12月5日(月)クリスティアン・ゲルハーヘル(Bar)/ゲロルト・フーバー(Pf)
~マーラーの二夜~ より
王子ホール
【曲目】
1.マーラー/「さすらう若人の歌」
2.マーラー/「子どもの魔法の角笛」より
だれがこの歌を作ったのだろう/夏に小鳥はかわり/私は緑の森を楽しく歩いた/いたずらな子をしかりつけるために/ラインの伝説/番兵の夜の歌
♪♪♪
塔の中の囚人の歌/この世の生活/シュトラスブルクの砦に/美しいトランペットが鳴り響く所
3.マーラー/「亡き子をしのぶ歌」
【アンコール】
マーラー/交響曲第2番「復活」~「原光」
N響の定期でゲルハーヘルの歌を初めて聴いたとき(さすらう若人の歌)、ひとつひとつの言葉がクリアに、しかも言葉の意味にふさわしく発音され、また、歌全体の隅々までコントロールが行き届いた歌唱に驚嘆するほど感動した。すかさず王子ホールのリサイタルのチケットを買って聴いた「水車屋の娘」で、その感動を追体験し、新たな感動を味わった。ディースカウが引退してから「これだ」と思えるドイツリートの歌い手になかなか出会えなかったが、やっとそんな歌手に出会えた喜びを感じた。あれからもう4年、とても楽しみに出かけた今回のマーラーの歌曲によるリサイタル。
最初の曲は、ゲルハーヘルとの出会いとなった「さすらう若人の歌」。4年前と変わらない、クリアなドイツ語が清澄な歌声に乗って耳に響く。言葉と歌への繊細なコントロールも変わらずパーフェクトだ。歌詞に描かれた情景、その中にいる主人公の「若人」の憧れや落胆、焦燥など多感な感情の移ろいが明晰に、ときにドラマチックに表現されて行った。
続いての「不思議な角笛」でも、そうしたゲルハーヘルの「冴え」が映えた歌が次々と紡がれてゆく。ひとつひとつの言葉をどのように発音し、どのように歌に乗せ、どのようにそれを収めて、次の言葉に繋げるかを、冴えた頭脳で冷静に見つめてコントロールしているようだ。今夜の曲目はどれもオーケストラ伴奏で聴き慣れているが、ピアノのフーバーは、骨太の輪郭でしっかり全体をつかみつつ、音色も多彩で、オーケストラ的な響きをピアノから引き出していた。
「亡き子をしのぶ歌」でも、ゲルハーヘルはひたひたと迫る悲しみやおののき、激しい衝動などを巧みに歌い分け、ひとつの歌曲集としてのテンションの配分にも気を配り、まとめていった。終曲「こんな嵐に」の最後の節、テンポを落として穏やかに歌うところの、柔らかで温かく包みこむようなピアノとのデュエットでも、美しい高音が遠くへたなびく歌が見事だった。
ただどういうわけか、ゲルハーヘルの歌の巧さには前回同様に大いに感心した一方で、4年前のような感動が得られなかった。どうしてだろうと考えてみると、上に記したような「巧さ」は4年前にも味わい尽くし、4年前はそのこと自体にとても感動したが、今回これは「前提」として受け取ったこと。その前提のうえに、何かプラスされた発見を特に感じなかったことだろうか。4年前と変わらぬ素晴らしい歌唱を聴かせてくれればそれでいいのかも知れないが、もう一つ物足りなかったことは、普段僕がマーラーの歌曲から感じる世俗臭というか人間臭さが、ゲルハーヘルの巧い歌からは感じられなかったことかも知れない。
前回あれほど称賛しておいたのに、こんな感想を書くのは気が引けるのだが、でもゲルハーヘルが卓越したテクニックと素晴らしい声を持ち、音楽と真摯に向き合っているであろうことに異論はない。次の来日のときも聴きに来ると思う。その時はウォルフの歌曲を聴きたい。
ゲルハーヘルの「さすらう若人の歌」(2008.1.23 N響Bプロ)
ゲルハーヘルの「美しき水車屋の娘」(2008.1.30 王子ホール)
~マーラーの二夜~ より
王子ホール
【曲目】
1.マーラー/「さすらう若人の歌」
2.マーラー/「子どもの魔法の角笛」より
だれがこの歌を作ったのだろう/夏に小鳥はかわり/私は緑の森を楽しく歩いた/いたずらな子をしかりつけるために/ラインの伝説/番兵の夜の歌
塔の中の囚人の歌/この世の生活/シュトラスブルクの砦に/美しいトランペットが鳴り響く所
3.マーラー/「亡き子をしのぶ歌」
【アンコール】
マーラー/交響曲第2番「復活」~「原光」
N響の定期でゲルハーヘルの歌を初めて聴いたとき(さすらう若人の歌)、ひとつひとつの言葉がクリアに、しかも言葉の意味にふさわしく発音され、また、歌全体の隅々までコントロールが行き届いた歌唱に驚嘆するほど感動した。すかさず王子ホールのリサイタルのチケットを買って聴いた「水車屋の娘」で、その感動を追体験し、新たな感動を味わった。ディースカウが引退してから「これだ」と思えるドイツリートの歌い手になかなか出会えなかったが、やっとそんな歌手に出会えた喜びを感じた。あれからもう4年、とても楽しみに出かけた今回のマーラーの歌曲によるリサイタル。
最初の曲は、ゲルハーヘルとの出会いとなった「さすらう若人の歌」。4年前と変わらない、クリアなドイツ語が清澄な歌声に乗って耳に響く。言葉と歌への繊細なコントロールも変わらずパーフェクトだ。歌詞に描かれた情景、その中にいる主人公の「若人」の憧れや落胆、焦燥など多感な感情の移ろいが明晰に、ときにドラマチックに表現されて行った。
続いての「不思議な角笛」でも、そうしたゲルハーヘルの「冴え」が映えた歌が次々と紡がれてゆく。ひとつひとつの言葉をどのように発音し、どのように歌に乗せ、どのようにそれを収めて、次の言葉に繋げるかを、冴えた頭脳で冷静に見つめてコントロールしているようだ。今夜の曲目はどれもオーケストラ伴奏で聴き慣れているが、ピアノのフーバーは、骨太の輪郭でしっかり全体をつかみつつ、音色も多彩で、オーケストラ的な響きをピアノから引き出していた。
「亡き子をしのぶ歌」でも、ゲルハーヘルはひたひたと迫る悲しみやおののき、激しい衝動などを巧みに歌い分け、ひとつの歌曲集としてのテンションの配分にも気を配り、まとめていった。終曲「こんな嵐に」の最後の節、テンポを落として穏やかに歌うところの、柔らかで温かく包みこむようなピアノとのデュエットでも、美しい高音が遠くへたなびく歌が見事だった。
ただどういうわけか、ゲルハーヘルの歌の巧さには前回同様に大いに感心した一方で、4年前のような感動が得られなかった。どうしてだろうと考えてみると、上に記したような「巧さ」は4年前にも味わい尽くし、4年前はそのこと自体にとても感動したが、今回これは「前提」として受け取ったこと。その前提のうえに、何かプラスされた発見を特に感じなかったことだろうか。4年前と変わらぬ素晴らしい歌唱を聴かせてくれればそれでいいのかも知れないが、もう一つ物足りなかったことは、普段僕がマーラーの歌曲から感じる世俗臭というか人間臭さが、ゲルハーヘルの巧い歌からは感じられなかったことかも知れない。
前回あれほど称賛しておいたのに、こんな感想を書くのは気が引けるのだが、でもゲルハーヘルが卓越したテクニックと素晴らしい声を持ち、音楽と真摯に向き合っているであろうことに異論はない。次の来日のときも聴きに来ると思う。その時はウォルフの歌曲を聴きたい。
ゲルハーヘルの「さすらう若人の歌」(2008.1.23 N響Bプロ)
ゲルハーヘルの「美しき水車屋の娘」(2008.1.30 王子ホール)