goo blog サービス終了のお知らせ 

賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

嘘を見破り、彼女は主イエスの再臨を迎えました

2019-05-11 21:16:30 | 神に帰す証

   2012年のある日、あるおばさんと若い女の子が私の店にやってきました。彼女たちの話しを聞いていると、2人は何かを買いに来たわけではないような気がしたので、私は彼女たちに注意しながら2人をじろじろと見詰めました。叔母さんは地味で清楚な服装をしており、笑顔を見せながら喋り、温和でフレンドリーな様子でした。一方の若い女の子もきっちりとして清楚な服装で控えめな様子でした。彼女たちを警戒している私の存在に気付いた若い女の子は笑顔で私にこう言いました、「私はシャオリャン。お茶マーケットでお茶の葉を売ってるの。。。」彼女たちも商売をしていることを知り、そして2人は悪い人たちではないように見えたので、私は警戒を緩めて彼女たちと商売のコツにして話しました。 そして私たちは非常に快い会話をしました。数日後、彼女たちは又戻ってきました。話をしているうちに、私は彼女たちが神の信仰者であることを知りました。彼女たちは私に神の創造の働きと神の主権についてだけでなく、聖書に記されている話についても語ってくれました。私は興味津々に話を聞きました。彼女たちは帰る前に、「羊によって開かれた巻物」と題した本を私にくれて、時間がある時に読むように言いました。彼女たちはさらに、この本に書かれている言葉は全てが神の御言葉であり、沢山読むと私のためになると言っていました。

   私は彼女たちが帰った後、好奇心に駆られながらこの本を開き、「神は人のいのちの源であられる」に書かれたこの節を目にしました:「あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。… 広大な世界において、数え切れないほどの変化が何度も何度も起こってきた。宇宙のすべてのものを支配する神を除いては、誰もこの人類を導き、案内できる者はいない。この人類のために働き、準備する『強力な者』は一人もおらず、ましてやこの人類をこの世の不義から解放して、光り輝く終着点へと導くことのできる人はいない。」 この節を読んだ後、私は感極まってため息をつきました:一体誰がこのような偉大な力を持ってこれらの言葉を話すことができるんだ?人の出生、人が担う役目、人のいのちの運命、人の生涯過程について。。。これらは全て神のみが制御し得ることなのではないのか?。。。

   「何してるの?」道路の反対側にある店にいるおせっかいな女性、姉妹ワン、が私の思考に割って入ってきました。「あなたと一緒に話してた女性2人は誰?一度も見たことないけど。女性の販売員?」私は彼女たちを知っている理由を話しました。びっくりしたことに、彼女は私の言葉を聞くと即座に立上り、目を大きく見開いて真剣な表情をしながら大げさな口調でこう言いました、「他人をそんなに簡単に信用したらだめよ!数日前なんか、道路脇に店をオープンした男性が全能神の福音を説きにきた女性2人と一緒に車で去っているのを見たわよ。。。」彼女はさらにインターネット上の噂をいくつか話してくれました。彼女の言葉を聞いて、私はがっかりしました:「全能神はたった今読んだ本に間違いなく言及されているのに。シャオリャンとおばさんは本当に全能神の信仰者なんだろうか?でも彼女たちは悪い人たちには見えないよな。」私は躊躇しました。私は姉妹ワンの言葉を完全に信じるべきでもなく、それを無視するべきでもなかったのです。こう考えた私はシャオリャンとおばさんに連絡するのを止めることにしました。彼女たちが又来店した時、私は顔を合わせるのを避けました。

再臨,聖書預言,福音,嘘 見抜く

   ある朝、私はシャオリャン、おばさん、そして私の店で働く姉妹ヤンが談話しながら笑っているのを遠くから見ていました。私は心の中でこう思いました:「彼女たちは姉妹ヤンに福音を説いているのかな?これは注意してあげるべきだな。」そして、2人が帰った後、私は「善意」をもって姉妹ヤンにこう質問しました、「彼女たちとは知り合いですか?2人は全能神を信仰するように言ってきたんですか?インターネットに書かれてること知ってますか?」私は彼女はこれを聞いて詳しい内容を聞いてくるものと思っていました。しかし、予想外にも彼女はこう言ってきたのです、「知ってますよ。私は彼女たちの本を読んだし、彼女たちの説教も聞きましたよ。全能神の御言葉は実存する問題を解決できるし、私にもすごく役立っていると感じてますよ。時間がある時にでも一緒に聞きに行きましょうよ。他の人たちのでたらめに耳を貸してはいけないですよ。人から聞いたことを自分で判断しないで信じてもいけませんよ。誰かに石炭は白いって言われても信じますか?」私は慌ててこう言いました、「私はインターネットに書かれてた内容を見たんですよ。。。」私が喋っている最中に彼女はこう言いました、「あなたはインターネット上に書かれていることを信じてるんですか?色んな噂以外にも間違ってたり不正な情報は山ほどありますよね?ちょっと前に一緒に見た不正な内容の動画のことは忘れてしまったのですか?」 彼女の言葉はあの動画を思い出させてくれました:ある男性が罪をきせられて懲役16年を言い渡されていたのです。刑務所から釈放された後、人々に真実を知らしめたかった彼は自分が体験した不正行為について動画をインターネット上に投稿しました。しかし、この動画はすぐに削除されてしまったのです。その当時、私はそれにとても憤慨し、オンラインニュースと情報は全く信じられないと感じました。どうして私は調査もせずに全能神の教会よりもインターネット上の否定的な言葉を信じ込んでしまったのでしょう?私は全く自分なりの考えをもっていませんでした。そして、私は今、姉妹ワン、姉妹ヤン、インターネット、自分の中から何を信用すればよいのでしょう?

   その日の午後、私は戸棚を開いた時にあの本、「羊によって開かれた巻物」、を見つけました。前回読んだ言葉が力に満ち溢れていたことを考えると、私はもう一度読みたくなりました。私は本を開くと、偶然にもこの節を目にしたのです:「真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。 … そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。」(「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)。 この御言葉を読んだ後、私はそれを少し理解できたように思えました。この道が正しいのか、間違っているのかは私が自分で調査した後に分かるでしょう。

   その翌日、姉妹ヤンは全能神教会に行って調査をしようと私を誘ってきました。私たちがホスト宅に到着すると、人が6、7人座っていました。私は彼らを注意深く警戒してじろじろと見詰めました。彼らはみんな違う年齢で、職業も地位も様々でした。彼らは今までお互いのことを知りませんでしたが、神への信仰を理由に集まっていました。彼らは親友たちがお互いに心をさらけ出しているかのように、神の信仰について自由に話し合っていました。この快い様子を見て、私はこう思いました:「この人たちが貫いていることはインターネットで書かれていたような恐ろしいこととは全く違う。現在の社会と比べると、ここは純粋な場所だ。」知らない内に、私は警戒することなく彼らと溶け込んで注意深く彼らの交流に耳を傾けました。

   私は彼らが神のこの御言葉を読んでいるのを聞きました:「あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことを全く知らない。なぜなら輝く光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心や霊は悪い者によって取上げられてしまった。あなたの目は暗闇によって覆われている。あなたは、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声を聞かないし玉座からほとばしる水の音も聞こえない。あなたは、得るはずのすべてのもの、全能者があなたに与えたもの全てを失ってしまった。あなたは、苦しみの終わりのない海へ入ってしまった。救助もなく、生き残る希望もなく、ただもがき騒ぐことしかできず…。その瞬間から、あなたは悪い者によって苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から離れ置かれたままであり、全能者が与えるものに届かないところに置かれたままである。あなたは、後戻りできない道の上に乗り出している。百万回の呼び声もあなたの心や霊をほとんど奮い起こさない。あなたは、悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は、境界も、方向も、道路標識も無い領域へとあなたを誘惑した。」 (「全能者のため息」より )。私は神の御言葉のこの節を耳にして感極まりました。全能神の御言葉は私に語り掛けておられたのです。シャオリャンとおばさんが私に福音を説いてくれていたのは神による御救いだったのです。私は自分が神から生まれたこと、そして神の御家に戻って神の御声を聞き、神の御救いを授かるべきであることは分かっていました。しかし、私は噂を信用して、シャオリャンとおばさんのことを私に害を与えようとする悪い人たちとして見ていたのです。私は彼女たちが私のことを心配してくれているのを知っていながら、それに心を動かされることなく彼女たちを避けたことが何度あったでしょうか?彼女たちがやっと私と会って期待を胸に私を助けようとしてくれた時、私が彼女たちを無情に追い払ったことが何度あったでしょうか?神は、「あなたの目は暗闇で覆われています」「あなたの耳は欺瞞的な言葉で詰まっています」、と仰っておられますが、私の状態は正にこうだったのではないでしょうか?私はサタンの嘘により困惑させられ、神から授かる全てを大切にしようと考えていなかったのです。私は全能神の御言葉を読んで、それには偉大な力と権威が宿っており、それは人が話せるものではないと感じてはいましたが、私は全能神の働きを慎重に求めることも、調査することもしていませんでした。もし神が姉妹ヤンの言葉を通じて私の目を覚ましてくださらなかったら、おそらく私は依然としてインターネット上の噂を固く信じ、全能神の働きを求める事も、調査することも拒み、最終的には神の前にたどり着く機会を失っていたことでしょう。

   その後、私は教会生活に参加し始めました。次第に、私はもっと多くの兄弟姉妹たちと連絡を取るようになり、インターネットに書込みのあったような人は1人もいなかったことを知りました。彼らの話を聞いていると、私は彼らの大多数も私と同じように中国共産党と宗教界が全能神と全能神教会に対してインターネット上ででっち上げた様々な否定的な噂を理由に懸念していたことを知りました。全能神の御言葉が兄弟姉妹たちが彼らに対して辛抱強く何度も繰り返し福音を説き、神の御心について交流するよう励ましていたのです。こうして、彼らはついに理解することができたのです:全能神の兄弟姉妹たちがこのような代償を払えるのは、彼らに何らかの目的があったり、彼らが善良であるからではなく、神の愛とお救いがあるからなのです。彼らは神のこの御言葉により強く心を動かされているのです:「神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。」(「将来の使命にどのように取り組むべきか」より)。こうして、彼らはあちこちで神に対する噂や中傷が存在しているにもかかわらず、心から神を信仰し、主イエス様の再臨を強く待ち焦がれている人々に対して福音を説く事ができているのです。彼らは真実を知った後、自主的に神の前に行って神の働きを調査したのです。神の御言葉による御導きを受け、彼らはついに全能神が主イエス様の再臨であられると確信し、神を受け入れたのです。

   兄弟姉妹たちの経験は私の心を深く動かして全能神に対する私の警戒心も取り除いてくれたので、私は心を開いて神の働きを調査し始めました。しばらくした後、私は神の御導きの下でこう理解することができました:「噂の裏に隠されていた悪魔の計略は人々が全能神の働きを調査することを防ぎ、神の御救いを受けられないようにすることで、人々が神に抵抗し悪事を働き神から破滅させられてしまうように仕向けることだったのです。サタンの悪意を知り、私はもう噂には騙されないようになり、心の中の懸念も晴れていく霧のように消えていきました。私は神の御言葉を読み続け、集会の場で兄弟姉妹たちと交流していくにつれて、全能神が天と地、そして万物を創造された唯一なる真の神であられると完全に確信しました。そして、私は正式に全能神教会のキリスト教徒となり、創造物としての自分の本分を尽くすために最善の努力を注ぐようになりました。私は全能神から授かった御救いに感謝いたします!全ての栄光、全能神にあれ!


聖書の教え-真のキリスト様と偽のキリストを見分ける方法

2019-05-10 22:48:52 | 神に帰す証

   私は主の信仰を始めて以降、兄弟姉妹たちと一緒にいる時はお互いを大家族のように愛し、助け合いました。私は長年さまよい続けた末にやっと実家を見つけた子供のように心の中が温かく感じました。私のいのちはついに方向性と意欲を見つけたのです。こうして私は積極的に教会の集会に参加しました。

   ある日、説教師が真剣な口調で私たちにこういいました、「さて、全能神教会の人たちは主イエスさまが再臨されたと言っています。これは不可能でしょう!なぜなら、聖書にはこう書かれています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:23–24)。この2節は主イエス様ご自身が私たちに仰ってくださったことです。主イエスのふりをして人々を欺こうとする者たちが現れるため、神は私たちが騙されてしまうことを懸念しておられます。それ故に、主はこの御言葉を前もって私たちに仰られたのです。私たちは主の道に従い、誤った道を決して歩まずにいる必要があるのです。そうでなければ、私たちは一生後悔することになるのです。」私は説教者のこの言葉を固く信じました。そうです!この2節が意味することを疑う余地はありません。私は全能神教会を説き勧める人に出会うことがあっても、決してその人の言葉を受け入れてはならないのです。私は長年に渡って主を信仰してきたのだから、主の道に従い続ける必要があるのです。それ以降、多くの兄弟姉妹たちが私に全能神の御国の福音を説き勧めてきましたが、私はその全てを拒否しました。

   ある日、私の近所の人が彼女の親戚である姉妹チャンにフロントハウスを賃貸してくれないかと私に聞いてきました。私はそれを承諾しました。姉妹チャンは穏やかで愛想のよい方でした。彼女は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってくる人でした。やがて、姉妹が何人か彼女の家に来た時、彼女たちは私の家をきれいに整頓してくれました。後に、彼女たちは私に福音を説いてくれたのですが、その時初めて、私は彼女たちが全能神教会から来ていたことを知りました。こうして、私は彼女たちを白い目で見て、時には彼女たちから隠れたりもしました。しかし、私が彼女たちをどのように扱っても、彼女たちは私の家に来ては私の家事を手伝い、私に福音を説いてくれたのです。私は秘かに彼女たちの言葉、行い、そして物事の仕方を観察しました。私は彼女たちの貫いていることは敬けんなことであると知りました。私は彼女たちは主イエス様の御要求を貫いていたのだとも分かりました。彼女たちは他人に対して辛抱強く、寛容であり、自分たちを愛するように他人を愛していました。その一方で、私は神の御要求を貫くことができていませんでした。これを踏まえ、私は心の中で頻繁にこのように熟考しました:「主の愛がなければ、彼女たちは主の御要求を貫くことはなかったでしょう。彼女たちが信じる全能神教会は本当に主の来臨なのでしょうか?それに、積極的に真理を追い求める兄弟姉妹たちの中にはどうして全能神教会を信じている人たちがいるんでしょうか?主は本当に再臨されているのでしょうか?次回は姉妹の言葉をもっと聞いて、それがどういったものなのか確認することにしましょう。」

偽キリスト,世の終わり,千年王国,キリスト

   その数日後、姉妹バイが私の自宅にやってきました。その時、私は聖書を読んでいました。彼女は私にこう聞いてきました、「姉妹シャオ、私たちはもうあなたに何度も説教していますが、それでもあなたは受け入れてくれません。私たちはあなたが神の新しい働きについてどう考えているのか分かりません。考えていることを話してください。一緒に話し合いましょう。」私は反抗的な口調で彼女にこう言いました、「あなたたちは全員が主イエス様は新しい働きをするための御言葉を発するために肉として再臨された言っています。しかし、マタイ24:23–24にはこう記されています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」だからこそ私はあなたが主イエス様のふりをして来ると思っているんです。私は主を信仰しているので主の道に従うべきであり、あなたに従うことはできないのです。」姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「私たちの主への信仰において、偽のキリストに騙されることを恐れるのはよくあることです。なぜなら、主イエス様は世の終わりに偽のキリストと偽の預言者たちが神に選ばれた人々を欺くために現れるから私たちに慎重になって欲しいと仰られたからです。しかし、主は私たちに偽のキリストと偽の預言者の特徴も伝えてくださっておられます。彼らは人々を欺くために主イエス様の成された働きを真似たり、偉大なしるしや不思議な業を見せることもできるのです。主イエス様が私たちにこれを予めお伝えくださった理由は、私たちが慎重に主の再臨に対応することを望んでおられるからです。しかし、私たちは騙されることを恐れているので、主の再臨に対応する際には聞く耳を持たず、読みもせず、連絡も取らず、孤独にかつやみくもに待機してしまい、世の終わりの神の御救いを受け入れないという結果になってしまうのです。これら全ては間違いなく主の御意図とは違っています。私たちが昼夜待ち焦がれた主イエス様は再臨されておられるのです。それは紛れもない真実なのです。私たちが盲目に主の再臨を説く全ての知らせは過ちだと考えてしまうと、私たちは真の神を締め出すことになってしまうのです。すると、私たちは神を知らずに信仰し、神に抵抗する者と化したパリサイ人のようになってしまうのです。」私はこう言いました、「私たちは神を知らずに神を十字架に張り付けたパリサイ人たちのことを毎日のように話し、彼らを使って自分たちを警告しているのに、どうやったら自分たち自身が神に抵抗するパリサイ人のようになれると言うんですか?」姉妹はこう言いました、「パリサイ人の犯したミスを繰り返したくなかったら、私たちは真のキリスト様と偽のキリストを見分けるする方法を知っておく必要があります。私たちが真のキリストと偽のキリストを見分ける方法に関する真理を理解し、彼らの本質に関する知識を手にした後、私たちは初めて自分たちの方向性を失わない方法、そして主の御救いを逃さない方法を知り得るのです。欺かれることを防ぐには、先ずキリスト様はどういう御方であられるかを知る必要があります。シスター、キリスト様はどういう御方であられるか言ってくれますか?」私は心の中でこう思いました:「この質問の答えは誰でも知ってるでしょう。主イエス様がキリスト様ですよ。私はこんな質問には引っかかりませんよ。」そして私は躊躇せずこう答えました、「主イエス様がキリスト様です。」

   姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「神はこれについてどう仰られているか確認してみましょう、『神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。』これらの御言葉から、キリスト様は神の魂にまとわれた肉であられ、受肉された神がキリスト様と呼ばれておられることが分かります。なので、キリスト様は天国におられる神の御子でなければ、神が神の働きをさせるためにお育てになる地上の人間でもなく、むしろ、肉として現実化した神の魂であられ、神御自信の肉であられるのです。そして、この肉は誰とも取って代えることができないのです。すなわち、神の魂が人となるために肉をまとわれる時は、神がどの国にお生まれになろうとも、性別が何であられようとも、神はキリスト様であられるのです。神の肉と魂は1つとなられ、切り離すことはできないのです。この肉こそが地上における神の魂の働きの発現体であられます。神がお持ちであるもの、そして神が何であられるかはこの肉を通して発現されます。私たちは神のお示しを通じてキリスト様の本質を知ることができ、それによって真のキリスト様と偽のキリストを見分けるのです。」私は彼女がこう言ったのを聞いて、「そうか!私は長年に渡って神を信仰してきたけど、主イエス様がキリスト様と呼ばれていることしか知らなかった。肉をまとった神の魂のみがキリスト様と呼ばれるのか。彼女たちの説教は本当に高度だ。私はこれにもっと耳を傾けた方がいいな」と思いました。

   黙っていた私を見た姉妹は、続けてこう言いました、「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。」この神の御言葉から、神は御自信をキリスト様として受肉されるため、真理が具現され、謎が開示され、古い時代を完結させ新し時代を始める働きが成されるということが分かります。そしてもちろん、神が明らかにされる真理は無尽蔵に存在します。神が世の終わりに受肉されることが明らかにする真理を通して、神は6000年の人類救済の経営計画、知られざる詳細、真実、働きの施行方法、神の経営の働き全体の目的、受肉にまつわる謎等を明らかにされます。それと同時に、神はまた、神の全能さ、御知恵、義、神聖さ、人類の罪を容認されない性質も公表なされます。 神が具現なさる真理は私たちが神に対して抱くありとあらゆる観念、私たちの逸脱した、かつ誤った知識と実践をより好適に解決することができ、それによって私たちは神に対する純粋な受け入れと知識、そして神に対するより新しく、より正確な知識を取得できるようにしてくださるのです。さらに、神は神の御言葉を用いて人類に新しい時代の方向性とい新しい実践方法をもたらすことで人類を完全を救い、適切な終着点へと導くことがおできになるのです。なぜなら、神は真理、道、いのちであられるからです。真の神がなさる働きは他の誰かが有したり、取り替えることはできないのです。

   姉妹の交流を聞いた私はこう言いました、「姉妹バイの言っておられることは筋が通っているわ。聖書にはこう記録されています、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」 (ヨハネによる福音書1:1–2)。あなたが言われたとおり、神の本質は真理であり、道であり、いのちなのです。そしてこの「御言葉」とは何を指しているのでしょう?この節からすると、「御言葉」は神の御言葉を指しており、‘御言葉は神であり、御言葉は神と共にあられる’とこの節に記されています。そうすると、神が肉となられる時、すなわち、御言葉が肉となられる時、神は御言葉を発せられ、働きを成されるはずなのです。それは神が私たちにキリスト様と神の働きの本質について、そしてキリスト様が何をお持ちで、キリスト様がどういう御方であられるかについて教示される御言葉を発せられることで成されているのです。そして、神のみが新しい時代を開いて古い時代を完結することがおできになります。主は世の終わりにおいてこの御言葉の働きを間違いなく成されたことが分かります。」

   姉妹バイは幸せそうにこう言ってくれました、「上出来だわ、シスター。神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」 彼女はこの節を読んでくれました。「あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。」 「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。」

   そして姉妹はこう話しました、「この神の御言葉から、偽のキリストたちは神の働きを全くこなせないことが分かります。彼らは古い時代を完結させたり、新しい時代を開くことができず、病人を治し、悪霊を追い出し、沢山の奇跡を起こすいった主イエスの成さる働きの真似をすることしかできないのです。彼らは人類を救うために真理を語ることはできないのです。聖書にはこう記録されています、「先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、」 ( 使徒行伝5:36–39)。これら偽のキリストたちは自分たちが神であると断言し続けていますが、聖霊を彼らを支持していません。従って、偽のキリストたちがどのようにして自分たちが神であると断言しようとも、人から成るものやサタンから成るものは耐え抜くことができなければ、長続きもしないので何の効果もないのです。世の終わりの全能神の働きが中国で始まって以来、Spirit-Spirit派のフア・シエハ(Ling-ling Jiaoの拙訳)、Established King派のウー・ヤンミン、Third Redemption派のジィ・ヂョンジエ等、自らを主イエス様の来臨であると言い張る偽のキリストが人々を欺くために多く出現しています。彼らは主イエス様になったふりをして現れ、人々を欺くために神を真似して奇跡を起こそうとするのです。彼らの行いは、 ‘偽のキリストたちは人々を欺くために奇跡を起こす’という主イエス様の預言を現実化しています。彼らは主の信仰者ではありますが、自らをキリスト様であると断言し、彼らがこのような不合理なでたらめを口にするのは、彼ら自身が本質的に邪悪な霊に取り付かれていることが理由です。彼らは全く真理を抱いていないため、神の御言葉を語ることができず、人類の観念と想像を満たす知識と理論について話す、または神秘を誤解したり、人々を欺くために超自然的なことを行ったりすることしかできないのです。これ故に、彼らは遅かれ早かれ挫折するのです。これにより、真理が虚偽となること、そして虚偽が真理となることは決してありえないということが分かります。この全ては私たちが心から求めることができるかどうかにかかっているのです。」姉妹バイの交流を聞いて、私はこう思いました:「彼女の交流には真理が込められていて、私が簡単に理解できるようにしてくれる。私の説教師と牧師ですら偽のキリストの出現を明確に説明することはもちろん、それを説明することすらできないのに。これはもっと慎重に調査した方がよさそうだ。結局のところ、主の来臨はささいなことではないみたいだ。これは見逃せないぞ。私の生死にも影響することだ。」こう考えた時、私はこう言いました、「姉妹バイ、あなたの言葉は正しいと思います。でも私はこれを調べる必要があります。この本は私が預かっていても宜しいでしょうか?是非読みたいのですが。」姉妹は嬉しそうにこう言ってくれました、「いいわよ!後で読んでみて、分からないことがあったら一緒に交流し合いましょう。

   私はしばらく追求し調査した後、以前理解できなかった真理と謎の多くを理解することができました。これらの御言葉は人間が話せるものではないのです。私は、神の御言葉を読めば読むほど増々感動し、神が私のすぐ側で私に語りかけてくださっているような気がしました。私は大喜びして、これが主イエス様の再臨なのだと確信しました。私はついに神を迎え入れることができました!


神の名前の奧義を明かすのは誰でしょう

2019-05-09 11:13:08 | 神に帰す証

   「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝 4:12)。 私は自分が幼かった頃、「私たちは主イエス様の名前によって祈りを捧げてこそ、罪が許され、平安と祝福を授かることができるのよ」、と母が強く忠告してくれたのを覚えています。そして、私たちの牧師はこの言葉を使って、主の名前によって祈りを捧げることの大切さを強調していました。それ以降、主イエスという名前は私の心に深く刻み込まれました。しかし、ある日、神はイエスとだけではなく、かつてはヤ―ウェと呼ばれ、神の名前には人類には知られざる多くの秘密があることを知ったのです。

この道は正に啓蒙で溢れていました。

   2017年10月のある日、私が主を信仰する親友の所に行くと、彼は説教を聞きに私を連れて行ってくれました。それを聞いた時、私はそれがとても新鮮で、啓蒙に満ちて、教会の牧師たちの宣教とは違うように感じました。私はそれに興味を持ったので、毎週日曜日にそこに行って説教を聞くようになりました。11月下旬のある日、説教師であるシャオモ―姉妹が、主は再臨されており、中国で新たな働きの段階を実行するために受肉され、新たな名前を採用されたと言ったのです。私は彼女の言ったことを真剣に受け止めず、彼女はただふざけて言っただけだと思っていました。そして、彼女は私たちにそれに関する讃美歌を聞かせてくれて、動画も見せてくれました。私の心はすぐにこの讃美歌と動画に引き付けられました。私は深く心を打たれ、喜びを感じました。その時、彼女に讃美歌と動画を幾つかダウンロードして欲しいと頼みたかったのですが、まだお互いのことを良く知らなかったので、私は恥かしくて聞けませんでした。

神の名前,奧義,ヤーウェ,イエス 

百度(バイドゥ)で東方閃電に対する非難宣伝は信頼できるものでしょうか?

   私は帰宅した後、インターネットでこれらの讃美歌と動画が見つかるかどうかを確かめようと思い、急いでバイドゥに ‘東方閃電’ と入力してみました。しかし私はその代わりに、東方閃電に対する非難宣伝を沢山見つけたのです。私はその時、主は再臨されており、主の名前も変わっているとシャオモ―姉妹が言っていたのを思い出しました。そして、私は彼女の言葉を疑い始めて、こう考えました、「聖書にははっきり言っています『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』(使徒行伝 4:12)? 明らかに、私たちクリスチャンは主イエス様の名前を支持してのみ救われるのよ。しかし、あの姉妹は神の名前が変わったと言っていたわ。これは聖書の内容と一致してないのではないかしら?もう彼女の宣教を聞きに行くのは止めておいた方がいいわね。」

   その翌日、私は友人の所に行ってインターネットで発見したことを話しました。彼は一瞬考えてからこう言いました、「東方閃電が真の道であるかどうかについては、結論を出す前に調査してはっきりさせた方がいいですね。インターネット上の噂は信用できませんから。」私は彼の言葉は理に適っていると思いました。インターネット上の情報は信頼できないので、私は選択的に耳を傾けて信じるわけにはいきませんでした。なので、集会に参加する時間が来た時、私は前回と同じように友人と一緒に説教を聞きに行きました。集会の最中、私は姉妹の交流を通してバイドゥは中国共産党が管理する正式ウェブサイトであることを知りました。非難宣伝は全能神教会を非難するために中国共産党によって捏造されていたのです。中国共産党は無神論を信じる政党であり、宗教の信仰を常に迫害してきました。その言葉は単純に当てにならないのです!こう理解した後、私は自分の警戒心を解きました。私は東方閃電のあり方はとても奥深いと思いましたが、それでも主イエス様の名前が変わるとは思わなかったので、全能神の名によって祈りを捧げるということはしませんでした。

「イエス」は神の名前の1つに過ぎません。

   一度、集会の最中にシャオモ―姉妹が神の御言葉 を2節見つけて私たちに読んでくれたことがありました:「神の名前は変わらないと言う人がいます、ならばどうしてヤ―ウェという名前がイエスとなったのでしょうか?かつてメシアの来臨が預言されていましたが、ならばどうしてイエスという名の人間が来たのでしょうか?神の名前はどうして変わったのでしょうか?そのような働きはかなり前になされていたのではなかったのでしょうか?神は今日、新たな働きをすることはできないのでしょうか?昨日の働きは変えることができ、イエスの働きもヤ―ウェの働きから続けて行うことができます。イエスの働きは他の働きによって受け継がれることはできないのでしょうか?ヤ―ウェの名前をイエスに変えることができるのなら、イエスの名前も変えることができるのではないでしょうか?これは異常なことではなく、人々が愚かなためにそう思っているだけなのです。神は常に神であります。神の働きや名前が変わろうとも、神の性質と御知恵は永遠に変わることはありません。神をイエスという名前でしか呼ぶことができないと信じるなら、あなたの知識は乏し過ぎます。」「神の御知恵、神の不思議な御業、神の義、そして神の威厳は決して変わることはありません。神の本質、そして神が有するものと神そのものは決して変わりません。しかし、神の働きに関して言うと、それは常に前進し、常に深みを増していきます。なぜなら神は常に新しく、古いことが決してないからです。各時代において、神は新たな名前を使用されます、各時代において、神は新たな働きをされます、そして各時代において、神は神の創造物が神の新たな御心と新たな性質を知ることができるようにしてくださります。」この神の御言葉を聞いた時、私の観念は覆され、私はショックを受けました。神の名前は変わるということが判明したのです。

   アン姉妹がこう言いました、「神の御言葉から、神の名前は神の働きが変わるのと同じように変わっていき、それは神が新たな段階の働きをなさる時、それに従って神の御心も変わることを意味していることが分かります。私たちは真理を理解していないし、神の知識を持っていないがために、聖書の文字通りの意味で神の名前は決して変わらないという結論を出しています。こんなことをするがために、私たちは容易に神に抵抗してしまうのです。律法の時代にヤ―ウェ神を信じた人々と同じです。 彼らは、『ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。』(イザヤ書 43:11)という節を堅く信じ、ヤ―ウェという名前のみが神の名前になり得ると考えていました。ヤ―ウェ神は一度彼らをパロから救い、彼らの地上での生活を導くための律法を発布し、幾度となく彼らを敵の攻撃から救ってくださったため、彼らはヤ―ウェ神のみが彼らの救主であると思い込み、ヤ―ウェの名前に忠実であり続ける決意をしていたのです。神が贖いの働きをするために初めて受肉された時、その名前はイエスになりました。しかし、彼らは神の新しい名前を受け入れられず、主イエス様が神であることも受け入れませんでした。最終的に、彼らは主イエス様を十字架に釘付けにしました。主イエス様が十字架に磔にされ、贖いの働きを達成された後、主を信じて従っていた人々は全員が神の救いを授かりました。それ以降、恵みの時代の信者たちは主イエス様の名前によって祈りを捧げるようになりました。この節がその理由です、『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』(使徒行伝 4:12)。神の最初の2段階の働きより、神の名前は変わるということが分かります。神は異なる時代に異なる名前を使用されます。終わりの日に、神は全能神という名前を使用されていますが、それはヨハネの黙示録1:8に記される、’今いまし、昔いまし、ぱができたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」’ という預言を完全に成就しています。しかし、主イエス様のみが救主だと信じる人々はこの事実を受け入れられないため、蜂起して、終わりの日に再臨された神御自身を非難し、その神御自身に抵抗するのです。実に、神は異なる時代に異なる名前を使い、異なる働きをされますが、神の本質は変わりません。そして、今、神は新たな働きをされ、名前も変わりました。神の新たな働きを受け入れなければ、または神の新たな名前によって祈りを捧げなければ、私たちは終わりの日の救いを得られずに、救われる機会をも逃してしまいます。」
私は神の御言葉と姉妹の交流を通じて、神の御言葉は神の経営計画が前進するにつれて変わるということ、そして神の以前の名前だけを支えていたら、私たちは容易に神の働きに排除され、神の敵と化してしまうことを理解しました。

イエスやヤ―ウェという名前を使う重要性とは何なのでしょう?

   シャオモ―姉妹は更にこう言いました、「神の名前は変わっていきます。神は神の経営計画が展開していくについて異なる名前を使われます。神は新しい時代を始め、新たな名前を付けられます。神の名前は、神の働きおよびその時代に表される性質を象徴します。神の名前にはそれぞれ意味があります。神の御言葉のこの節を読んでみましょう:『「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。… だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。』

   神の御言葉は、’ヤ―ウェ’ とは人間のいのちを導く神という意味で、人間を憐み、人間を呪う神の性質を象徴していると語っておられます。最初、人類は何も理解していなかったため、神はヤ―ウェという名前によって律法の時代の働きを行い、イスラエルの民に対して律法と戒律を発布し、地上で彼らの生活を導かれました。神は戒律と律法に従った者たちを憐れに思い祝福され、戒律に背いた者たちを呪い罰せられました。律法の時代末期に、人類は増々堕落していき、彼らは足の悪い動物を捧げ、律法を守らなくなってしまいました。人間が律法によって死刑を宣告されるのを見かねた神は、受肉してイエスという名前を名乗られました。’イエス’ とは、愛に溢れ、憐れみの心に溢れ、人間の罪を贖う罪の捧げものという意味です。神が恵みの時代に表された性質は慈悲と慈愛です。この時代に、主イエス様は病人を癒し、悪霊を追い払い、人間にたくさんの御恵みと祝福を与えてくださり、最後には、人間のために罪の捧げものとして十字架に釘付けにさたのです。終わりの日において、私たちはサタンから深く堕落させられており、根本的に堕落を改める必要があります。従って、神は全能神という新たな名前を使って裁きと刑罰の働きをされ、それらはまた時代を分け、終止符を打つための働きでもあります。全能神が表される性質は主イエス様が恵みの時代に表された性質とは異なります。全能神は私たちに自分たちの堕落を気付かせるために、正義、威厳、そして怒りの性質をもって人間を裁き、罰せられます。同時に、全能神は私たちがその内にある正義の性質を認識できるようにしてくださり、それによって私たちの内には神を恐れる心が芽生え、結果として私たちは完全に悔い改め、改心し、全能神に救われるのです。最終的に、神は、私たちが神の御力と権威、すなわち、神は天と地と万物を創造し、時代を開くだけでなく、人間をそれぞれの生活において導き、人間の罪を贖い、人間を清めて改心させ、素晴らしい終着点にお連れくださることを、私たちに気付かせてくださります。これにより、神の名前は変化し続けることが分かります。神は各時代に異なる名前をお持ちになるのです。各名前はそれぞれ特有の意味があり、その時代における神の働きと性質を象徴しています。」

   これらの言葉を受けて、私は神の名前には深い意味が込められていることを知りました。これにより、私の見識はとても広がりました。私は心の中で、姉妹が読んでくれた御言葉は神の御言葉であると確信しました。神以外に、神の名前の謎をこれほど明確に明かすことができる御方がいるでしょうか?それ以降、私は全能神の名前によって祈りを捧げ、適切に教会生活に参加するようになりました。私は、神が私をお選びくださったこと、そして私が神の前に行って、私と交流する兄弟姉妹たちを通じて神の御声を聞けるようにしてくださったことに感謝しています。そうでなければ、私は続けて自分の観念と想像の中に生き、自分の判断で聖書を理解し、主イエス様の名前にこだわり、終わりの日の神の救いを受け損ねていたことでしょう。神様、ありがとうございます!全ての栄光、全能神にあれ!


聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか?

2019-05-08 11:19:22 | 神に帰す証

   私はクリスチャンの家庭に生まれました。私の家族は貧乏だったので、父はよく出稼ぎに行って、帰ってくることは滅多にありませんでした。そして、母は地元で働いていましたが、毎日朝から晩まで仕事が忙しく私たちの世話をする時間はほとんどありませんでした。なので、私は幼かった頃から家事だけでなく、弟と妹の世話をする必要もありました。私は自分と同年齢の子たちが両親に面倒を見てもらっている様子を見ると、いつも心細くなりました。当時、私は聖書に関してはあまり知りませんでしたが、日曜学校に行くのはとても好きで、人間をとても愛してくださる天の御父がいることを学びました。これ故に、私は幸せな時も、そうでない時も、天の御父に祈りを捧げることができました。次第に、天の御父は私が親密に語りかける存在になりました。

   私は12歳の時、正式にクリスチャンの洗礼を受けました。当時、牧師が私にこう言いました、「主への信仰は聖書の内容に基づいていなければいけません。それは、聖書がキリスト教信仰の基礎だからです。それに、神の働きと御言葉は全て聖書に記されています。聖書の内容を固持してさえいれば、騙されることはありません。聖書以外の信仰は全て異端なのです。」また、彼は説教の最中にはいつもこう言っていました、「私たちは聖書に基づいて信仰するのです。神を信じることは聖書を信じること、聖書を信じることは神を信じることだと言えます。」当時、私は聖書に関する知識をあまりもっていませんでしたが、それに熱中しながら積極的に集会に参加し、兄弟姉妹と集会をしている時は喜びを感じて、主に対し信仰深くいられると感じた故に一度もさぼりませんでした。特に牧師の言葉を聞いた後は、聖書がとても貴重なもので、他の書籍とは異なることを知りました。これ故に、私はいつも聖書を持って移動し、勉強した後は布袋に入れて保管しました。その後、教会の状況がひどく悪化しました。兄弟姉妹の大多数が信仰を失い、中には一般世間に戻って働く人すらいました。教会の同僚たちは意見が合わないといつも喧嘩になり、それが原因で教会を去る兄弟姉妹がいました。教会のこのようなありさまを見た私は魂が弱気になり、消極的になってしまいました。私はそれでも教会に行って集会に参加していましたが、毎回参加しているふりをしているだけでした。しかし、私は変わらず聖書を大切に扱い、いつも通り保護していました。結婚した後、聖書は自分の子供にすら触らせませんでした。

聖書を信じる,神を信じる

   2017年秋の半ばのある日、私はインターネットでリアン兄弟と知り合い、チャットをしていると彼が説教師であったことを知りました。私は、「彼も主を信仰しているのね、それに彼は説教師だから聖書のことを良く理解しているはずだわ」、と思いました。その後、私は集会グループでいつも彼と聖書の勉強をするようになりました。グループの中でしばらく聖書を探求していると、私は嬉しくなりました。彼らの交流はとても啓発的で、私は以前理解できなかった真理の多くを理解することができました。私の枯れ果てた魂は神の御言葉の注ぎと教養を得たのです。次第に、私は彼らと集会をするのが大好きになり、毎回快く集会に参加する約束を守りました。

   ある日、兄弟姉妹が私にある動画を見せてくれました。その中で私は聖書とは異なる書籍を目にしたのです。その瞬間、私はビックリして心臓が飛び上がりました。私は姉妹にこう聞きました、「あなたは東方閃電の信者なんですか?本当に聖書はもう読んでいないんですか?この動画にはどうして聖書以外の書籍が出ているんですか?あれは何ですか?」彼女は私の質問を聞いた後、優しくこう言いました、「ヨハネの黙示録5:1-5にこう書かれています、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』これらの節から、終わりの日には新たな書籍、すなわち、聖書で預言されている神しか開けることのできない巻物が登場することが分かります。」あの日、姉妹は沢山交流してくれましたが、私は彼女の話しを聞けば聞くほど、増々それを受け入れられなくなりました。私はこう思いました:「神の御言葉と働きは全て聖書に記されているのに。聖書以外に新しい書籍があるなんてあり得ない。主を信じることは聖書を信じることなのに。彼らはもう聖書を読まないというなら、それは主への信仰と言えるのかしら?」これ故に、彼らが何を言っても私は、「分かりません」、「理解できないです」、「私には出来ません」などと言って返事をしました。実際、私はもう彼らとは交流したくなくなってしまったのですが、それを断るのは失礼だと思い、最終的には黙っていることにしました。

   集会の後、私はリアン兄弟から沢山メッセージをもらいましたが、その返事はしませんでした。夜になると、私はベッドの中でゴロゴロ寝返りを打ち、眠りにつくことができませんでした。あの夜、私の頭の中は混乱していました。翌朝起きると、私は心が落ち着くことを期待して讃美歌を聞こうと思いました。意外なことに、Facebookを開けてみると、「全能神教会は別名東方閃電。彼らは聖書を読みません」と書かれていたのを目にしたのです。これを読んだ私は落ち着くことができませんでした。私は、「聖書を読まないなんて、彼らは間違って信仰しているわ」、と思いました。これを受けて私はリアン兄弟に「私はもう調査も交流もしたくありません」とメッセージを送りました。彼は直接電話をしてきてこう言いました、「’神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない、そして聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ とった観点は事実に基づいているものではありません。それは神の働きにおける事実に沿っていません。聖書にはこう書かれています、イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21:25)。この節から、主イエス様の御言葉と働きは、その全てが新約聖書に記録されていたわけではないことが分かります。実際、聖書を理解する者は誰もが聖書は人間によって執筆され編集されたものであることを知っています。聖書が編集されていた時、編集者の間で生じた意見の食い違いや省略が原因で預言者を通じて伝えられた神の御言葉には聖書に含まれていないものがあるんです。なので、聖書の内容以外には神の御言葉と働きは存在しないなどと言えませんよね?預言者による預言で省略されたものも神の御言葉であると思いませんか?従って、宗教界の牧師と長老たちが言う ‘神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない’ という意見は現実と一致していないのです。これは彼らが神の働きを知らないが故に生まれた完全に誤まった知識であり、観念に過ぎないのです。さらに言うと、主イエス様は働きに来られた時、旧約聖書の内容に従って働きをされたのではなく、恵みの時代に旧約聖書には記されていない贖いの働きを実行されました。悔い改めの道や磔の働き等、主がなされた働きはその全てが旧約聖書には記されていません。’聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ という観念を固持していたら、主イエス様の働きを非難していることになりませんか?」

   私はリアン兄弟の交流は筋が通っていると思いました。私はこの疑問について考えたことがなかったのです。そして、私は集会に参加して調査すると彼に約束しました。しかし、その後、私は彼に約束したものの、依然として吹っ切れずにこう考えました:「何があっても、聖書からは離れてはいけないわ。聖書はキリスト教全体における信仰の土台なんだから。主を信じることは聖書を信じることであるはずよ」こうして私は気を変えてしまったのですが、恥ずかしくてそれを彼に伝えることはできませんでした。なので、その翌日、もしリアン兄弟からまた電話があって集会に誘われた時に断れなくなるのを恐れた私は、わざと携帯電話の電源を切って、見えない場所に隠しました。しかしその日、私は体調が悪く、心臓が激しく鼓動し続けるので、呼吸をするのも、食事をするのも、仕事に集中するのも困難でした。翌日、私は依然として回復していませんでした。リアン兄弟が電話で私に調査に参加するよう誘ってきましたが、私はそれを断りました。調査しなければ私の心臓が落ち着くと思ったのです。しかしその結果は逆でした。後に、私はもっと祈りを捧げ、大好きな讃美歌を聞き、エクササイズをしたり、ピアノを弾いたりして心臓を落ち着かせようとしましたが、効果はありませんでした。私は、「調査することを断っているのに、どうして落ち着けないの?」と思いました。何度も繰り返し考えましたが答えはでませんでした。次第に、私は少し不安になり始めました:「心臓がこんなに激しく鼓動し続けたら何か悪いことでも起こるんじゃないかしら?全能神は本当に主イエス様の再臨だなんてことがあり得るのかしら?私が全能神に抵抗して主に反抗するようなことをしたから、主が私を懲らしめているのかしら?そうじゃないとしたら、どうしてこういった手段を使っても心臓が落ち着かないの?」主に反抗することを恐れた私は全能神教会を調査することにしました。そして、私はリアン兄弟に電話してこう言いました、「私と会ってもらえますか?」驚いたことに、探求して調査する意思を持ったとたんに私の心臓が落ち着いたのです。

   集会で、兄弟姉妹が私に全能神の次の御言葉を読んでくれました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。」

   「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で予言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」

   姉妹はこう言いました、「何年にも渡って、私たちは聖書を神と照らし合わし、私たちの信仰を聖書だけに基礎づけてきました。聖書は主を象徴するもの、神を象徴するものだと、私たちは心の中で信じています。神を信じていると言うよりも、聖書を信じていると言った方が良いのです。宗教界全体が神を信じることは聖書を信じること、そして聖書から逸脱することは神を信じていないことを意味するとまで考えているのです。私たちは誰もが盲目に聖書を信じ崇拝し、聖書に神と同じ格付けをしています。主と神の働きの代わりに聖書を使用する人すらいます。しかし、神を心から知り、神に心から従う人は存在しません。私たちが盲目に聖書を崇拝する理由は、主として私たちは聖書の本質、およびそれと神との関係を知らないからです。ユダヤのパリサイ人が存在した時代のことを思い出してください。彼らは盲目に聖書を固持し、崇拝していましたが、それは聖書を解釈した時に狂信的に主イエス様を非難し、主イエス様に抵抗し、主イエス様を十字架に釘付けにしてしまうほどでした。最終的に、彼らは主イエス様から懲罰を被ったのです。聖書を解釈して聖書の知識を理解できるからといって、それは神を知っているということを意味しているわけではない、聖書の内容を固持することは主の道に従っていることを意味するわけではない、そして聖書を信じることは神を信じることに等しいわけでもないということを証明する十分な事実が存在しているのです。主イエス様はかつてこう仰りました:「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書5:39-40). 主イエス様の御言葉から、聖書には何のいのちも宿っていないことが分かります。聖書は単に神に対する証言書であり、神がなさった過去の働きの記録に過ぎないのです。従い、聖書は神を象徴しておらず、私たちは聖書を神と照らし合わせることもできないのです。神のみが働きを通じて人類を救うことができますが、聖書にはできません。神のみが真理を表すことができますが、聖書にはできません。神はいつでも人間に刺激を与え、人間を啓発し、人間を導くことができますが、聖書にはできません。神は生ける水の源でありますが、聖書はいのちを持たぬ文章の集まりに過ぎません。これ故に、聖書は神を全く象徴してはいないのです。聖書が神を象徴するものだと思って聖書を神と同レベルに置いてしまったら、私たちは神を軽く扱い冒涜していることにならないでしょうか?神は神、聖書は聖書です。聖書は神を象徴できないし、まして神の働きを象徴するなどもっての他です。聖書は神の働きの記録に過ぎないのです。

   彼女の話しを聞いた後、私は神と聖書の違いを理解しました。聖書を信じることは神を信じることに等しくはないのです。聖書の内容を固持することは主の道を守っていることを表しているわけではないのです。聖書に固持していたら、私は主の承認を得られないだけでなく、主の非難を被ることにもなるでしょう。私はパリサイ人の足跡を辿って神に抵抗するわけにはいきません。しかし、彼女の交流によると、過去の聖書を読むことは間違っていることになるのでしょうか?これ故に、私はこの疑問について彼女と交流することを求めました。

聖書を信じる,神を信じる,二つ姉妹

   そして、彼女は神の御言葉の次の2節を読んでくれました:「わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。 … これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。」「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」

   彼女はこう言いました、「今、神は地上に降臨して働きをなされます。神は決して私たちに聖書を読むなとも、その価値を否定しろとも言われません。代わりに、神は私たちが聖書を正しい形で扱うことを希望しておられます。それは聖書に記録されている神の御言葉はあまりにも限られているからです。聖書に記されているのは神の働きと使徒たちの体験および証言の記録に過ぎないのです。さらに、聖書に記された神の御言葉は、神のいのちを大海と例えるならその1滴にしか過ぎません。それは神の全てを象徴することはできません。神の働きは常に前進しています。私たちは、神が各時代になさる働きに固執していたのでは、保守的で歴史にしがみついていることになってしまいます。これでは私たちは聖霊の働きを授かることも、現実の問題を解決することもできません。それに、聖書には神の現代の働きは記録されていませんし、それが記す内容は神から人間に対する最も現実的な要件でなければ、聖霊の働きの流れでもありません。最近、全能神は裁きと刑罰をもって人間を清め完全にする働きに着手されました。私たちは、神の働きについてゆき、全能神の終わりの日の裁きと刑罰の働きを受け入れてこそ、聖霊の働きを授かり、清められ、完全にしていただけるのです。」

   彼女の交流を聞いた後、私は突然、自分の魂がどんどん枯れていくように感じ、宗教界に対する信頼がどんどん薄くなっていった理由を理解しました。それは、私が聖書を過度に信用して崇拝し、頑固なまでにそれに固執し、その結果として神の最新の働きについて行かず、暗闇に陥っていたことが原因だったのです。私は彼女の交流を聞けば聞くほど、これをどんどん理解することができました。私は心の中が特別明るくなったような気がしました。

   神の御言葉と姉妹の交流により、私の心の中の混乱は解消されました。私は全能神が主イエス様の顕現であること、そして神は主イエス様のなされた働きを基に新たな段階の働きをされたことを確信しました。神の御慈悲、御導き、そして御啓きがなければ、私は主の再臨をお迎えする機会を逃し、依然として魂が飢え、枯れた状態で暗闇の中を生き、聖書のルールと御言葉を固持し、神を信仰しながらも、神に抵抗し続けていたことでしょう。今、私はやっと聖書の束縛から足を踏み出し、神の前に行き、生ける水の泉の備えを得ることができました。神に感謝いたします!全ての栄光、神にあれ!


見知らぬ人を受け入れて得た意外なもの

2019-04-25 21:40:47 | 神に帰す証

  私は以前、家庭教会で説教師をしていました。ある日、兄弟姉妹たちと会議を開いている最中、チェン牧師は聖書から次の説を読みました、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。」(ガラテヤ人への手紙1:6-7)。そして、彼はこう言いました、「兄弟姉妹の皆さん、東方閃電の信徒たちは、主イエス様が裁きの働きをしに再臨されたと言っています。そして、他の教会では善良な子羊たちの多くが彼らに奪われています。主の信者たちをしっかりと守れていないとなると、将来、主に説明がつきません。そこで、私は信者たちを守るため、見知らぬ人を受け入れることを全面的に禁止する決断をしました。そして、東方閃電を受け入れる人がいれば、その人は教会から追放されることになります。」私は彼の言葉にとても驚いてこう思いました、「どうして主を信仰する真の信者たちの多くが東方閃電を受け入れているんだ。どうしてそんなことが起っているんだ?これからは絶対に見知らぬ人を受け入れないように気をつけよう。」

   その後、私はチェン牧師の言葉を伝えるために各集会場に足を運び、それに従うようにと信者たちに伝えました。その後、私は、こうすることが主に対する強い献身であると信じながら、安堵の溜息をつきました。ある日、年配の姉妹が慌てて私の家にやってきてこう言いました、「フェンギン、知らない女性が東方閃電を説き勧めやってきて、主イエス様は既に真理を話すために再臨されていると言ってるわ。。」私はすかさず割って入り、「その女性はどこですか?」と聞いて、「これからそちらに向かいます」、と言いました。私は年配の姉妹の自宅に到着すると、福音を説きにやって来た姉妹の所へ足早に行ってこう言いました、「東方閃電を説き勧めているのはあなたですか?」彼女は、「そうですよ、叔母さま 」と笑顔で答えました。「東方閃電はヤ―ウェ神、主イエス様の再臨です」と言ったのです。私は、「東方閃電がヤ―ウェ神だなんて、聖書のどの節に記録されているのですか?」と尋ねました。「どうぞお引き取りください。あなたが何を説教されようと、私たちは信じません」と言うと、彼女は穏やかにこう応えました、「叔母さま、聖書にこう記されているのをお忘れではありませんか、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。」(ゼカリヤ書 10:1). 主はいなずまを造られる神なのではありませんか?」私は彼女の言葉を聞き、面と向って攻撃されたかのように唖然としてしまいました。私は自分の面目のためにこう言い返しました、「未信者たちに説教したければすればよろしい。それに、私たちはあなたがどなたか知りません。さらに、私たちは牧師と長老たちから見知らぬ人を受け入れることを禁じられています。お引き取りください!」しかし、彼女は落ち着いた口調でこう言いました、「しかし、私たち主の信者は主の御言葉を聞くべきだと思います。主イエス様は誰も見知らぬ人を受け入れてはならないとは決して仰っておられません。むしろ、主はこう仰りました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。主は、誰でも福音を説く使者を受け入れる者は主を受け入れると仰りました。しかし、あなたの牧師と長老たちはあなたが見知らぬ人を受け入れることを禁じています、彼らは主の教えに背いているのではありませんか?」他の人が急にこう言いました、「出て行かないなら、警察を呼ぶぞ。」そこにいた人たち全員が彼女を非難して脅し、そして彼女を追いやりました。

見知らぬ人,受け入れる,意外なもの

 

   この姉妹が去った後、私は思わずこう考えました:「この人の言葉は聖書の内容から逸れていない。しかも、彼女はとても献身的だし、悪い女性のようには見えない。」夜になると、私の心臓は激しく鼓動し、私は強い違和感を覚えました。こうして、私は主の御気持を害したのではないかと内省しました。そして、私は以前、東方閃電を説き勧めていた人々を排斥していたことを思い出しました。そうしたことは主の御心に背いていたのでしょうか?私はこう考えると落ち着けませんでした。主イエス様が隣人を自身のように愛せよと教えてくださったことを考えると、私は増々困惑しました。これ故に、私は祈りを捧げました、「ああ、主よ、私はあなたのために働き、祈り、そして信者たちを守ってきました。なのに、どうして私の心臓は痛むのですか?見知らぬ人を受け入れないのは間違っているのでしょうか?ああ、主よ、私はとても困惑しています、あなたの御気持に沿うには何をすべきなのでしょう。ああ、主よ、どうか私を御導きください。」こう祈りを捧げた後、若い姉妹が口にした聖書の御言葉が私の頭に浮かびました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。私はじっくりと考えました:「そうだ!主イエス様は幼き子供すら受け入れるように仰りましたが、見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられません。とういうことは、あの姉妹を拒絶することは間違っているのでしょうか?」そして、私は牧師と長老たちが言ったことを思い出してこう考えました:「彼らは子羊たちのいのちを守るために、私たちが見知らぬ人を受け入れるのを禁止しておられるのだ。彼らは何も悪いことはしていない。」私はこの時、とても困惑しました。こうして、私は何度も祈りを捧げ、この事態を主に託し、主の御心を理解できるよう、主の御導きを請いました。

   その数日後、あの若い姉妹がまた私の家にやってきました。私はこう言いました、「近頃、東方閃電を説き勧める人たちが大勢いますが、私たちの牧師と長老たちは見知らぬ人とは関わりを持つなと繰り返し言われています。あなたは見知らぬ人ですし、私はあなたのことを知りません。」そして、彼女は静かにこう言いました、「叔母さま、あなたは説教師として、見知らぬ人を受け入れて知らぬ内に予想外の祝福を得た人たちが大勢いたことを知っておられるはずです。聖書にはこう記されています:「ロトも見知らぬ者たちを受け入れ、ソドムの街が破滅させられた時、2人の娘と共に生き残りました。遊女ラハブもまた見知らぬ者たちを受け入れて、彼女と家にいた他3人は共に滅びることを免れました。ザレパテの未亡人は預言者であったエリヤを受け入れると、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えませんでした。そして、未亡人の息子が重い病気になり、息が絶えた時、エリヤは神に祈りを捧げ、彼を蘇られました。見知らぬ人を受け入れた者たちは全員が知らぬ内に神の御恵みを授かっているのです。主イエス様はこれについてこう仰りました、『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイによる福音書 10:41)。これらは主から私たちへの教えであり、私たちはこれらを実践すべきなのです。叔母さま、私の言っていることは正しいですか?」私は、「はい、これは私たちも集会で説教していることです。」そして彼女は言いました、「叔母さま、これらについて話しているだけで、実践していなければ真理を得ることはありませんよ。主イエス様こう仰りました、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』(マタイによる福音書 7:24)。聖書に記されたこれらの例を読むと、見知らぬ人を受け入れれば、私たちは騙されないだけでなく、むしろ神の御加護と祝福を得られることが分かります。聖書にはこの記述もあります、『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。⋯』(ヘブル人への手紙 13:2). 牧師と長老の言うことを聞いて見知らぬ人を受け入れる人がいなければ、イエス・キリストの福音が西洋の国々から我々の国に広まることはあり得ません。私たちは西から来られる伝道者たちが誰だか知っているわけではありません。主イエス様はこう仰っておられます、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。』(マルコによる福音書16:15)。この人たちは全ての国々に行って福音を説いたわけですから、彼らのことを知らなかった人たちが大勢いたはずです。主イエス様の弟子たちとパウロがあちこちで主の福音を説いていた時と同じように、今も伝道者のことを知る人々が大勢いるはずがないのです。ならば、牧師と長老たちが見知らぬ人を受け入れるなと言うのは、主の教えに適っているでしょうか?宗教指導者の言うことをむやみに聞いて、見知らぬ人を受け入れることを拒否していたら、私たちは主の御言葉に背く愚か者だということにになりませんか?主を信仰していても、主の御言葉に従っていなければ天国に入れるはずなどありません。そうだと思いませんか、叔母さま?」

   彼女の言葉を聞いて、私はこう思いました:「その通りだ。主を信仰する人は主の御言葉に従うべきだ。主イエス様は見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられない、牧師と長老の言っていることは間違っているのか?」そして私はこう思いました:「いいや、違う!牧師と長老たちは、他の福音に従うことがあっても見知らぬ人を受け入れてはいけないと言われました。それは私たちのためを思って言われたことです。こう考えて、私は言いました、「聖書にはこう書かれています、『あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。』(ガラテヤ人への手紙 1:6-7)。従って、私たちが見知らぬ人を受け入れない理由は、他の福音に落ちてしまうことを恐れているからです。」彼女は笑顔でこう言いました、「叔母さま、宗教界にいる人々の多くは、あなたが口にされた聖書の節を全く理解できていません。それは、使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた書簡に書かれているものです。しかし、それは世の終わりの主を信仰する人々への教えであると、多くの人々は思っています。なので、彼らは決してこの言葉に対する適切な姿勢を持てていないのです。当時、パウロは別の地で福音を説いており、ガラテヤの教会にいた兄弟姉妹の多くが主イエス・キリストの道を離れ、神殿に戻り、続けてヤ―ウェ神を崇拝し、律法に従っていたことを知りました。パウロは教会のことが気掛かりでしたが、直ぐにガラテヤの教会に戻ることはできませんでした。それ故に、彼は教会にいる兄弟姉妹たちに呼び掛けて、注意を促すためにこの書簡を書いたのです。彼はこう言いました、『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。』(ガラテヤ人への手紙 3:1)。ユダヤ教の指導者、祭司長、律法学者、そしてパリサイ人たちはガラテヤの民を妨害し、イエス・キリストの御言葉を拒否するように言ったのです。これ故に、パウロは書簡を書いてこう伝えました、’あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、私には不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。’ その当時には、福音を説く人々のグループが2種類ありました。 1つは神の古い有り方、すなわち、ヤ―ウェ神を信仰して律法を守るという福音を説き、もう1つはイエス・キリストの福音を説きました。従い、キリストの福音を曲げようとしてガラテヤの民をかき乱し、彼らにまた律法に従わせようとした者たちが存在したのです。これ故に、パウロは書簡にこう書きました、『… わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。』」 (ガラテヤ人への手紙 1:8)。

見知らぬ人,受け入れる,意外なもの,御言葉を読んでいます

   彼女の交流を聞いた後、私は心が晴れた気がしてこう思いました:「そんなことが起っていたのか。牧師と長老たちはどうしてこれを知らないのかしら?私たちは皆主を信仰しているのに、どうして彼女はこんなに沢山知っているのかしら?それに、彼女はどこからこの情報を得ているのかしら?」こうして、私はいぶかしげに聞きました、「ヂャン姉妹、あなたの言う通りです。しかし、どうしてそのようなことを知っているのですか?あなたがお持ちの書籍は⋯」「叔母さま、どうして人間がこのような事柄を知り得るのか。私はこの全てをこの書籍から学びました。この書籍は他のどの書籍とも異なります、なぜならこれに記された御言葉は2回目に受肉された神御自身が表されたものだからです。それは人間の理解できないこと全て、そしてあなたが理解できないことを含め、聖書に記された奥義の全てを説明しています。」彼女の言葉を聞いて、私は他の教会で主を愛していた信者たちのことを思い出しました。彼らは長年に渡って主を信仰してきているのに、いとも簡単に東方閃電を受け入れてしまい、誰も彼らを呼び戻すことができないのです。東方閃電は本当に真理を理解しているように思えます。従って、私はこの書籍を受け入れました。

   そして、彼女は神の3段階の働きの真理や、’東方閃電’ に関する預言等、多くについて私と交流してくれました。私はこう思いました:「この若い姉妹の言ったことは十分な根拠に基づいていて、啓発的だし、私はそれを楽しめた上に沢山のことを学んだわ。私も説教師だというのに、どうして私はこれを理解できないのかしら?」彼女は帰る前に神の御言葉を朗読したテープを幾つか私に残してくれました。私がこれを再生してみると、心地の良い声が聞こえてきました、「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。 … キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神が用意する道を受け入れなくてはならない。真理を受け取ったり、いのちの供給を受け入れることなく、祝福だけを得ようと考えたりすべきではない。キリストは、彼を真に信じる者がいのちを与えるために終わりの日にくる。神の働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。」これを聞いた私は涙しながら喜びと悲しみを同時に感じてこう思いました:「権威のあるこの御言葉は神御自身のみが表すことのできるものだわ。」主イエス様はこう仰ってもおられます、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』(ヨハネによる福音書 14:6)。これは紛れもなく神の御声なのです。その時、幾度となく福音を説きにやって来た兄弟姉妹たちを退ける自分の姿が目に浮かびました。私はとても悲しくなりました。私はなんて愚かで、無知だったのでしょう!私は今まで主を信仰してきた間、主の御言葉よりも牧師と長老の言葉に耳を傾けていたので、東方閃電を説き勧める見知らぬ者を受け入れようとはしなかったのです。しかも、私は真の道を求めず、調べもせず、むしろ自分の兄弟姉妹がそうするのを妨げ、それが主への献身であると勘違いしていたのです。自分が神に背いていたとは、思ってもいませんでした。しかし、だからといって神は私を見捨てず、むしろあの姉妹が私の所にもう一度福音を説きに来るように仕向け、私が悔い改める機会をもう一度与えてくださったのです。私がこの見知らぬ姉妹を受け入れた時、神は私を祝福してくださり、そして、それ故に、私は知らぬ内に主を受け入れて主の再臨をお迎えしていたのです。私は神の御救いに感謝します、そして私は神の御心を和ませられるよう、神と協力し合って兄弟姉妹を神の前に導きたいと思います。

   その後すぐ、私は教会生活を開始しました。兄弟姉妹たちと集会を開き、自分の本分を尽くしていると、私は喜びでいっぱいになりました。神のお導きに感謝します。その後、私は兄弟姉妹たちと協力し合って、私が以前通っていた教会で主を心から信じている人たちを神の前に導きました。全ての栄光、全能神にあれ!