☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

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不滅の “ 生き如来 ” を自覚する祈り  谷口雅春 先生

2019-01-23 22:06:56 | 今日の光明法語
釈尊は涅槃経に於いて「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説き給うた。
一切衆生とは一切の衆(もろもろ)の生(せい)ある者のことである。

すべての生きとし生ける者は、悉(ことごと)く仏性を内に有しているということである。
仏性とは“仏(ほとけ)”即ち 如来の本性(ほんせい)である。すべての生(せい)ある者は
内に如来の本性を具有(ぐゆう)するのである。

特に生ある者のうち最も発達したる人間に於いては、その仏性を単に内に具有するだけではなく、
生(い)ける如来として 今ここに顕現しているのが人間なのである。
謂(い)わば人間は “ 生き如来 ” であるのである。

人間は“生き如来”であるから、決して病むことなく、老いる事なく、
金剛不壊の霊身(れいしん)であるのである。
自己を肉体と称する物質身(ぶっしつしん)として見るのは、五官の感覚によって、
便宜上、縦(たて)横(よこ)厚みの三次元空間面上に翻訳して視(み)ているだけのことであって、
翻訳文は原文とよく似ているけれども、原文の全相(ぜんそう)を伝えるものではないのである。

翻訳文は原稿紙の上に書かれている。しかし原著者の文章は、本来原稿紙の上にあったのではなく、
原著者の心の中にあった霊的理念が、文字というもので綴(つづ)られたものであり、
その時、既に心の中にあった霊的理念が完全に表現せられず、文字という三次元空間面上に
投げ出されて、その時に、霊的理念が文字の表現力の範囲内に押し込まれて限定されたものと
なっているのである。

これは霊的理念が現象界にあらわれる際におこる自己限定を、文章に喩(たと)えて説いたもので
あるが、仏性といい、如来(にょらい)という霊的実在者が人身(じんしん)というものに顕現する
時にも同様のことが起(おこ)るのである。

二千数百年前、肉身(にくしん)の釈迦牟尼如来を見たところの弟子たちは、
本当は釈迦牟尼如来そのものを見(み)奉(たてまつ)ったのではなかったのである。
彼ら弟子たちは、食物を食(しょく)し成長し やがて老衰し涅槃(ねはん)に入(い)る
肉身に翻訳された釈尊を見たのである。

純陀(じゅんだ)はせめて肉体の釈尊が生きて い給う間に、自分の作った食物を
一箸(ひとはし)でも食べて頂(いただ)く光栄を得(え)たいと、心づくしの御料理を
釈尊に奉持(ほうじ)して献(ささ)げている。

その時に釈尊は 「 自分は仏身(ぶっしん)であり金剛身であり、非雑食身(ひぞうじきしん)であって、
未(いま)だ曾(かつ)て一度も物質の食物はたべたことはないのだ 」 と仰(おお)せられて
折角(せっかく)奉持(ほうじ)した食物をお契(あが)りにならないのである。

非雑食身(ひぞうじきしん)というのは 「 雑(いろいろ)の食物を捏(こ)ねあげて
出来ている身(み)ではない 」 という意味である。
つまり 生まれ、物質の食物を食(しょく)して成長し、老衰して死滅する自分ではないということである。

純陀(じゅんだ)は純情な青年僧であったらしいが、実在の釈尊を見奉(みたてまつ)ることが
出来なかった。肉体という三次元空間面に翻訳されたお姿を見ていたのであった。

釈尊は法華経の“ 如来寿量品 ”に於いても、 「 われ常に此処にありて滅せず 」 と仰(おお)せられ
「 自分は五百塵点 阿僧祇劫(あそうぎこう)以前の まだその以前より不滅に存在する霊的実在で
あるのに、汝(なんじ)らは如来の実相を見ずして 滅(めつ)ありと見る 」 という意味を
説かれているのである。

わたしたちは肉身に翻訳された釈尊を見た純陀(じゅんだ)のようには、自分自身の実相を、
食物を捏(こ)ね上げて作った肉体だと見てはならないので、すべての人間は釈尊と同じく
「 われ常に此処にありて滅せず 」 であるのである。

その 「 常・此処の世界 」 とは何処(どこ)であるか、それはイエスがいみじくも 「 神の国は
汝の内にあり 」 と指摘したところの 「 内在の世界 」 であり、三次元空間面上に翻訳し出され
ない以前の無次元の世界であり、われら人間すべて此の 「 常・此処の世界 」 にありて
死することなき不滅の存在なのである。この真理を知らせ給いし神に感謝いたします。

『 光の泉 』昭和51年9月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18~19頁)





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