株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その3.当社HP本日開店

2012-06-01 15:26:10 | 制作会社社長の憂い漫遊記
ようやくHP開店にこぎつけました。
しかし今年も5月が終わり、すでに決算月から数えて4カ月。
残り8カ月で目標数字が達成できるのか?
いや~リーマンショック以来、広告業界は厳しいですね。
それ以前にも厳しい年はあったのですが、
ここ数年は消耗戦になっており…まさに社長の憂いですが、
そこはそれ、作り手の明るさで、2012年6月1日当社のHP本日開店だ~ッ!

当社の前身は有限会社プランニングオフィス多田で、
1996年(平成8年)9月にスタート。
1年目は映像制作のみだったが、PRの世界を歩み続けた私の
「今日から何でもするぞ~」
のひと声で、以降メディアにとらわれず、企業PR活動をすることに。
もっともそれ以前の約10年間に渡るフリーの時代も、
企業PRのためのマンガの台本を書いたり、イベントを企画をしたり、
CSアンケート調査をして報告書を書いたりと、
映像にとらわれることなく企業のお悩み相談係というポジションだった。
お取引きのあった企業と1作品のみの単発で終わるのではなく、
手を変え、品を変え、継続しながら取引先のPR活動を支える。
しかも、お客様の悩みをなんでもかんでも映像に落とし込むのではなく、
お悩みが解決できる最良のメディアを作り手が選んで、
ズバリ解決することこそが我らの使命だと思い続けてきた。



(オフィス・キネティック主催:業界人の飛騨旅行 1988.3.6~3.7
後列右から3人目:撮影・牧逸郎氏(故人)、
前列右から2人目:監督・大渡繁夫氏、
前列右から4人目:撮影・大沢佳子氏、
後列右端:Vサインの私、撮影者で映っていない撮影・中川幸俊氏)

その頃、大阪では少しは名の通った5名からなるフリー集団
「オフィス・キネティック」で仲間だった牧逸郎カメラマン(故人)が当時
「お前は何でもありやの~。
ちょっとはプライドを持って監督らしく出来んか…」
とよく嘆いておられた。
牧カメラマンというと日本映画新社という記録映画会社で
PR作品を手掛けながら、『ガキ帝国』などの劇映画も手掛けるなど
映像の世界では稀代のなんでも屋であるが、
当時、私がPR映像界の若手と言われながら、
「なにしとんか、さっぱりわからん」と陰で揶揄される日々に、
仲間として心配をしておられたのであろう。


(当時ぐらいまでは監督は若くても宴席では上座が用意される。
飛騨旅行でもコの字型に席が設けられ、上座は監督、両脇にカメラマン、
照明技師、助手の席となる。
年齢ではなく職種で決まる。この並びは定番で誰も疑問を持たなかった。
左から松下 裕治監督、大渡 繁男監督、私)

オフィス・キネティックは、約10年間、
大阪市北区中津に事務所を構え、メンバーは5名に。
阪神大震災の前年の秋、神のお告げなのか、
「もはや後身の指導は、これまでの徒弟制度ではなく、
会社形態にして雇いながら育てるしかない」と、発展的解消となった。
私が㈲プランニングオフィス多田という会社を立ち上げその思いを継承し
大渡 繁男監督と牧 逸朗カメラマンはフリーとして後身の指導に。
私と同じ歳のVE・中川 幸俊は故郷の三重に戻り、
牧カメラマンを慕って当事務所唯一の徒弟制度で門を叩いた大沢 佳子は、
東京で劇映画のカメラマンを目指すべく上京することになった。
見事な解散である。


設立間もない頃は、牧カメラマンを中心に、
フリーのスタッフで仕事を回していたが、
バブルの崩壊などもあり、制作本数はまだまだ少なかった。
それでも社員は即戦力となる中途採用ではなく、新卒の新人を採用した。
それこそが㈲プランニングオフィス多田がキネテックから受け継いだ使命と
考えていたからだ。
設立時に入社した藤井 弥生、翌年に入社した岡 由希子に続き、
藤井の寿退社で入社した森田 康貴、
その森田と社内結婚してしまった梶山 高子と、創成期のメンバーは
ド新人で邁進した。
業績がようやく右上がりになり始めた頃には
中途採用もするようになったが、
最近はまた新卒採用に切替えている。


会社が求める人材はその時々の業績に大きく左右される。
加えて特に広告の世界は個性的な人間集団になるのでチーム作りが
大変重要になる。戦力数=業績とはならないのが広告の世界だ。
戦力が少なくても業績は上がる、
そのためにはいかに燃える集団にするかにかかっている。

1990年に私が制作に携わった京セラ創業者・稲盛 和雄氏を題材にした
『京セラ・フィロソフィー』のインタビューで氏は
「火をかざすとパッと燃え上がる紙のような素直な人間が欲しい。
燃えなくてもせめて赤くなる鉄でいてほしい。間違っても当社の作る
セラミックのような火にもびくともしない人間は困る」と笑いながら語ったが、
まさしく火を近づけるとパッと燃え上がる紙のような素直な人間集団を
作りたかった。そしてそのエネルギーの源は、例え素人であっても毎日を
嬉々として感じる心だと思う。
2009年、㈲プランニングオフィス多田から㈱プランシードに社名変更し、
創成期のメンバーである森田 康貴が取締役になり、後継体制がスタートした。
果たして今もって創成期の燃える思いが維持されているのか?
森田がどう感じて新組織を動かそうとしているのか?
社長である私が言うのも不謹慎であるが
「乞うご期待!」


(取材では金魚のウンコのごとく、
監督を中心にスタッフが一個大隊ぶら下がる。
もちろん心も一個大隊になる)


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