goo blog サービス終了のお知らせ 

株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
会社のこと、仕事のこと、プライベートのこと、あれこれ書いています。

その35.PR映像は企業ドキュメンタリー映像だ

2012-08-07 09:07:55 | 制作会社社長の憂い漫遊記
関西の映像界を見ていると、CMも作る、TV番組も作る、PR映像も作る、
中には自主映画まで製作する監督も登場している。
昔は、監督もジャンル分けされており、
「●●監督といえばCMの巨匠」なんて決まっていた。
しかし、製作費の低予算化の波にプロダクションは統廃合され
フリーの監督やカメラマンも少なくなってしまった。
そんな中で、映像なら何でもやります型の監督が生き残っている。
そういう私もこの30年、映像だけにこだわらず、
印刷物も、イベントも監督してきた。

そもそも、自社を「映像プロダクション」と定義してしまうと、
営業の過程で、何が何でも映像にしなければ仕事にならないと感じ、
無理やり映像をメディアとして選択することになる。
また、発注するスポンサーも映像のみの関わりを求めてくる。
しかし状況をヒヤリングしていくと、
映像ではなく印刷物の方がいい場合もある。
インターネットが主流の現在では、
むしろ作り手がメディアを選んであげる方がよい。
そんなインターネットが主流になりつつある中で、
「ドキュメンタリー」とはなんなのか?を考えてみたい。

私は30年に渡り、PR映像の世界で生きてきた。
商品PRをスタートに、会社案内、入社案内、社員教育、企業哲学、技術論など
次第に「人」を撮る面白さに魅了されてきた。
私が業界に入って8年目位に出会った播磨 晃監督は、
ある工場のラインを撮った時に
「工場は生きている。機械がモノを作っているのではなく、
人がモノを作っている」
と言った。まさに名言である。
この視点を外すと、組立工程の機械の動きばかりを撮ることになる。
なぜこのラインを組んだのか?このラインの果たす役割は?は、
ラインを撮るだけでは表現できない。

キネティック時代の私の盟友・牧 逸郎カメラマンの師匠に当たる
吉国 秀幸カメラマンは、40歳近く離れた若手監督とPR映像で組んだ時に、
「吉国さん、今回の作品はドキュメンタリーでいきたいんですが…」と言われ、
日本映画新社で多くのドキュメンタリー監督と組んできた吉国さんは
撮影前日まで悩んだという。台本を読んだだけではその答えは見つからず、
恥を忍んで「どう撮ればいいんだろうか?」と聞いた。すると若手監督は
「手持ちでお願いします」と堂々と答えたという。
彼にとってドキュメンタリーとは手持ちで揺れた感じの映像を指すらしい。
酔うと吉国さんはこの話を持ち出し、
「ドキュメンタリーって何なのかね?」とスタッフに問う。

日本映画新社・大阪支社は建築記録を主に制作していた。
ただし、できあがった作品は建築記録とはいいがたい
文化の香りがする作品も多かった。
私の見た大阪の一等地に建つ「丸ビル」の建築記録は
建設途中で遺跡が出てきたことで、
作品のなかほどからは遺跡発掘映像作品になっていた。
また関西電力の株主総会用映像は、発電所で働く人々や
電柱保線の厳しい訓練を受ける若者の群像映像が主だった。
そういう例は枚挙にいとまがない。
その日本映画新社で育った吉国さんや牧さんにとって、
いつも心にあったのは
「記録映像なのか、ドキュメントなのか」であった。

「記録映像」は、状況を忠実に伝える事が目的であり、
作り手の思いや考え方が一切入り込んではいけない。
これに対して「ドキュメンタリー映像」は、
その場で起こっている現象を作りだした人々の思いをカタチにしたものである。
したがって「記録映像」も「ドキュメンタリー映像」も真実である。
例えば、ダンスの発表会を撮ったとする。
約2時間カメラを止めずに発表会の流れを撮ったものが「記録映像」である。
これにダンサーのこの発表会にかける思いのインタビューや
先生への感謝のインタビューが入れば「ドキュメンタリー映像」になる。
作り手がこの発表会を観客のポジションで撮るのか、
踊り手のポジションで撮るのか、はたまた教え子に発表の場を与えた
先生のポジションで撮るのかという、
作り手の意図で「記録映像」か「ドキュメンタリー映像」かが決まってくる。

実は撮影ポジションをどこにするかで作り手の意図が明確に表現できる。
例えば、最近起こっている国会前での原発反対デモ。
カメラが警察側から撮っているのか、デモ隊の側から撮っているのか、
あるいはちょうど中間点で押し問答を撮っているのかで、
視聴者に無意識の内に、作り手のポジションが伝わる。
「撮りやすいからここから撮る」のではない。
撮りにくくても、危険でも、意志を持ってポジションを決めなければならない。

さらに「作り手の意図」で考えると、
そもそもカメラマンがフレームに切ったこと自体に意図が入っている。
同じ被写体を顔のアップで撮るのか、手元のヨリで撮るのか、
はたまた後ろ姿で撮るのかは、カメラマンの意図である。
もっと言えば撮らない事も撮ったことになる。
この撮ったものを監督は編集する。ここにも編集意図が入っている。
そういうことで見ていくとPR映像の世界は
まさに「企業ドキュメンタリー映像」ということになる。
ならば我々作り手は、
作った後に起こる様々な問題をいつも感じて作らなければならない。
特に我々PR映像の監督は、スポンサーがその映像を作らせる意図を
十分に把握しておかねばならない。
さらにその意図を咀嚼して、わかった上で冒険することも忘れてはならない。
けっしてスポンサーの意図に無意識に『迎合』してはならない。
無意識に迎合するくらいなら、むしろ意識して『妥協』すべきである。


監督は打合せの段階から、スポンサーの意図の向こう側にある様々な真実を、
瞬時に感じ取り、汲み取らなければならない。
その上で、もっとも表現しうる最適の事柄をチョイスして撮影を試みる。
カメラマンもまた、被写体の息遣いまでも感じ取れるよう心を研ぎしまして
被写体に挑まなければならない。
全ての事柄は、その瞬間に同時に起こっている。
しかし、撮影するのは1人のカメラマンであり1台のカメラ。
そして、編集して使うのは1つの映像だけだ。
さらにこの使った映像がどういう事態を招くのか?
作り手は自分の作る作品に全責任を負わねばならないのだ。
この責任こそがドキュメンタリーの本質であり、醍醐味でもあり、
監督の仕事なのである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。