなプレッシャーに耐えることもできた。でもお母さんが突然死んで、私たちの命は儚いことが分かった。私たちがいつこの世界を去るかなんて、誰にも分からない。私たちは死ぬまで大変な人生を送るためだけに生まれてきているのかしら?私のいのちの道は一体どこに向っているのかしら?

福音との出会い

  ある日、主を信仰している仕事仲間がインターネット上の集会に参加しないかと私を誘ってくれました。当時、私はとても落ち込んでいたので、これから先を進んでいくためのモチベーションを見つけるためにそれを受け入れました。ある集会の時、私は兄弟姉妹に自分の母が他界したことについて話しました。彼らは私を気の毒に思ってくれました。ヂャオ兄弟はこう言って交流しました、「私たち人間は神から距離を置き、サタンの支配下で暮らし、その害に苦しんでいます。私たちはサタンに何時でも飲み込まれてしまう可能性があります。今まで、主への信仰において、私たちは誰もがサタンに堕落させられていたことを知っていましたが、それがどのようにして私たちを堕落させたのかは知る術がありませんでした。神の御言葉を読んでいた時、私はサタンが私たち人間を堕落させる手段に関する見識を初めて得ることができました。神はこう仰っておられます:『神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。』

  そしてヂャオ兄弟は続けて交流しました、「アダムとイブは神が創造なされたエデンの園で最初は幸せな生活を送っていました。彼らには疲労や痛みなどなく、まして死を味わうことなどもってのほかでした。しかし、彼らはサタンの虚偽に耳を傾けて神を裏切ってしまい、サタンの支配下で生きるはめになってしまったのです。サタンは何千年にも渡って、偉大な人間や有名人の様々な観点、および ‘先立つものは金’、’苦は楽の種’、そして ‘この世は金しだい’ といったようなサタンの教育をもって私たちを騙し、私たちに毒を植え付けてきたのです。サタンからこれらの観点を受け入れてしまうと、私たちのいのちに対する考え、価値観、そして人生の目標が変わってしまうのです。私たちは地位と権力を称賛します。私たちはお金と権力がないと無能と見下されてしまうと考えます。私たちはお金と権力が私たちの生きる道を裕福にし、魅力的で幸せな人生を与えてくれると信じています。この結果、私たちは全力でお金稼ぎに取り組み、人生の大部分を多忙に暮らします。しかし、最終的に私たちはただ死んでしまうだけなのです。明らかに、サタンの虚偽は苦しみと暗闇しかもたらしません。私たちは、サタンが人類を堕落させることの真理を明確に理解してのみ苦しみを振り払うことができるのです。」

  私は、ヂャオ兄弟の話しを受けて、私たちがこれほど辛い思いをしながら生活している理由は、私たちが神から離れてしまっているから、そしてサタンから堕落させられその苦しみの中を生きているからだと理解しました。私たちは救われることを求めて神の前に行く場合に限って平安と幸せを得ることができるのです。私は帰宅して直ぐに全能神教会のウェブサイトにアクセスしました。そこには沢山の神の御言葉の書籍、讃美歌、映画、ミュージックビデオ等がありました。コンテンツはとても豊富にあり、私は興奮を抑えられませんでした。私は世の終わりの全能神の働きを調査し続けることにしました。

サタンの策略を見抜く

  集会で、ある姉妹が神の御言葉のこの節を読み上げました:「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは『名声』で、もうひとつは『利得』。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。…サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。」

  姉妹はこう言って交流しました、「この世界では、誰もが遅れをとるのを拒みます。誰もが人の上に立ちたがるものです。それはなぜなら、私たちは ‘注目を浴びて偉い人になれ’ や ‘力をもって人を服するのは、心から服するにあらず。徳をもって人を服するは、喜んで真に服するものなり’ といったサタンの観点に支配されているからです。私たちは卓越した人間になり、尊敬されることを求めるべきであると考え、それが私たちのいのちに価値を添えることができる唯一の方法だと思っているのです。この目標を達成するために、私たちは骨折って働き、難渋する屈辱に耐えるのです。他人の目からしたら私たちは意欲的であるように見えるかもしれません。しかし、神の御言葉によると、私たちが求める最終目標は名声と利益を手にすることに過ぎず、それはサタンの策略で満ち溢れているのです。サタンは私たちが神に背くようにするために名声と利益を使って私たちを誘惑、そして堕落させ、最終的には私たちを飲み込もうとするのです。」

人生の新たな道を発見しました,集会で姉妹が神の御言葉を読む

  私は彼女の話に衝撃を受けました。私は幼い頃から両親に他人の上を行って成功を収めるよう教育されてきました。このために、私は大きな目標を立て、それに向って苦労してきたのです。私は屈辱に耐え、倒れそうにまでなりましたが、決して諦めようと思ったことはありませんでした。私は自分の理想と目標を実現させるために多くの苦しみに耐え、体調を崩すことすらありました。私は名声と利益を目指していたがために、とても惨めな生活を送っていたのです。神の御救いがなければ、私は決してサタンの邪悪な悪意を見抜くことはなく、この先も絶えず騙され、虐待され、傷つけられていたことでしょう。

答えを見い出す

  その後、私は神の御言葉を毎日読みました。私は徐々に、サタンが人間を堕落させる方法に関する見識を得ていきました。サタンが私たちを騙し、堕落させる目的は私たちが神に背き、神の御気遣いと御加護から離れるようにすることなのです。それに対し、神は私たちを救うために真理を表し、私たちがサタンの策略と束縛を振り払い、人間が歩むべき適切な道を歩めるようにしてくださるのです。神への信仰を通じて真理を得ることができれば、私たちは罪を振り払い、神の御言葉に従って生きることができます。そして私たちは神の祝福を授かり、神の御気遣いと御加護の中で生きれるようになるのです。神の御旨を理解した私は、サタンにはもう二度と騙されたり、虐待されたくないと思いました。

  ある日、ヤン姉妹が私にあるリンクを送ってくれました。神の御言葉は私たちが生まれてから死ぬまでの間に通らなければならない6つの節目を明確に表していると彼女は言いました。彼女は私に時間がある時にそれを読むよう勧めてきました。私はリンクをクリックしてウェブページを表示しました。するとある節が私の心をつかみました。神はこう仰っておられたのです:「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」

  神の御言葉は、神の主権に関する真理と知識を持たぬ私たちは名声と利益を求めるために苦心して労力を費やしていることに気が付かせてくれました。私たちは人生の終端に達した時、いのちが最も尊いものであることに初めて気が付くのです。私たちはどれだけ裕福であろうとも、どれだけの人から尊敬されていようとも、いのちを延ばすことはできないのです。お金と名声は私たちを救うことはできません、ましていのちを購入することなど尚更できません。神の御言葉は真であります。私は人生の残りの日々を過ごす母に付き添いました。人生の終わりに近づいていることを知った母は何もできず、苦しい思いをしました。私はその時初めて、私たちのいのちは非常に貴重なものであることに気が付いたのです。病棟にいた他の患者たちにはどうだったかと言うと、彼らが権力や富を持っていたか否かにかかわらず、彼らのいのちも引き延ばすことなどできなかったのです。彼らは死に直面すると、皆が同じようにとても小さな存在に見えました。私たちは神を信じる場合のみ、神の御加護を授かり、平安と幸せを手にすることができます。神から離れて知識、高い地位、莫大な富、そして名声を追い求めても、それは無意味です。なぜなら、それらには何の価値もないからです。これを理解した私は解放された気分になり、母の死による絶望感も感じなくなりました。神のなさった選択に感謝します。神は私がこの世界で追い求めるべき有意義で価値のあるものに気付かせてくださいました。私の人生はまだ先が長いのです。私は残りの人生を通じて神に従い、神の働きを経験していく決意をしました。

自分の真のいのちを発見

  終わりの日の全能神の働きを受け入れた後、私は学校に通いながら兄弟姉妹と集会を開きました。私は神の御言葉を読んでいると、神の主権に関する知識を得ることができたので、自分の日常生活を神に委ねるようになりました。私が地元に戻ると、父はもう1年以上もまともな仕事に就いていないけれど、驚いたことに私の授業料を払う必要がある度に、誰かが仕事をくれて、稼いだ収入が丁度足りていたと私に言いました。私は父の言葉を聞いて感動しました。私はこれが神の御業であると分かっていました。神は秘かに私を守ってくださっていたのです。その時、私は神の全能さと主権をより深いレベルで体験したのです。神のこの御言葉が私の頭に浮かびました:「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

  過去を振り返ってみると、私は神を知らず、辛くて苦しい思いをしていました。神の慈悲と御恵みが私を神の御家に導いてくださったのです。私はその時はじめて、人が創造主の前に立ち返る幸せを体験しました。私は人生の新たな道を選択します。以前、私は注目を浴びることに後押しされ、車や家、そしてお金を稼ぐことを目標にしていました。今現在、こういったものは私の人生の焦点ではありません。人生の正しい道を歩むということは、神の前に行き、神の御言葉をもっと読み、そして神の働きを経験することに他なりません。

  卒業した後、私は神の御導きで穏やかな仕事に就きました。給料は高くありませんでしたが、私が生活するには十分でした。現在、私は兄弟姉妹との集会に参加し、神の御言葉を読み続けているおかげで、ある程度の真理を理解できています。私は職場と私生活において真理を実践し、神の御言葉に沿って生活する努力をしています。私は仕事を楽しみ、神の家族の一員として更なる自由とゆとりの中で自分の本分を尽くすことに最善を尽くしています。全能神に感謝します。神の御言葉は私の人生を変え、私を人生の真の道へと導いてくれました。

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