1月30日(水)クリスティアン・ゲルハーヘル(Bar)/ゲロルト・フーバー(Pf)
~シューベルト三大歌曲集全曲演奏会より~
王子ホール
【曲目】
シューベルト/歌曲集「美しき水車屋の娘」Op.25/D795
先週N響でやったマーラーでゲルハーヘル(ゲアハーヘル)の歌を初めて聴き、すっかり魅了されて今夜のリサイタルのチケットを買った。王子ホールでやる公演のチケットは発売初日の1時間以内に売り切れてしまうことも多いが、公演一週間前にゲットできたのはラッキー、でもこれは日本でのゲルハーヘルの知名度の低さを物語っているのかも(僕もゲルハーヘル知らなかった…)。とは言え会場はほぼ満員、なぜか年配の客が多い。
シューベルトの名歌曲集で今夜はたっぷりとゲルハーヘルの歌に浸り、先週のマーラーで感じた印象と感激を更に強くした。とにかくすごいと思ったのはゲルハーヘルが発する言葉の力。ひとつひとつの言葉が心にピーンと響いてくる。強調したい言葉をことさら溜めて歌うのでもなく、ましてテンポを大きく揺らしたりすることもないのに「語られる」言葉がこれほど印象深く響いてくるのは、ゲルハーヘルが徹底的に詩を読み込み、言葉が音楽の流れに乗った時にどのように発音されれば最大の効果をもって聴き手に伝わるかということを極めているためではないだろうか。
ひとつひとつの言葉の母音、そしてとりわけ子音がどれぐらいの勢いでどのぐらい鋭く(緩やかに)、どのぐらい深く(浅く)、どのぐらいの息の温かみを伴って、どのタイミングで発音されるべきかというのが、曲全体のなかで、更には曲集全体の中で完璧に計算されて発せられていると思えるほどにピッタリとハマっている。
これは精密機械のようなメカニックな世界ではなく、ゲルハーヘルがいかに詩と音楽に共鳴し、その真髄を引き出すセンスと能力を持ち合わせているかということの証し。シューベルトが触発されたミュラーの詩が、シューベルトのつけた音楽と共に最良の姿で音として聞こえてくるという、まさに再現芸術の極致だ。ドイツ人と言えども、これほどまでに言葉を極めている歌手が他に何人いるだろうか。
主人公が「水車屋の娘」に寄せるあこがれ、喜び、怒り、悲しみ、慰めなど様々なレアな気持ちを、感情に流されることなくしっかりと見据えて捉える。深く澄んだ美声は場面場面でその色合いを変え、深くクリアに心情や情景を描いて行く。ゲルハーヘルは「美しき水車屋の娘」を、感情に溺れたただの若者の陳腐な話ではなく、どんなに絶望してもその芯には気高い心を持ち続ける青年の普遍的な物語として描き、それが心をビーンと震わせる。ゲルハーヘルがもしもテノールで、バッハの受難曲のエヴァンゲリストをこんな風に歌ったらそれはもう極上ものだろうな…
こうした素晴らしい演奏にフーバーのピアノの伴奏が大いに貢献していることは言うまでもない。ゲルハーヘルの歌にぴたりと寄り添い、深くくっきりとした輪郭でフレッシュで雄弁に情景を描いて行くそのアプローチは、ゲルハーヘルと同じ方向を向いていて、ゲルハーヘルが「他の伴奏者は考えられない」という訳がわかる。スタインウェイのピアノを使いながら、フォルテピアノのような自然で軟らかな響きを奏でていたのも印象深い。終曲の「森で狩の角笛が…」のくだりで、それまでと同じ音形の伴奏なのにそこに突如ホルンの響きが聴こえてくる妙!は、フーバーの雄弁なピアノのほんの一例。
ドイツリートは以前はディースカウ、プライ、シュライヤーというそれぞれに個性ある3人の巨星の演奏会によく出かけていたが、プライはもうこの世を去ってしまい、他の2人の歌声も最早聞けなくなって久しい。これに代わる次世代の歌手に出逢いたいと願いつつ、ボストリッジやハンプソンや、ゲルネなどを聴いて好印象を持ちはしたが、このゲルハーヘルほどに「本物」を感じる歌手との出逢いはなかったかも。ゲルハーヘルはこれから齢を重ねるごとにますます研ぎ澄まされ、洗練され、そして心の琴線を震わせる歌を歌って行く歌手だと思う。
~シューベルト三大歌曲集全曲演奏会より~
王子ホール
【曲目】
シューベルト/歌曲集「美しき水車屋の娘」Op.25/D795
先週N響でやったマーラーでゲルハーヘル(ゲアハーヘル)の歌を初めて聴き、すっかり魅了されて今夜のリサイタルのチケットを買った。王子ホールでやる公演のチケットは発売初日の1時間以内に売り切れてしまうことも多いが、公演一週間前にゲットできたのはラッキー、でもこれは日本でのゲルハーヘルの知名度の低さを物語っているのかも(僕もゲルハーヘル知らなかった…)。とは言え会場はほぼ満員、なぜか年配の客が多い。
シューベルトの名歌曲集で今夜はたっぷりとゲルハーヘルの歌に浸り、先週のマーラーで感じた印象と感激を更に強くした。とにかくすごいと思ったのはゲルハーヘルが発する言葉の力。ひとつひとつの言葉が心にピーンと響いてくる。強調したい言葉をことさら溜めて歌うのでもなく、ましてテンポを大きく揺らしたりすることもないのに「語られる」言葉がこれほど印象深く響いてくるのは、ゲルハーヘルが徹底的に詩を読み込み、言葉が音楽の流れに乗った時にどのように発音されれば最大の効果をもって聴き手に伝わるかということを極めているためではないだろうか。
ひとつひとつの言葉の母音、そしてとりわけ子音がどれぐらいの勢いでどのぐらい鋭く(緩やかに)、どのぐらい深く(浅く)、どのぐらいの息の温かみを伴って、どのタイミングで発音されるべきかというのが、曲全体のなかで、更には曲集全体の中で完璧に計算されて発せられていると思えるほどにピッタリとハマっている。
これは精密機械のようなメカニックな世界ではなく、ゲルハーヘルがいかに詩と音楽に共鳴し、その真髄を引き出すセンスと能力を持ち合わせているかということの証し。シューベルトが触発されたミュラーの詩が、シューベルトのつけた音楽と共に最良の姿で音として聞こえてくるという、まさに再現芸術の極致だ。ドイツ人と言えども、これほどまでに言葉を極めている歌手が他に何人いるだろうか。
主人公が「水車屋の娘」に寄せるあこがれ、喜び、怒り、悲しみ、慰めなど様々なレアな気持ちを、感情に流されることなくしっかりと見据えて捉える。深く澄んだ美声は場面場面でその色合いを変え、深くクリアに心情や情景を描いて行く。ゲルハーヘルは「美しき水車屋の娘」を、感情に溺れたただの若者の陳腐な話ではなく、どんなに絶望してもその芯には気高い心を持ち続ける青年の普遍的な物語として描き、それが心をビーンと震わせる。ゲルハーヘルがもしもテノールで、バッハの受難曲のエヴァンゲリストをこんな風に歌ったらそれはもう極上ものだろうな…
こうした素晴らしい演奏にフーバーのピアノの伴奏が大いに貢献していることは言うまでもない。ゲルハーヘルの歌にぴたりと寄り添い、深くくっきりとした輪郭でフレッシュで雄弁に情景を描いて行くそのアプローチは、ゲルハーヘルと同じ方向を向いていて、ゲルハーヘルが「他の伴奏者は考えられない」という訳がわかる。スタインウェイのピアノを使いながら、フォルテピアノのような自然で軟らかな響きを奏でていたのも印象深い。終曲の「森で狩の角笛が…」のくだりで、それまでと同じ音形の伴奏なのにそこに突如ホルンの響きが聴こえてくる妙!は、フーバーの雄弁なピアノのほんの一例。
ドイツリートは以前はディースカウ、プライ、シュライヤーというそれぞれに個性ある3人の巨星の演奏会によく出かけていたが、プライはもうこの世を去ってしまい、他の2人の歌声も最早聞けなくなって久しい。これに代わる次世代の歌手に出逢いたいと願いつつ、ボストリッジやハンプソンや、ゲルネなどを聴いて好印象を持ちはしたが、このゲルハーヘルほどに「本物」を感じる歌手との出逢いはなかったかも。ゲルハーヘルはこれから齢を重ねるごとにますます研ぎ澄まされ、洗練され、そして心の琴線を震わせる歌を歌って行く歌手だと思う。
クラシック音楽の中で一番好きな曲のひとつ「美しい水車屋の娘」。CDあるみたいだからすぐ聴いてみます!(^_-)
しかし、リサイタルなど、いいものがウィークデイというのは、地方の聴き手は東京に来るなといっているようですね。