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毛唐もすなるブログといふものを

日本男児もしてみむとてするなり

試みに暴支膺懲でもしてみよう

2005-04-12 00:45:54 | 支那、韓国・朝鮮
中国反日デモ 町村外相「破壊活動」 外交日程見直しも (産経新聞) - goo ニュース

野蛮国に理性的対応を求めても、それこそ木によって魚を求めるが如し。野蛮国の野蛮国たるゆえんは、自らが野蛮国だと認識できないところにあります。それどころか自分達こそが世界の中心で、世界一の文明国だと信じ込んでいるのだから手に負えません。彼らの論理によれば、周辺国は世界の盟主である自分に従うのが正しく、従わないのは野蛮国の証だと考えます。歴史にしても、史実はどうあれ自分達の公定した歴史のみが正しく、それを他国にも共有せよと迫ります。共有しないのはこれまた野蛮国の証拠だというのです。そして自分達に従わない国は世界の秩序を乱すものであり懲罰を下すのが正しいと、本気でおもっているのです。

支那は自分達こそが世界の中心で最高の文明国だと考えてきました。彼らの考える世界のことを中華世界といいます。どこまでが中華世界に含まれるかは、彼らの主観によって決まるようですが、歴史的に一度でも自分達の勢力が及んだところはすべて中華世界の一部だとおもっているようです。早いはなしが、一度でも朝貢したことがある国はすべて中華世界に含まれることになるわけです。したがって日本も支那からすれば中華世界に属するのであって、自分に従うのが当然だということになります。

日本人や欧米人が「歴史」と言った場合、それは客観的な事実のことを指しますが、支那人にとっての歴史はそうではないようです。支那は王朝が倒れるたびに歴史書が編纂されました。有名な『魏志倭人伝』などがそれです。支那では易姓革命という思想のもと、歴代王朝が自分達の正当性を主張する為に歴史書を編纂します。前の王朝が悪い政治をしていたから天命が革まり今の王朝が成立したのだと主張するために書かれるのです。したがって、その内容が歴史事実かどうかなどは問わず、ただただ自分達の正当性を主張することとなります。ですから支那人が「歴史」とか「正しい歴史」という場合、それは我々の考える「事実の検証に基づく歴史」とはまったく異なるものになります。「時の政府にとって都合のいいように公定された歴史」、それが支那人にとっての「正しい歴史」なのです。そして支那は自分が中華世界だと考える諸国に対してこの「歴史」を共有せよと迫ります。連中が散々「正しい歴史認識」というのはそういう意味です。

支那は中華世界の盟主である自分に反抗する国に懲罰を下そうとします。しかし、昔から往々にして実力が伴わないので失敗してきました。そして、それが王朝崩壊の切っ掛けになったことも多々あります。王朝崩壊には至りませんでしたが、近代においても中越紛争(中越といっても決して新潟県のことではありません。越=ベトナムです)を仕掛け、その際、支那は「ベトナムを膺懲する」と言いました。膺懲とは悪いヤツを懲らしめるという意味です。支那は中華世界に属し自分の臣下のはずのベトナムが、自分の言うことを聞かないのは中華世界の道徳を蔑ろにするけしからん行為なので懲罰を下そうとしたのでしょう。もっとも実力が伴わなかったので豪快に負けてしまいましたが。

さて、そこで我が日本国です。支那人から見れば、その昔朝貢国だった日本は中華世界に属することになります。したがって支那のいうことを聞くのは当然で、支那のいう「正しい歴史」を共有せねばならず、それに従わない日本を懲らしめるのは当然だということになります。なんともまあ手前勝手な論理ですが、支那人の論理とはそういうものです。さて、そういう手合いに現在日本国は絡まれているわけですが、どうすべきか。言うまでもない。支那人の脳内妄想につきあう云われは一切ありませんから、言うべきことをきっぱり言って一切引かない。これしかありません。それどころか、ここまで無礼を働く支那をこちらの方から懲罰してもいいくらいです。これぞまさに暴支膺懲。ただ支那人のように暴動を起こすなどという下卑た行為は、我が日本民族の美意識に著しく反しますから、ここは頭を使って膺懲するのがよろしいかとおもいます。

支那人の暴動とパレスティナ

2005-04-10 11:46:09 | 支那、韓国・朝鮮
町村外相、反日デモで中国大使に抗議 (朝日新聞) - goo ニュース

典型的な「政府が国民の不満を逸らすために外国の敵を作り煽った」、その結果ですね。江沢民時代に過激な反日教育を受けた世代が暴動の中心なんでしょう。こういう反日教育を受けた世代がその国の中核を担っている限り、友好など不可能でしょう。韓国、北朝鮮との友好もまた然りです。
パレスティナとイスラエルとの友好が不可能に近いのと同じことです。

パレスティナでは学校が破壊されたこともあり、過激派がお金を出して学校を作り子供の教育を行いました。過激派は将来の過激派(連中はイスラム戦士と呼ぶ)予備軍を作ることを目的としているから、そこでは徹底した反イスラエル教育が行われたわけです。その結果、パレスティナでは女子供までが爆弾テロをやる状況に陥り、交渉による妥協には徹底した妨害が行われるようになりました。特定の勢力を敵と見立てたプロパガンダ教育がなされると、正常な交渉による解決が著しく難しくなります。パレスティナの話し合いによる和平交渉がどうにもまとまらなかったのは当然なのです。

では、最近パレスティナの和平交渉が進展しているのはなぜか。アラファトが死んだことが直接の切っ掛けとなったのは明らかですが、その伏線として強者による断固とした態度があたことを見落とすわけにはいきません。すなわちシャロンの強行策です。強い方が徹底的にやるという態度を見せないと弱者が交渉の余地ありとしてごねることになります。ましてや過激派が跋扈し昔に比べて武器が容易に手に入るうえ、過激派の教育により自爆テロを恐れない子供たちが大量育成された現在、パレスティナの過激派は闘争を止める動機などほとんどありません。ですから、強行策以外に解決の道はないのです。それはつい半世紀前まで先進諸国間で戦争は外交の延長線上だとして、交渉による解決が行き詰まった場合、戦争に訴え決着させるということが平然と行われていたのと基本的には同じことです。

もちろん日本人的発想からすれば、あくまでも話し合うべきだと言うことになるでしょうし、強者であるイスラエルが譲歩すればいいではないかと考えがちです。しかし異民族が行きかうユーラシアでは強者が弱者を支配することで世界は安定するというのが、基本的な発想です。欧州がそういう発想を放棄したのは、二度の世界大戦(および冷戦)を体験し、文明が高度化した現代において、戦争という解決方式は文明そのものの消滅を招きかねないということを思い知ったからです。しかしテロリストが国際社会の監視の中で行う抵抗に対しては諸外国が介入して助けてくれるので、自分達が滅びる心配はまずありません。そういう中で、子供などを使ってダラダラ闘争を続けているのがパレスティナ過激派の実体なのです。

こういう中で、闘争に終止符を打たせるには、強者であるイスラエルが徹底的に過激派を押さえ込む姿勢を示し、血が流される事態を出来うる限り少なくし、過激な反イスラエル教育を受けた世代が一線から退くのを待つしかありません。パレスティナで現に行われていることはそういうものです。子供の頃に一旦受けた教育の効果は一生続きます。教育の成果は良くも悪くも絶大なわけです。まこと教育とはおそろしい。

そこで支那の暴動です。イスラエルとパレスティナほどの力の格差はありませんが、支那と比較すれば日本は強者です。韓国、北朝鮮と比べればいうまでもなく強者です。ユーラシアの連中に対してこちらに譲歩の余地があると思わせたら連中は付け上がってくるのがおちです。現に連中は付け上がりまくっているではありませんか。我が日本国が取るべき態度は明らかです。日本国が譲歩するよちなどないということをしっかりと示すことです。もちろん支那、韓国、北朝鮮は日本国内の反日勢力とつるんで各種の妨害工作をするに違いありません。しかし、それが最早効果を持ちえず、却って自分達に不利益をもたらすと認識させることです。そうすれば自然に反日暴動などは減少するはずです。

そういう観点で見れば、日本と東アジアの関係を正常化させる最大の足かせはアサヒなどサヨクの日本人の方にあるといえそうです。

ギアとチベット

2005-03-31 14:39:10 | 支那、韓国・朝鮮
リチャード・ギア、中国政府批判 (日刊スポーツ) - goo ニュース

リチャード・ギアは著名なチベット仏教徒で、チベットを侵略した支那が大嫌いです。当然あらゆる機会をとらえて支那を批判します。昨日小泉首相に会った機会にも当然のように
支那を批判しました。小泉首相にしても自分が言いたいことを米国人のギアが勝手に言ってくれるのだから「もっと言って」という気持ちなのではないのでしょうか。

支那によるチベット侵略は支那とインドとの衝突を引き起こし、その後支那が核武装したためインドを核武装に走らせました。さらに支那は敵の敵は味方ということでパキスタンの核武装を支援しその代償としてパキスタンとの国境を有利に引くという取引をしました。そして世界はインド対パキスタンという構図で核問題を論じ報道する。インド人としては面白うはずがありません。かくしてインドは欺瞞に満ちたNPT体制に決して入ろうとしないわけです。インド人にとってNPT体制に入るということは支那に政治的に屈服することを意味するからです。

チベットといえばダライ・ラマ十四世。彼は支那によるチベット侵略以来インドに亡命しています。チベットでは支那に逆らうチベット人は散々迫害され虐殺され、それが現在でも続いています。このような現状にあって、当初チベットの完全独立を求めていたダライ・ラマは、現在では「チベットは支那の一部であることを認めるから自治権を認めてほしい」と言っています。これは苦渋の決断だったに違いありません。しかし、支那はダライ・ラマの譲歩をまったく取り合おうとはしていません。支那人は自分が優位に立っていると認識すると嵩にかかるとよく言われます(もちろん朝鮮人も同様です)。チベットに対するこの支那の態度は「弱いやつに対してなんでわしが譲歩せなあかんの?」というのが支那人の本性ということの動かぬ証拠といっていいでしょう。

しかし、ダライ・ラマはなぜチベットを支那の一部と認めるというような譲歩をしたのか。このことを通じてわたしは国家とは何のために存在するのかを考えてしまいました。わたしは、国家とは民族の生き方を守るために存在するのだとおもいます。個人の権利・自由を守るというのは民族の生き方が守られた上での副次的なものに過ぎないとおもいます。

現在チベットにはどんどん漢民族が流入してきているようです。このまま時間が経つに従い漢民族が定住してしまい、追い出すことが困難になっていきます。そうするとチベット自体が変質し、もはやチベット人の生き方が守れなくなってしまうおそれが強まります。そこでダライ・ラマは民族の生き方を守るための現実的な選択としてチベットの完全独立を放棄し支那の一部として自治権のみを要求せざるを得なかったということなのでしょう。まことに苦渋の選択です。しかし支那はそれさえも認めようとはしません。

もっとも、ダライ・ラマはチベットが支那の一部と認めても、いずれ支那は内乱で分裂状態になるから、そのときまでの辛抱だと考えているのかもしれません。しかし、それとて支那がチベットの自治権を認めてくれないと話になりません。支那がダライ・ラマの提案を受け容れる可能性がない以上、チベットが支那の一部と公式に認めることは政治的にかえってマイナスではないのかとわたしはおもいます。

文明国、非文明国、野蛮国

2005-03-02 13:30:23 | 支那、韓国・朝鮮
韓国大統領:日本の「賠償」検討要請 3・1独立運動演説

相変わらずの非文明国ぶりですね。これまで《国家機関としての》大統領が何度「賠償を求めない」と述べてきたことやら。「賠償を求めない」と言ったのは単なる《個人としての》大統領だけではなく、《国家機関としての》大統領でもあるという単純な文明国の理屈がこの国では通用しないのです。南の非文明国で通用しないのだから、ましてや北の野蛮国に通用するはずもありません。
日本が10年以上前にいわゆる『河野談話』を出して、いわゆる『従軍慰安婦』に対する強制連行を認めたがために、後に明白に強制が否定されてもそれに拘束されている(最近の細田談話)ことと対比すると、韓国の非文明性がより明らかになります。文明国の国家機関の発言はそう簡単に引っくり返すことはその国の信用に関わりますから軽々にできることではありません。それを軽々にするのは彼の国が《法治》でなく《人治》の国であるからなでしょう。
そして、そういう《人治》の非文明国ないし野蛮国仲間は当然こういう反応をするわけです
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戦後補償:韓国の検討要請、中国外務省も理解示す

東アジアの夜明けは遠いというか永遠に来ない気がします。